ふたりでお茶を ~Tea For Two
#12
「カズ?カズったら!!ちょっとあんた!聞こえてんの!?」
えっ?尚子の尖った声にようやく一樹は返事をした。物思いにふけるというより実感がわかなかったのだ。
昼下がりの大学構内は、ランチを手軽にファストフードで済ます者、友人とのおしゃべりに興じる者、そして昼飯もそこそこに即席のセッションを始める者らの音であふれかえっていた。
「そんなに仕事が決まったのが嬉しいんだ」
尚子はにやにやと一樹の顔をのぞき込んだ。言い当てられたとも違う不快感でむっとする。
「当たり前ですよ、尚子ちゃん!あの老舗のウォーリーズでいくら平日とは言えレギュラーが決まったんですよ!?カズが喜ぶのも当然です。なんか全然関係ないボクらだってこんなに嬉しいのに」
洋輔はかじりかけのチキンバーガーをそっと脇に置くと、本人に代わって力説し始めた。
「いいですか?あそこの客筋はみんな年季の入ったジャズファンばかりだし、オーナーのフィリスだって、ぽっと出の新人をレギュラーになんて普通言わないタイプでしょう?それだけカズの実力が認められたんですよ」
洋輔と尚子が言い合うのを、一樹はやっぱり現実感のないままにぼうっと見ていた。
確かにレギュラーは決まった。火・水の客入りが一番見込めない、さらに早い時間帯だ。おまけにリズム隊は同じように、若くてギャラが少なくても済みそうな連中ばかりらしい。初顔合わせの時間も取れないだろう。来週、ほぼぶっつけ本番のステージが待っている。
それでも…自分の力で仕事を取ったことには違いない。あれだけの客をあれだけ沸かせたのだ。すべておれ自身の力のはずだ。ブライアンが叫んだことなんか、ひとかけだって関係ない。
自分に必死に言い聞かす。この街で知らないヤツなんかいないと言われるマリコタカハシ。愛くるしさと反するような激しい演奏と卓越した技術と。
マリコの弟だからじゃない。あのオーナーがそんなことで客を呼ぼうとするはずがない。何度も何度も、自分を説得する。
それでも一樹には、店の全員が沈黙したあの一瞬が忘れられないのだ。
…ああ、やっぱり。だからね。
ここでの敵は、父親であり指揮者の孝一郎ではなく、愛してやまないヴァイオリニストの姉なのか。ぬぐいきれない不快感の正体はおそらくこれ。どうしても認めたくなくて一樹は押し黙った。
「ねえねえ、彼女にはもうメルった?」
あっけらかんと尚子が訊く。思いにとらわれていた一樹はつい、彼女って?と答えてしまった。
「あんたバカ?彼女っつたら彼女でしょう!日本に残してきた例の彼女!!あんまりほったらかしておくとマズいよ?何で一番最初に教えてくれなかったのよキーッってさ」
女の子って、順番とか最初にとかにこだわるもんなんだから。尚子は指を立てて一樹に詰め寄った。
「か、彼女は…聡子さんはそんな人じゃないよ」
しどろもどろの彼に、尚子の追求は止まらない。
「何?まださん付け?敬語?あり得なくない?付き合ってどれくらい経つのよ!?」
年上なんだから、しょうがないだろっ!一樹はとうとうブンむくれた。今回の仕事が決まったことどころじゃない。忙しさにかまけてろくにメールの返信さえもしていないからだ。
それでも聡子は責めることなく、淡々と日常の様子を送って寄越した。
そもそも彼女との出会いは、姉の真理子が強引に仕組んだこと。いつまでもふらふらしている弟を見かねて、逢ってみたら?とけしかけたのだ。
イヤだと強硬に突っぱねた。何度も断った。それなのに場も空気も読めない姉は平気だ。
「パリでね、一番のお友達だったのよ。同じヴァイオリン奏者の友達なんてなかなかできないじゃない?すごく嬉しくてね」
相手の身にもなってやれよ。高橋真理子クラスの天才奏者と比べられて、どれだけしんどかったことか。逢う前から一樹は彼女に深く同情していた。おまけにこのド天然から親友認定かよ、かわいそうに。
日本で姉と聡子が再会したとき、彼女を気に入ってしまったのが叔母の伸子だった。控えめでいて芯のある聡明な娘さんだと。そしてヴァイオリンの腕だって姉と比べることが無謀なだけで、彼女だってそこそこの弾き手だ。
叔母はさっさと自分のメソッド本部を手伝ってもらうことにして、後継者ができたと浮かれている。
そんな聡子とおれが付き合えるわけがない。いくら言っても、自分の思いつきが一番だと信じている宇宙人に通用するはずもなかった。
「あのね、一樹みたいな甘えんぼさんには、聡子のようなしっかりとした人が一番いいの!!わかる?別に今すぐ婚約しろとか言ってるんじゃないのよ?」
当たり前だ!逢ったこともないのに。
楽しそうに聡子の長所を並べ立てる姉に、一樹は本心を言ってしまいたい衝動に何度も駆られた。
口に出してはいけない。言えるはずもない。おれには未来を語れるだけの時間があるかどうかもわからないのに…とは。悲しませる人をこれ以上増やしたくなんかない。
けれどそれを姉に告げて、今の僅かながらもささやかな家族の幸せを壊すだけの勇気も、そのときの一樹にはなかった。
小洒落たビストロで初めて聡子に逢ったとき、一番はしゃいでいたのはもちろん姉だった。真理子のマシンガントークをひたすら聞かされ続けた。
ため息しか出ない一樹は、そっと目の前の彼女を見た。
真理子よりはいくぶん背が高く、そのせいか大人びて見えた。いや、落ち着いているというんだろうね。こっちの方が普通だ。姉ちゃんが異常なんだから。
細面の顔は穏やかに微笑み、ストレートの長い髪が清楚さを伝えていた。姉の話を楽しそうに聞いていたかと思うと、不意に一樹の方へと視線を向けた。
くすっ。目だけが気持ちを伝えている。真理子ったら本当にね。できるものならため息もつきたかったんだろう。
まるで共犯にでもなったかのような気持ちで、一樹はどきっとした。惹かれてはダメだ。彼女をおれの運命に巻き込むな。今までの行きずりの女たちとは訳が違う。
そう言い聞かせた。
懇意のシェフに呼ばれて姉が席を立った隙に、聡子は耳打ちをするように顔を寄せてきた。
「ねえ、家でもあんな感じなんですか?真理子って」
何を言われるのか緊張していた一樹は、その一言にはん、と小さく笑い声を立てた。
「全然変わんないっすよ。あのまんま。たぶんどこ行ってもああじゃないんですかね。よく言われるようにマエストロに気に入られてるんじゃなくて、みんな呆れてるのかも」
苦笑混じりにそう言うと、思わず二人で顔を見合わせて笑う。
戻ってきた真理子が、ねえねえ何話してたの?楽しいことなら教えて?と食い下がるのに、内緒だよバーカと言い返す。
結局ずっと三人で過ごした最初の出会いは、はた迷惑な姉のおかげで和やかな雰囲気に包まれた。
聡子は…違う。あの人とは。面影も話し方も身にまとうニュアンスも。何もかも違う。
ならば忘れられるかも知れないと、一樹の心のどこかが思ってしまった。過去の小さな棘のような想いと、将来への底知れぬ不安とを。刹那的に今だけと割り切って付き合うのも、ありかも知れないと。
それ以来、二人で逢うことも増えた。もっともその頃だって一樹は、孝一郎の顔色を伺いながらもスタジオの仕事もトラの仕事もがんがん入れていた。彼女は彼女で、本部を手伝いながら生徒も持って教えていた。
その合間を縫っての逢瀬。
幾度めかの店で、思い切って一樹は聡子に告げた。自分自身が抱えている病気のことを。さすがに余命がどれくらいなのかもわからないとまでは言えなかったけれど。
聡子は黙って聞いていたが、一樹が話し終えるとまっすぐに彼を見つめた。
「な、何?あの…だからさ、なかったことにするなら早いほうがいいかなと思って」
微笑んだままの聡子は、そっと呟いた。
「大丈夫。一樹くんはきっと大丈夫よ。そんな気がするの」
あのさ、おれの説明ちゃんと聞いてた?ド天然の友達はやっぱド天然か?思わず大きな声を出しかけて、あわてて息を飲み込んだ。
「…何が大丈夫なの?何も知らないくせに」
一樹は怒りたかったのかも知れない。無責任に励ますなと。知りもしないくせに、この救いようのない不安感と恐怖なんて、と。何で平然と笑ってられるんだよ。しょせん他人ごとだからだろ?毒づきたくなった。早くこの店を出て、道路ででもどこででもわめき散らしてやる。
「私はね、本当に何も知らない。一樹くんの辛さも怖さもわかってあげられない。でも知らないから、一人くらいは大丈夫って心から思っている人間がいてもいいのかなって。傲慢なのかな」
笑顔は絶えることがなかった。この人は確かにたおやかではかなげかも知れない。でも叔母が見抜いたとおり、本当は強いのかも知れない。
一樹は…その優しさに甘えた。
姉の示す愛情とも、両親の不器用な心遣いとも違う、人からの慈愛にすがりついた。これでいいはずがないと思いつつも。
渡米することを決めても、聡子には何も相談しなかった。待っていてくれとも、ついてきてくれとも言わなかった。二年になるか三年になるか。もっとかかるかも知れないし。うそぶく一樹を、聡子はそのまま受け入れた。反発したいだけのガキは、振り上げた拳の持って行き場をなくして…とまどった。
こんなふうに愛を伝えてくれる人はいなかった。もっと別の、もっと違う形の、もっと…。
黙り込んだ一樹に、尚子はとうとう笑い出した。
「ねえ、今からでも遅くないからさ。君のおかげで仕事が決まったよ、くらい書いて送ってやりなよ。ほんと、カズってもっとスマートだと思ってたけど、けっこう不器用だよねえ」
隣で洋輔が尚子の服を引っ張り続ける。言い過ぎですってば!ちょっと尚子ちゃん!
「…る」
へっ?一樹のあまりに力のない返答に、つるむのが嫌いなはずの日本人二人はまじまじと彼を見た。
「何?何て言ったんだか、お姉さんに言ってみな?」
「そのうち日本へ一度帰る、っつったんだよ。とんぼ返りでもいい。機内泊でもいい。ちゃんと面と向かって話したいなってさ」
忙しさにかまけて、というのは言い訳だったんだろうな。自問自答。本当は聡子に気持ちを伝えたら、声を聞いたら、すべてを投げ出して甘えてしまいそうだから。マリコの弟という重圧と、思うようにいかない大学でのレッスンから逃げ出してしまうだろうとわかっていたから。
自分の力で勝ち得た仕事…。今なら聡子にちゃんと向き合える。そんな気がした。一樹は、いったん出しかけた携帯をポケットにしまうと、高い異国の空を見上げた。
(つづく)
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