君に泣く ~I Cried For You
#18
「……桃子さんには、もう会ったんですか?今はアメリカにいます。旦那さんの海外赴任で」
できるだけ冷静に。一樹は自分を律しようと必死に声を鎮めた。どうして放って置いたんだろう、どうして放って置けたんだろう。あの二人を。ぶつけたい言葉は溢れ続ける。それを何とか飲み込む。
キミエは視線を横に向けると、日本語で呟いた。誰に聞かせるともなく。
……シアトルは、遠いわ……
知っているんだ。この人は、母親という人は桃子さんがどこに住んでるかまで。若い一樹にこれ以上の自制心なんか求めようとしても無駄だった。
耐えきれずに立ち上がると、声を荒げた。
「遠いって、同じ国内じゃないですか!!何で会ってあげないんですか!?そりゃ桃子さんは英語も上手いし、海外なんて慣れてる。でも短期に仕事で来ることと生活することは違うでしょう!?連絡取り合ってるなら会うことくらい簡単だろうに!!何でそれくらいしてやりたいと思わないんですか!?」
異国の言葉でまくし立てるかつての少年に、エリックは目を見開いた。キミエは…穏やかな視線をただ向けた。
応える気なんかないんだ、この人は。そりゃそうだ、おれは桃子さんとも母親という人とも何一つ関係なんかない。ただの部外者、何を一人で熱くなって。バカじゃないだろうか。左腕を押さえながら、一樹はうなだれた。
こんなことを言いに、バスに揺られて訪れた訳じゃない。そもそもここで、桃子の名を耳にするとも思いもしてはいなかった。まして、母親なんて。
「あなたは彼女の」
キミエはそこで言葉をいったん切った。そういう言い方をするのがこちらの流儀なのはわかる。けれど、自分の娘に対して…彼女…という単語を使うことにすら嫌悪感を持つ。それは一樹の自分勝手な怒り。言葉と心は同じじゃない。素直に表すことなんかできない。それだって自分が一番よくわかっているクセにと言い聞かせながらも。
キミエはすうっと息を小さく吐くと、一樹に向かって「彼女のSweetie(恋人)?」と訊く。凍り付かせた心の奥がズキリと痛む。腕の痛みよりもっと、深く深く。
「桃子さんは、桃子さんとマスターは赤の他人の僕を家に住まわせ、ずっと面倒見てくれた。『彼女』は実の姉よりよっぽど姉のように、母親のように。そういう人なんです。見た目のクールさと全然違う。本当は、本当は…」
本当はどうだと続けたかったのか。冷静に振る舞ってはいるが、自分の母親を求めていたと言いたかったのか。それに気づいてやれよと、この女性を責めたかったのか。
そんなこと、桃子じゃなきゃわからないことなのに。会いたいと思っているかどうかさえ、一樹にはわからないことなのに。
「詳しいことは何一つ知らないのだけれど、どうやらあなたはご自分の問題と彼女とのことを混同しているようね。そのことに気づいてらっしゃるのかしら」
冷たい響きはなかった。あくまでも落ち着いて冷静な声。よく似てる。似すぎるほど似ている。あの人に。今は同じ国に住む、姉代わりのあの人に。
済みません、と素直に頭を下げる。おれが口出しすることじゃない。いたたまれなさにこの場を早く去りたかった。懐かしく温かな想い出は、キミエの出現で痛みに変わった。ここはおれの来るべき場所じゃない。場違いにもほどがありすぎる。
「なぜここへ、エリックの元を訪ねたの?」
日本語で問う彼女へ、自嘲気味に一樹は吐き捨てた。
「病気が悪化してろくに授業に出られないくせに、治療費も払えない貧乏学生なんです。おれはただの。だから、たった一枚の写真を頼りに成功した金持ちのミュージシャンへと金をたかりに来た。それだけです。貸してもらえるあてもなければ、ミスターが貸す理由なんか何もない。すぐに叩き出されようが警察に突き出されようが文句も言えない。失礼な態度を取ったこと、謝ります。申し訳ありませんでした。もう帰ります」
訳のわからない寂寥感に包まれて、一樹は唇を噛んだ。おれは何をしているんだろう、と。たまたま出会ったことのある有名ミュージシャンに頼めば、この状況を何とかしてくれるかも知れないと一瞬でも思ったこと。その甘さがほとほとイヤになった。挙げ句の果てが、全くの他人へ絡んで暴言を吐くだなんて。
金がないのなら大学を辞めてさっさと日本に帰ろう。自己の健康管理もプロフェッショナルなら当たり前の仕事。その実力がないのだから、ステージの片隅にでも立ちたいだなとという甘ったれた考えも今すぐ捨ててしまおう。
素直に父親へわびを入れ、治療に専念しよう。それが棘だらけの鳥籠に入れられ、歌うことも一切禁じられる生活が続くことになろうとも。
それが自分に用意された運命なのだとしたら、大人しく受け入れよう。ああそうか、それをわからせる為の長旅だったのだ。これほどの遠回りをしなければわからなかった単純な事実。
黙ってしまった一樹に、エリックは口を開いた。「カズ」とだけ。
うつろに見上げる彼の目に映るのは、優しげな温かい瞳。数えるほどしか会いもしなかった手の届かない偉大な演奏家。
「ようやく思い出したよ、君の音を。クラシックをやっていたんだと言っていたな。とても素直で良く通る音だった」
音を、エリックは音で人を憶えていたのか。あまたのミュージシャンと共演し、一線で活躍したプロが、子どもだったおれの音のことを。それとも、惨めすぎるおれをなぐさめる為だけに、当たり障りのないことを言ってくれているだけか。
「確か最初の電話で君は、ウォーリーズで吹いていると言っていたな。少々怪我はしているが今も演奏することはできる、と」
aye。そうです、とだけ答える。一樹自身、感情の荒れについて行けない。どこにぶつければいいのか、この苦しさは。
「フライヤーを見たのなら知っているだろうが、私もじきにボストンに行く。君に私のステージをサポートして欲しいんだが」
とっさに口を開きかけた一樹を遮るように、エリックは力強く意志を込めた瞳で、彼を見つめた。
「これでも日本語のヒアリングはその辺の若いヤツらには負けないんでね。さっき治療費がどうのと言っていたな、ギャラは前払いさせてもらう。病院からの請求書をこちらへ回してくれ」
「ミスター!」
条件がある。一樹の声より大きくきっぱりと彼は言い切った。
「もし、ギャラに見合うだけの演奏ができなかった場合は全額返済してもらうだけじゃなく、損害賠償を請求するからそのつもりでな」
「そん…がい、賠償…!?」
意外な単語に、歳若いプレーヤーはうろたえた。
「もちろん当然だ。エリック・W・バークレーの名を掲げて演奏をするからには、質を落とすわけには行かない。覚悟しておけよ、私のライバルくん」
ふん、と鼻を鳴らして顔をしかめてみせてから……エリックは軽くウィンクを返す。茶目っ気たっぷりと。
キミエはわずかに口元を緩めた。それが笑顔である、とかろうじてわかるくらいの控えめな表情で。
一樹と言えば、こういったときにどんな顔をすればいいのか困り果て、言葉をなくしていた。
その場で簡単な契約書を作り、エリックはすぐさまフィリスの元へと連絡を取った。おそらく電話の向こうでウォーリーズのオーナーは唖然としていることだろう。
泊まってゆけと強く誘われたのを固辞し、一樹は部屋を出た。夜中にチャイナバスの停留所にいることがどれだけ危険かと何度言われても。
「君の音を聴くのが楽しみだ。社交辞令なんかじゃないぞ。ああ見えてもフィリスは頑固でね、そんじょそこらの実力じゃレギュラーなど入れさせやしない。本気だからな、私は」
エリックの声が遠くなる。自分に向けて言われているのだと理解するまで、一樹はしばらく何度かその英語を頭の中で反芻しなければならなかったくらいに。
キミエが一樹の右手に手渡したメモ。それは特別なものでも何でもなく、ボストンへのアムトラック深夜便を予約したというチェックナンバーだった。
「これに乗れば、明日の朝にはボストンに着くわ。電車の方がバスよりはゆっくりと眠れるはずよ」
チケット代もギャラに含まれているから安心して。それらの言葉には、ただ一人の見知らぬ若者を心配するニュアンスしか感じ取れなかった。
「ありがとうございます、あの」
ようやくそれだけを口にする一樹に、キミエは問うた。
「あなたはトウコに会ったの?こちらに来てから」
力なく首を横に振る。会おうなんて思いもしなかった。もとより頭から抜けていた。ああそうか、シアトルもボストンも米国には違いないと。あまりに遠いだけで。
「彼女のあとを追って来たなら、どうかあの子の…力になってあげて」
初めてかいま見せた母親の顔。ハッとしてキミエを見つめてから、すぐに一樹は言葉をつないだ。
「桃子さんには篠原さんがいるんだから大丈夫です。僕はもう、きっと、会うこともない。ここでも日本でも」
桃子のいない下北沢のジャムズは、マスターの勇次と古株の結香が何とか切り盛りしている。もちろんシェフの前島とバイトの広大もまた、彼女の抜けた穴を埋めようとめいっぱい働いている。時たま手伝いに行っていた一樹は、その桃子がいないからこそジャムズへ足を向けることができた。
桃子の母親であるキミエと出会った今、たとえ帰国してもあの場所には戻れない。なぜかそんな気がしてならなかった。
酸素が薄い。息苦しい。
温かい場所と穏やかな空間。それは十分に感じられた。けれど、なぜ桃子は自分の母を奪っていった男がステージに立つのを、冷静に見ていられたんだろう。勇次もまた、長年の友人としてエリックと付き合い続けられたのだろう。
焦がれるような胸をかきむしられる想いを抱きはしなかったのか、母親への思慕という名の感情を。
逃げるように建物を離れた一樹は、背負ってきたトランペットケースを右手で握りしめた。やっと見つけたタクシーで駅へと向かう。
…電車の方が眠れるから…
眠れるだろうか、こんな想いを抱えたままで。誰の感情を取り込んでしまったのかもわからず、渦巻く心の嵐を上手く抑えることは一樹には到底できそうもなかった。
(つづく)
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