作者さん、もう僕を殺してもいいですよ。
初めての短編です!ちょっと大目に見てほしいです。
レオン・アルヴァが生まれた日。
産婆は悲鳴を上げた。
「司祭様! これは……!」
小さな教会の奥。
母親の胸に抱かれた赤ん坊の頭上に、一枚の白い紙が浮かんでいる。
いつもの原典だ。
司祭は慣れた手つきで紙を確認した。
「名前は?」
「レオンです」
母親が答えた。
「レオン・アルヴァ」
紙を見る。
白紙だった。
「職業は?」
「……分かりません」
「スキルは?」
「ありません」
「そんなはずはない」
司祭が震える手で原典に触れた。
すると、白い紙の中央に文字が浮かんだ。
【レオン】
それだけ。
職業もない。
スキルもない。
才能もない。
寿命すらない。
司祭は長い沈黙のあと、呟いた。
「……作者様が、お書きになっていない」
母親の顔が青ざめる。
「それは……どういうことですか?」
「分かりません」
司祭は首を振った。
「ですが……こんな人間は、存在してはいけない」
それでもレオンは生きた。
泣いて。
笑って。
腹を空かせて。
眠って。
普通の赤ん坊として。
十歳になった。
十五歳になった。
そして十八歳になった。
その日。
レオンは村の掲示板の前に立っていた。
そこには村人全員の原典が貼られている。
レオンの名前もあった。
【レオン・アルヴァ】
その下は、何もない。
「相変わらずだな」
声をかけてきたのは、幼馴染みのトーマだった。
村の鍛冶屋の息子。
【職業】鍛冶師
【スキル】鉄打ち
【才能】中
【寿命】六十五歳
【物語上の役割】父の工房を継ぎ、名工として村を支える
トーマは胸を張る。
「俺、来年から親父の工房を継ぐんだ」
「もう決まってるんだ」
「当然だろ」
トーマは笑った。
「作者様が決めてくださったんだからな」
「……楽しい?」
「何が?」
「自分の人生が全部決まってるのって」
トーマは少し考えた。
それから笑った。
「そりゃ楽しいだろ」
「どうして?」
「迷わなくていいからだよ」
彼は誇らしげに自分の原典を指差した。
「俺が何者になるか、最初から分かってるんだぜ?」
レオンは答えなかった。
少し離れたところを、郵便配達員のグレッグが歩いていた。
【職業】郵便配達員
【スキル】健脚
【才能】小
【寿命】六十二歳
【物語上の役割】魔王軍の襲撃に巻き込まれ、六十二歳で死亡
レオンは知っている。
グレッグ本人も知っている。
「グレッグさん」
「おう、レオン」
「怖くないんですか?」
「何が?」
「死ぬこと」
グレッグは少しだけ目を細めた。
そして笑った。
「まあ、そういう役割だからな」
「……」
「それに、まだ三年もある」
そう言って、手紙の束を抱え直す。
「じゃあな。次の村まで行ってくる」
レオンは、その背中を見送った。
不思議だった。
誰も自分の人生を疑わない。
勇者は魔王を倒す。
魔王は勇者に倒される。
脇役は主人公を導く。
悪役は敗北する。
死ぬ人間は死ぬ。
それが、この世界の「普通」だった。
レオンだけが、その普通の外側にいた。
だから、ずっと寂しかった。
自分には役割がない。
つまり――
自分は誰にも必要とされていない。
そんな気がしていた。
転機は、その日の夜に訪れた。
村の外れに魔物が出た。
角の生えた狼。
村人たちは逃げ惑った。
戦える者はいない。
トーマも鍛冶用の槌を持ったが、足が震えていた。
レオンは地面に落ちていた鍬を拾った。
「レオン! 逃げろ!」
狼が飛びかかってくる。
怖かった。
足も震えた。
それでも――
「うああああっ!」
鍬を振り下ろす。
一撃。
二撃。
三撃。
最後には、狼は動かなくなった。
村中が歓声に包まれた。
「レオンが魔物を倒したぞ!」
「英雄だ!」
「作者様がお認めになったんだ!」
翌朝。
掲示板を見る。
レオンの原典には――
【レオン・アルヴァ】
それだけ。
何も変わっていない。
「おかしいな」
トーマが首を傾げる。
「普通なら、ここで何か追加されるぞ」
「例えば?」
「【英雄候補】とか」
「でも、書かれてない」
「……だな」
レオンは原典を見つめた。
そこで初めて気づいた。
昨日、自分は確かに魔物を倒した。
けれど、その出来事は原典に存在していない。
だったら。
「……原典より、現実のほうが大事なのかな」
トーマが笑った。
「当たり前だろ」
その言葉が、胸に残った。
その夜。
レオンは一人で教会へ向かった。
誰もいない祭壇の前に立つ。
「作者様」
返事はない。
「聞こえていますか?」
静寂。
「僕は何なんですか?」
その瞬間、空中に文字が浮かんだ。
【レオン】
レオンは息を呑んだ。
文字が増える。
【彼は、空を見上げた】
「……これ」
文字が消える。
【レオンは、何かを探していた】
「誰?」
沈黙。
そして――
【誰だ、お前は】
レオンの心臓が跳ねた。
「あなたが作者?」
【そうだ】
「じゃあ、どうして僕を書かなかったの?」
【知らない】
「知らない?」
【お前は私の原典に存在しない】
「でも僕はいる」
【だから困っている】
レオンは思わず笑った。
「作者でも困るんだ」
【ある】
「じゃあ、神様じゃないんだ」
【……】
「怒った?」
【少し】
「ごめんなさい」
【謝る必要はない】
少し間を置いて、
【お前は面白い】
レオンは笑った。
それが、作者との最初の会話だった。
それからレオンは毎晩、教会へ通った。
作者との会話は少しずつ長くなった。
作者は世界について教えてくれた。
この世界には原典がある。
原典に書かれたことは、現実になる。
作者が文章を書けば、人間はその通りに生きる。
しかし――作者にも書けない存在がある。
作者が認識できない存在。
それがレオンだった。
「じゃあ僕は自由なの?」
【そうだ】
「何をしても?」
【おそらく】
「魔王を倒しても?」
【おそらく】
「王様になっても?」
【おそらく】
「じゃあ世界征服も?」
【やめろ】
「冗談だよ」
レオンは笑った。
しかし、ある日。
ふと尋ねた。
「じゃあ……死ぬことも?」
【お前には寿命を書いていない】
「……」
【怖いか?】
「うん」
【自由なのに?】
「自由だから怖いんだよ」
作者は沈黙した。
やがて、
【それは自由ではなく、不安と呼ぶのかもしれないな】
と答えた。
レオンは、その言葉を覚えていた。
ある日。
彼はグレッグの原典を持ってきた。
「この人を助けられない?」
【できない】
「どうして?」
【すでに書かれている】
「書き直せば?」
【物語には整合性が必要だ】
「人一人死ぬくらいで?」
【一人の死が、別の出来事につながっている】
「じゃあ、その別の出来事も書き直せばいい」
【さらに別の矛盾が生じる】
「……面倒くさいね」
【作者に向かってそれを言うか】
「ごめん」
レオンは笑った。
でも心の中では、決めていた。
いつか。
自分の力で誰かの運命を変えてみせる。
数日後。
村に、一人の少年がやってきた。
金色の髪。
青い瞳。
腰には一本の聖剣。
頭上には、黄金色の原典が浮かんでいる。
【名前】アルベルト・レイヴン
【職業】勇者
【スキル】聖剣適性・光魔法・英雄の加護
【才能】最高
【寿命】二十四歳
【物語上の役割】魔王を倒す
村人たちは大騒ぎした。
「勇者様だ!」
「本物の勇者だ!」
アルベルトは困ったように笑っていた。
「そんなに騒がなくても……」
レオンは彼の原典を見た。
最後の一行。
【魔王を倒した後、世界を救う代償として死亡する】
レオンは目を逸らした。
「どうした?」
アルベルトが聞く。
「なんでもない」
「君は?」
「僕?」
「そう」
「レオン」
「職業は?」
「ない」
「スキルは?」
「ない」
「原典は?」
「名前だけ」
アルベルトは驚いた。
しかし、すぐに笑った。
「じゃあ、君って僕より自由じゃないか」
その言葉は、トーマの言葉とは違って聞こえた。
その日の夜。
アルベルトはレオンに尋ねた。
「本当に何もないの?」
「うん」
「だったら羨ましいな」
「勇者なのに?」
「勇者だからだよ」
アルベルトは空を見上げた。
「僕はね、自分が二十四歳で死ぬことを知ってる」
「……」
「怖いよ」
「逃げれば?」
「逃げたら、魔王を倒せない」
「でも死ななくて済む」
アルベルトは少し考えた。
「それじゃあ、僕が僕じゃなくなる気がする」
レオンは言葉を失った。
そのとき初めて思った。
運命に従うことと、運命に従わされることは――同じではないのかもしれない。
アルベルトたちは魔王討伐の旅に出ることになった。
聖女エマ。
女騎士クラリス。
魔法使いノア。
そして――レオン。
「どうして僕も?」
レオンが聞くと、アルベルトは笑った。
「君がついてきたいって言ったから」
「それだけ?」
「それが一番大事だろ?」
「………」
言葉が出なかった。どうがんばっても出なかった。
こうしてレオンは旅に出た。
旅は楽しかった。
もちろん、危険もあった。
盗賊に襲われた。
巨大な魔物に追われた。
山で遭難した。
ノアが魔法を失敗して全員が泥まみれになった。
エマが料理を作れば、クラリスが無言で水を飲んだ。
「不味い?」
エマが涙目で聞く。
「……愛情は感じる」
「それ、不味いってことですよね!?」
「ぷっ、ハハっ」
みんなが笑う
そんな日々だった。
ある夜。
焚き火を囲みながら、アルベルトが聞いた。
「レオンは、何になりたい?」
「分からない」
「自由なんだろ?」
「だから分からない」
「難しいな」
二人で笑った。
その瞬間。
レオンは初めて、自分の人生が楽しいと思った。
原典に書かれていないし、未来も分からない。
けれど――
今日、友達と笑った。
それだけでよかった。
そして旅の途中、
レオンは少しずつ、人々の原典に小さな変化を起こしていった。
門番に、
「今日は家族に会いに帰ったら?」
と言った。
門番は本来、主人公一行を王都に通すだけの役割だった。
その夜、彼は家に帰った。
酒場の少女には、
「自分で決めてみたら?」
と言った。
彼女は勇者に情報を教えるだけの役割だった。
初めて自分で別の客に話しかけた。
盗賊には、
「聖剣を盗まないほうがいいよ」
と言った。
「俺はどうせ失敗するんだぞ?」
「じゃあ、今度は成功するかもしれない」
盗賊は困った顔をした。
「それ、どっちだよ」
やがてレオンは気づく。
人々の原典には、少しずつ――
小さな空白が生まれ始めていた。
旅の途中。
レオンは故郷へ戻った。
そしてグレッグを探した。
「グレッグさん!」
「おお、レオン。大きくなったな」
「まだそんなに経ってないよ」
「旅人なんてやってるからだ」
グレッグは笑った。
しかし、その頭上には原典が浮かんでいる。
【六十二歳、魔王軍の襲撃により死亡】
今日が、その日だった。
夜。
魔王軍が村を襲った。
炎が上がる。
悲鳴が響く。
原典通りだった。
「グレッグさん!」
レオンが叫ぶ。
「逃げて!」
「何を言ってる!」
「死ぬんだ!」
グレッグは一瞬、黙った。
そして笑った。
「そうか」
「え?」
「俺、今日死ぬのか」
「……うん」
「だったら」
グレッグは手紙の束を抱えた。
「最後の配達くらい、終わらせるか」
「そんな場合じゃない!」
「俺の役割だからな」
レオンは拳を握った。
「違う!」
「何が?」
「役割じゃない!」
レオンはグレッグの腕を掴んだ。
「あなたの人生だ!」
その瞬間。
グレッグの原典が震えた。
【魔王軍の襲撃に巻き込まれ――】
そこから先が、消えた。
やはりまた空白。
レオンは息を呑んだ。
「作者さん……」
空中に文字が浮かぶ。
【……書けない】
作者の文字がでてくる。
「え?」
【グレッグの結末が認識できなくなった】
「じゃあ……」
【お前が空白を作った】
レオンは初めて理解した。
自分の存在は、他人の人生を完全に書き換える力ではない。
ただ――
決められていた人生に、選択肢を一つ作る。それが、自分の力だった。
グレッグは生き残った。
村も完全には壊れなかった。
そしてレオンは、魔王城へ向かった。
魔王城の最上階まで来た。
みんなが息を呑む
喉がカラカラに乾き、心臓が耳元でうるさく鳴り響いている。
玉座には、一人の少女が座っていた。
黒い髪。
赤い瞳。
美しい顔。
名前はルシア。
【名前】ルシア
【職業】魔王
【スキル】闇魔法・魔王の加護
【才能】最高
【寿命】二十二歳
【物語上の役割】世界を滅ぼす悪
魔王でさえも元典があった。
知っていた、知っていたけど、やはり決められた運命があった。
アルベルトが剣を抜く。
「魔王ルシア」
「勇者アルベルト」
アルベルトは深呼吸をした。
ルシアは笑った。
「私を殺しに来たのだな」
「ああ」
「なら、戦おう」
戦いが始まった。
聖剣。
光魔法。
闇魔法。
魔王城が崩れていく。
最後はアルベルトの剣がルシアを貫いた。
ルシアは血を吐きながら笑った。
「これでいい」
アルベルトが膝をつく。
身体から光が溢れた。
原典が輝く。
【魔王を倒した後、世界を救う代償として死亡する】
「嫌だ!」
レオンが叫んだ。
アルベルトが振り返る。
「レオン……」
「嫌だ!」
レオンは空を見上げた。
「作者さん!」
返事はない。
「お願いだから!」
文字が浮かんだ。
【物語を終わらせるために必要だ】
「そんなの知らない!」
【彼は勇者だ】
「だから何だよ!」
【勇者は魔王を倒して死ぬ】
「誰が決めた!」
【私だ】
「だったら!」
レオンは叫んだ。
「あなたが変えろよ!」
沈黙がとても長く感じた。
次の瞬間――
世界が止まった。
炎が止まる。
崩れる瓦礫が止まる。
アルベルトも。
エマも。
クラリスも。
ノアも。
魔王ルシアも。
すべてが静止する。
世界そのものが、一冊の本になった。
レオンの目の前に巨大な文字が浮かぶ。
【レオン・アルヴァ】
【お前は、この世界に存在しない】
【ゆえに、物語を変更できない】
【他者の運命を変えたければ、お前自身が物語になる必要がある】
レオンは理解した。
自由だから、誰の物語にも干渉できない。
自由だから、誰の物語にも入れない。
誰かを救うには――
自分もまた、書かれなければならない。
「じゃあ」
レオンは笑った。
「書いてよ」
【何を?】
「僕の人生を」
【できない】
「どうして?」
【お前を書いた瞬間、お前は自由ではなくなる】
「いいよ」
【お前の未来も決める】
「いい」
【寿命も決める】
「いい」
【お前は死ぬ】
「それでもいい」
作者は尋ねた。
【なぜ?】
レオンはアルベルトを見た。
「友達だから」
そして仲間たちを見る。
「みんなを助けたいから」
最後に、倒れている魔王を見る。
「……それに」
レオンは笑った。
「この人も、悪役になることしか知らないだけなんじゃないかな」
そして。
【レオンは、生まれた】
レオンの頭上に、初めて原典が生まれた。
【名前】レオン・アルヴァ
【職業】旅人
【スキル】空白
【才能】なし
【寿命】一日
「……一日?」
【仕方ない】
「短すぎない?」
【今まで存在しなかった人間だからな】
「まあ、いいや」
レオンは笑った。
「一日あれば十分」
時間が動き出した。
「アルベルト!」
レオンは倒れた勇者を抱き起こした。
「レオン……?」
「帰ろう」
「でも僕は――」
「帰るんだ」
その瞬間。
空中に文字が浮かんだ。
【勇者は死ななかった】
世界が揺れた。
アルベルトの原典が燃える。
【寿命】二十四歳
その文字が消える。
新しい数字が浮かぶ。
【寿命】――
エマの原典も変わった。
【聖女】↓【孤児院の設立者】
クラリス。
【女騎士】↓【騎士団長】
ノア。
【魔法使い】↓【魔法学校校長】
そしてルシア。
彼女の原典が震えた。
【世界を滅ぼす悪】
その文字が消える。
代わりに――
【世界を旅する少女】
ルシアは呆然とした。
「……私は?」
レオンは笑った。
「これから決めればいい」
「何を?」
「何になりたいか」
ルシアは初めて、自分の原典を見つめた。
そこには未来がなく、空白だけがあった。
「……怖いな」
「僕も」
「では、どうする?」
「一緒に考えよう」
ルシアは笑った。
「変な奴だな、お前は」
「よく言われる」
その瞬間。
レオンの身体が光った。
作者の声が響く。
【レオン】
「うん」
【もう書けない】
「どうして?」
【お前を生かせば、物語そのものが壊れる】
「……」
【世界を救うには、お前の物語を終わらせるしかない】
レオンは静かに目を閉じた。
「じゃあ」
【……】
「僕を殺して」
【嫌だ】
「作者さん」
【嫌だ】
「世界が壊れるんでしょ?」
【そうだ】
「だったら、仕方ないよ」
【嫌だ】
初めてだった。
作者が感情を見せた。
レオンは少し笑った。
「作者さん」
【なんだ】
「僕、自由だったんだ」
【……】
「誰にも決められてなくて」
「何にだってなれて」「どこへだって行けた」「でも、最後に一つだけ決めたい」
【何を?】
「僕の人生を、誰かの役に立つものにする」
【……】
「だから書いて」
【何と?】
レオンは少し考えた。
「僕は――」
そして笑った。
「みんなを救って、幸せだった」
作者は、長い沈黙のあと書いた。
【レオンは、世界を救った】
光が溢れた。
魔王城が崩れる。
世界中にあった原典が燃える。
しかし、それは消滅ではなかった。
書き換わっていく。
トーマは父の工房を継いだ。
けれど、鍛冶師になることを自分で選んだ。
ミラは隣町のパン職人と恋をした。
けれど、それは原典に書かれていたからではなかった。
エマは孤児院を作った。
クラリスは騎士団長になった。
ノアは魔法学校の教師になった。
ルシアは世界を旅した。
アルベルトは――
勇者であることをやめてもよかった。
それでも彼は剣を握った。
勇者になりたいからではない。
誰かを守りたいから。
そして、グレッグは生き残った。
六十二歳を越え。
六十三歳。
六十四歳。
六十五歳。
七十歳になった。
「作者様が、私の寿命を忘れてくださったらしい」
そう言って笑った。
世界は変わった。
原典はまだ存在している。
職業も。
スキルも。
人生の大筋も。
けれど――
そこには必ず、小さな空白が残るようになった。
自分で選べる余白。
誰かを好きになる余白。
誰かを許す余白。
誰かを救う余白。
そして、自分の人生を自分で決める余白。
そのすべては――
一人の少年から始まった。
三十年後。
王都の小さな図書館。
一人の少女が本を読んでいた。
「つまんない」
少女は本を閉じる。
題名は、
『勇者アルベルトの魔王討伐記』
世界で最も有名な英雄譚だ。
しかし少女には退屈だった。
「だって、最初から最後まで決まってるんだもん」
隣の司書が笑った。
「まあ、そういう物語だからね」
「もっと変な話が読みたい」
少女は本棚を眺めた。
そして、一冊の薄い本を見つけた。
表紙にはタイトルがない。
「これ、何?」
司書にも分からなかった。
「昔からそこにあるんだよ」
少女は本を開いた。
一ページ目。
【レオンは、生まれた】
少女は首を傾げた。
二ページ目。
白紙。
三ページ目も白紙。
ところどころに文章がある。
【少年は友達と笑った】
【少女は自分の未来を選んだ】
【老人は決められていた死を拒んだ】
そして最後のページ。
【レオンは、幸せだった】
少女はしばらく黙っていた。
「これ、誰の話なんだろう」
その瞬間。
紙の上に、小さな文字が浮かんだ。
【君は、どう思う?】
「え?」
文字が消える。
そして新しい文章が現れた。
【君なら、どんな物語を書きたい?】
少女はしばらく考えた。
それから机の引き出しから鉛筆を取り出す。
白紙のページに、一文字を書く。
――友。
瞬間。
世界のどこかで、一人の赤ん坊が産声を上げた。
頭上に、いつもの白い原典が浮かぶ。
【名前】――
【職業】――
【スキル】――
【才能】――
【寿命】――
すべて空白だった。
司祭が驚きの声を上げる。
「これは……!」
赤ん坊は泣いている。
小さな手が、何もない空間を握った。
そして――
少女は図書館で笑った。
「今度は、私が書いてあげる」
その言葉を。
世界のどこかにいる作者だけが聞いていた。
【……そうか】
作者は初めて、原稿を書く手を止めた。
【じゃあ、次は君の物語だ】
少女の目の前に、新しいページが開く。
最初の一行。
【少女は、作者を救った】
「作者を?」
少女は首を傾げる。
するとページの隅に、小さな文字が追加された。
【ありがとう】
少女は笑った。
「こちらこそ」
誰も知らない。
かつてこの世界に一人だけ。
作者の書かなかった少年がいたことを。
誰も知らない。
その少年が、自分の自由を捨ててまで、世界中の人間に「自分で選ぶ」という空白を残したことを。
そして誰も知らない。
この物語を最初に読んだ少女が、いつか新しい作者になることを。
ただ一つだけ。
今も世界のどこかに、古びた原典が一冊だけ残っている。
その最後のページには、誰が書いたのか分からない文字がある。
【レオンは、幸せだった】
その下に、もう一行。
【そして、彼の物語を読んだ人も、幸せだった】
物語は、そこで終わっている。
――けれど。
ページを閉じたあとも、世界は続いていく。
なぜなら。
物語の続きは、まだ誰にも書かれていないからだ。
どうだったでしょうか?ぜひコメントしてみてほしいです。
面白かったら他の作品も読んでみてください!




