命ある限り ~As long as I live
#13
昼間はプライヴェートレッスンに学科的な授業。おまけの語学から音楽史まで。学士を取れと父から言われてしまった以上、勉強も止めるわけには行かなかった。
それに、ブライアンに睨まれながらの学内バンドのトラ。どうしても現代曲をやるとなればパワーも必要だ。一樹のハイノートは重宝された。
夜は週二でライブハウスの生演奏。平日で殆どが日本人の観光客で占められる。いやそこには他のアジアンも多く含まれているかも知れない。
マリコの名を出さなくたって、一目で日本人とわかる一樹が出て行けば歓声が上がる。救いは、日本での活躍を知る者などがパックツアーのオプションについたライブハウス巡りなんかに参加してないことだけ。
リズム隊は若く、最初はもちろん好戦的だった。しかし一樹は音でねじ伏せた。ここではいいプレイをするものが勝ちだ。なんてシンプルでなんて生きやすい。余計な名前も要らないカズとして、彼はボストンの夜に二ステージをこなし続けた。
身体はへとへとで家に帰れば倒れこむ。けれど頭の中を音楽が鳴り続けている状態。全く神経は高ぶったままで休まらない。これはきっと、ライブというものを体感した者だけが知る独特の感覚だろう。
スタンダードな曲がエンドレスで流れ続ける。それも一樹にしか聴こえない音で。ちゃんとした構成があるわけではないから、ドラムがピアノが…ベースが引っかけを入れてくれなきゃ終われない。
深くため息をついた一樹の視界が、携帯の点滅した明かりを捉える。メール…か。
『聡子です。今日から真理子は演奏会の為に渡米しました。私も……』
続きを読もうとしたまま、彼はつかの間の睡魔に引きずり込まれていた。
「いてっ」
反射的に左腕を押さえる。昨夜着替えもせずに眠ってしまったせいだろう。身体の節々が痛む。日本から処方された薬はストックも切れ、調子がいいからと放置状態。帰国したら大河原に散々叱られることだろう。
…いいかい?向こうに着いたらすぐさま、この紹介状を持って病院に…
その病院が、めちゃくちゃ敷居が高いんじゃん。掛かり方もわからなければシステムも知らない。医療費がえらくかかるということだけは、こちらの留学生はみな口にする。第一、その暇さえ作れない。
再発なんかしない。したらしたで、覚悟を決めてやるさ。
頭ではそんな風に思えても、いつしか澱のようにたまってゆく不安。それが無意識に一樹を現地の病院から遠ざけていたのかも知れない。
やれるうちにいくらでも吹きたい。偽らない彼の想い。けれどウォーリーズに着く頃には、彼の腕もかなり限界に近いほど疲労していた。
「何?腱鞘炎?」
すっかり仲良くなったピアノのシンシアが、気さくに声を掛ける。本当だったら深刻な話だ、バーカ。すかさずドラムのザックが突っ込む。サイモンは無言。だいたいベーシストは寡黙か呆れるほど饒舌かと相場は決まっている。
「肘も腱鞘炎になるの?」
この頃は日常会話にもさほど困らなくなった一樹は、苦笑いしながら腕を抱えていた。
「あったりまえじゃない!まあ、アタシは肘打ちしないけど」
ここのピアノでフリー・ジャズは止めてくれ。後ろの方からオーナーのフィリスの声が響く。
「顔色が悪いな。ちゃんと食っているのか?」
父親ほども歳の離れたオーナーは、心配そうに一樹へと声を掛ける。
「酒かタバコか女か。どれか止めれば元気になるんじゃね?」
メンバーの戯れ言に、そんなんじゃねえよ、と言い返す。全くの禁欲生活だっての?あれだけ飲むくせに?シンシアの追求は止まらない。まあどれも程ほどにね。一樹も笑って答える。
「今日はシンシアのオリジナルを聴かせてくれるんだったろう?」
その言葉に彼女は慌てて自作曲のパート譜を配り出す。書いてあるのはもちろんテーマのみ。しかしこのテーマがまた、凝りに凝っている。
「げー。なんだこの真っ黒な譜面はよ。だからキーボーティストの書く曲は嫌いなんだよ」
ザックは、わざわざサイモンの分をのぞき込みながら文句を並べた。あんたは叩くだけでしょ!?シンシアが騒ぐ。
「へ…え。かっこいいな、このメロ」
一樹は音を追いながら思わず呟いた。でしょう?彼女の満面の笑み。
「曲の題名は?」
……live for the moment……
「…今を、生きる?」
シンシアが指さした先には、そこだけ手書きの曲名が書かれていた。刹那的になのか、それとも今この瞬間を大事に生きろなのか。
「意味深でしょ?どう取ってもらってもいいわ」
不協和な#13が含まれたコードで始まったその曲は、確かに音を追うだけでも大変な数の音符と変則的なリズムに手こずらされた。
しかし、一樹の正確なトランペットがそれをリードする。誰もが全くの初見。そんなのいつものことだ。
六十小節を超える長いテーマのあと、ラッパがソロを取ろうとした瞬間、一樹は愛用のバックを口元から離してしまった。左手にはプロテクターがくくりつけられてある。手を離しても楽器は落ちないが、彼はそのまま左の肘を押さえて苦痛に顔をしかめた。
音が止まる。
誰もが声を掛けるのさえためらわれた。が、しばらく荒い息を繰り返していた一樹は、顔を上げると「ごめん、もう一回!」と苦笑いした。
「ふざけんなー!!このめんどくさいテーマを二度もやれっつうんかよ!?」
声を上げたのはまたもやザック。シンシアは懲りずに、あんたは関係ないでしょう!?と怒鳴った。
『live for the moment』
その言葉の響きが気に入って、一樹は大学構内でも思わず呟いていた。
今が生きられればいい。その先を考えれば考えるほど、足元に深い闇が広がる。それよりも今、この音が出せればいい。
刹那的に…それでもいい。
ふと、読みかけてそのままにしてあった聡子のメールを思い出す。このシチュエーションで思い出すか、普通?自分でも感じる苦い味。
一度開いてしまったので、他の友人らの英文メールに押されて埋もれてしまっている。律儀にフォルダ分けなどしていないから、全部メインに突っ込んだまま。
ようやく日本語の文字を探し出して先を急ぐ。姉ちゃんが渡米、最初はニューヨークでの演奏会、か。ヨーロッパを回り…ボストンへ!?
「日程が合えば、私も休暇を取って真理子と合流したいと思っています。一樹くんの予定を教えてくださいね」
大げさでなく血の気が引いた。こんな大事なメールを放置…。おれってどこまで。あちゃあ。
それでも催促一つ寄越さない聡子に、申し訳なさと後悔と、少しばかりの距離を感じた。身勝手な言い分なんだとは十分わかってはいたけれど。
時差がどうだろうと直電をくれたっていいのに。一樹の着信音はメイナード・ファーガソン。特段ファンというわけじゃなく、他の奴にノリで入れられた。授業中に鳴りでもしたらつまみ出されるから、いつだってバイブにしてあるのに。
こちらから掛けようとして、それこそ日本が深夜だということに思い至った。せっかく日本へと出向いて、自分の口から仕事が決まったことを伝えようと思ったのに。いや、かえってステージを見て貰えるかも。
本来なら高揚するはずの気持ちが、少しずつ萎えてくる。逢いたいのか逢いたくないのか。もちろん逢いたい。彼女の顔を見てほっとして癒されたい。寄りかかりたい。人にはとても言えないけれど、そっと甘えたい。嘘ではないのに気が重かった。
午後のロマーノ先生のレッスンに備えて、少しは何か食っておかなくちゃ。食い過ぎたら音など出ない。その辺の見極めもラッパ吹きなら自然に備わっている。
けれど、一樹はもう何も口にしたくなかった。せめて水だけでも。それすらもうっとうしい。
いくら若くても、連日のレッスンとステージが疲れをためていたのか。だったらなおさら体力をつける為にも、しっかりと栄養を取らなくちゃな。
聡子に逢う前に、もっと自分の足で立っている自信をつけたかった。
もっと…もっと。半ば癖になったかのように一樹は左腕の肘を抱え込むと、構内のベンチに座り込んだ。
ロマーノ先生の課題はいつもシンプルだ。そりゃそうだ。このクラスだけはテストアウトを認めてくれない。一樹は最近ではめったに吹かないスタンダードを前に、指慣らしを始めた。
「モリタート」あるいは「マック・ザ・ナイフ」の名の方が有名かも知れない。元々はドイツのミュージカル曲であったというその曲は、エラ・フィッツジェラルドの明るい歌声がよく似合う。
メロディは単純。進行も易しい。それをどれだけ丁寧に吹けるか。講師であるロマーノはいつも何も言わずに、穏やかに一樹の演奏を見つめている。時間に追われずゆっくりと一音ずつを確かめながら吹くことの、贅沢さ。
それは一樹にも十分わかっていた。この時の大切さをも。でもだからこそ、live for the momentに惹かれるのかも知れない。
めったに時間に遅れないロマーノは、まだ姿を見せなかった。
一度マウスピースから唇を離し、一樹はたっぷりと息を吸い込もうとした。
「!?」
最初、何が起きたのか。本人でさえわからなかった。息ができない。時が凍り付き、身動きが取れない。
次の瞬間、彼の銀色のトランペットは床に落ち、酷く音を立てた。思わず一樹がプロテクターをむしり取ったからだ。
そのまま肘を押さえて…うずくまる程度では済まなかった。呼吸さえコントロールできないほどの痛みに襲われて、彼は床に崩れ落ちた。
(つづく)
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