ロマンティックじゃない ~Isn’t It Romantic?
#21
トラディッショナル・ジャズと言ってもとらえ方は人様々だ。ディキシースタイルこそ伝統的な正統派のジャズだと主張したいむきもいるだろうし、広く大きくとらえ、ビパップ以前もしくはそれ以降をも含めてしまう人々と。一番わかりやすいのはおそらく…スウィングジャズだろう。
エリックの音楽は、耳に心地よいハーモニーの上に落ち着いた旋律を乗せるというもの。それはスタンダードでもオリジナルでも構わない。その代わり、管に若いメンツを入れて過激な音を出させたり、異種格闘技のように激しいドラムを入れてみたり。そのギャップをも包み込んでしまう度量の広さが、彼の魅力の一つでもある。
古くからのジャズファンには安心した演奏を。また、最近聴き始めた若い層には逆に新鮮に受け入れられるように。
一樹は、あの日以来、ポータブルの再生機を耳から離さない。イヤホンから聴こえてくるのは、もちろんエリック・W・バークレーグループの音のみ。
…完全に、このノリをマスターしてやる…
スウィングのリズムは、コンボばかりを演奏してきた一樹には実のところあまりなじみがあるとは言えなかった。
どちらかと言えば、それこそビッグバンド経験者の方がずっと詳しいだろう。
アーティ・ショウ、ベニー・グッドマン、グレン・ミラー、デューク・エリントン、カウント・ベイシー、ライオネル・ハンプトン、そしてルイ・アームストロング。
軽快とも言われるが、その実、このリズム感とグルーブ感を出すのは容易じゃない。ましてや完全な物真似で吹いたところで、エリックを本心から満足させられるとは思ってもいなかった。
「~ペンシルバニア、シックスファイブサウザン…」
ふと一樹の口をついて出たメロディに、ピアノのシンシアがくすりと笑う。
「あれ?カズは路線変更すんの?また随分とまあ古めかしい懐メロを。大音量の目覚まし時計でも持ってきてやろうか」
はん。それに苦笑いを返す。
どう攻めるか。技巧ではなく音楽的な楽しさを美しさを、このリズムの躍動感を。
聴く側にとっては感性で受け止める者やアナリーゼしつつ聴く者といろいろあるのだろう。しかし奏者にとっては、この感覚的なものを現実の演奏として操作する必要がある。
記譜された音符もしくは共通に理解しているはずの主旋律を、どのタイミングで吹き始めるか。そこにどうニュアンスをつけるか。音の最後の処理はどうするか。すっぱりと切るのかそれとも余韻を残すのか。
それを聴き分け、忠実に再現できてこそ、他のメンバーと同じノリが出せるのだから。そしてそこから自分の個性を出すには…。
一樹は間近に迫ったエリックとのステージを睨み、作業に集中しようとしていた。
「様子はいかがですか、高橋さん」
わざと堅苦しい日本語で梨香は問診を行う。隣には書類を手にした指導医が、二人のやり取りを見守っている。だからという訳ではないのだろうけれど。
一樹は何と答えていいかわからず、むっとした表情を浮かべた。形ばかりの笑顔の梨香が腹立たしくもあった。もっと人間らしく怒ってみせればいいのに、と。
「今夜、部屋に行っていい?」
「絶対ダメ」
顔色一つ変えず、梨香は切り返した。とりつく島もない。
「じゃあ、おれの部屋に来てよ」
「ここは診察室、あなたは患者。さっさと問診に答えなさい」
声の調子だけを聞いていたら、穏やかな担当医の問いでしかないだろう。ったく女って。
「演奏、聴きに来てって言ったじゃない」
「いい加減にしなさいよ。馴れ馴れしくしないでって釘を刺しておいたつもりだけど?」
わずかに険のある瞳で睨む。赤の他人。ああそうだよね、何を勘違いしていたんだろうおれは。それでも悪あがきをした。ただのガキだから。
「じゃあ、このギプス外してよ。吹くのに邪魔。治療に関して患者の希望は最優先されるんだろ?」
「外せるもんならね。痛みでのたうち回って楽器吹くどころじゃなくなるわ」
「痛み止めなら、ドラッグストアにいくらでも売ってる」
「あんたの生命がかかってるってのに!何を呑気なこと言ってるのよ!?」
さすがの梨香も、理性という薄い仮面が吹っ飛んだ。もともと気が短いことなどミエミエだ。指導医が目を上げて彼女を見る。黙ったまま。
「悪性だったとでもいう訳?再手術?それとも…この腕はもう使い物にならないって?」
ギリッと音が聞こえそうなくらい、梨香は奥歯を噛みしめ、素早く英語に切り替える。
「検査の結果は良性でした。良かったわね、ミスタータカハシ。あとは経過観察と折れた部分の修復に時間を掛けて、機能回復に励んでください。それでは次回にお待ちしております」
質問に答えてない!!一樹は少しばかり苛立ちの声を上げた。梨香はもう既にカルテとファイルを片付けている。
「次の患者が待ってるの。さっさと出て行って」
「一度でいいから…ステージ見に来てよ。梨香に聴いて欲しいんだ」
目を逸らしたまま何も答えない。一樹は自問自答する。なぜ、なぜ彼女に執着するんだ?通りすがりに優しくしてもらっただけの、それも担当医なのに。
誰でもいい。温かい腕を差し伸べてくれるのなら誰でも。自分の惨めさにため息をつく。
突然、だいぶ治まったはずの腕の痛みがぶり返す。鈍く重いそれではなく、まるで刃物を突き立てられたかのように。
反射的に右手で左肘をかばうように押さえ、うつむく。息が乱れてくる。こんなところでぶっ倒れてたまるか!!気を引きたいが為の演技と思われるのがオチだ。
無理やり立ち上がろうとすると、身体が傾いだ。梨香が手を伸ばすより早く、初老の指導医が一樹の身体をしっかりと支える。
「血管迷走神経反射ですか?」
梨香の声が焦りを帯びる。
「痛みから来るそれだろうね。すぐにベッドの用意を」
おれは何ともない!!離せ!!年上の女に邪険にされて貧血起こしただなんてシャレにもならない。
ぐっ、自由になるのは右手のみ。あわてて口元をふさぐ。酷い吐き気と寒気。
看護助手と指導医に抱えられるように、無理やり寝かされる。梨香がかいがいしく世話をしようとするのを手で払う。
「……病気の…フリ…すれば……構ってもら…えるん…だ。放って置いてくれよ!」
「ちゃんと現実を認めなさい!!あんたのはフリでも何でもないでしょうが!具合が悪いのなら期間を設定して治療を最優先する、それも自己管理能力なんじゃないの!?はっきり言って今起きてる症状は、あんたの不摂生が原因なんだから!!」
違う。違うことは誰よりも自分が一番知っている。おれはただの甘ったれで、寂しいだけなんだ。
「落ち着くまでここで休んで。ステージは今夜もあるんでしょ?出るなとは言わない。ちゃんと外来プラス雑用から解放されて時間間に合いそうなら、あたしもついて行ってあげるから」
これ以上、おれを甘やかさないでくれ。最後まで依存させてくれる気がないのなら、すっぱりと切ってくれ!期待を持たせるなよ。頼む…から……。
二律背反する命題が一樹をおそう。本心はどっちなんだ。本気で放っておいて欲しいのか、今だけでいいから手をつないでいて欲しいのか。
医師だから、患者を心配しているだけなのに。わかってるそんなこと。彼女には家庭があって、おれには聡子がいて…。頼るべきは目の前の梨香ではないことなど、はっきりしているのに。
今この瞬間、助けて欲しい。寂しいのはもうたくさんだ。横たえられたベッドの上で、一樹の意識は遠ざかっていった。
「アルコール厳禁ね」
口うるせえババア。
「タバコは血流悪くするから論外!」
冗談じゃない、誰が従うか。ここは診察室でも何でもないし。
「痛みが酷かったら、途中でも止める勇気を持ちなさいな」
ステージに上がったら最後、何があってもラストまで持たせるのがプロだろ?
「ねえ、あたしのことはなんて紹介してくれるの?」
不意に言葉の調子が変わったことに面食らい、一樹は思わず梨香の方に向き直した。
ウォーリーズへゆく道すがら、約束だからと本当に梨香は一緒に来てくれた。飲むんだったら誰か同僚でも連れてくればいいのに、一樹の精いっぱいの強がりを無視した。
「ねえったら!姉ですだなんて言ったって、どうせお店の人たちにはマリコのことばれてるんでしょ?その手は使えないし…」
どうでもいいことをけっこう真面目に悩む梨香が、可愛いとさえ思った。年上の女。
「あー、こう言っとくよ。親戚のおばさん、ってさ」
一樹の軽口に、頭をこづく。ってええ。あわてて殴られた場所を押さえる。
「ちょっとお、そんなに力入れてないでしょう!?」
「いや、今のはけっこう恨み込めてた」
こんな下らないやり取りでさえ、餓えていた自分に驚く。バークリーの友人たちは皆心配して声を掛けてくれるが、一樹が欲しいのは…きっともっと近い距離の情愛。
「何で、来る気になったの?」
「じゃあ帰る!」
拗ねた顔はますますあどけない。病院で見せる顔とは全く別の。しかし梨香の口からこぼれた言葉が、一樹を現実へと引き戻す。
「放って置けないじゃない、危なっかしくて。まるで子どもみたいに無鉄砲だし」
「な…にそれ…。本気でおれって、あんたの息子の代用品?」
四歳相手に、何張り合ってるんだか。こんなときばかりは余裕めいた梨香の含み笑い。いや母親としての顔。思わず頭に血が上る。
「どうせおれはガキだよ!!」
そうじゃないったら。両手を伸ばし、梨香は彼の頬を包んで自分へと向けた。
「好きとか恋愛とか、そういう感情の前にね…とにかく放っておけないの。目を離したらどこかへ飛んでいきそうで」
瞳だけが真剣に見つめる。一樹も言葉をなくす。お互い事情など何一つ知らないのに、きっと感情の一部を補完しあっているような気がした。
ああそうさ。いつだっておれの周りの女たちは、異性の愛なんかじゃ語れない情で絡み取ろうとする。もがいても抜け出せないほどの強い依存をもたらす、危なっかしい愛情。
「ウィークポイント突かれちゃ弱いんだって、いくら強力な新堂梨香様でもね。あたしってほら、母性本能強いから!」
張り詰めた空気をわざと壊すかのような、ふざけた物言い。いつまでも言ってろ!一樹の言葉もどんどんラフになってゆく。
背の高い一樹が彼女の肩を引き寄せる。耳元に唇を押しつけるように囁く。
来てくれてありがとう、と。
「ボランティアの、ほ…訪問診療だから、ただの!!無茶してたらステージ行って引きずり下ろすから覚悟しておきなさいよ!?」
梨香ならやりかねない、そう言って笑う。これからの不安も緊張も、緩やかにほぐれてゆく気がする。
エリックとの本番は来週。今日はいつものメンバーを巻き添えにしてのスウィングナイト。
…本当に聴かせるべきなのは誰なんだろうか…
聴かせるべき。自分が無意識に遣った言葉に一樹は怯えた。聴かせたいの間違いじゃないのか。
彼の脳裏をかすめたのは……思わず頭を振り、その幻想を追い払おうとした。
聡子なのか、ツアーには同行しないとは言っていたはずのキミエにか。いや…本当はきっと。
「ねえ、来週は一番いい席を空けておくから」
ゆっくりと微笑んで、一樹は梨香へとそう告げた。
(つづく)
北川圭 Copyright© 2009-2010 keikitagawa All Rights Reserved