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第11話 泥だらけのドレスと、獣王の怒り

「あら、ごめんなさい。あまりに道がぬかるんでいたから……避けたつもりが、足元が滑ってしまったわ」


王宮の夜会へ向かう中庭。エレーヌ令嬢は、雨上がりの大きな水たまりを避けるふりをして、その鋭いヒールで思い切り泥水を蹴り上げた。

ドロリとした茶色の飛沫が、私の純白のドレスに無残な模様を描く。


「……お気になさらず、エレーヌ様。雨の日の足元は不安定なものですわ。……ただ、次からはもう少し『淑女らしい』足捌きを練習なさることをお勧めいたします」


私はドレスの裾を軽く払い、没落令嬢としての「上品な微笑み」を崩さずに受け流した。

これくらいの嫌がらせ、慣れっこだ。


「……フン、相変わらず可愛げのない女。……いい気にならないで。ゲオルグ侯爵(フィリップの父)に捨てられて、動物園で糞尿まみれの獣の相手をしていた女が、よくもそんな澄ました顔ができるわね。……汚らわしい。あんな汚いケダモノたち、まとめて焼き払ってしまえばいいのに」


エレーヌが、嘲笑と共に吐き捨てた。


その瞬間。

私の脳内で、何かが音を立てて断裂した。


「……エレーヌ様。今の言葉、取り消していただけますか」


私の声から、温度が消える。


「私は何を言われても構いません。ですが、動物園のあの子たちは、私にとって大切な『家族』です。そんな言葉を投げられて、黙っているわけにはいきません。……今すぐ、あの子たちに謝ってください」


「はぁ!? 謝る? 私が? あんな家畜以下のケダモノに!? 笑わせないで。あんな汚い連中、生きてる価値さえないわよ!」


エレーヌがさらに声を荒らげ、動物たちを侮辱する言葉を重ねた、その時。


「……チッ、言わせておけば、さっきからグダグダと好き勝手抜かしてんじゃねえぞ、コラ」


私の口から、上品な令嬢の声は完全に消え失せていた。

ドスの利いた、地獄の底から響くような【極道姐さん】の咆哮。


「……あァ? 家畜以下だぁ? どっちの口がそんな腐ったこと抜かしてんだ。……ツラ貸しな。その汚ねえ口から、二度とあの子たちのことを侮辱する言葉が漏れないように、物理せいけんづきで縫い合わせてやろうか?」


「ひっ……!? な、何よその口の利き方……っ!」


「こちとら、大事な家族を馬鹿にされて黙って引くようなタマじゃねえんだわ。……シマ出ようか、コラァ!!」


私が一歩踏み出し、拳を固めたその瞬間。

背後の扉が、地響きのような音を立てて弾け飛んだ。


「――そこまでだ!!」


空気そのものが凍りついた。

現れたのは、正装に身を包んだレオン様だ。黄金の瞳が獣の如く細まり、部屋中の酸素を食い尽くすほどの殺気が、令嬢たちを地面に這いつくばらせる。


「陛下……! これは、彼女が……!」


「黙れ。……我が伴侶、ナオミの心を傷つけ、大切な我が同胞達を侮辱した罪。……今すぐその舌、根元から噛み千切ってやろうか?」 


レオン様は音もなく私の隣に並び、泥に汚れた私の裾を、震える指先でそっと掬い上げた。


「……失せろ。二度と、俺の『唯一』の前にその汚れたツラを見せるな」



エレーヌが逃げ出した後。

レオン様は急にガクンと膝をつき、私の汚れたドレスに顔を埋めた。


「……ナオミ……、俺は情けない……! お前を守るどころか、汚させてしまった……。今すぐ、俺がこの泥をすべて消し去ってやりたい……!」


悲痛なまでに自分を責める王の姿に、私の胸の奥がチクリと痛んだ。

さっきまで「シマ出ろ」と叫んでいた熱が、スッと引いていく。


「……レオン」


私は彼の頬にそっと手を添え、震える黄金の瞳を見つめた。


「……ごめんなさい。……本当に、ごめんなさい、レオン。……せっかくあなたが私のために用意してくれた、こんなに綺麗なドレスだったのに。……私の不注意で、汚しちゃった」


さっきの凄みはどこへやら、自分でも驚くほどしおらしい声が出た。

申し訳なさで視線を落とす私。


レオン様は絶句し、顔を真っ赤にして固まった。

……が、次の瞬間。


「…………ッ!! ナ、ナオミが……しおらしく謝った……だと……!? ……聖獣ケダモノ以外に、そんな可愛い声が出るのか……ッ!?」


感動のあまり、レオン様は天を仰いだ。

……が、次の瞬間。彼は泥に汚れたドレスを一瞥し、フッと不敵な笑みを浮かべた。


「……案ずるな、ナオミ。俺は『野生の王』だ。常に最悪の事態スペアを想定して動いている」


レオン様は懐から、一通の回状メモを取り出した。


「実は、もしものことを想定して……お前の『替えのドレス』も、既に用意させてある」


「……えっ? あ、そうなの? ……王様、たまには気が利くんですね。動物ハク並みの直感ですか?」


不覚にも、少し見直してしまった。

私が毒のある褒め方をすると、レオン様は「……動物ハク並みか……」と、少し可愛く落ち込んでいる。……チッ、ちょっと罪悪感が。



二人で王宮の西棟、私の私室へと続く廊下を歩いていると、青い顔をした執事が、大きな衣装箱を抱えて走ってきた。


「へ、陛下! お言いつけの通り、ナオミ様の『替えのドレス』を持ってまいりました!」


「うむ、苦労をかけた。……さあ、ナオミ。着替えるがいい」


「……ありがとう、王様。……助かったわ」


私は衣装箱を受け取り、廊下の突き当たりにある、貴婦人専用の【お着替えのパウダールーム】へと入った。

汚れたドレスを脱ぎ捨て、期待に胸を膨らませて衣装箱を開ける。


「……えっ?」


箱の中身を見た瞬間、私の思考が停止した。


そこに鎮座していたのは、純白のドレス……ではなかった。


(ちょっと……何これ。……何なの、これぇぇぇぇぇッ!!)


それは、漆黒のレザーで出来た、体にピッチリと密着する……ドレスというよりは、【鞭を持った調教師】が着るような、極めて露出度の高い、ボンテージ風の衣装だった。

しかも、うさ耳のカチューシャに、背中にはご丁寧に、兎の体毛で作られた『兎の尻尾』までついている。


「……王様ァァァァァァァァッ!! 今すぐここへ来い、コラァァァァァッ!!」


私のお着替えの間からの絶叫が、王宮中に響き渡った。



三十秒後。

お着替えの間の扉が、ゆっくりと開いた。

そこに立っていたのは、いつもの凛々しい王ではない。


黄金の瞳を限界まで見開き、頬を異常なほど紅潮させ、鼻の下をデロ〜ンと伸ばした……およそ一国の王とは思えない、【変態的なキモい表情】を浮かべたレオン様だ。


「……フシューッ! フシューッ!! ナ、ナオミ……! 呼んだか……ッ!?」


彼は蒸気機関車のような激しい鼻息を撒き散らし、口元からは薄っすらとよだれが垂れている。


「……王様。……これ、何ですか。……説明によっては、その鼻を物理(正拳突き)で粉砕しますよ」


私は衣装箱の中身を指差し、ドスの利いた声で訊ねた。


「……フシューッ! それは……! 俺の『深層心理へんたいしゅみ』が具現化した、最強の正装ドレスだ……ッ! ナオミ……! その衣装で、俺を……俺を『なでなで(調教)』してくれ……ッ!! フシューッ!! 止まらん、鼻血が……ッ!!」


レオン様は鼻血を噴き上げながら、その場に四つん這いになり、私に検品マーキングを求めてきた。


「………………引くわ。……王様、一回死んで、動物ケダモノからやり直してきなさい、マジで」


ナオミ姐さん、本日七度目の大ピンチ。

せっかくの「本気の謝罪」と「気が利く褒め言葉」を、王様の底なしの変態趣味で台無しにされたものの、少しだけ心が軽くなった……ような気がした。


(つづく)

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