とり残されて ~Left Alone
#16
「…何…同情…?」
呟く声は小柄な彼女の肩に顔を伏せ、歯を食いしばる一樹からのささやかな抵抗。しばらく無言で長身の彼を抱え込むようにしていた梨香は、傷に障らないように頬をつけた。
「大の男が…泣いたって……誰にも…言いやしない…から」
処置室とは違う、小さなささやき。それは切なげに、何かをこらえるかのように。
いくらでも見てきた、辛い症状を抱える患者なんて。誰にでも同情心を掛けていたら仕事なんてできない。ある程度、いいえ、ほとんどの気持ちを割り切って冷酷と思われようが必要な処置をしなきゃならないときばかりよ。
一樹にしか聞こえないほどのウィスパーボイス。梨香の言葉は続く。
「誰にだって深い事情はあるわ。医者がそれをいちいち気にはしてられない。信仰のある国だから、同情じゃなく隣人を思いやる気持ちは強い。でもそれは、子を思う親の気持ちとは違うから。家族とは…違うから」
家族に思いを寄せてもらったことなんかない。姉はたぶん、クラスメイトが苦しんでいても同じ態度で接するだろう。関わり合ったオケの団員が泣いていれば、心から親身になるだろう。そういうヤツなんだ。おれが弟だから、じゃない。
「…おれだって、あんたのことなんか何も知らない。会ってたった三日?それとも今日で四日?おれを、息子か何かと間違えてるんじゃね?」
医者は患者のプライバシーになんか興味ねえんだろ?あっても困るけど。こんなときにでさえ一樹の強がりと悪態は止まらない。
「これほどバカでかい図体の息子がいてたまるかってのよ。うちの可愛いチビタンはまだ四歳なんだから」
はん、四歳児並に扱われてるわけ?おれ。苦い笑いと止まらない涙。口調とは裏腹に、自由の利く右腕を梨香の肩に回し、一樹はそれでも嗚咽をこらえていた。
「逃げてきたのよ、あたしも。現実から。四歳の息子から」
意味を図りかねて、一樹は赤い目のまま梨香を見やった。ふっと自嘲気味に笑う彼女は、もうそれ以上何も言わずに栗色の髪を優しくさするばかり。
「どんな理由があろうとも、今はちゃんと家族に頼りなさいな。きちんとした保険に入るにしても、あなたの英語力じゃ心許ないし。ある程度まとまったお金は必要なんだから、その程度の請求書で青くなってるんじゃとても無理。でなければ…」
でなければ?ただ、彼女の言葉を繰り返す。
「日本に帰りなさいよ」
冷たい宣告。ある意味、至極まっとうなアドバイスなんだろう。それでも一樹は首を振った。
「日本には帰らない。家族にも頼らない」
「あなたねえ!!現実を見なさいよ!?」
やっと自由になれたんだ。自分の足で立てたんだ。それがどれだけままごとのように見えようとも、実際には親の庇護の元で自立ごっこを繰り返しているだけにしか思えなくても、おれには大切なことなんだ。
自分で生きる。
たったそれだけのことが、どうしてこんなに難しいんだろう。
「とにかく、通院をさぼったら許さないわよ。検査の結果次第では即再入院もあり得るんだから」
再発の可能性。一番見たくはなかった現実。一樹の心の一部が確実に凍り付いている。
「必要があればあなたがどれだけ嫌がろうとも、ご実家に連絡させてもらうから。いいわね?」
事務のお姉さんみたいだ、それが下っ端医者のやる仕事な訳?口元を歪めた一樹に、梨香はいつもの強い意志を感じさせる目で睨みつけた。
「そういう偉そうな口はね!もうちょっとマシな英語が話せるようになってからにしなさいよ!?」
言っているそばから梨香の携帯が震え出す。今まで何度も無視を決め込んでいた呼び出しコール。
さすがに電話に出た彼女は早口の英語で応酬と言うよりも怒鳴り合いをしたあげく、一樹に「約束破るんじゃないわよ!!」と言い残し、走って病棟へと戻っていった。その後ろ姿を目で追う。無意識に。
おせっかいな女。
彼女の目はおれなんか見てない。向こう側にいる、たぶん自分の息子を見ているのだろう。梨香がどんな理由で「逃げてきた」と口にしたのか。知りたいとも思わなかった。
贖罪って言うんだっけ。おれは彼女の罪の意識を一瞬でも軽くする為に使われた。そう思いこもうとした。通りすがりの、使いっ走りの担当医。
実務的に連絡を取らなくてはならない相手は多い。まず、さんざん心配を掛けたであろうロマーノに。そして大学に。ウォーリーズには次のステージから復帰すると言っておかないと。どんな痛みがあっても、仕事は続けてみせる。やっと勝ち得た自分の立ち位置なのだから。
そして、もっと現実的な治療費の工面。
これ以上、姉に言えるはずもなかった。病気は決して完治したのではないということを。両親に知られれば、強引に連れ戻されるだろう。こんな時ばかりいっぱしの親の顔をして。
熱で朦朧とした意識を何とか保とうと、一樹は努力した。この国で一人で生きて行くにはそうそう倒れてなんかいられない。
彼は携帯のアドレスを開け、片っ端から連絡を取り始めた。
「cash advance?今の時代にさすがにそれはないね」
ギプスで固められた一樹の左腕を痛々しげに見つつ、オーナーのフィリスは苦笑した。
『上海バンスキング』という有名な舞台があるほど、バンドマンと現金前貸しとは縁が深い。アドバンス、つまりギャラを先にもらうことだ。バンスキングとは借金王とでも言えばいいのか。
バンスなど今のミュージシャンの中では知らない若者もいるくらいだが、きちんとした長期契約という形を取ればまとまった金額がもらえるのではないか。一樹なりに必死に考えた策はあっさりと却下された。
「それよりも、当面はステージどころじゃないだろう。その腕で演奏は無理だ」
「今夜から戻ります。トラのエディとは話が済んでいます。ですから今回の治療費を一括で支払う分だけでも」
食い下がる一樹に、無茶を言うなとオーナーが戒める。
「もう大丈夫です!演奏の質は落としたりしない。今までもずっと、片腕でやってきたようなものなんだから!」
ふう。大きなため息をつくと、フィリスは孫にでも諭すかのように優しげな目を向けた。
「で、いくら必要なのだね?」
一万ドルもあれば…。ためらいがちに口にする一樹に、首を横にふる。悪いが君はまだ無名の新人だ。日本にいた方が稼げるんじゃないのかい?と。
「金の心配よりも、君の身体をもっと大切にしなさい。今の状態で無理をすれば…」
「今ここで吹けなければ、もうおれは吹けなくなる!お願いです。この場所に、ステージにいさせてください!!」
必死に叫ぶ一樹の背中を、シンシアたちがそっとなだめるように触れる。その辺りにしておけ…と。
「治ったらまた、ここに来ればいいじゃない。待ってるから、大丈夫よ」
シンシアが優しげに口にする言葉、そこに何の裏付けもないことは一樹自身が一番よくわかっていた。バンドマンなど掃いて捨てるほどいる。この間のセッションナイトには、後がまを狙う若者がいくらでも出演していた。空きができれば、次は誰か。一樹が再びここへ戻れる確率など、ただでさえ低いのに。
「治ったら、か。もし治らないとしたら?」
わざと日本語で一樹は呟いた。メンバーたちの戸惑いに彼は、今日のステージで復帰するからと今度は英語ではっきりと告げた。無理して付け足した笑顔を添えて。
リハだリハ!わざと陽気に声を張り上げる。片腕で準備をするなんて慣れている。治療と検査と、何度こんな状態で演奏したことか。さすがに骨折してまで吹いたことはないけれど。
一樹は器用にトランペットの本体へマウスピースを取り付けると、それ自体を左腕に乗せた。傷に当たらないような場所を何とか探す。そうっと息を吹き込むと、当然のように痛みが走る。
「カズ!!止めなさいよ!!」
その声を無視して一度楽器をスタンドに掛けると、彼は銀縁のメガネをサングラスへと代えた。苦痛をこらえる表情など見せられない。おれには時間がないんだ!!わざと速いパッセージ、そしてハイノート。ほら、何ともないとでも言いたげに一樹は皆をせき立てる。フィリスと彼の顔を交互に見やっていたメンバーたちは、しぶしぶステージへと上がる。
ここに立てることの重要さを、彼らもまたよく知っているから。一樹の行動を責められないどころか、おそらく自分たちでも同じことをしただろうという思いから。
脚の骨を折ってもティンバレスを叩き続けた奏者もいる。椅子に座りながらシャウトしたボーカルもいる。どれだけ声が出にくいか、歌ったことのある人間ならよくわかる。
それでもなお、ステージに穴を開けるわけには行かないのだ。自分の場所を確立するまでは。
一樹は覚え書きのような譜面を見ることさえせず、次々と曲をこなした。堅く目をつぶり吹くことに集中しなければ、意識さえ危うい。
今はただ、一つ一つの仕事をこなすしかない。治療費が工面できなければ家族に知れる。知られたら最後、もうここへは…現役の演奏活動の仕事へは戻れない。父は許さないだろう。
……音楽なぞ今すぐ辞めてしまえ、生活の面倒なら一生見てやると言っておるだろうが……
不器用な父がかいま見せた、孝一郎なりの親としての想い。どこかではわかってはいた。でもわかりたくはなかった。親としておれを心配する前に、フィールドも格も違うけれど同じ音楽家として理解して欲しかった。できうる限りいつまでも演奏していたい、という一樹の願いを。
大学は取り敢えず休学届けを出した。出席が足りずに単位が取れなければ、ここに来た意味がない。ロマーノの哀しげな表情が脳裏に浮かぶ。できるだけ君の身体に負担のないように、そうコウイチロウからは言われていたのだが。守りきれずに済まないと思っているよ、と。レヴェル1からのスタートは、そんな意味も込められていたのか。
生き急ぐなという大人たちの隠されたメッセージ。でも今の一樹にとって、それはただの足枷にしか過ぎなかった。
急げ、急げ。できるだけ急いで駆け抜けろ!おれがおれとしていられるうちに!
治療に専念するから家族にだけは知らせないでくれ、とロマーノに頼み込んだ。それ以上彼に甘えるわけには行かない。総額およそ一万ドル。継続して治療を受ければさらに金は掛かる。フィリスの言う通り、一度日本で仕事を取って稼ぐ方がいいのか。今ならまだ受け入れてくれる仕事先は見つかるだろう。でも、自分の実力だけでやっとここまで来たというのに。思いは乱れる。
強い酒と痛み止めで、逆に一樹のテンションは高まっていた。身体へのダメージを考えたら一番最悪な組み合わせなのは重々承知。それでも、盛り上がる演奏に客席は沸いた。
固められた片腕に預けた楽器。がんがんに攻めるハイノート。
これじゃまるで、見せ物。
物珍しさで人々は一樹の演奏に驚嘆するだろう。音なんか聴いちゃいない。それでもいい。
終演後、気力もなくしてテーブルに突っ伏した一樹は、壁に貼られた一枚のフライヤーに目を向けた。トランペットを片手に微笑む黒人。誰だっけこいつ、見覚えがある。
「カズ、今後のことだが…」
そばに近づき口を開きかけたオーナーに、今夜くらいの演奏ができれば満足してもらえるでしょう?と先手を打つ。フィリスが一樹に向ける痛ましげな視線を感じる。同情でも曲芸扱いでも何でもいい、ここにいさせてくれさえすれば。そんな一樹の気持ちをも伝わってはいるのだろう。オーナーは次の言葉を言い出すことはなかった。
「ねえ、フィリス。あのトランペッターって…」
一樹が見つめる先を追いかけたオーナーは「ああ、エリファレット・ウィリアム・バークレーかい?今じゃ悠々自適な暮らしで、時たまここに出演するんだ」とこともなげに応えた。
エリック・W・バークレー!!何で忘れていたんだろう。トラッドなスタイルを崩さない渋い演奏をするミュージシャンで、まだおれが中学生だった頃にジャムズに何度か来たあのジジイだ!悠々自適な生活を送る成功したミュージシャン。彼は十年近くも前に会った日本人のガキを覚えているだろうか。
「フィリス様!!オーナー様!!頼むからエリックの連絡先を教えてくれ!!」
一樹はあわてて起き上がると、何ごとかと戸惑うフィリスへと詰め寄った。
(つづく)
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