縁は異なもの ~What A Diff’rence Day Made
#17
「げほっ、こほ。ボ、ボストンからニューヨークですかあ!?そりゃ飛行機なら一時間だけど…」
心配して様子を見に来てくれた洋輔をとっつかまえ、一樹は理由を伝える間もなく矢継ぎ早に質問攻めをした。なるべく手っ取り早くNYに行きたいんだ!!どうすりゃいいか教えろ!?
「休学してるって聞いたから来てやったのに、何だか元気そうだねえあんた。骨折ったってホント?ステージでこけたとか言ったら笑ってやるから」
髪をてっぺんから散らした例のアジアンスタイルの尚子は、呆れ顔で一樹を睨んだ。
「持病がちょっとだけ悪化したんだよ!」
「骨折が持病って、どんな病気よ?」
うっせえ!!一樹はいつもの調子で怒鳴り返し、あわてて左腕を押さえた。大声を出すことすら傷に響くのだ、現実には…。
「何でまた、急にNYなんですか?友達でもいるとか」
友達だなんてあれだけの有名ミュージシャンつかまえて。こっちは顔を覚えているけれど、向こうは果たして記憶の隅にさえあるかどうか。
黙ってしまった一樹に、尚子はパンフをちらつかせた。
「ほれ!貧乏学生にはこれが一番」
日本語で書かれた案内書には、15ドルの文字。一樹は飛びついた。
「これ何だよ?どこに行けば乗れるんだ!?」
あのさあ、日本語なんだから自分で読め!尚子の冷ややかな声は変わらない。チャイナ・バスも最近は性能が良くなったって話だから。
「チャイナ・バス?」
ボストンとニューヨーク間を、元々は方々のチャイナタウンを結ぶバス路線。ありがとうと珍しく素直に口にした一樹へ、二人は複雑そうな表情を浮かべた。
「ねえ、プライヴェートなことに口を挟むつもりなんかないけど…そんな身体で誰に会いに行くのよ?」
言外に、そんなことをしている暇があるかと言いたいのだろう。尚子の眉が責めるのでもなくひそめられる。
「誰…って、エリック・W・バークレーに」
洋輔と二人は目を見合わせる。今ではもう決して第一線とは言い難いが、多くの現役から尊敬される有名なトランペッターのエリック。知り合いだというのか。訊きたいことをこらえているような視線に、一樹は一枚の写真を取り出した。肩を組んで撮ってもらった懐かしいフォト。あれから楽器ケースに入れっぱなしにしていた。
「日本で何度か会ったことがある。おれが居候してたライブハウスのマスターとは懇意らしいし、そのあの……仕事でも紹介してもらえないかなってさ」
口ごもるようになってしまったのは、結局やっぱり周りの力がなければ何もできないと言っているような気がしたから。
親の七光りではなく、今度は居候先のマスターであり本当の父親のように慕っている勇次の顔を頼る。それでも門前払いは覚悟の上だ。
おれに本物のジャズを目の前で聴かせてくれた黒人の管楽器奏者。そして…吹き続けよと背中を押してくれた恩人。憶えてなどいないだろう。世界中を旅した彼にとって通りすがりに過ぎないガキなんて。
黙ってしまった一樹に、気休めの言葉を尚子は投げかけた。
「まあ、彼の再婚相手って日本人らしいから。少しは脈があるんじゃない?」
日本人?
「ジュリアードで講師をしているピアニストだとか。まあ、別に名演奏家イコール名指導者じゃないから、教え方が上手い人なのかもね。名前知らないし」
クラシック畑の正規の音楽大学を卒業している尚子ですら知らない、日本人のジュリアード講師。本当におれはエリックのことなどろくに知りもしないで、これから仕事どころか金を貸せとせびりに行くのだ。ほとんど初対面の無名のガキが。
「ほら、今から行けばうまくすれば今日中に着くかもよ!」
苦笑いを交えた尚子の声。今日中?だってまだ日も高いのに、NYなんて地図の上じゃすぐ近くだってのに。
「まあ、頑張れば四時間で行くかも。あ、チャイナ・バスの運転は荒っぽいって評判だから、お気をつけ遊ばせ~」
手を振る彼女に、一樹は顔を引きつらせた。これから四時間もバスに揺られろと?エアラインなら一時間の距離なのに。
ちゃんと金が稼げるミュージシャンになりたい。一樹は心の底からそう思った。
「Please don't talk to me !」
いくらプリーズとつけたところで、文法的に合ってるかなんて知らない。吐き捨てるような、一歩間違えればケンカになりかねない口調。ひっきりなしに同胞かと訊かれぶち切れかけていた一樹は、バスの中の喧噪に耐えきれず持ってきたジャケットを頭から被ると何度も叫んだ。
頼むから放って置いてくれ。構わないでくれ。一人は寂しいけれど行きずりの関わり合いはゴメンだ。おれに話しかけるな!!
車輌こそ思ってたよりマシだが、確かに運転はかなり派手だった。がんがん飛ばし、並みいる外車を抜かし、ひたすらニューヨークへと向かう。ボストンへ来る際、乗り継ぎに寄っただけの都市。土地勘がある訳じゃない。本当は認めたくないけれど一樹にとっては不安で仕方がなかったのだ。
一人では何もできない。
その現実をどうしても受け入れたくはなかった。高橋の名など意地でも出すものか。無名で日本でも駆け出しのミュージシャン、カズ。自分の実力だけでどこまで通用するか。おれはそれに賭けたかったのに。
荒いにもほどがあるバスの揺れは、痛みを呼び起こす。眠ることすらできない。座席に丸まって殻に閉じこもりひたすら耐える。ここのどこが自由な国だというのだろう。力がなければ明日の生活もおぼつかない。
幼い頃から常に世界を飛び回っている姉のそばには、いつだって母がいた。ステージママと揶揄されながらも、甘やかすでなく冷静に冷徹に……時には冷酷に。その高い要求にすべてに応えてしまえた姉の実力。今でこそ、母はマネージャー役を他の社員に任せ、自ら設立した高橋音楽事務所を切り盛りしている。社長として姉と父をマネージメントするサポート役。
そこに、一樹の居場所はない。彼とて作る気もない。おれはただ一人、言葉もろくにわからぬまま走り回るだけ。動かない腕を抱えて。
無理をしすぎた、それはイヤと言うほどわかっている。また熱が出てきたのかも知れない。朦朧としてきた意識で解熱剤を取り出そうとした一樹は、ふと視線を感じた。近くにいた幼い少年は、一樹の背負うトランペットケースと彼の顔を交互に見やっている。
これが何かわからず、怖いのかも知れない。ひょっとしたらラッパだと知っていて、羨んでいるのかも知れない。
ボクも欲しいんだ、あのおもちゃが。
何度目かに目が合ったとき、一樹は思わず頬をゆるめた。幼い子はさっと母親らしいおばさんの陰に身を隠した。
そう……これは僕の大切なおもちゃなんだよ。ずっとずっと僕のそばにいてくれた。手放すことなんてできないんだ。
たくさんの想いを抱え込んだまま、一樹はそっと目を閉じた。
一応、電話でアポを取り付けてあったとはいえ、案の定エリックはすぐに一樹を思い出すことはなかった。しかし、こざっぱりとした彼のアパートメントのドアを開けた途端、その優しげなミュージシャンは相好を崩した。
「君は、えーと確かトウコの弟だったな!」
トウ…コ…。不意に出された名に酷く動揺する。上手く言いくるめれば或いは。しかし一樹にそんな芸当ができるはずもなかった。素直すぎるほど素直に、ただの赤の他人だと。
「あの家に、置いてもらっていただけです。桃子さんとは何のつながりも」
そう、何一つない。どれだけ親身に、まるで本当の姉のように母のように世話を焼かれようとも。たとえ彼女がおれにとって初めて……。
飲み込んだ想いはしかし、他の響きにふっと断ち切られた。
「お客様といつまで玄関で。中に入っていただいたら?エリック」
穏やかで静かな声の主は、初老の女性。切れ長の涼やかな目に微笑みをたたえて。横に流した髪は白というより銀に近い輝きを持ち、上品にスカーフが巻かれていた。その年代の日本人女性としたら背の高い方だろう。おそらく彼女が、エリックの妻。
「そうか、義理の弟という訳ではないのか。ユウジにガールフレンドができたのかと喜んでいたというのに」
大げさに嘆いて見せたのは本心かジョークのつもりなのか。エリックは朗らかに笑うと一樹を部屋に招き入れた。
しかし一樹は、先ほどの女性から目が離せなくなっていた。ジュリアードの講師というのはこの人のことだろう。いや、そんなことよりも。
あの瞳も髪も仕草も背格好も、おれは知っている。この人を。この人と同じ匂いをまとう女性を。
「トウコに弟はいなかったはずよ。驚かせてしまってごめんなさいね、お名前は?」
完全に彼女の雰囲気に飲まれてしまっている一樹は、声も出せずにいた。何とか、カズと呼ばれていますとだけ。
そんなに緊張しなくともいいのよ、と再びふわりと微笑まれる。カズというのはステージネームね?居心地の良いリビングに通される。腰を下ろすと目の前に差し出される紅茶。この香りもおれは、どこかで確かに。記憶をたゆたわせる。
高橋…と言いかけて口をつぐんだ。出来の悪い弟の名は知られていないだろうが、目の前の人は音大の指導者なのだ。特に姉が学んだジュリアード音楽院と言えば、卒業生に名だたる音楽家が並ぶクラシックの名門だ。実際にはジャズ部門も演劇や舞踊のクラスもあるというのに。
「あ、あの、タナカ一樹です。今はバークリーでトランペットを」
「怪我されてるの?留学中でさぞ心細いことでしょうね」
むしろひんやりとした響きを含むくらいなのに、人を落ち着かせてしまう声。その瞳がじっと一樹を見つめていることに気づく。身バレより何より、彼はこの説明しがたい感覚に戸惑い続けていた。
エリックは、一樹が差し出した写真に懐かしげに見入っている。そうあれは、ジャムズで撮ってもらった大切な一枚。彼の演奏を気に入った訳じゃない。実は良くは憶えてはいない。今どきの音というよりは昔ながらのスタイルを固持する、安定した演奏をする奏者。記憶の中のエリックの音は、ぼやけている。それでもその写真は一樹にとって特別なものだった。
「思い出したよ。確かあのときも君は、今みたいに怪我をしていたね」
中学のとき、そしてコンクールを終えて一樹が一度楽器を手放したとき。何度かエリックは日本へと来た。来るたびにあの小さな下北沢のライブハウスを訪れた。おそらく気まぐれで言っただろう彼の言葉が、一樹をここまで連れてきたことにエリックは気づいているだろうか。
「いいえ、怪我じゃないんです。病気がいつも、何度も何度も僕からトランペットを取り上げようとする」
エリックから一瞬笑みが消える。反対に一樹は精いっぱい微笑んで見せた。
「あなたの言葉が、僕を音楽に結びつけていてくれた。トランペットを持とうとしない僕にあなたが言ってくれたんです」
…君の左手が動かないことと、君が音楽を続けることに何の関係もないよ。私は君の音が聴きたい…と。
治療費のことも、仕事の口添えのことも…進行するかも知れない病気のことさえ彼から離れていこうとしていた。エリックの言葉を、今ここで本人に会って思い出せた。それでいい。十分に礼を言って帰ろう、早くボストンへ。おれはただ、あのときと同じ気持ちのまま吹いていればいいのだから。
静かに見つめていたエリックは、ふっと表情を緩めると一樹へと話しかけた。
「君は神原の家にいた、ただの同居人だと言ったが」
そう、その通りだ。偶然にもあの場所であなたに会い、声を掛けてもらえた。
「おもしろいねえ。君はとてもトウコに似ているよ」
「僕が?桃子さんに?」
ねえ、君もそう思うだろう?キミエ。エリックは妻へと振り返る。私も思ったわと優しいいらえ。
「あなたも桃子さんをご存じなんですか!?」
一樹の言葉に二人は顔を見合わせて、少しばかりほろ苦い表情を浮かべ、またゆったりと笑顔を取り戻した。ごめんなさいね、自分のことを話していなかったわ、とキミエと呼ばれた彼女は視線を一樹に移した。
「キミエ・バークレー。つい最近になってから正式に届けを出したのよ。私はどちらでもいいと言い張ったんだけれど」
「形にこだわるわけではないのだけどね。歳を取ったのだなあお互いに。元々、彼女の名は<キミエ・カンバラ>。音楽院ではまだこちらのワークネームを使っているのだよね」
カ…ンバラ?一樹が目を見開く。
「そうか、トウコは君に伝えてなかったんだね。キミエがトウコのママだよ」
静かな、あまりに静かなエリックの言葉。ああだから、あんな小さなライブハウスに何度もこの巨匠は足を運んで。……そうじゃなくて、今はそんなことより。
「桃子さんの、母親?」
あの二人を見限って出て行ったという、ベーゼンドルファーを弾く母親。それが、この人だと?
近寄るな!おれのテリトリーに入り込むな!もう桃子さんとは関係なんかない!!おれは……。
酷い目眩に、押し寄せる感情の濁流に、抗いきれずに一樹は椅子に沈み込んだ。
(つづく)
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