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誰かが私を見つめている ~Someone To Watch Over Me

#20



傷に障らないように寄り添ってくれる肌の温かさ。痛みも寂しさも惨めさも、この瞬間だけは忘れられる。

一樹は右腕をまわして梨香を抱き寄せる。肩に顔を埋めたまま荒げた息を整えようとする。

それで何も考えずにすむ時間など、文字通り一瞬だというのに。男はすぐに現実に戻る。夢は醒める。現に一樹を覆い尽くそうとしているのは、もう既に虚しさのみ。


…ここでおれは、何をしているんだろう…


幾度となく自分に問いかけた。イヤになるほど。今が全く無意味に思えて、それでいて今を逃したらもう二度と味わえないような気がして。

ああ違う。一樹にとってはそれこそが現実なのだ。

いつまで続くのか、誰にもわかりはしない。明日終わるのか…それともこの先、何十年と不安と共に生き存えるのか。


物憂そうに目を上げた彼に、梨香はうっすらと笑みを浮かべた。

母にいだかれた記憶などないのに、それはおそらく遠い昔のことでしかないはずだのに…まるで幼い子どものように、彼はまた眠りに落ちた。




早番だからと朝っぱらから叩き起こされた一樹は、むすっとした顔のままテーブルについた。シリアルにヨーグルト、フルーツ。どれも片手で食べやすいようにしておいてくれたのは、梨香の心遣い。

でも夕飯も食いそびれた。目の前のものはとうてい腹にたまるとも思えない。さすがに彼の歳で和食が恋しいとは思わないが、どうしてもスプーンを持つ手が止まる。


「何?朝は食べない主義?」


バタバタと着替え薄化粧をする梨香は、どんなに若く見えたところで一樹よりは年上だ。朝の陽射しの中ではそれが残酷なほどはっきりとわかってしまう。


ましてや家庭を持つ女性ひと。一樹は自分への嫌悪感で、よけい食が進まなかった。


梨香はその空気を素早く察知すると、ブラシを置いた。


「ああ、えっと勘違いしないでよ?それ食べたらとっとと出てって」


冷たい色合いさえ帯びる声に、一樹は思わず顔を上げる。


「あれくらいのことで、勝手に彼氏気取りとか止めてよね。わかってると思うけど。当然ここには二度と連れてくる気もないし、うろついたりしたら通報するから。あとは患者として診察室へどうぞ、だから」


「……わかって…るよ」


口に運ぼうとしたコーヒーカップを元に戻すと、彼はのろのろと立ち上がった。ちょっとお!用意したものくらい食べてってよ。抗議めいた梨香の声が遠ざかる。



「何で泊めてくれたの?」


「えー?だって寝ちゃったものを外に放り出す訳にも行かないし、あたしはあんたの部屋も知らないし」


あっけらかんとした声が返ってくる。昨夜のことなど何もなかったかのように。あんなに近くに鼓動を感じたのに。


「何で……拒まなかった…の?」


すがるような一樹の瞳に、わざとなのか、梨香は普段着の顔で応えた。


「まあ、同情かな。切なそうな年下の男の子にあんな目で見られたらねえ。一回くらいはいいかなって」


「もういい!!」


そのまま部屋を飛び出す。どこかでわかっていた。梨香がわざと突き放したことなど。あの言葉は精いっぱいの彼女からの心遣いだということも。それでもなお。



どこまで甘ったれてるんだ、おまえは。自分を責める声しか、もう聞こえてはこない。階段を乱暴に駆け下りると目が回った。もとよりここがどこかさえもわかっていないのに。

その場にうずくまり、自由の利く右手で顔を覆う。吐き気をこらえる。何も食ってなどいない空の胃がズキリと痛む。


甘いセリフが欲しかったのか。朝になっても解けぬ魔法のように、まだ抱きしめてもらえると思っていたのか。誰かに…そう誰もいいから温かい腕に。



アパートメントの入り口で動けずにいた。後ろから軽い足音が近づく。いつでも走り回っている研修生の勤務医は、ヒールではなくラバーソールの靴なんだろう。これじゃまるで、追いついて欲しくて焦らしている未練がましい男みたいだ。


正直に言えよ。本当にそう思っておまえは動かずにいるんだろう?動けずに、ではなく。

何度も何度も襲う自責感。どうせおれは一人では何もできない。


肩に手を置かれた。ふわりとした感触。


「車で送ってってあげるから。ほら、立って」


「一人で帰る。放って置いて…」


こっちが困るの!邪魔なのよ!!苛ついた声までもが演技なのか。それともそれが…梨香の本心か。もうどうでもいい。わかっているのは、朝が来たから当たり前のようにただの担当医と患者に戻ったということだけ。


誰でも良かったくせに。いっそ平手で殴ってくれればいいのに。


「ほら、忘れ物」


手渡されたのは度さえ入っていないメガネ。ここでは武装する必要などない。それでもなお、いつの間にかサングラスかメガネで顔を覆うようになった。少しでも…高橋の名から離れたくて。

何とか立ち上がると、一樹は中指でメガネを押し上げた。髪をかき上げ、もう一度だけ梨香を見つめる。


「今夜もウォーリーズのステージに出演するよ。忙しいと思うけど、もし時間があったら……聴きに来て」


「ちょっと!!まさか本気でその腕で楽器を吹く気なの!?それを担当医のあたしが許すと思う訳?」


医療関係者として見過ごす訳にはいかない、と息巻く彼女に、ただの知り合いとしてでいいから来てよと呟く。飲み代くらいおごるから…と。


「治療費を払う為には、エリックのステージをサポートしなきゃなんないんだ。そういう契約だから。おれは、ここで生きてく為にはどんな状況でも吹いてかなきゃ。まとまったギャラが入ったらすぐに保険に入る。それは約束する。治療はちゃんと続けられるようにさ」


「何で家族を頼らないの!?あれだけ立派な父親だってお姉さんだっているじゃない!!あんたの生命に関わることなのよ!!」


彼の真っ直ぐな瞳が、梨香の言葉をさえぎる。


「あなたがそれを言うの?梨香こそ何で家族を頼らないのさ」


部屋に飾られた裏返しの写真。おそらくそれは…日本に残した息子と夫。一樹は思いを馳せる。


「逃げてきたって言ったよね。それともあなた自身が……頼ってくる家族を手放そうとしてるの?」


自分の手に入らないのなら、自分の手で壊してしまえ。子どもじみた情けない感情。ついて出た言葉に梨香は手を振り上げた。

左の頬をはたかれ、フレームがわずかに傾いた。一樹は唇をぎゅっと噛みしめる。


「何も……何も知らないくせに…わかったようなこと言わないで」


怒りを必死にこらえた梨香の呟き。一樹の方だって、大声を出したいのを懸命に我慢する。視線を合わすことなく、彼も同じ言葉を発した。


「何も、知らないくせに」


右手で頬を押さえると、わずかに熱を帯びている。そこだけが生きているような気がして、一樹はなぜかホッとするほどの安心感を覚えた。


歩き出す。あてもなく。大通りまで出ればタクシーくらいつかまるだろう。バスだってもう動いているはずだ、ここが病院の近くならば家まではそう掛からない。

さすがの梨香も、追いかけてくる様子はなかった。一樹はひとり、歩き続けた。






ウォーリーズのリハに顔を出すと、オーナーであるフィリスが飛んできた。無理もない、あれだけの無茶を通させたんだ。


「カズ、おまえはエリックとどんな関係なんだ?」


別に、ただステージを何度か見ただけで。顔見知りではあったけど、まさか相手も覚えててくれてるとは思わなくて。

適当に言葉をつなげる一樹に、フィリスは信じられないというニュアンスで首を振る。


「言いたくはないが、これはタカハシのコネクションか?」


他の者には聞こえないほどの小声でそう囁く。そんなんじゃないと苦笑してみせた。


「古い、そう…古い知人のつてでさ。結局はみすぼらしい東洋人が惨めに見えたんじゃねえの?」


自虐的な苦笑い。おれの力なんかじゃないことは自分が一番よく知っている。あれはただ、桃子とのつながり。知りたくもない現実を突き付けられて、関係もないのに一人で混乱に陥って、挙げ句の果てはまた逃げたんだ。おれはどこからも。


黙ってしまった一樹を複雑な表情で見やっていたフィリスは、それで勝算はあるのかと訊いた。


「勝算?あんな大ベテランを満足させられる演奏なんて」


できなかったら賠償金を払えだなんて、おれを納得させる為だけの附帯条件。わかるだけに無性に腹が立った。どんな演奏をしようが、よくできたなボウズとばかりに甘やかされる訳だ。冗談じゃない。


「おれの勝手な都合で悪いけど、今日から一ステージ分はトラディッショナル系で行くから。昔ながらの泥臭いジャズをやらせてもらうよ。たまにはいいだろ?ジジイの客どもへのファンサービスだ」


にやっと笑って一樹は楽器ケースを肩から外した。負けることは許されない。どんなことをしてもヤツの、エリックの度肝を抜いてやる。

オイルを吹き付けるのも片手、マウスピースをセットするのも。そしてプロテクターさえない状態でギプスの上に本体を載せる。


骨がスカスカの状態の疲労骨折…痛みがすぐに引く訳がない。わずかな振動ですら傷に響く。

それでもおれは吹いてやる。どれだけ身体がボロボロでも負けはしない。この音だけは手放さない。


軽くロングトーンでアップをすると、一樹は平然とした顔でステージへと上がっていった。

仲間の待つ場所へ。彼の唯一の居場所へ。


心配げなバンドの連中へ目で合図を送り、リハは始められた。

不安定な姿勢も気の遠くなるような痛みも、彼の音を邪魔することはできない。スウィングジャズの名曲たちをゆっくりと奏でながら、一樹の心はどんどん研ぎ澄まされていった。



信じられるものは音だけ。ああそうだ、おれにとって必ずそばにいてくれるのはこの……音だけだ。



皆に見守られつつ、一樹は堅く目をつぶりながら演奏へと没頭していった。



(つづく)


北川圭 Copyright© 2009-2010  keikitagawa All Rights Reserved

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