粋な女 ~Sophisticated Lady
#23
バーではなく、ホテルのラウンジで一樹は桃子と向き合った。酒も飲ませてもらえないのかと文句を言ってみても、あの涼やかな瞳で見返されるだけ。
「いつから病院に通っているの?」
その話は終わり、もう治ったって言ったじゃん。拗ねた口ぶりは当分止みそうにもない。そんなことより、訊きたいことはたくさんある。母親のこと、エリックのこと…そして、二人の関係を知りながらもごく当たり前にジャムズへと迎え入れた勇次と桃子の思い。
けれど、いざ彼女を目の前にすると…何一つ言える言葉が見つからない。コーヒーを前に黙り込んでしまった一樹に、桃子はふっと息を吐いた。
「治療費がないなんて。どうしてあたしたちに言わなかったの?」
言えるはずもない。それどころか頭にさえよぎらなかった。同じアメリカにいることすらも。
シアトルは遠い。キミエの言葉が思い出される。
「まあ、その前に頼るところはあったでしょうに。お姉さんとか実家とか」
「…やっと出られたんだ、あの場所から。姉ちゃんがいなければ息もできない収容所みたいな箱から」
「一樹…」
「今さらどんな顔して何をしゃべればいいんだ?あんな緊張する家が家族って言うの?冗談じゃない!あんなとこ、戻りたくない!」
「それで…」
桃子が一息つく。甘ったれと罵倒されるか、鼻で笑われるか。桃子にはわかりっこない。おれにだってあんたたちの家族が不思議に見える。
作り物の笑顔。
変だよね、赤の他人のおれがいた頃…確かにジャムズには神原の家には一家団欒があったのに。
「それで日本から逃げてきたの?」
このセリフからは責めるような感情は伝わってこなかった。その柔らかさに怯えて一樹は顔を上げる。
もっと毅然と冷静に冷たくあしらって欲しいのに。
「冗談でも例えでもなくて、本当に世界中どこへ逃げようと高橋の名はついてくる。息子なんかいたのか、弟?知らなかったとね。エリックのポスターを見かけて、ようやくあの人たちのいないところへ逃げられたと思ったら、いきなり桃子さんまで現れた。カンベンしてくれよ」
ラウンジの気取ったピアノがカデンツァを奏でる。会話は途切れた。重厚な沈黙。
「……ねえ」
聞こえるかどうかほどのかすかな呟き。訊きあぐねていた問い。桃子の視線がピアノへと逃げる。
「知ってたの?エリックがお母さんとその、えっと…」
「ああ、再婚したこと?最初からね。なあに?そのことでまさか気を遣ってたの?」
視線は動かぬまま。一樹の方を向こうともしない。
「エリックはマスターと仲良さげだったし、てっきり親しい友人だと思ってたんだ。だからジャムズの名前を出せば、あれだけのプレーヤーなら金でも借りられないかって」
さしあたっての一万ドル。これからどれだけ掛かるかわからない治療費。彼に借りたところで返せるだけ自分が稼げるとも思えなかったのが本音だ。結局は姉に泣きつくことになったのだろう。それが口惜しいと思っていた。
でもそれだけのはずだったんだ。まさかそこに、キミエという女性がいたなんて。
「何で平気だったの?おれがジャムズにいた頃、何度かエリックも出演したよね。お母さんはもうその頃…」
「そうね、とうにエリックとは暮らしてたわよ、事実婚ってヤツ?まあさすがに店に顔を出すことはなかったけれど」
「何で平気だったって訊いたんだ!?ちゃんと答えてよ!」
静かな空間に日本語が響く。幾人かの客が振り向くのを感じた。声をひそめて一樹は桃子の整った横顔を睨みつける。彼女はゆっくりと、こちらを向いた。
「薄情なのは親譲りだから」
複雑そうな苦笑い。もともとエリックと父さんはただの知人と言うより本当に友人同士で、演奏抜きで日本に何度も来ていたのだから、と。
「あの店というかビルはもともと母方の家のものだし、共有名義とはいえほとんどは母の持ち物だったの。でも生活はかつかつで、母が日本の大学でピアノを教えていた収入でやっと食べていけたのかな、あの頃は」
長いことあの家にいて、桃子自身の話なんかほとんど聞かなかった。聞こうともしなかった。いやそうじゃない、彼女は何も話す気なんかなかったんだ。
遠く離れた距離で均衡を保っていた奇妙な家族。それは高橋の家だけじゃなかったのか。
「母はジャズに興味なんか持ってなかったし、父は…家族よりも音楽を優先した。自分では演奏できない分、ミュージシャンたちとのつながりを大切にした。生活の苦労なんか何でもなかったと言ってたわ、母は。それでも…心が離れたら耐えられないことってあるのよね、きっと」
遠い遠い物語。桃子自身の家族の話だというのに。
「音楽じゃないところで惹かれ合ったの?マスターと、その、キミエさんって」
言いあぐねて桃子の言葉が淀む。逡巡が見て取れる。言いたくないのなら言わなくていい、と言えるほど一樹は大人にはなれずにいる。そっと視線を元に戻すと桃子は淡々と話した。
「あの曲が…きっかけだったのかも知れない」
「あの曲?」
幼なじみで会えばケンカばかりのクラシックのピアニストとジャズマニアは、あの日、同じコンサート会場に足を運んだ。
「『東京組曲』の初演はね、当時の音楽ファンにとっては大事件だったって後から聞かされたわ。父さんから何度もね」
ジャズの要素を取り入れたクラシック曲は多い。いや逆だ。クラシックは先を征く。ジャズはそれを常に追い求め、過去へと戻り、また先を争うように走り出す。
それでもなお、あの曲はジャンルの壁を軽々と越え、数多くの見知らぬ人々を引き合わせたのか。
立ちはだかる大きな敵。おれは高橋孝一郎のあの曲さえも越えて、この世界で生きていかなければならないのか。
家族よりも音楽を優先し、妻が離れていくのを見ているしかなかったマスター。至るところでそれぞれの家族の物語が綴られてゆく。
じゃあ、神原の家族にとっておれって…何だったんだろうな。
どっちつかずの、根っこを失ったかつての少年は、今もまだ音楽の中をもがきただよっている。
「寂しくは…なかったっての?桃子さん強いから」
自分の弱さを突き付けられたような気がした。いつだってしがみつくものを探して彷徨うのはいつだっておれだけなんだから。
か細い声に、桃子はそっと腕を伸ばした。一樹の額に軽く手を当てる。
「熱は…なさそうね。早く休んだ方がいいわ。本当ならステージになんか上げたくないくらい顔色悪いってのに」
「話を逸らすなよ!」
その手を乱暴に払いのける。ガキ扱いするな。弟扱い、するな。手の感触のせいで熱を帯びたかのように顔がほてる。バカバカしい。一樹の声が大きくなる。
「キミエさんに行かないでって言えば良かったんだよ!!言えただろ?その頃の桃子さんなら!!」
珍しく桃子が寂しげな表情を浮かべた。叩きつけた言葉を後悔する。おれは神原の家族じゃない。逢ったこともなかった桃子の母親とは何一つ関係ないはずなのに。
「もともと、バラバラだったから」
「えっ?」
「母はピアノを教えることに没頭して生活を支えた。父は好きな音楽にのめり込んだ。多くの有名ミュージシャンに慕われたのも、別に自慢したかった訳でも何でもない。敷居が高いと思われていたジャズを、それも第一線で活躍している一流の音をあの店で気軽に聴かせることだけに専念してた。あたしは…」
それを悲しいともおかしいとも思ってなかったんだわ。他の家庭を知らなかったから。
桃子の呟きが胸を刺す。ああそうだ、初めて逢ったときって桃子でさえ二十歳を越えたかどうだかでしかなかったはずなんだ。
店を支え、おれなんかを抱え込み、それでもいつだって冷静に微笑んでた。
「そう考えると不思議ね。父さんと二人になってからの方がずっと家族らしい生活だったし、あんたがいてくれたおかげであの家に初めて温かな空気が流れたんだなって。何だかそう思うわ」
じゃあ、今は?そう訊くだけの勇気は一樹にもなかった。異国で篠原と二人で暮らす。それを選択したはずの桃子。幸せであって欲しい。幸せになって欲しいとだけ願う。それは一樹の本心には違いないのに。
彼の沈黙をどう捉えたのか、桃子は少しばかり笑った。
「店が心配?大丈夫よ、誰かがいなくてもみんな何とかやれるものだって。あたし一人がすべてをやっていた気になっていたけれど、そんなことないんだなってやっとわかったから。父さんもようやく、昼間から働いてるって」
訊きたいことはそれじゃない。話したいことはそんなことじゃない。いつもそうだ、この人は全部わかっていながら話を逸らす。おれを家族と、弟と決めつけて。
「さあ、そろそろ」
言いかけた言葉を遮るように一樹は立ち上がった。嫌われる前にとっとと帰るよと憎まれ口を叩いた。怖かったから、訊くことも何もかもが。
篠原との生活を話す彼女を見たくない。広い家で一人待つ暮らしの寂しさを聞かされるのもゴメンだ。もう、これ以上…口も利きたくない。
頼ってしまいそうだから。
背中越しに何か言うのが聞こえた気がした。それを無視して一樹はホテルの正面玄関から足早に出て行った。
まだそんな時期でもないだろうに、外気は冷たく、彼の身体を刺すみたいにぶつかってくる。まるで一樹の心を内側から凍らせていくかのように。
(つづく)
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