のるかそるか ~All or nothing at all
#2
ボストンへ発つ準備を進めている頃、それまで続けていた仕事の引き継ぎやら事務所との手続きやらに追われていた一樹は、真夜中にようやく横浜へと帰ってきた。
もう誰もが眠っているか、それとも演奏旅行にでも行っているのだろう。幼い頃は人のいないこの家が怖くて、すべての明かりをともして夜を過ごした。今は、誰もいないことを願って足音も立てずに玄関の鍵を開ける。
いつまで経っても馴染むことのできぬ、一樹にとっての正真正銘の生家。本物の家族。
なぜ、こんなに心が離れてしまったのだろう。
一緒に暮らしさえすれば何かが変わるかもしれない。姉ほどではないとしても、彼にだってほんの少しばかりの期待はあった。
期待と言うよりも、切ないほどの淡い…希望。
広い吹き抜けのリビングに入った一樹は、微かに流れるドビュッシーのメロディーにうろたえた。
父は黙ってスコアを広げ、CDに聴き入っていた。片手にはやわらかい芯の鉛筆。書き込む時の彼の癖。一樹の入ってきた気配を感じ、孝一郎は顔を上げた。無言で目を合わせる。耐えきれずに先に逸らしたのは、やはり一樹の方だった。
父がスイッチを押すと、それまで満たしていた幻想的な印象派のハーモニーが途絶え、圧倒的な静けさは一樹を押しつぶそうとした。
「お仕事の、お邪魔をして申し訳ありません」
掠れ声でそれだけを言う。未だに堅苦しい敬語でしか話せぬ親子。それがおれたちの距離感なのだろう。
「仕事ではない。友人の新譜が届いたのでな」
会話はすぐに終わる。もとより孝一郎に続ける気などはなからない。挨拶をして下がろうとする一樹を、しかしその夜は珍しく父から呼び止めた。
「どうしても…行くのか」
才能はないと言い切られた言葉が、あれ以来頭の中を反芻している。もう頼むから蒸し返さないでくれ。実力不足なのは自分が一番知ってるさ!
「お父様から見たら、僕のしようとしていることなど愚かなあがきでしかないのでしょう。それでも、僕は演奏活動を続けたいんです」
ゆっくりと言葉を選びながら、何とか言い返す。わかってもらわなくていい。あんたたちにわかるはずもない。
孝一郎はスコアも閉じると、初めて一樹の方に身体を向けた。いつもより幾分、やわらかい口調で教え諭すかのように。それは真夜中の時間がもたらした、あり得ない穏やかさなのか。
「勉強してどうなるものではない。おまえには演奏家として大切なものが欠けている。ただ人より少しばかり早く楽器を始め、人より高い音が出る、初見が利く。確かに小器用かも知れん。だが…それだけだ」
きつい言葉。それでも痛ましげに一樹を気遣うように言ってくれていると思えるのは、彼がそう思いたいだけだからなのか。
「クラシックなら…そうかもしれません。僕のような音程も危うく、正しい奏法ができない奏者など要らないでしょう。だからこそ別のフィールドを選び、僕の個性を生かせる場を見つけたいと思ったのです」
真夜中の魔法。静かな闘い。それは父と息子と言うよりも、音楽に取り憑かれた表現者としての負けられぬ真剣勝負。
「おまえは、自分がどれほどのものだと思っておるのだ。おまえのトランペットには華がない。豊かな表現力も際だった個性もない。インプロビゼーションの構成も凡庸すぎる。歌謡曲の世界ならごまかしも利くかも知れん。しかしおまえにジャズをやれるほどの力はない」
世界を舞台に活躍する作曲家、そして指揮者。父の言葉には本物を見るものの重みがあった。彼がそう言うのならそうなのだろう。何も言い返せはしない。一樹は思わず自由な右手を握りしめると、歯を食いしばった。
それでもおれは、世界の片隅で音を吹き続けたいだけなのに。
「私の評価では不服か。では友人のハバードやマーサリスにでもおまえの演奏を聴いてもらうか。彼らの言葉ならいくら頑固なおまえでも納得するだろう」
「…世界に通用しなければ、演奏活動はしてはいけないのですか…」
やっとのことでつぶやくささやき。高橋の名に傷を付けるからか。だからもうこのうちとは縁を切りたいと言ったんだ!
孝一郎は、ゆっくりとした仕草でタバコをくわえると火を付けた。そっと煙を吐き出すと、赤く鈍く光る火をただ見つめる。視線を戻すことなく、彼は続けた。
「おまえは、真理子とは違う」
静寂が訪れた。絶対の真理の前に、言葉はどんな意味を持つというのか。芸術の持つ残酷さ。
おれは、有名になりたいわけでも賞賛を浴びたいわけでもない。後世に残る作品を創り出したい気持ちなどかけらもない。ただ無邪気な子どものように、音と戯れて楽しむ術を覚えて。陽気な音楽とざわめきと、酒とタバコと喧噪と。暗がりでささやき合う恋人たちへの、甘い添えもので十分なのに。
とうてい乗り越えられぬ高い高い壁。おれがもし、彼の息子でも彼女の弟でもなかったとしたら。
「…職業…として、ただ…吹き続ける…ことは…」
ストレートに返された球を、ただ気力だけで打ち返す。好きだから続けたい。生きている限り。
「そうして、一生おまえは高橋真理子と比べ続けられるのか。それでも耐えられるというのか」
ここまで言いたくはない。孝一郎の気持ちが珍しく痛いほど伝わってくる。父なりの愛情。それはあまりにも不器用すぎて。
「僕は、辞めない!」
悲痛に叫ぶ一樹に、父はたまらず声を荒げた。持っていたスコアをテーブルに叩きつける。
「その身体で、いつまで続けられるというのだ!!病気で苦しむたびに、また同じ思いをおまえに味わわせるのか!!なぜそうやって、何もかも一人で背負おうとする!?音楽なぞ今すぐ辞めてしまえ!!生活の面倒なら一生見てやると言っておるだろうが!!」
お父様…。絶句する一樹に、孝一郎は頭を抱えてソファに深く座り直した。自らを鎮めるかのように。
「おまえを、一人残すのではなかった。いや…音楽などやらせなければ良かった」
聞き取れぬほどの…痛々しいつぶやき。
もう、無理だよお父様。おれは楽器を手にしてしまった。ここから逃れることなんてできるはずがない。そうだろう?どれだけ飢餓感を味わおうとも。絶望をくり返そうとも。
父は持っていたタバコを静かに消すと、大きく息を吐いた。そこにはもう先程までの、ただ息子を心配する親の姿はなかった。いつでも冷静で決断力と統率力を持った、自信あふれる指揮者としての…虚像。
「バークリーの今の学長には面識がある。そのうち挨拶に行っておくとしよう。どうせならディプロマではなくディグリーを取りなさい。そうすれば少なくとも大卒の学歴が手に入る。その代わり、卒業したら今のようにフラフラせずに伸子のメソッド教室を手伝うんだな。それが嫌なら、就職でも何でもするがいい。バークリー卒なら音楽講師の口くらい見つかるだろう。よほどえり好みしなければな」
あとはただ無言だった。一樹に何かを言い返すだけの強さは、もうひとかけらも残ってはいなかった。
父の思い。わからないよ。どうして今ごろみんなそんなことを言い出すんだ?もう何もかも遅いのに。おれはこうやって生きてきてしまった。何をどう取り返せと言うのだろう。
逃げるように自室に戻り、ベッドに倒れ込む。目をつぶったところで、眠れるあてがあろうはずがなかった。
気が遠くなるほどの浅い夢をくり返し見た。何も内容は覚えていない。ただ胸苦しさと焦燥感にかられるだけの夜。いつものことさ。
ふと気付くと、奥の音楽室からヴァイオリンの音色が響いてくる。迫力ある低音は、じかに振動となって床を伝わってきていた。
…姉ちゃんが、いるのか…
家族の誰にも、真理子にも付き合っているはずの聡子にも会わずに行きたい。ここから逃げたい。おれはいつだって何か大きなものから逃げたいだけなんだろうか。自分に嫌気がさして、一樹は無理やり頭を振った。パジャマ代わりのスエット姿でタバコを吸おうと起き上がると、ドアが遠慮がちにノックされた。楽器の音はいつの間にか止んでいた。真理子か?
「…どうぞ」
かなりぶっきらぼうに吐き捨てる。機嫌が良いはずもない。あのあと眠れないからと、強い酒をあおったせいで。タバコより、冷たい水が先だな。立ち上がるのさえおっくうだ。ああ、その前に。まだしっかり覚醒しきってない一樹の前におずおずと顔を出したのは、やはり姉の真理子だった。
「まだ眠っていたの?ずいぶん朝寝坊じゃなくて?」
朝食も終え、基礎練習すら一段落している姉に比べ、確かにこれじゃ格好がつかない。時計はとうに十時を過ぎていた。
「昨夜遅かったんだ。早寝早起きの健康優良児と一緒にすんなよ」
ふふっ、と笑顔をふんわりとまとうと、真理子はベッドに腰掛けた。
「聡子にはちゃんと会って話したの?とても心配していたわ」
学生の頃からの姉の親友。おれなんかより皆、姉の人柄に惹かれて集まるのだろう。自虐的な考えが支配する。
「見送りには来ないでいい、って言ったんだ。会えば、よけい寂しいからって」
これは半分は本当で、半分は嘘でもあった。そこまで思えるほどの相手かどうか、心から愛するということが何かわからぬままの一樹には、理解できずにいたのだから。
おれが本当に好きなのは…。引きずり込まれる思考に、あわてて一樹はストップを掛けた。
「やっぱり行ってしまうのね。せっかく家族が一つになれたと思ったのに」
悲しげな真理子の声。一緒にいればいいってもんじゃない。いつも愛に包まれていた姉に伝わるかどうか。でも今は、精一杯家族の橋渡しをしてくれた彼女に感謝していた。
「おれのわがままで、またみんなバラバラになる。悪いと思ってるよ」
素直に頭を下げる。それにそっと首を横をに振る。真理子の瞳にはもう涙がにじんでいた。
「先にあなたを一人ぼっちにしたのは、私だわ。私があなたからお父様もお母様も奪って。どんなに寂しかったでしょうと思うと、いてもたってもいられないの。音楽の勉強をしたいのは、あなただって同じなのにね。一番わがままなのは、私だわ」
大きく輝く瞳から、きらめく雫が伝わり落ちた。真理子は何度も、ごめんなさいとくり返した。
(つづく)
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