歌こそは君 ~Song Is You, The
#11
ウォーリーズのセッションナイトは既に始まっていた。三人のいかにも老練なリズム隊が、気のなさそうなリフを繰り返している。センターマイクに立つのは、本当に若い青年。いや、まだ十代かも知れない。
テナー・サックスが自信なさげに何度も同じフレーズを繰り返す。音はだんだんか細くなり、それでも気力だけで彼は立ち続けていた。観客のざわめきは決して演奏にではなく、自分たちの気ままな雑談に向けられている。
とうとう青年の音が止まる。
おざなりな拍手がぱらぱらと起こる。隣の洋輔は、と見ると他人事ではないという表情で顔を引きつらせていた。
「だから言ったでしょ。ここの客は容赦がないのよ。耳が肥えているし、たとえちょっとくらい名前が売れていたからってその日のプレイが良くなきゃ、すぐにでも引きずり下ろされるわ」
シェリルは、あーあ知らない、と呟くと、カンパリをぐいと空けた。
「いいの?最前列で応援に行かなくてさ」
一樹の笑いを含んだ声に、皆がステージを見やる。そこにいたのは真っ赤なシャツに黄色いパンツを履いた、ド派手なブライアンだった。冗談じゃないわよ!シェリルの尖った声。
どうやら彼は、このセッションの常連なのだろう。客席のあちこちからブライアンの名を呼ぶ声がする。それに余裕を見せて手を振りながら、彼はトランペットを構えた。
…そう言えば、ヤツの演奏をまともに聴くのは初めてだ…
一樹は自分の番のことさえも忘れて、興味津々といった顔でステージ上を見つめた。
ぱーんとハイノートを一発。さすがハウスバンドのリードを取るだけある。よっく出るなあ。そのあとの細かなパッセージもきらびやかだ。
こいつは聴かせ方を知っている。観客にどうアピールすればいいか、どう吹けば受けるか。聴きなじみのある巧みなフレーズに、複雑に吹いているように見せる音の配列。乗りやすいリズム。
正統派のビッグバンドなんかよりも、ちょっと軽めのリズムを入れて今時の音を鳴らせば、日本でなら十分食えるな。
まるで自分がプロデューサーにでもなったかのように、一樹はにやにやしながら彼の音を聞いていた。
「ちょっとはアがりなさいよ!それとも、あいつよりうまく吹く自信があるってこと?」
隣のシェリルの方がやきもきしている。一樹は微笑みかけた。
「うまくだなんて思っちゃいないよ。ただ、最近こんなふうに音を聴いてないなって。楽しくてさ」
強がりでも何でもなく、これは一樹の本心だった。彼にとってトランペットは文字通りの遊び道具。いつも一人きりでいた幼い頃の彼のそばには、必ずラッパがあった。音が鳴ればそれで満足。たとえどんな音楽でも。
ステージのブライアンは、ツーコーラス目にかかっていた。へえ、やるじゃん。リズム隊もワンセットでは見放さなかったらしい。
一樹がゆっくりと立ち上がる。周りは高音域で攻めまくるブライアンに歓声を上げていた。でもまあ、このセットが潮時だろうね。
一樹はこれ見よがしに袖に近づくと、自分の左手に楽器をセットした。吹きながらもブライアンが横目で彼を視界に入れる。どうだ、見たか。目がそう物語っていた。
その姿を見ながら、一樹は自分がどんどん冷静になっていくのを感じていた。
なぜおれは、この場に立つとこんなに落ち着くんだろう。ステージ上は何が起きるかわからない。緊迫感が溢れているというのに。
それよりも、吹けるというワクワクした気持ちの方が数倍まさっていた。早くどけろよ、ブライアン。そこはおれが立つ場所だ。
コーラスの終わりで、リズム隊があからさまなリフを繰り出す。代われと催促しているのだ。
ブライアンは片手を高く上げ、歓声に応えた。拍手は鳴りやまない。その中を同じトランペッターの日本人が登場する。
皆の表情が困惑に変わる。こいつは…誰だ?いつもそうだ。おれを見る目はどこへ行っても変わらない。
一樹は軽くリズムの三人にアイコンタクトを送る。どこの若造だ?冷ややかな視線。彼は真正面に向き直ると楽器を構えた。軽く振って合図を出すと四人で一斉にテーマへと入った。
決して高くはない音域。柔らかく素直に響かせる。新参者を物珍しげに見つめる観客は、まだ何も反応を見せない。腕を組み、難しい顔つきのヤツもいる。それでいいさ、初めはな。
トランペットのアドリブソロに入る。敢えてロートーンから攻めていった。レベル1で出会った学生たちの顔が浮かぶ。そして彼らの音が。
奇をてらわず、ペンタトニックのわかりやすい音。明らかに観客がとまどっている。こいつはこんなレベルで何をするつもりだ、と。
一樹は丁寧にゆっくりと音を連ね、そこにわずかにブルーがかった響きを混ぜていった。ピアノがすかさず反応した。おもしれえ、一樹は心の中でにやっとした。
このピアニストはわかっているのだ。一樹がそろそろ仕掛け始めたことを。
鳴らされるコードの複雑な構成音に一瞬加えられた、別のキー。一樹は聴き逃さなかった。それを手がかりに転調する。そのままモードに突っ込む。ベースが食いついてきた。
奏者同士だけにわかる微妙な駆け引き。客に気づかれない程度にほんの少しずつコードをずらしてゆく。
一樹の意図を読んだドラムが、それまでの十六のもたったシャッフルをわざとイーブンに修整する。リズムはだんだんとタイトなものへと変わりゆき、そして…。
何の合図もなしに、それまでの平凡なスタンダードから一気に曲は超ハイスピードの「ラウンド・ミッドナイト」へと変わった。裏でそっと一樹が、そしてピアノが、この曲のコード進行を指し示していたのだ。
一瞬何が起こったのかとまどいを見せた観客は、事態を飲み込んでわあっと総立ちになった。
一樹のラッパソロが攻めに攻める。それをあおるようなドラム。ふっとブレスのために間が開くのを逃さず、ピアノがソロを横取りする。センターで苦笑いの一樹に、ベテランのピアニストはウインクを投げ涼しい顔だ。
三十二小節きっちりソロを取ると、あごをしゃくって返してくる。当然のように受け取って軽々とアドリブを決めた一樹は、今度はわざと大きめにブレスをする。
ベースが鮮やかにメロディアスな音を奏で始める。もう一度歓声が上がる。
音のやりとりが繰り返され、一樹は自分のフレーズに少しずつ元曲の要素を戻していく。
もちろん、それを聴き逃すようなリズム隊ではない。
軽くラッパを振って合図を出す一樹に合わせ、四人はきれいに元のスタンダードのテーマに入った。
もはや歓声は止まらない。
呆然と眺めていたブライアンは、ウソだろう…と呟いた。これはセッションじゃない。完成されたステージだ。
シェリルと二人の日本人は…天井を仰いだ。思いは同じだったのだろう。
……カズ、やりすぎだってば……
もう一度繰り返されるテーマを、一樹はオクターブ上できれいに響かせた。ドラムがお約束のシメのリズムを叩く。本来なら延々と続くはずのセッションは、ぴったりと合わさった形でエンディングを迎えた。
観客のスタンディング・オベーションとともに、センターの一樹にリズム隊のベテランたちが集まる。もみくちゃにされた彼ははにかむように笑っている。
口々に名前を訊かれる。called kazu ! 彼は何度も叫んだ。
アンコールの声がかかるのを軽く手を振って断り、一樹は洋輔たちの席へと戻っていった。手前に置いてあったジンライムをぐいとあおる。
「カズ…ちょっとあんたねえ…」
呆れ顔の三人に、いやあ飲んで吹くと自制が利かなくってさあと一樹はうそぶいた。シェリルが吹き出したのを合図にしたかのように、四人はこらえきれずに笑い出した。
見ず知らずの客たちが、ヘイ!カズ!と気軽に声を掛ける。
やっぱりこの空間は…おれの居場所。ラッパさえあればおれは生きてゆける。
心から大きく息を吸い込んで、一樹はざわめきを味わった。自分だけの力で勝ち得たという感覚が、ここに来てからの違和感を払拭させてくれるかのように。
しかしそのとき、一人青い顔で震えていたブライアンが急に立ち上がった。シェリルがいち早く気づき、声を掛ける。
「お互い、いいプレイをしたんだから。一緒に飲みましょうよ」
そう言って差し出したカクテルを手で払い、ブライアンは大声を出した。
「何がカズだ!こいつがこれだけ吹けるのも当たり前だ!みんな聞いてくれ!! こいつはな、こんな素人みたいな顔をして、あのマリコの弟だぜ!?シティフィルの常連、ヴァイオリンの天才少女、タカハシマリコの弟だ!!みんな騙されるな!!」
広いフロアが一瞬にして静まりかえった。
マリコの名は、ボストンではあまりに知れ渡っている。一樹の顔が凍り付く。違う。さっきの演奏と姉と何の関係があるんだ?皆が受け入れてくれたのは、おれの吹くラッパの力。そうだろう!?
叫びたかった。でも、一言だって言葉にはならなかった。
ああ、やっぱり。そう思われるのか…ここでも。おれの居場所は、またなくなるのか。
身動きすらできなくなった一樹とブライアンの後ろから、低く柔らかい声が響いた。
「さあて、タカハシマリコというジャズミュージシャンなどいたかな、ブライアン」
声を掛けられたブライアンは振り返って絶句した。そこには、小柄だが肉付きの良い中年の男が、穏やかに微笑んでいた。誰もが声を失い、その男を見つめている。一樹は初めて見る顔にとまどった。
…誰だ?このオヤジは…
「初めましてだな、カズ。いいプレイをありがとう。ここのオーナーのフィリスだ。ちょっと話がしたいんだが、いいかな?」
あくまでも物静かなオーナーの言葉に、一樹は息を飲んだ。
(つづく)
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