第2話 泥に咲く花は、拳で道を切り拓く
カフェの窓から差し込む夕日が、レオン様の冷徹な美貌を縁取っている。
逃げ場を塞ぐように置かれた彼の大きな手が、私の顎をゆっくりと持ち上げた。
「……何を見ている。その瞳、何かに怯えているようにも見えるが」
銀狼の瞳に見据えられた瞬間、私の脳裏に「あの日」の情景が、毒々しいほど鮮やかな色彩で蘇った。
***
一年前。私は、ナオミ・フォン・ローゼンタール公爵令嬢だった。
誕生日の舞踏会。着慣れたシルクのドレスを纏い、私は鏡の前で、婚約者のフィリップ様を待っていた。
「ナオミ、君は今日も薔薇のように美しいね。僕の宝物だ」
そう言って私の手に優しく口づけたフィリップ様の微笑みは、甘い砂糖菓子のようだった。私は純粋に、彼を信じていた。この幸せが、永遠に続くと信じて疑わなかった。
けれど、運命の歯車は無慈悲に砕け散る。
父の公爵家が政争に巻き込まれ、国家反逆の濡れ衣を着せられた。資産は没収、使用人は去り、華やかだった屋敷は一夜にして静まり返った。
雨の降る中、私は唯一残った私服のワンピースを握りしめ、フィリップ様の元へ駆け寄った。
「フィリップ様……! お願い、お父様を……家を助けて……っ」
冷たい泥に足を取られ、彼の靴に縋り付く。
泥にまみれた私の手を見下ろしたフィリップ様は、今まで一度も見せたことのない、氷のような蔑みの目を向けてきた。
「汚いな。触るなよ、没落令嬢」
え……? 鼓動が止まる。
フィリップ様は、まるで汚物を見るかのような顔で、私の手を踏みつけた。
「愛? 勘違いするな。僕が愛していたのは君の『持参金』と『公爵家』という肩書きだ。一文無しになった女など、我が家の犬以下の価値もない。……さあ、消えろ。新しい婚約者との茶会に遅れる」
嘲笑いながら、私を泥溜まりへと突き飛ばしたフィリップ改めクソ野郎。
背後では、彼の新しい婚約者だという令嬢たちが、扇子で口元を隠しながらクスクスと笑っている。
「あら、素敵な泥のお化粧ですわね、ナオミ様」
冷たい雨。泥の味。踏みにじられたプライド。
(……ああ、そう。そうだったのね)
その瞬間。
私の中で、何かが「ブチッ」と音を立てて千切れた。
悲しみ? 違う。絶望? 違う。
私を満たしたのは、脳が沸騰するほどの、清々しいまでの【殺意】だった。
「……ナ、ナオミ? 何だその目は……ひっ!?」
私はゆっくりと立ち上がった。泥まみれの髪を無造作にかき上げ、クソ野郎の目の前に立つ。
かつての令嬢の作法――「背筋を伸ばし、標的を真っ直ぐに見据える」という教えを、私は別の目的のために使った。
私は、右の拳を深く引く。
令嬢の護身術という名目で、こっそり隠居した元騎士団長から教わっていた『本物』の一撃。
「フィリップ様。一つ、言い忘れていましたわ」
「な、なんだよ……ぐえっ!?」
言葉が終わるより早く、私の右拳が空気を切り裂いた。
令嬢の細い腕からは想像もできない速度で放たれた正拳突きが、クソ野郎の整った鼻面に、吸い込まれるように着弾した。
「ぐべぁっっっ!?」
ベキッ、という快い破壊音。
彼は派手に後ろへひっくり返り、噴水のように真っ赤な鼻血を吹き出した。
「鼻が……折れた。痛いよ。
パパにも殴られたことないのにー!
助けて、ママー!」
「いい歳したオッさんが……『ママ〜』じゃねえぞ、コラァ!!」
のたうち回るクズを見下ろし、私はドレスの裾を豪快に捲り上げた。
「あんたなんて、こちらから願い下げじゃあ!
その汚い面、二度と私の視界に入れんな。没落? 犬以下? 結構じゃない。……あんたみたいな小物で、マザコンで、救いようのない『オッサン勘違い野郎』の好みに合わない女になれて、今、心底ホッとしてるわ!!」
呆然とする令嬢たちを睨みつけ、私は雨の中、一度も振り返らずに歩き出した。
***
「……フッ。やはりお前は、最高の女だな」
回想から戻った私の耳元で、レオン様が低く、愉悦に満ちた声を漏らした。
私の顎を掴む彼の手には、いつの間にか熱がこもっている。
「その瞳に宿る炎。過去に男を殴り飛ばしたその拳……。ナオミ、お前こそが俺の、魂の伴侶だ」
「…………王様。あの、引かないんですか?」
「引くわけがあるまい。俺は狼だ。強い雌を求めるのは本能だ」
レオン様は私の拳をそっと取り、正拳突きを放ったその関節に、優雅に、けれど執拗にキスを落とした。
「次は、俺の胸にその拳を打ってみるか? それとも――」
彼は私の腰を引き寄せ、逃げ場のない距離で囁いた。
「もっと別のやり方で、お前の『漢気』、俺が暴いてやろうか」
ナオミ姐さん、大ピンチ。
この獣人王、想像以上に「野生のドM(執着)」が過ぎるわ!
つづく
※予告
第3話 野生の王は、愛でる手を独占したい
レオン様に半ば強制的に王宮へ連れてこられたナオミ。
そこで待っていたのは、軍用狼ハクとの“まさかの急接近”と、王宮中をざわつかせる予想外の事件だった。
「ナオミ、何をしている」
低く響くその声に、空気が一瞬で凍りつく。
次の瞬間――
王宮の特別飼育場で、何かが“爆発”する。
それは怒りか、嫉妬か、それとも……?
次回――
『獣人王、限界突破。〜王宮がざわついた“あの瞬間”〜』
ナオミ姐さん、本日またしても大ピンチ。
レオン様の“ある感情”がついに制御不能に……!?
どうぞお楽しみに。




