煙が目にしみる ~Smoke Gets in Your Eyes
#15
病院の白い天井はどこも同じ。リネンの感触も堅いベッドも。
二度と来たくなどないといくら願っても、罰ゲームのようにスタート地点に戻される。耐えがたい痛みに眠りを遮られた一樹は、顔をしかめて無意識にナースコールを押そうとした。
…ああ、ここは日本じゃないんだ。どこに何があるかなんてわからない…
本当に一人だという孤独感に潰されてしまいそう、そんなことを言える歳じゃない。精いっぱい強がろうとしてもこみ上げる思い。
もし、もう二度と吹けないとしたら。
骨折痛の緩和にと打たれた鎮痛剤は、とうの前に切れてしまっていた。このまま朝まで、言葉も通じない、誰も知らない部屋で苦しんでなきゃいけないのか。
左の腕などもぎ取ってしまいたい衝動に駆られ、点滴の刺さった右側を動かそうとする。
そのとき初めて一樹は、自分の手を握りしめるぬくもりに気づいた。
目だけでそちらを見やる。視界に入ったのは不自然に染められた金髪のベリーショート。
たしか、梨香…と。ああ名字は何だったっけ。研修医って言ってた。処置室でおれを怒鳴りつけた女。
泣いたって誰にも言いやしないわよ、と。
研修医ったって医者なんだろ?患者のベッド脇でこんな無防備に寝顔なんか見せていいのかよ。
梨香という名の若い女医は、一樹の右手をしっかりと握ったまま、かすかな寝息を立てていた。目鼻立ちのはっきりとした意志の強そうな顔立ち。濃く引かれたアイラインと際だった眉。女性一人で留学するというのはどれだけの意志を持たないとやっていけないものなんだろうか。
家族を残して……。
わずかなあいだ痛みも忘れ、一樹は彼女を見つめ続けていた。触れ合っている手が熱を帯びている。それは疾患から来る病的な熱とは別の、もっとふわりとした温かさ。
もしかしたらおれは本当に泣いていたのかも知れない。放っては置けないと彼女が付き添ってくれたというのだろうか。やっと浮かべられた一樹の笑み。いやどちらかというと苦笑い。
おれを自分の息子とでも思ってるんだろう。図体ばかりでかい子どもとしてしか扱おうとしなかった、あの人のように。
握りしめられた手を、握り返す。母にこんな風に看病してもらえたことなんかあったかどうか。
はっとしたように彼女が顔を上げ、目の合った一樹を見て複雑そうな表情を浮かべた。
「あの医者が言ってた、サーヴィスの良さって本当だったんだ」
痛みをこらえるからどうしても声が掠れる。それでもいつもの一樹に戻ってふざけたようなものの言い方。案の定、彼女は上目遣いにギロッと睨んで見せた。
「あんたねえ!人がせっかく夜勤もあけて帰ろうってときに通りかかっちゃったもんだから!」
「……ありがとう」
真っ直ぐな一樹の声に、とまどうような彼女の顔。強気を通してきた中にかいま見える優しさ。
「おれさ、泣いてた?」
一樹の問いに首を振る。泣いてないけど、まあこれだけ英語の通じない留学生を見たのも久しぶりだなあって心配になったのよ。どっちかって言うと呆れたって感じ?
持ち上げられた眉が一樹を見下す。むかっとして何か言い返そうとした彼に、痛みがズキンと走る。
「追加の鎮痛剤を用意するから」
「いいよ!このくらい慣れてる!!」
強情にも言い張った。バカね、痛みは我慢するものじゃないのよ…この国の治療はね。少しだけ醒めたような言い方。ネームプレートにはR.SHINDOの文字。ああそうだった、新堂梨香だ。この女ってたしか。
「痛みに慣れたなんて、悲しいこと言わないでよ」
ほんの小さな呟きは、どんな音でも拾う今の一樹の耳にはしっかりと届いた。そのあとの罵声ももちろんだけれど。
「あのねえ!!あんたがさっさと寝てくれないと、あたしは不眠不休記録を更新しちゃうでしょう!?それでなくたってここでさんざんこき使われてるんだから!!」
「はん、下っ端は辛いねえ」
鎮痛剤を筋注(筋肉注射)にしてやる!!それも特大の針にしてやるから覚悟しときな!!彼女の声に肩をすくめようとして、一樹は激痛でうめいた。自分でもバカじゃないだろうかと。
あの手の温もりがあったからこそ、少しでも休めたんだろう。治療の合間にいつも感じるのは、酷い苦痛と他人が差し伸べるさりげない優しさ。
彼女の足音が聞こえなくなるほど遠ざかっても、また自分のところへと戻ってくるだろう。この辛さを少しでも癒してくれる為に。仕事とはいえ、赤の他人が想いを掛けてくれることへの安堵感に包まれ、一樹はそっと目を閉じた。
今のところ良性だろうと言われている、多発性の小さな腫瘍。それらは骨の内部にできるから、表面に穴を開けて掻き出すという作業を何度も行う。どんなに小さな傷口だろうが骨に傷をつけるわけだから、実際には骨折と同じだと説明を受けた。もともと骨組織ができているはずの場所が他のものに置き換わってしまって、ちょっとした負担で骨が折れる。異物であるはずの腫瘍を取り除き、人工骨や自家骨を注入する。
気が遠くなるほどの痛みを、一樹は黙って耐え続けた。簡易手術が終わらなければ患部の固定もできない。逆に…固定してもらえさえすれば。
発熱の続くふらふらの状態で、それでも彼は治療が終わるとすぐに帰ると言い出した。もとよりアメリカの病院では長居はできない。それは患者の為と言うよりも…。
「これが一応ここまでの請求書。正式なものは後日郵送されてくるからそのときに手続きして。保険会社との交渉は自分でやってよ?お大事に」
本来、研修医とは言え医者である彼女の役目でもないだろうに、梨香は数枚に渡る書類を一樹の前でひらつかせた。
「暇なんだな、あんた。医者のくせに」
むっとしてその書類をひったくろうとした一樹は、思い切り顔をしかめた。痛いだのなんだの、この女の前では二度と言うもんか。
その様子を含み笑いで見ていた梨香は、クリアファイルごと彼の手にそれを持たせる。
「痛みなんか、その金額見たら引っ込むから安心して」
いちいち言動がむかつくったら!薄い唇を噛み、梨香を睨みつけてから書類に目を落とす。さあっと血の気が引く、とはこういうときに言うのかも知れない。一樹は息を飲んだ。
「なん…だよこの金額!?どっかに小数点があるのか?どの桁から読めばいいんだよ!?」
もらった書類を斜めにしても透かしても、書き込んである費用は八千五百ドル。どこからどう読んでもそうにしか見えない。今なら日本円にして七十万円以上はするだろう。
「待てよ!病室にいさせてもらったのもたったの二日だろ!?」
「あー、それ手術費用入ってないから。後できっちり追加の請求行くと思うけど?」
払えるわけが…。言いかけて一樹は口をつぐんだ。文句を言うのはあたしにじゃないでしょう?とばかりに梨香が冷ややかに睨み返したからだ。
「だから、保険会社との交渉は自分でって」
保険なんか入れるわけがない。再発の可能性を常に持つ、これだけのハイリスクな患者が入るとすれば、その保険料だってバカにはできない。日本ならまず断られる。収入も安定しない自由業、クレジットカードだって作るのに苦労したくらいなのに。
「まさか、入ってないなんて言うんじゃないでしょうねえ!?」
「病人相手に怒鳴るなよ!!こっちの生活が落ち着いてからちゃんと入ろうと思ったんだ!!」
声を出すだけで傷に障る。ウォーリーズの仕事を切られないように、シンシアたちとのバンドにはトラを雇った。もちろんギャラは一樹持ちだ。その支払いと生活費と、学費の残りを計算してあと払えるとしたら…。頭を抱えたくてもこの腕じゃ無理。はあああ、とため息しか出てこない。
日本に残してきた少しばかりの蓄えを、事務所経由で送ってもらうか。そこだって経営は厳しいから、三年近くは継続した仕事を入れないつもりの一樹に、余分な金は出してはくれないだろう。彼名義のグループがあるわけでもないから、印税なんてないし。
文字通り青くなって考え込む一樹に、梨香はさらりとこう口にした。
「お姉さんにお願いすればいいじゃない。自費で治療費払うくらい何てことないでしょう?」
一樹の表情が凍る。なぜここでいきなり、姉の名が出てくるんだろう?梨香が視線を外に向ける。
「マリコタカハシのボストン公演。ここの病棟にもポスターが貼ってあるわよ。来るんでしょう?もうすぐ」
高橋なんて名字、ありふれてるだろう!?なぜ…。彼の声は震えていたかも知れない。まさか、もう連絡が行っていたりでもしたら。
「そうねえ、緊急連絡先が彼女になっていたから。支払いが滞ればボストンで一番愛されている日本人の一人、マリコに病院から直接……」
「必ず自分で払う!!だから絶対に言わないでくれよ!!」
みんな知ってるとでも言うのか?マリコの弟だとわかって治療していたとでも。泣き出しそうな顔をしていたのかも知れない。ふらつく一樹を、思いのほか優しげに梨香は支えた。
「姉弟なんでしょう?素直に頼ればいいのに。それが…家族じゃないの?」
家族なんかじゃない、そう言ってしまいそうで唇を噛む。家族だから…だから何だ。過ごせなかった時間と寄り添えなかった心は、もう元には戻らない。いくら姉が今さら家族ごっこをしたいと必死になろうとも。
「これ以上、借りを作りたくないんだ」
呟く一樹に、梨香は微かに笑った。ちっちゃいプライド、と。頬がかっと熱くなる。
「何も知らないくせに!!」
「知るわけがないわ。有名ご一家のお家事情なんて。ただ、病院は慈善事業とは違うから、払うものはどこからでもいいから払ってもらう、それだけよ」
「…だったら、放って置いてくれれば良かったんだ!治療なんかしないで、転がってるおれをそのまま見下してれば良かっただろう!?」
冷ややかな梨香の視線。怒りをこらえたかのように静かに諭す。
「こちらに来てすぐに専門医にかかること。そう言われてきたんでしょう、違う?ここまで酷くなるほど放って置いたのはあなた自身。自己管理もできないくせに威張るんじゃないわよ。自分の身は自分で守る、それができない人がアメリカで暮らせると思ってるの?日本じゃないのよここは」
うつむいた一樹がそっと何かを呟く。自由の利く右手でそっとまぶたを押さえるフリをした。それは、にじむ涙を隠す為に。
「聞こえないわよ。はっきり言ったら?男でしょう!?」
苛立つように梨香は言葉を叩きつけた。それは家族を置いて一人異国で働く彼女の不安を、一樹へと代わりにぶつけるかのように。
「……怖かったんだ」
「えっ!?」
「今度こそ本当に、おれからラッパが取り上げられるんじゃないかって。もう二度と吹けないんじゃないかって、怖くなったんだ!!」
顔を上げた一樹の頬に光るもの。泣くまいとこらえていたのに。不意に彼は、腕を伸ばした梨香から頭を引き寄せられ、ぐいと抱きしめられていた。
(つづく)
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