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お馬鹿さん ~How Insensitive

#14



遠くで聞こえるのは、ロマーノの低く柔らかな声。普段感情をあらげたりは決してしない彼が、大声で一樹の名を呼ぶ。


…わからないよ、何て言ってんのかなんて。誰か助けて、痛い。痛い!…


小さな子どもが転んだ怪我をかばうように、一樹は身体を丸めてうずくまるばかり。声さえも出ない。自分の身に何が起こったのかさえも全く理解できないままで。

病院へ連れて行こう、という言葉をようやく捉えた彼は、「……ケース……」という単語をようやく口にした。


「どうしたんだ、カズ!ケース?ケースが何だ!!」


足音が増える。これ以上ことを大きくしたくなんかない。たいしたことじゃないのに、いつものことなのに、すぐ治まるから放って置いてくれ!

しかし、一樹のボキャブラリーでは到底そこまで言うことはできず、必死の思いで彼は目をうっすらと開けた。額に冷や汗をかいていることに、それまで自分でも気づいてなかった。

それほどの痛み。今までの鈍い重たさとは全く違う、刺すような。


「in my trumpet case …『Medical History of me』!」


知っている英単語を並べる。ああそうだ、主治医の大河原はこう言ってたんだ。『これが君の治療歴になるから、新しい病院に持って行くんだよ』と。


新しい病院。あまりぱっとしないはずの大河原でさえ留学していたことがあるという、バークリーから一番近い専門科を擁する病院の<ボストン総合病院・BGH>。

もしこの痛みがおれから音楽を取り上げてしまうものならば…。それに怯え、どうしても踏み出すことのできなかった治療の継続。走りきれるものなら、逃げ切れるのなら、頼むから見逃してくれ!


長身の彼を抱き上げる力強い誰かの腕。わずかな振動でも響く刺激に、一樹は唇を噛みしめた。とにかく救急へ運ぼうという途切れ途切れの会話が耳に入る。

ここから救急車を呼ぶより、誰かの車で運んだ方がよっぽど早い。



イヤだ、イヤだ!病院なんか嫌いだ!!



それでも同じ見も知らぬ場所に連れて行かれるのなら、少しでも大河原の用意してくれたこの書類が通じるところの方がいい。

これまで繰り返された負担の大きな検査を、こんなところに来てまで受けたくなんかない。


乗り降りのたびに激痛が走るくらいならと、ふらつく足で立ち上がる。否応なしに病院の救急室へと連れて行かれると、驚くほどの患者たちがそこにはいた。




咳の音とひっきりなしのしゃべり声。どこが救急?一樹の朦朧とした意識でさえも疑問に思うほどの軽症者たち。

近づいてきた受付の女性は、ともかく列の一番後ろに並ぶよう指示してきた。


「冗談じゃない!彼のこの様子が見えないのか!?」


さすがの温厚なロマーノも声を荒げる。


「みな同じ条件で来ているんだから。とにかく順番を待って、それからドクターの診療の指示に従って」


「酷く痛がっているんだ!!すぐに診てくれないか!?」


付き添ってくれた事務員も食ってかかるように彼女に迫る。


「だから、言ったようにドクターに訊いてみないと。それとも、専門科の予約を今から取る?空きがあればその方が早いか…」


そんな呑気な!!誰もが悔しさに唇を噛む。彼らはアメリカ人であり、病院のシステムはわかりすぎるほどわかっているというのに。


簡単に言えば、かかりつけ医に予約を入れるか今日のように救急に飛び込むか。救急は予約がなくても診察を断ることができない為、本当に急病の人以外にもかかりつけ医を持てない階層の人たちも利用することが多い。

重症でないと受付で判断されれば、何時間待たされることか。

痛みだけを訴えている一樹のような場合、そして…アジアの青年であるという見た目で後回しにされるのであれば。



彼は思いきって拙い英語で訴えた。痛みが酷いこと、手元には「病歴証明書」があるから医師に診せて欲しいことを。


「わかったわ。あとでドクターに渡しておくから」


受付のくだんの女性が、書類をひょいと取り上げてさらりとかわそうとした。


待ってくれ!そこには大事なことがたくさん書かれているんだ!もし…もしこの痛みが再発によるものだったら。治療の遅れが、二度と吹けなくなることにつながりでもしたら!

今まで怖さのあまり、病院に足を向けることもできなかった自分を責めつつ、一樹は精いっぱいの声を張り上げた。


「今開けてくれ!内容を確認して、今すぐに医師に伝えてくれ!!あなた自身がこの場で!!」


ふらりと傾ぐ身体を、ロマーノが支える。

ああそうさ、ここはアメリカ。希望を通したければ自らが強く主張しなければならないんだ。


患者本人の剣幕にたじろいだ女性は、それほど言うのならとしぶしぶ封を開ける。医療スタッフとはいえ、専門医でも何でもない彼女でさえ、tumor(腫瘍)operations(手術)recurrence(再発)と並ぶ単語に顔色を変えた。




現金なもので、すぐにストレッチャーが用意され、処置室へと運ばれる。並び疲れた大勢の患者たちの脇を通り抜けるようにして。

一樹はもう何も考えることなどできず、左肘を押さえて堅く目をつぶった。頼む、頼むからもう一度吹かせてくれ!これでバッド・エンドだなんてかんべんしてくれ!





付き添ってくれたロマーノらと離され、一樹はひとり、救急処置室へと運び込まれた。大嫌いな病院。消毒液のにおいと慌ただしい足音。何一つわからない難しい単語が飛び交う会話。こんなところはイヤだ!!

聴覚だけが鋭敏に周りの音を拾いまくる。これほど痛いのならいっそのこと意識さえも失えてしまえばいいのに。


荒い息を繰り返す一樹の腕を、不意にスタッフはぐいと広げようとした。我慢しきれず日本語で叫んでしまう。


「痛い!!触るな!!おれに触るな!!」


早口でまくし立てる治療者らに、一樹は「don't touch me!」と怒鳴り直す。

医者が何をしたいのかわからない!何を言ってるか聞き取れない!助けて!!助けて!!誰か!!



「いい加減にして!!あんた男でしょうが。そのくらい我慢しなさいよ!?」


日本語?驚いて口をつぐんだ一樹の腕が、再びぐっと引っ張られる。


「あうっ!」


「CTでも撮って診なきゃ、どんな状態かもわからないでしょう?遠慮なく撮らせてもらうわよ!!そこで痛いでも何でも叫んでなさい。大の男が泣いたって誰にも言いやしないから!!」


やっとの事で目を開けた一樹が見たのは、一人の小柄な日本人女性だった。髪をベリーショートに刈り上げ、金髪に近い色で染めている。しかし、そのはっきりとした日本語の発音と意志の強い焦げ茶色の瞳が、彼女の国籍を物語っていた。

半袖の白衣姿。医師なんだろうか。まだとても若いように見えるけれど…。


その先を深く考える余裕もなく、一樹の服の袖はまくり上げられた。引っかかりのある部分ははさみで遠慮なく切り取られ、片腕が晒される。治療と検査の跡と、無数の注射痕。国内で仕事をしていたときには、薬物に手を染めたのかと間違えられたこともあるほど。


それは彼が闘い続け、生き抜いてきたあかしであると同時に、苦しんできた年月の長さを物語っていた。


だが、救急救命の現場で働く医師らには、ある意味見慣れたものであるのかも知れない。

無意識に暴れる一樹を押さえ、機械をセッティングする。容赦などない。

にじんでくる涙など、意地でもこの若い女に見せたくはなかった。歯を噛みしめる一樹に、撮影が終わったからと点滴の針が刺される。痛みは治まるどころか酷さを増すばかり。


「ごめんねえ。きちんとした診断が下るまでは鎮痛剤も打てなくて」


さばさばとした口調で、さっきの女医師が話しかける。このまま整形に運ぶから。そんな声も聞こえる。

皮肉にも検査を終えた安堵感からか、一樹の意識は遠のいていった。






「骨折!?んな訳ないだろ?」


老練な医師の英語を隣で訳しながら一樹に伝えていた女性は、その言葉に彼をギロッと睨んだ。


「何よ?あたしの通訳があてにならないとでも言うわけ!?ケンカ売る気じゃないでしょうね!」


痛み止めが効いてきたのか、ようやく声が出せるようになった一樹は、負けん気を発揮して彼女を睨み返した。


「言っておきますけどね、付き添いのお偉いさん方には帰っていただいたから。ここであたしの言うことを聞いておかないと、BGH特有の早口英語でまくし立てられて終わりですからね!!」


「帰ったって、何でだよ!?」


入院だからに決まってるでしょう!?でかい声の応酬に、物静かな初老の医師は苦笑いを見せた。


「日本人はしとやかと聞いていたが。リカだけが特別というわけでもなさそうだね」


それくらいの英語は聞き取れる。一樹はむっとした顔をかえし、リカと呼ばれた女はバツが悪そうに黙った。


「君の担当は、このレジエントが行うから。同じ日本人の方が何かと安心だろう、君も」


「レジエント?」


聞き慣れない言葉に、思わず同じように繰り返す。研修医ってことよ、女はささやく。それからおもむろに居住まいを正すと、彼女は少々威厳ありげな声で名乗った。


「BGH(ボストン総合病院)整形外科研修医の新堂梨香です。よろしくね、高橋さん」


「こっちの人?」


現地で女だてらにこれだけ大きな病院に勤めているというのか。驚いた顔の一樹に「貧乏留学生よ、あんたと同じで」と小声でさらに睨まれた。


「ただしこっちは日本の病院から派遣されてる身で、呑気な学生とは訳が違うけど。東京に旦那と最愛の可愛い息子を残してきてるんだから。日本に帰ったら本気で働かなきゃ」


「子どもを残して?」


ほんの一瞬、一樹に苦い思いが通り過ぎる。ああ、でも彼女みたいな医師にはきっと必要なんだろう。無言でさらに睨み返され、言葉を失う。



そんなことより……。



「ねえ、さっき確か骨折って言ったよね?おれ、どこにもぶつけたりしてないし転んでもないし」


再発なのか、とても訊くことなんかできない。一気に不安げな表情に戻った一樹に、梨香はCTのデータを指し示した。


「まあ、早い話が疲労骨折ってヤツよ」


よほど彼がげげんそうな顔をしたのだろう。梨香は少しだけ苦笑すると、骨がスカスカだったってこと、と付け加えた。


「多発性の小さな腫瘍が見られたわ。そのせいでもろくなった骨が折れたんでしょう。何でもっと早く受診しなかったの?」


責める口調ではなかった。彼女の視線が、大河原の作った病歴証明書に向けられている。

それって…。言いかけて唇を噛みしめる一樹の心情を察したのか、検査してみなきゃたちのいいものかどうか何てわかんないわよ、とわざと乱暴に彼女は言い返した。

少しばかり和らいだ瞳で。


「いつ退院できるの?いつ治るの?ねえ、ラッパは吹いていいんでしょう?」


「ラッパ?」


トランペット専攻なんだ、バークリーの。一樹が呟く。


「骨折れてるのに、吹けるとでも思ってるの?」


「右手は何ともない!!」


あんたねえ!!再び声を大きくし始めた二人に、おそらく指導医と思われる先輩医師は笑いながら仲裁に入った。


「まあ、今夜は取り敢えず宿泊していってはくれませんか。お客様。こちらのサーヴィスはボストンでもなかなかのものと評判でしてねえ」


彼の発言に、周りの看護師たちはくすくす笑い出し、二人の日本人は…決まり悪げに顔を赤らめた。



(つづく)


北川圭 Copyright© 2009-2010  keikitagawa All Rights Reserved

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