あなたのそばに ~Nearness Of You, The
#19
もともと長距離用の列車は、バスの乗り心地とは全く違った。静かな車内にふかふかのシート。眠れるからと言ったキミエの言葉は嘘じゃない。
それでも、一樹がまどろめるはずもなかった。
何も考えまいと、頭は必死に音源を探し求める。どんなものでもいいから音を鳴らしていたい。別に再生用機器が現実になくたって、ミュージシャンなら当然のように自前の音を鳴らすことができる。何時間でも、オリジナルでも。
その隙を突くかのように、言葉が差し込まれる。
これからの生活のこと。
治療のこと。
サポートしろと言ったエリックの…重い言葉。
そして。
桃子の冷ややかな横顔がサブリミナルのように脳裏に浮かぶ。消してしまいたい。思い出したくはない。意識すればするほど、当然のようにくっきりと像を結び始める。
逢いたくなんかない。もう二度と逢わない。道は分かれ、生活は変わり、姉代わりのおせっかいな桃子は過去の思い出となったのだから。
たとえ会ったとしても、あのときはありがとう、と言葉を交わす関係へと変化したんだから。
…それはおれが望み、桃子さんが選んだ道…
どこを走っているのかもわからないアムトラックは、白々とした朝を窓いっぱいに映し出していた。ようやく目をつぶった一樹は、エリックの生音を記憶の奥から引き出そうと、自身の持つチャンネルをトラディッショナル・ジャズへと変えた。
「エラいエラい!ちゃんと再診に来たじゃない」
BGH(ボストン総合病院)の整形外科へと向かった一樹に、担当医の梨香はそう声を掛けた。たかが研修生のクセに偉そうな態度で。これじゃまるでガキ扱い。まあ、ガキには違いないのだろう。
「調子はどう?って、とても良さそうには見えないけれど」
てきぱきと処置を行い、再検査の手続きを取る彼女は、苦笑混じりに一樹を見やった。当たり前だ、と彼は心の中で毒づいた。あれから一睡だってしていない。
食欲なんかひとかけらもないのに、取り敢えず駅前でコーヒーを流し込んだ。胃がきりりと痛む。服用する薬とは相性のいいはずもないカフェインとニコチン。それでも何も口にしないよりマシだろう。
感覚と感情を麻痺させたい。眠くなどないのに気だるさだけが抜けない。
黙ったままの一樹の額に、梨香はそっと手を当てた。
「ここでなら日本語でどうぞ。相当ストレスたまってるんじゃないの?」
ふざけた声でわざと明るく言う梨香の細い手首を、右手で握る。ほんの少しばかり彼女は身体を硬くした。
「仕事…何時に終わるの?」
げげんそうな顔つきで梨香が彼を見つめ返す。一樹の表情に笑みはない。
「昼には終わる予定だけど、なにせあたしは使いっ走りだからずれ込む可能性の方が高いわね。何?ランチのお誘いでもしてくれるっての?」
日本語での穏やかな会話。周りのスタッフはそう見ているだろう。けれど梨香にだけはわかるのだろう…一樹の今にも泣き出しそうな思い詰めた顔が。
「眠れなかった」
ぽつりと呟く彼に、じゃあ軽い睡眠導入剤でも出しておくわとさらりと告げる。その場をかわすかのように。
「眠れない…一人じゃ…」
耳をそばだてなければ聞こえないほどの、囁き声。手首を握る力が抜け、一樹は顔を覆った。
おれは何を、何をしているんだろう。どこへ行っても見知らぬ顔ばかり。そして、他人へ依存しなければ立っていられないほど弱い自分。泣くまいとこらえた。この女の前で二度と泣かない。歯を食いしばる。
梨香の視線を感じた。たぶんそれは、哀れみの目。たった一人異国で働く彼女には、おれなんかあまりに情けない男としか思えないだろう。でももう、頼れるものなんかない。この痛みを知る者は。
「病院のベッドは高いわよ。個室でも空けましょうか?あたしがサボりたくなったら子守歌でも歌ってあげるから」
あくまでも冷静に言葉を続ける。けれどその声が震えている。なぜ君が?同情か憐憫か。
「裏門で待ってる。新堂センセの出てくるのを」
やめてよ、センセだなんて。梨香でいいから。待っててもらってもいつ帰れるかなんて…。
彼女の声を遮るように一樹は顔を上げた。
「待ってる!一人じゃ居たくない」
梨香は肩をすくめて何も言わなかった。承諾の言葉も、拒否の言葉さえも。
「検査の結果は来週出るから。それから、治療費のめどは立ったの?」
事務的に告げようと努力するのが伝わってくる。それに「ああ」とだけ。梨香が目を見開く。
「家族に頼ったんじゃない。仕事を取ってきた。それだって、昔のつてで無理やりねじ込んでもらっただけ」
おれ自身に力なんてない。全く無名のミュージシャンには誰も振り向かない。おれから高橋の名を取ってしまえばこんなもの。これが、現実。
「その腕で仕事だなんて。無茶もいいところだ…わ」
その呟きを背中で聞く。一樹は力なく立ち上がると診察室を出て行った。
病院の裏手はまるでちょっとした公園のように、木々の緑が眩しかった。日本では見ることのない名も知らぬ葉が生い茂る。セキュリティ・ガードマンが立っているのは、そこが関係者専用の通用門だからだろう。
ベンチに座り込む。痛みすら感じなかった。何もかも忘れて眠りたい。夢一つ見ることなく。
頭の中に流れ続けるスタンダードジャズにすべての感覚を預け、一樹はさらさらの髪に手を差し込んだまま頭を抱え、ずっと動けずにいた。
「ちょっと!!まさかこの時間まで本当に待ってたなんて言わないでよ!?」
時計はもう三時を回ろうかというところか。外来業務と押しつけられた雑用を終えて足早に通用門へ向かって来た梨香は、驚きの声を上げた。
うつろな目でそれを見上げる一樹に、痛ましげな瞳を向ける。彼女は一樹の肩をそっと抱えると自分の小さな車へと押し込め、係員に事情を説明しに行った。暑いのか寒いのかそれさえもわからない。空腹も感じない、時間の感覚も。
何が心に引っかかっているんだ?それすら言葉にはならなかった。病院の近くの小さな部屋は、エリックの立派なアパートメントとは違いすぎた。
ろくに家具もない、ただ本当に眠る為だけの部屋。ラックへと乱雑に押し込められた医学書はすべて英語。そりゃそうだよな。場違いな思いだけしか浮かばない。
壁に飾られた数枚の写真は、なぜかみな裏返しに貼られていた。それが最近ではない証拠に、裏側の白い部分が陽に少しばかり焼けている。
「あー、えっと靴だけは脱いで。せめてこの部屋の中くらい楽でいたいから土足厳禁なの」
そう言いながら靴を適当に脱ぎ散らし、梨香は背負っていたカバンを床にどさりと置いた。勉強道具でも入っているのか。これがまっとうな暮らしをしている留学生の実態。おれとは違う。
立ちすくむ一樹に、梨香はもう一度「靴!」と厳しい声を浴びせる。あわてて履いていたバンズのハーフキャブを脱ぐと、そのままベッドに引っ張って行かれる。
「つべこべ言わずに、寝なさい!!」
「……えっ?」
ベッドに腰掛けた一樹の頭を無理やり枕に押しつけると、梨香は甘い香りのするブランケットを掛けてやった。
「今のあんたはただの過労と極度の寝不足状態!いくら若いからって、体力を過信しない!食べて眠れば大抵は良くなるもんなの!!ひよっこだろうがなんだろうが、医者の言うことをたまには素直に聞きなさい!!」
おれは…。言いかけた一樹の頭を両の腕で抱え込む。
「約束した憶えはないけど、取り敢えずそばにいてあげるから。起きたらご飯も作ってやるから。言っとくけど今回だけの大サービスよ!!いちいち担当患者に懐かれたらたまったもんじゃないわ」
梨香の声が耳元で聞こえる。人の温もり。それだけが人を癒す。ようやく一樹は目を閉じて訪れた睡魔に身を委ねた。
ふと目を覚ます。どれくらい眠ったのだろう。意識だけが戻り、身体は動かないまま。すぐそばに人の寝息。いつでもどこでも寝るんだ、この女医は。無防備に。年の割にはあどけない顔で。
頭を撫でてもらった感触があった。やっぱり息子扱いされてるのか、四歳と言ったよな…。おれはまるっきり幼児のように、何もできない。こうしてほとんど見も知らぬ女の部屋に上がり込み、他人のベッドを占領して眠っていたんだ。
一樹の右腕は、なぜか梨香の頭の下。いつの間にか腕枕にその髪を預け、彼女は寝入っている。警戒心もなく。
ガキ扱いってわけだ、おれはどこに行っても。
そうかも知れない。心の中は寂しいと。寂しくて寂しくて一人ではいられなくて。気づくと一樹は思わず彼女を片腕で抱きかかえるようにしていた。
もっと温かさを感じさせてよ。忘れさせてよ。この凍り付くような寂しさを、いっときでいいから。
頬を寄せてみた。化粧っ気もないはずの梨香からほんのり香るのは、たしかフェラガモのインカントチャーム。仕事柄、強いものは使えないんだろうな。もしかしたらこの部屋の香りなのかも知れない。
一樹の力を感じてうっすらと目を開ける彼女を、じっと見つめる。泣きたい、泣いてしまいたい。泣くもんか。もう子どもじゃない。
リップも塗らないのにつややかなその唇に、一樹は柔らかく口づけた。優しく噛むように。拒まれない。ホッとして彼は、さらに右手に力を入れた。
ねえ、抱いていてよ。一人はいやだ、よ。どうかすべてを忘れさせてよ。
…おれは何を忘れたいんだろう…
頭の隅が痺れるような甘いうずきに、一樹は身を委ねた。何の感情もなくただ流されるまま。
(つづく)
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