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夢見るころを過ぎても ~When I Grow Too Old To Dream

#1



初めて降り立った異国の地は、空までもが高く蒼く澄んでいた。


思ったよりも気温が低く、機内に合わせてTシャツにブーツカット・ジーンズの軽装だった一樹は、肩を抱えて身体を震わせた。

それは、これから始まる新生活への不安をも内包していたのだろうか。


逃げてきたんじゃない。

一樹はそう自分に何度も問いただした。そこそこ売れ始めたスタジオやライブサポートの仕事も、桃子とうこの店の手伝いも、彼女と篠原の生活を目の当たりにする現実も。


投げ出してきた訳じゃない。

姉であり、世界的に活躍するヴァイオリニストでもある真理子に、無理やり引き合わされ、いつしか恋人と呼べるまでになった聡子との時間を置いてまでも。



おれは…なぜ今ここにいるんだろう。



一樹はもう一度深呼吸すると、ボストンの空港ロビーを歩き出した。





「留学するですって!?」


姉ちゃん、声でかいよ。弱々しい一樹の反論など全く受け付けてもらえず、高橋の屋敷に真理子の美しくも甲高い叫びが響き渡った。

持病を抱える彼の身が心配だと、無理やり姉は家族全員でこの横浜の家に住むことを提案した。ようやく四人が一緒に住めるのよ!とはしゃぐ姉をしり目に、残りの三人はお互い気付かぬように小さくため息をついていた。

父親の孝一郎は、指揮者そして現代作曲家として活動の場を日本に本格的に戻すことを決め、所属事務所の社長である母は同じようにここへと移り住んだ。

未だに世界各国のオーケストラから引き合いが殺到している姉は、それでも能天気に「ここから通うからいいの」とばかりに、横浜と成田を往復する日々だ。

一樹とて、桃子の家を出て一人暮らしを経験できたのも長いことではない。化学療法の治療入院の期間が過ぎたら、ほぼ強引に姉に呼び戻された形で、何年ぶりかで実家に暮らすことになったのだ。


この家に全員が集まるなど、一樹がほんの幼い頃の数年でしかない。本物の家族であるはずなのにギクシャクとした疑似ファミリー。長く居るお手伝いのトミさんだけが笑顔を絶やさない。


「せっかくみんながここに集まったのに、どうしてあなたが留学しなきゃならないのよ!!」


おしとやかでお嬢さま然としている外見とは裏腹に、かなり天然系の真理子はもう既にご立腹だ。

新聞を広げてソファへと悠然と座っていた孝一郎は、自分の息子にどう声を掛けたものかまだ決めかねるようだった。それでもばさりと紙の音を立てると冷たく言い放った。


「相変わらず、大事なことは事後承諾…か。おまえごときが留学なぞして何になるのだ?」


母はいつものように黙っている。ふわふわのマシュマロか何かでできたかのような姉が皆を結びつけない限り、この家族たちは繋がれはしない。

一樹にとっては、この上なく居心地の悪い空間。それでも姉の喜ぶ顔が見たくて必死に自分を律していたのに。


「試験には受かっています。お父様へご迷惑をお掛けすることはないと思いますが」


同じように冷ややかに言い返す。母は無表情に書類に目を落としている。


「どうやって暮らしていくつもりだ。だいたいどこへ行き、何を学ぶのかさえも言わずに」


「とてもお父様やお姉様にかなうはずもありませんが、僕も演奏家の一人です。数年暮らしていけるほどの蓄えはあります。お姉様のボストンの部屋を一つお借りしようと考えていましたが、いけませんか?」


ボストンという言葉を聞くやいなや、ふっと苦笑をもらす父親に、一樹は頬がカッと熱くなった。

この人がおれを認めてくれることなど、一生ないだろうな。悔しさに唇を噛む。


「音楽大学、バークリーか。名ばかりと言えどもおまえも一応はプロの演奏家としてステージに立っておるのだろうが。今さら何をしに行くつもりだ。言葉もろくに話せるわけでもなしに」


「僕なりに準備はしたと申し上げたはずです!英語もTOEFLで500以上は出しましたし、日常会話も困ることはありません!」


これは多分に怪しかった。それは確かに試験では点を取ることはできた。と言うかこれだけなければ入学資格がもらえない。語学と言わず勉強すべてが苦手と来ている一樹にとって、かなりギリギリのところで拾ってもらえたという方が正しい。日常会話など、普段のライブでは音楽用語にしか縁がない。


なぜ今さら音大に…。父親でなくともそう思うに違いないだろう。

音高を中退し、通信高校を四年掛けて卒業した。孝一郎が黙認状態であるのを良いことに、その後はそのままジャズやスタジオミュージシャンのトランペッターとして仕事をしてきた。今では、譜面にも強く、ハイノートを出せる若手として重宝がられている。大きなツアーも何度もサポートに入った。


どうしてもステージのセンターに立ちたい訳じゃない。じゃあなぜ?


その答えは本当のところ、一樹自身にもはっきりとわかってはいなかったのだ。

ただ、じりじりとした焦りが彼をいつも襲っていた。このままではいけないと。


黙々と食事をし、その後は部屋にこもるだけの会話のない疑似家族を何度くり返したところで、真理子を欠いたときの家は何の機能も果たしてはいなかった。


おれはここで何をしたいんだ。父親が姉が世界を相手に仕事をするのを、流れ作業的にラッパを吹くだけのおれは指をくわえて見ていろというのか。



「きちんとジャズの基礎を身につけて、息の長い演奏家として通用するようになりたいと思っています。お父様には…!」


「関係のないこと、か。勝手にしろ」


話は途絶えた。

取りなすように必死に真理子が声を上げる。


「音大なら日本にもあるでしょう?ジャズを学べる学校もあると聞いたわ。それに、基礎なら何もジャズにこだわらなくたって!」


「姉ちゃん、僕は…ピアノが弾けないんだよ?どうやって日本の音大に入れって言うのさ」


一樹の静かな言葉に、ハッとしたように真理子は視線を彼の左手に移す。

痛々しい傷跡と動かない指。病魔は彼の左手の機能をほとんど奪っていった。

夢であったクラシックをあきらめ、特注のプロテクターで楽器を固定し、それでもジャズを吹き続ける一樹。

真理子は、何も言えずに弟を切なそうに見つめた。


「研究科なら試験など要らないのではなくて?あなたさえその気があるのならば、お父様にしっかりとお願いなさい」


それまで口を閉ざしていた母が、顔を上げることなく一樹に告げる。以前の冷たさはないかも知れない。けれど、冷たくないと温かいはイコールでは結べない。

みな、家族それぞれを思う気持ちはあるのだろう。なのに届かぬ歯がゆい思い。これが長く離れて暮らした罰だというのか。


「僕も世界を見たい。そう思ってはいけないのでしょうか」


精一杯気持ちを奮い立たせて、一樹はそう言い張った。かなうはずもない相手。わかってはいるのだ。それでもなお、おれはおれでいたい。ここにいては息もできない。


やっと戻った家庭から、ただ逃げ出したい訳じゃないのに!



「おまえに…その実力はない」



冷ややかな孝一郎の言葉に、一樹は息を止めた。

踵を返すと自室へと戻ってゆく。その背中に、何をどう言おうがおまえは行くのだろうが、と父のつぶやきが追い打ちを掛ける。


ああそうさ、おれの居場所はここじゃない。そんなことなど、わかっていたはずなのに。



二階に上がりドアノブに手を掛けたところで、ようやく姉が追いついた。


「待ちなさいよ、一樹!あなた何を考えてるの!?」


「姉ちゃんがお節介なんだよ!誰も僕と暮らしたいだなんて望んでなかっただろ?」


「私は一緒に住みたいわ!!」


姉ちゃんなんか一年のほとんどを海外で過ごすくせに。ここにいて家族の冷たさを再確認させられるだけのおれの気持ちを考えてみろよ、このド天然!

繰り言を何とか飲み込むと、姉ちゃんの部屋貸せよな、とわざと乱暴な言い方をした。


「そりゃかまわないけれど、聡子のことだってどうするつもりなの?私の大切な親友を悲しませるのなら許さないわ」


勝手にお膳立てして、勝手にひっつけておいてよく言うよ。


姉とは同い年で、彼女がパリに住んでいた頃に知り合ったという。コンセルヴァトワールに留学していながらも趣味でたしなむ程度だったからと、控えめにヴァイオリン教室を手伝っている聡子は、真理子とは正反対の落ち着いた穏やかな女性だった。


心に空いたすき間が埋まればいい。


たまに会って、静かにときを一緒に過ごす。一樹にとって安らぐ時間には違いなかった。けれど、彼の胸に巣くう焦燥感を潤してくれるほど、二人はまだお互いを知らなすぎた。


「メールも電話もマメにするさ。日本とアメリカを行き来するなんて、姉ちゃんだっていつもしていることだろ?今だって毎日会ってるわけでもないし」


少しばかりの罪悪感からか、さすがの一樹も歯切れが悪い。気付いたのかどうなのか、真理子は寂しそうにつぶやいた。


「あなたはいつもそう。みんな自分一人で決めてしまうのね。私たちにできることはないの?今からでも何か取り戻せるものはないというの?」


ねえ、お姉ちゃん。そのセリフをどうしておれが一番欲しかったあの頃に言ってくれなかったんだ?

一番誰かにいて欲しかった、おれがたった一人で痛みに耐え孤独感と闘っていた頃に、家族の誰一人として掛けてくれなかった言葉を、なぜ今さら口にするのか。


「時なんか戻せない。戻す必要もないんだよ。そうだろ?もうお互い、いい大人なんだから…さ」


一度壊れた家族は、どうあがいても戻せない。一樹にはそう思えてならなかった。



彼にとっての家族とは…。ふとジャムズのむせ返るタバコの煙とジャズの音色、にぎやかな食卓とマスターの笑顔、そして桃子のクールな表情を思い浮かべ、一樹は胸がちくりと痛んだ。

そうさ、あの場所にだってもう戻れない。おれはおれで居場所を作っていかなきゃならないんだから。


その隣りに誰がいるのか、今は想像もできなかった。聡子だと言い切るには彼はまだ若すぎたのかも知れない。


後ろ手でそっとドアを閉めると、一樹は動かぬ左手を右のそれで包み込むようにして引き寄せた。



(つづく)


北川圭 Copyright© 2009-2010 keikitagawa All Rights Reserved

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