昔の想いのまま ~That old feeling
#24
その夜のウォーリーズは盛況だった。もちろんほとんどは年季の入ったエリックの演奏を聴きたいボストンのジジイども。多少事情を知る者は、無名の新人である店生え抜きの日本人が絡むということを聞きつけてきたのだろう。
それがマリコの弟であるというのは、皆が何となく暗黙の了解で伏せられていた。あのブライアンでさえ口をつぐんで面白くもなさそうな顔でシェリルと並んで座っている。
洋輔たち、大学の連中もこちらを心配そうに伺う。そして……。
ど真ん中の前から二つ目のテーブルには、同僚らを従えた梨香がグラスを手に談笑していた。彼女なりの配慮か、こちらを向くそぶりさえ見せない。ただ、律儀に見には来てくれたのだろう。それは素直に嬉しかった。
楽屋といっても別の部屋がある訳じゃない。袖から客席がこれだけ見えるということは、おれの姿も丸見えなんだろう。あがってる?まさか。自分がどんどん冷静になっていくのに苦笑しながら、一樹は片手で器用に楽器の調整をした。
ぱらぱらとリズム隊が立ち位置へとつく。途端にわき上がる大歓声と拍手。懐メロと揶揄されようが、やはりエリックグループの名は浸透しているのだ。
スタッフにぽんと背中を押されて、一樹はステージの中央へと向かった。センターを取るのはおれじゃない。場をわきまえていくぶんずれた場所へと立ち、手を挙げる。
若い声が少しばかり上がり、それ以外はいかにもおざなりな拍手が起こるだけ。それが今の自分の評価なのだと、一樹はそのまま受け止めた。
はん。この一ステージでどこまで評価を上げられるか。やってやろうじゃねえか。
彼は彼なりの方法で、この公演を成功させる。誰にも言わずに秘めている思い。
メンバーたちにアイコンタクトを取ろうとするが、彼らは最初に出会ったときのような柔和な表情などかなぐり捨てていた。
育ててやろうという甘い考えなどないらしい。やれるものならやってみろ、か。よく言われたな、どこでも誰からも。
さあ、ここからは真剣勝負だ。音楽は楽しむ為にある?まさか。客を楽しませる為にあるんだ。魅せる格闘技とどこが違うのか。
一樹がギプスの上に楽器を置くと、言葉にならないざわめきが広がる。同情点なんか要らない。おれは音だけで闘ってやる。
桃子の姿を目で探す。客席にはいない…らしい。何しろテーブル席はすべて埋まっているし、後ろには立ち見がぎっしりの状態だ。ここから彼女を探すのは無理、か。
なかなか出てこないエリックの方を見やる。
彼は桃子の頬にエアキスを送り、彼女は苦笑いでそれを受け止める。彼女は袖でずっと見ているつもりなのか。複雑な感情もなく…。
おれには理解できないのと同じように、桃子にもおれの家族のあり方は不思議に映るのだろう。平凡な生活と思いこんでいるのは案外当の本人たちだけなのかも知れない。
家族の数だけ家族の形がそれぞれある。受け入れられるかは、また別の問題なのだろうけれど。
歓声が大きくなる。エリックが登場したのだ。既にリズム隊は音を鳴らし始め、近寄ってきたエリックは一樹にまで頬を寄せた。声援に冷やかしの声が混じる。
オープニングは当初の予定通り「サニー・サイド・オブ・ザ・ストリート」。
…今まで話す人もいなくて一人ぽっちだったけれど、君と出会ってからは悩みなんて吹っ飛んじまった。先のことばっか考えて暗い顔してたってしゃあないさ。人生なんて笑い飛ばして暮らしていこうよ…
有名なヴァースの部分が頭に浮かぶ。そうだね、先のことなど分からない。今を楽しめれば最高だ。先に待ち受けるものがどれだけ恐怖でも、感じなければいい。
そんな意味を持つこの曲を、奇妙な縁で結ばれたエリックと吹く。複雑な想いはすべて飲み込み、一樹は演奏者モードに自分を切り替えた。
のどかなイントロと陽気な主旋律を、ユニゾンで力強く、ときにはわかりやすいハモりで重ねつつ無難に吹く。これはあくまでもエリックのステージ。客が求めるのは彼の音であって、鋭く抉るようなプレイじゃない。
重々承知はしていた。だからこそ最初は抑えた。おれのラッパなんか、口ほどにもない凡庸と思われているだろう、客にもメンバーにも。それでいい。
メロが終わってエリックがソロを取る。グラスを重ねる音がフラッシュのように音へと捧げられる。皆、このご機嫌な音楽を愛しているのだ。
リズム隊もリラックスしてリーダーを支える。そこにおれの居場所はない。一樹は全身をセンサーのようにしてエリックのアドリブに聴き入っていた。
彼のソロが終われば、お情けのように一樹にもソロ部分が与えられる。わずかツーコーラス。冗談じゃない、誰が二つで終わらせるかってんだ。
エリックが終盤へと近づく。その気配を感じて一樹は口元へとマウスピースを近づけた。視線が集まりつつあるのを痛いほど感じる。さあ、エリックほどの奏者が選んだサポーターとはどんなヤツなのか、と。
ドラムスの引っかけを掴んで、一樹はアドリブソロを吹き出した。最初の一小節で既に気づいたのはエリックだけ。隣で固まっているのが伝わってくる。
ワンフレーズ終わる頃にはリズム隊も異変を感じていた。当の一樹は平気な顔で吹き続ける。
そろそろ、勘のいい一部の客も気づき始めたか。心の中でにやっと笑う。
まともに吹いたってどうせ聴いてはもらえまい。一樹はついさっき聴いたばかりのエリックのソロを、そのまま忠実に再現してみせているのだ。
基本通りのスウィングで、使われる音はオーソドックスで、安定感のあるニュアンスまでをも完全にコピーして。
ざわめきがどんどん広まってゆく。潮時か、と思った一樹は完コピのままオクターブ上げて演奏し出した。
皆が息を飲む。柔らかでのどかなエリックのインプロビゼーションに、鋭さと華やかさが加わる。
げげんそうな当惑は、歓声へと変わってゆく。リズム隊も覚悟を決めたようだ、とてもツーコーラスで終わりそうもない。
全くのコピーをある程度吹き続けてから、一樹は自分のメロディーを吹き始めた。フォービートというよりツーと言っていいほどの底抜けに明るいスタンダードジャズは、彼の手によって自在にビートを変えていった。一樹のそれはエリックの持つグルーブ感とは全く違うのに、頑ななまでに崩そうとはしないリズム隊とぶつかることなく、彼のトランペットはそれらの波をすり抜けてゆく。
十六分音符が拍と拍とを埋め尽くす。なのに窮屈感はない。スピード感とは無縁なはずの曲がスリリングな現代曲のように生まれ変わる。
ふっと、一樹が音を緩めた。もちろんバックは聴き逃すことなくその音を受け止める。
緊張が解けて柔らかな空間が戻ってくる。息を詰めるように聴いていた観客が、思わず大きく息を吐く。
そして、一樹がピアノへとソロを明け渡したときには、皆が一斉に立ち上がって惜しみない拍手が送られた。
ピアニストのホーマーは、自分のスタイルを壊すことなく堅実なプレイに徹しようとしていた。しかし、日頃からこのグループを聴き慣れている者にとっては、彼としては異例なほどの過激な音を挟み込んでいることに気づくだろう。
穏やかなコードの構成音ではないテンション・ノート。それらが時折、怒りをぶつけるかのように鳴らされる。
一番欲しいと思われる、そのタイミングで。
耳の肥えた客らがそのたびにわあっと賞賛の声を上げる。
音が巡りに巡ってテーマに戻ったとき、一樹は涼しい顔でエリックのいつも通りのスタイルで吹いてみせた。
内心をおくびにも出さず、ベテランはそれを鷹揚に受け止める。
最後の吹き伸ばしに軽く装飾を加えるリーダーに、一樹は敢えてロングトーンで支えた。
このバンドはあくまでもエリックのもの。今さらこれだけ焚きつけておいて、とも自分でさえ思ったが。
一曲終わって大きく息を吐く。客は若手の意外なプレイに大盛り上がりを見せている。さあて、これだけ暖めておけば十分だ。ここからようやく対等におれの音を聴いてもらえる。
冷えたステージでまともに自分のスタイルを出せば、耳も貸してはもらえまい。かといってエリックの音をなぞるだけじゃ自分が納得いかない。
おれはサポートとして入ったとはいえ、彼の陰に身を潜めているつもりは全くない。それじゃギャラに見合うだけの演奏などできやしないんだから。
エリックがMC用にマイクを引き寄せる。ボストンへの客に対してのリップサービスと感謝の言葉を。
そして…。
「今夜のステージは、小生意気な若造に世界を知らせてやろうと思ってね」
そう言い放つと客席に向かって器用に片目をつぶった。どっと笑いが起きる。ひとりひとりの名を紹介したあと、一樹はぐいと腕を引っ張られた。
「オン・トランペット、我々にとって非常に目障りな奏者に盛大な拍手を!kazu!!」
目障り!?その言葉に一樹は苦笑いした。そして、いくぶんホッとした。
最初は同情だろう。そして桃子の存在がステージに立てる大きな理由だったろう。だがそれは、一樹の演奏によって意味を塗り替えられた。手加減はしないと言われたそのときから、少なくとも曲が流れている間はおれたちは対等だ。
次の曲は、昨日さらった「地上の楽園」。
ここではあくまでもオブリガートに徹して、美しい和音を響かせて。音色だけで聴かせてやる。エリックの音がもっとも美しさを発揮できるよう。
そして、息つく暇もないくらいのスタンダードナンバーに、一樹は正攻法でソロをとり続けた。ジャムズで聴いたあの音たちと、まだわずかではあるけれど大学で学んだ理論に基づいた音を使いながら。
一樹の真摯な音に触発されて、グループの面々も緊張感を保ったままの演奏を続けた。誰かが挑発する、それに対抗する。一音でも聴き逃すまいと。客にとっては心地よい異種格闘技のように見えたのだろう。歓声は大きくなるばかり。
取り敢えずのラスト曲で、一樹はメガネをかなぐり捨てた。汗が目に入る。一瞬だって気が抜けないのはこっちなんだ。彼らのグルーブは長年培われてきたもの、おれはたった一人で無謀な闘いをしかけている。
ふいに襲う目眩。酸素が足りない。もっと!もっとおれに酸素をくれよ!!
彼もステージ経験は多い。息を吸いすぎれば、一時的な過呼吸となってぶっ倒れるのもわかっている。
まるまる十六小節を犠牲にして自分のブレスを整える。構え直した楽器が汗ですべる。
「……!?」
事情を知る者は息を飲んだだろう。ギプスでかろうじて支えられていた楽器が傾いだ。彼の身体もわずかにぶれる。
しかし一樹は右手でしっかりとトランペットを掴み直すと、左腕をだらりと下げた状態のまま、右手だけで高らかにハイトーンを吹ききった。
アンコールの声と拍手が鳴りやまない。
限界…か。一樹は楽器スタンドにラッパを突き刺すとMC用マイクを奪い取り、わざとたどたどしく片言の英語で客をあおり立てる。
彼の意図を理解したドラムがカウントを出す。曲は始まり、それはいつもののどかなエリックの音とバッキングの温かさに包まれて、ようやくステージは緊張から解き放たれた。
「Hit it! say! Pennsylvania!!」
大声で一樹は叫んだ。合っていようと合っていまいと、たとえスラングだろうと気持ちが伝わればいい。
ノリのいい客らは、大声で応えを返す。お約束のように行儀良く、というよりはまるでロックバンドのライブのように。
「six, five thousand!!」
実在したホテルの電話番号でグレン・ミラー自身がプロポーズしたという、粋な逸話を持つこの佳曲は当然ミラー楽団のもの。
それをさんざんあおり続け、盛り上げる。吹けないのなら別の手がある。ステージに上がれば怖いものはない。身体が自然と動く。どうすれば楽しんでもらえるか、どうすればのせられるか。どうすれば盛り上がるか、どう……。
客席のど真ん中でもみくちゃにされていた一樹は、とうとうセンターのエリックからマイクで怒鳴られた。
「こら若造!調子に乗るな!早く帰ってこい!ハグができないじゃないか!!」
笑い声とともにステージへと上がった一樹は、エリックから思い切りハグ…というよりがっしりと掴まれた。
周りのメンバーも集まってくる。今度は彼らから髪をぐしゃぐしゃにされる。
「こいつは野放しにしておくとヤバいからな。さっさと潰しておこう!」
ベースのギルバートが長身の一樹のさらに上から頭をこづいた。皆の笑い声がはじける。
最後にもう一度、エリックは彼をぎゅっと抱きしめて呟いた。
「君がトウコの弟なら、カズは私の息子だ」と。
一樹は目を見開き、エリックを見つめた。ああ、音はこうして人をつなぐ。例えそれがひとときの幻想であったとしても。
(つづく)
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