夜も昼も ~Night And Day
#10
プライヴェート・レッスンルームでロマーノと向き合う。一樹は丁寧に息を吹き込み、低音からゆっくりとトランペットを鳴らしていった。
目をつぶり、その響きを一つ一つ確かめるように倍音を聴き取ってゆく。
こんなふうに基礎練習を行うことすら、仕事に追われているときにはとてもやれなかった。慌ただしくリハに駆け込み、アンプからさまざまな楽器の音ががなり立てる中で、最低限のウォーミングアップができればラッキー。大抵はケースからペットを取り出してマウスピースをはめたら、即、音合わせだ。
遠い昔、佐々木教授の元でラッパを習い始めた頃を思い出す。子ども用のラッパなんてあるはずもなく、まだ重たいそれは重心を取り損ねて何度も傾いた。
そう…まるで今の自分のように。
片手のプロテクターでくくりつけ、右の指でピストンを押しながらも楽器全体を引き上げる。癖のある吹き方はだが、孝一郎が軽薄と切り捨てた音楽シーンでは何も問題なく過ぎた。
おれはここで生きてゆける。
そのための武器が欲しい。残された時間は、あとどれくらいか。早く早く…。ここで学べるだけ学んで人脈を作り、業界の片隅で良いから居場所を確保する。もっと早く、おれに力をくれよ。
焦りは、音に現れた。ロマーノがそっと肩を叩く。弾かれたように楽器を唇から離した一樹は、どこか怯えて彼を見た。
「少し、休もう」
レッスン時間は五十分。ほんのちょっとでも惜しいのに。何とか単語を頭から引っ張り出して一樹が話そうとする前に、ロマーノはさっさと椅子に腰掛けた。
ため息をついて、一樹は腕を降ろした。実際、ずっと支えていた左側はしびれ、感覚の残っている部分にまで厭な痛みが広がる。思わず右手でかばうように肘を押さえた。管楽器の中では比較的小さいトランペットも、彼にとってはその重みが負担になる。
ロマーノはただ黙って、微笑みながらプリントアウトされた楽譜を手にしている。
「この次は、どの辺りをやろうか。カズ」
簡単なコード進行のスタンダード。初級者向けだ。一樹は息を吸い込むと、思い切ってトランペット科の主任講師であるジョン・ロマーノに問うた。
「先生、なぜ僕をレベル1に入れたんですか?」
穏やかにロマーノが顔を上げる。なぜだと思う?逆に訊かれる。
「僕に実力がないからでしょう?でも、行く先々でここはおまえの来るところではないと言われ続けました。うぬぼれたい訳じゃない。ただ僕は本当の力がどれくらいか知りたいんです。客観的に」
「それは、他人が決めることかい?」
あくまでも静かに講師は言った。一樹は一瞬ひるみ、それから必死に言葉を並べた。
「どんなに自分でうまいと思っていたところで、他人が評価してくれなければ仕事へはつながらない。ステージでは常に評価がつきまとう。こいつは使えるか使えないか。音を出せばすぐにでもわかってしまう。だからちゃんと評価されるだけの実力をつけて!!」
やりきれなさに声が思わず大きくなる。急がなければ。おれが吹けるうちに。この手が支えていられるうちに。
「君が…」
あくまでも優しげにロマーノは応える。小さなフレームのめがねの奥で、瞳が柔らかく細められる。
参加したレベル1の学生たちは、どうだったかね、と。
「えっ?」
不意に問いかけられて、一樹はとまどった。記憶を探り、つかの間ときを過ごした連中の顔を思い浮かべる。あっけらかんと自分語りをして、いくらでも音楽の話とうんちくを語って聞かせ、いざ実技になると青い顔をしながら…それでも自信ありげなその態度。
正直に答えて良いものかどうか迷う。それほどの根拠なき自信過剰。けれど、誰一人イヤなやつなどいなかった。ああ、あれは何の授業だったか。
『できないから、ここに来てるんじゃない。だから何?』
黙ってしまった一樹に、ロバーノは語りかける。
「君はライブのチケットを取るとき、もしくは新しいCDを買うときに、一番上手な人を選ぶのかい?」
一樹が目を見開く。上手?テクニックがあるってことか?突然訊かれても答えようがない。じゃあ、別のことも訊いてみようか。あくまでも静かな声。
「君の表現したい音楽は、どうしてもトランペットでなければ表せられないものかい?」
さっきよりもっと、答えに詰まった。けれど今度はどうして抑えきれない思い。
「それは!いえあの…僕にはトランペットが向いていないとおっしゃりたいんですか!?」
震えていたかも知れない。孝一郎に否定されたあのときの感情が、不意によみがえる。
しばらく沈黙が続く。ふっと小さく笑うと、ロバーノは一樹をじっと見つめた。
「君にはどうしても、そう聞こえてしまうのかな。誰の評価をそんなに怖がっているんだい?君がこれまでに出会った生徒たちに、そんな怖がりはいたかい?」
誰の評価…を…?先生は何を言いたいんだ。
ペンタトニックしか使わずに、一曲まるまるアドリブを取る生徒もいた。音程が外れていても、全く頓着しない奏者もいた。ピアニストに文句をつけられると、俺のチューニングに合わせろと開き直って笑う。
上手いとは何だ…。チケットを取ってでも、CDを買ってでも聴きたい音楽とは。
「すぐに出さなきゃならない答えでもないだろう。ここでのレッスンを楽しんだらいい。テストアウトは順調だと聞いているよ。欲しい技術を存分に身に付けてゆきなさい」
でもおれには時間が!!叫びたかった。あと何年、いや何ヶ月…あと何時間残されているんだ?
病気のことは、ロバーノには話してはあった。それでも敢えて、彼をレベル1に入れた。今の一樹には出せない答え。レッスン終了を告げるタイマーの音が、チリチリと小さな音を立てた。
「ほらカズ!!こっちこっち!!」
暗がりのライブハウスで洋輔が手を振る。国が違っても同じだな、この雰囲気は。
ウォーリーズは、ツアーを組むジャズアーティストたちが必ず組み込むと言われているほどの店だ。キャパも広いが、客層も幅広い。年配のジャズファンのみならず、もっとずっと若いヤツらも当たり前のように酒を飲んで騒いでいる。
今夜は特に…。
金土と、売れ筋のバンドが出演したあと、日曜の夜はアマプロ交えてのセッションナイトだ。ルールは簡単。参加したいと思ったら楽器を持ってここに来ればいい。運が良ければステージに上がれる。ハウスバンドがバックを演奏し続ける中、思い思いのパートの連中が台に乗っていく。客とバックが楽しめれば、もうワンコーラス。どうしようもないと判断されたら、冷たく引きずり下ろされる。
「実際のところは、冷ややかな視線と空気に耐えかねて、奏者自ら降りるらしいんですよ。シビアというか何というか、怖いですよねえアメリカって」
洋輔もアルトを持ってくりゃよかったのに。一樹の問いに、彼はそう言いながら首をぶんぶんと振った。
「根性なしだから、こいつは。いいの、今夜はあたしたち二人で、カズの応援団ってことになってるんだから」
すでにカクテルをあおって、ほてった顔の尚子が軽口を利く。何だよ、応援団って…。ぼやく一樹に「でっかい旗でも振ってあげようか?」と笑った。
「緊張してる?」
「全然」
だって、ただのスタンダードのセッションだろ?一樹は平然と、自分もカクテルに口をつける。そう、こんな夜は何度も過ごしてきた。あのジャムズで暮らし始めてから、こっちの空気の方がおれの日常だった。
戻ってきた。
彼にとっては、ずっと居心地の良い空間。慣れ親しんだざわめきと紫煙と酔った客の笑い声と、そしてそこにはいつも…。
一樹は、記憶をそこで無理やり断ち切ると残りの酒を一気にあおった。
「そんなに飲んでると、ラッパの圧力を掛けただけですぐに酔うな。ああそうか、緊張を解くためか。いや、うまくいかなかったときのことを考えて、酒のせいにするための保険か。さすがは日本人だね、やることがセコい!!」
この、無駄にでかい声は。振り返らずともわかる。トランペット科の自称首席奏者、ブライアン・コールマンだった。
隣でシェリルがばつの悪そうな顔で立っている。
「やっぱ、付き合ってんの?オタクら」
最近は飲む機会もほとんどなかったせいか、少しの酒が入った一樹は饒舌になった。その台詞にシェリルがいやあな顔をする。
「あんた、覚えてなさいよ!こんなことになっちゃった手前、悪いと思ってついてきてやったのに」
彼女はさらさらの金髪をかき上げると、あーあ、あたしも何か飲もう!と声を張り上げた。
そんな彼女の耳元に顔を寄せ、ありがとうとわざと日本語でささやく。頬を赤らめたことが自分でも許せないかのように、シェリルは余計ぶんむくれた。
「何、余裕ぶってんのよ!ここがどこだかわかってるの?あなたが上手いのは十分知ってはいるけれど、ウォーリーズの客は辛辣よ?」
「ふん、マリコの弟って言いふらすのはナシだからな!!」
ブライアンが皮肉げに笑う。バカは相手にしない相手にしない…一樹の呟き。
ロマーノに突き付けられた重い課題。ここでその答えが見つかるだろうか。レベル1で出会った彼らの楽しげな表情を思い浮かべる。おもしれえ、やってやろうじゃねえか。
一樹は、ゆっくりと皮のソフトケースからトランペットを取り出した。
(つづく)
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