夢であなたに ~I’ll See You In My Dreams
#22
機材と言っても、持ち込みのそれが多い訳ではない。ツアートラックを何台も連ねるようなグループではないし、ジャンルでもないからだ。
ラフな服装でそれぞれ自前の楽器を持ち込むメンバーの後ろから、エリックはひょいと顔を出した。
「フィリス!久しぶりだな、おい!」
こうして世界中のライブハウスを回る生活を、このベテランは何十年と続けてきたのだろう。多くの知り合いと旧交を温めつつ。
そして…生涯の伴侶を、日本で見つけた。
硬い表情で何も言えずにいる隅の一樹を認めると、この柔和なカリスマアーティストは気さくに笑いかけた。
「ハイ、カズ…でよかったんだよな?どうだい、自信のほどは」
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。今回のステージはどうぞよろしくお願いいたします」
ああ、堅苦しい挨拶など要らんから。軽くその声に手を振る。
いつものお守り代わりの楽器ケース。その革を握りしめて、一樹はエリックを真っ直ぐ見据えた。
「治療費の件では本当に感謝しています。それに見合うだけの演奏は…」
「おいおい、まだ払うと決まった訳じゃない。言っただろう?明日の演奏次第だと」
フィリスはその言葉に戸惑い顔を隠せずにいるし、当のエリックはさもおかしそうに笑い続けている。
「ああ、別にからかっているんじゃない。聞いたよ、バークリーに来る前は日本で活躍していたプロのミュージシャンというじゃないか。それもツアー経験もあればレコーディングにも参加していると。何より、シモキタザワの店では看板息子扱いだったとね」
いたずら気味に片目をつぶってみせる。一樹はその言葉に息を飲んだ。どこからそんなことを…ジャムズのマスターにでも連絡を取ったのか。現妻の元のダンナへと。
「相変わらず、連絡一つ寄越さないんだから。全くなんなの、その格好は」
不意に、エリックの背後から飛び込んでくる日本語。冷静で何ごとにも動じないくせに、突き放した冷たさではないその声…。
一樹は思わず反射的に目を閉じた。見てはいけないんだ、おれはもう二度と。唇をぎゅっと結ぶ。
「子どもじゃないんだから、何を拗ねてるんだか」
「拗ねてなんかない!!」
日本語で言い返す。怯えた瞳でそちらを見る。否応なしに。
前髪を斜めに流したショートカットに切れ長の目、ニットのすっきりとしたワンピースをまとっていたのは……三年前と変わらぬ涼やかな表情の桃子だった。
言いたいことも訊きたいことも心の中に溢れている。けれど一度口にしてしまえば、きりもなく寄りかかってしまいそうで。
いつもと変わらぬ静かな微笑みをたたえて、同じ空間に桃子がいる。同じ国を選んだということさえ気づきもしていなかった。
まして、ライブハウスのこの空気の中で逢えるだなんて思いもしなかったこと。
「今度は何したの?女の子に殴られでもした?」
ほんの少しだけ下を向き、苦笑いをする仕草も変わらない。本当は心配で仕方ないくせに、それを面にも出そうとはしないんだ。この人は。
「再発」
何でもないことのように口に出す。桃子の瞳が一瞬凍り付く、ように見えた。ガキめいた嫌がらせは止めよう、一樹は素直に謝った。
「良性だったよ、大丈夫。治療も済んでるからあとは骨がくっつくのを待つだけ。病院にも真面目に行ってるし」
「ああ、それで」
桃子は首を軽く振ると、治療費の肩代わりがギャラってことなのね、と納得していた。
「ねえ、それって」
訊きかけて一樹は言葉を飲んだ。訊いていいものかどうか戸惑う。昔、マスターと桃子の元から逃げ出すように家を出た母親に、今も逢っていたのかとは。
顔に出るタイプだと良く言われる。一樹の思惑など彼女には透けて見える思いだったのだろう。気になるの?とまた笑う。
「お母さんと連絡とってただなんて、全然桃子さん言わないからさ」
どうしても不機嫌そうな声になってしまう。彼女を責めるのもお門違いだし、そもそも一樹とは縁のない話だ。それでも…。
「別に。こっちへ越してきたときに一応連絡先を伝えておいただけよ。あんたがエリックのところに来たっていうから」
「おれのせいなの!?関係ないじゃん!!」
ああ、いつかもそんなセリフを言った気がする。桃子さんはいつだって、自分よりおれのことばかり世話を焼いて。
「バークリーにいるとは聞いてたけど、エリックを頼るなんてよほどだと思って」
「おせっかいなんだよ!桃子さんは!!」
二人のやり取りを最初こそ目を丸くしてみていたエリックは、腹を抱えて笑い出した。
「全くもってよく似ているよ。やっぱり君らは本当の姉弟じゃないのかい?」
思わず振り向き言葉を投げ返す。
「冗談じゃない!おれはこんな冷血漢じゃない!!」
「嘘でしょう?あたしはこんな単細胞じゃないわ!!」
同時に叫んだ一樹と桃子は、睨み合ったあと…ついふきだした。
「変わってない、桃子さん。落ち着いて見えるのは表面だけ。中身はおせっかい焼きの熱血おばちゃんのくせに」
身体の前で腕組みをして、下から睨め付けるのは桃子が本気で怒りを爆発させるサイン。やべっと一樹はエリックの後ろに回り込んだ。
「あんたねえ!?」
ほらほら姉弟げんかはそれくらいにして。エリックは笑いながら一樹の肩を押す。ステージは既に準備を終え、彼らを待っていたのだから。
姉弟なんかじゃない、その言葉は口の中でもたついて消えた。ほんの少しだけ口に広がる苦い味。一樹はほうっと一息つくと意識を切り替えた。
バンドマンとしての彼へと。
「軽く音を出してみよう。雰囲気だけでも掴めればいいから。今回のセットリストに挙げた曲は…」
「もちろん、全部頭に入れてあります」
いつものように片手で器用にセッティングをしながら、一樹はこともなげに言った。お情けで金をせびりたい訳じゃない。ステージで三曲をサポートするだけにしては破格とはいえ、ギャラはギャラ、契約は契約だ。それに見合うだけの演奏はしてやる。絶対に。
ギプスの境目辺りに楽器の本体を載せると安定することがわかってから、彼は身体をひねってその体勢を取った。右半身がきしんだ音を立てる。無茶は承知の上だ。あとでツケは回ってくるだろう。それでも、それでもなお…今吹かなければダメなんだ、おれは。
そのスタイルに、エリックとメンバーたちは表情を曇らせた。一つには彼の身体を心配する思い。そしてもう一つは、当然のことながら未知数の彼の実力を図りかねていることへの不安。
桃子だけが、痛ましげに一樹を見つめていた。
「取り敢えず、テーマだけをざっと流そう。定番曲からやるかい?」
「いえ、それならまずオリジナルの<earthly paradise>を」
地上の楽園と題された曲が何を意味するのか、おそらくそれは「桃源郷」だろう。彼らは桃子を想い、この曲を大事にしたのだと信じたかった。静かで柔らかく甘い旋律。音慣らしにはちょうどいい。さまざまな気持ちを込めて一樹はその題名を口にした。
「OK、じゃあ進行を説明しよう」
「流れにはついて行きます、一度通してもらえますか」
「君抜きでかい?」
まさか。一樹の目が細められる。
ステージに上がってさえいれば、おれには怖いものなんかない。ほらみんながおれを疑い、見下そうとしている。そいつらを驚かせるのも気分いいさ。
見てろよ。
ピアノがタイミング良くAの音を鳴らす。まずはエリックが豊かなその音を響かせる。隣で聴くと、その音色の暖かさが直に伝わってくる。
そこへ一樹は同じ音を重ねた。ぴったりと同期させる。まるで一本の楽器が奏でているかのように。
いっさいのブレもなく、一つの音は厚さだけを増して部屋中を満たしていった。それだけで伝わるものがあるのだろう、メンバーの顔色が変わる。
…まだまだわからない。絶対音感の持ち主なら、これくらいなんてことないだろう。
この曲はコンボで適当に合わせるというより、構成がわりと決められている。最初のAメロはトランペットが朗々と歌い上げる。ライブ盤のCDでは同じメロのリフにテナーが被さってくる。そこはユニゾンで音色の違いを楽しめるように重ねている。
イントロのピアノが優しげな和音を押さえると、エリックは伸びやかに主旋律を吹いてみせた。ドラムがブラシでそっとそれを支える。
そう長くもないAメロの終わりで、一樹へと視線が向けられる。一緒に吹けとの合図だ。
彼は、敢えてユニゾンではなく、勝手にオブリガートを付け加えた。
誰も何も言わないが、空気がわずかにざわめく。そこはそうじゃないだろう、と。リズム隊は最初苛立ちを隠さずにいた。しかし、一樹の音はオブリでありながら主旋律ととけあっている。
全くエリックと違う動きをしているのに、ヴァイオリンの二本の弦を一緒に弾いているかのような交わり方。素直に言えば…なんて気持ちのいい音なんだろう。吹いている一樹でさえそう思った。この人の音と自分の音色は合う。波長が似ている。これはいける。
一樹の音に触発されて、ピアノはわざと自分の押さえる鍵盤を一つ離した。音は何も足せばいいというものじゃない。間引いていくことで美しさを際だたせることもある。
そのおかげで広がりを持てた和音の空間へ、一樹の副旋律はさらに変化していった。彼が前もって曲に合わせたリフを作ってきたのではないことがわかる。ベースラインがわずかにもたる。この開放感を生かす為に。
楽園は、聴く者の中でさらにその面積を増やしていくだろう。小さな島だったものは木々を茂らせ、波を誘い、海面をすべるように飛ぶ鳥たちまでもが浮かんでくるように。
各々のインプロビゼーション部分をのぞいて一通り通し終わると、ようやく一樹は左腕に不安定な状態のまま載せていたトランペットを下ろした。この曲は、彼らが得意とするいつものスウィングジャズとは系統が違う。エリックのレパートリーの中でも異色であり、だからなのか人気も認知度も高かった。
スタンドに無造作に楽器を突っ込み、右手で痛む肘部分を押さえる。無意識にやっていたその動作を、桃子には悟られまいと一樹はわざと横を向いた。
「まあ、悪くないね」
年季の入ったピアニストが、苦い顔つきのまま呟く。辛辣な評論家でもある彼がそんな言葉を発するときは、よほど上機嫌なはずだ。そう思いたかったのに。
ベーシストもドラマーも無言、エリックでさえ何も言わずに次の曲の準備をしている。
「あの…僕の演奏は…」
たまりかねて一樹はそう問う。リーダーはちらりと彼の顔を見ると、「ああ、そんな感じでやってくれればいいから」とだけ言った。一樹の勝手なリアレンジには何も触れない。
…受け入れられなかったのか…
冷や汗が流れる。頼れるものを思わず目で探す。桃子と視線がぶつかる。
桃子は…いつものように、あのジャムズで見せたような静かな笑顔を一樹に向けた。
それだけで、彼はほっとして下を向いた。目をつぶり今の曲のイメージを反芻する。
ここで聴いているのは客じゃない。おれは素人でもない。
素人扱いなら「上手いなボウズ」と頭をなでてくれただろう。今感じる空気はそれとは真逆。やっかいなヤツを呼んじまったなあという、演奏者としての微かな後悔と微妙な期待感。本番でこいつは何をやらかす気か。
そう思ってもらえたのなら上出来だ。
おれがサポートで入れるのは三曲のみ。それはそうだろう、無名の新人がいわば飛び入りで参加するのだから。
残りはにぎやかなサニーサイドとアンコールで盛り上げる為のペンシルバニア。誰でも知っている懐メロのような曲。クラリネットとトロンボーンが欲しいところだね。それを管二本でどこまで雰囲気を変えて吹けるか。
さっと通し終えると、エリックは何でもないかのように軽く一樹へと声を掛けた。
「おい、いい気になるなよ。新入り」
口調とセリフのギャップに、自分のヒヤリング能力に疑いを持つ。おれはけなされてるのか?エリックの意図が掴みきれない。
ピアニストが当然のようにファイルを持ち出し、それを一樹に手渡した。
「まあ、要らないとは思うがね。全部頭に入っているそうだから。それが明日のセット分だ」
え、え?状況が飲み込めずに目が泳ぐ。もともと英語なんかわからないところを無理に遣ってるんだ。こいつらはいったいおれに何をしろと?
「ああカズ、君は音のセンスより会話力を高めた方がいい」
一樹にわかりやすいようにか、エリックはゆっくりと簡単な言葉を選んで彼に伝えた。
「あ、すみません。もっと勉強しておきます」
真剣に頭を下げかける彼に、リーダーは笑顔もなくこう続けた。
「明日のステージだが……」
何を言われるのか、身体が硬直する。とても本番には上げられないとでも言い渡されるんだろうか。一樹は息を飲んでエリックを見つめて続きを待つ。
こほんと咳払いをすると、老練なトランペット奏者はこう付け加えた。
「全曲サポートに入ってくれ。但し、こちらも手加減はしないからな。そのつもりで」
ぴきりと一樹の顔が固まる。
…やり過ぎなのよ、ホントにあんたはバカなんだから…
桃子の心の声とため息が聞こえてきそうで、怖くて振り向くことさえできずに、彼は右手で頭を抱えた。
(つづく)
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