売店バイト、グンディに会う(下)
手伏区生物園の裏口は、一階のバックヤード側にある。
サトシは園長に半ば追い出されるようにして売店を離れ、少し駆け足気味に階段を降りていった。
一階へ続く階段の踊り場には、『ようこそ手伏区生物園へ!』と、一昔前に流行った丸文字フォントで描かれたポスターが貼られている。
角はめくれ、日焼けしたのか色も褪せていて、いつ貼られたものなのか見当もつかない。
ポスターに描かれた動物たちの笑顔も、今ではどこか寂し気に見える。
その横の小さな窓はロクに掃除されておらず、外の植え込みや鳥小屋は、すりガラス越しのようにぼやけて見えた。
冬枯れの植え込みが、風に揺れている。誰も手入れをしていないのだろう、枝が伸び放題になっていた。
見慣れたうらぶれた光景を横目に階段を下り切ると、サトシはウトウトと舟を漕いでいる受付係の背後を抜け、従業員専用通路へと足を踏み入れた。
――なんで自分は、ここにいるんだろう。
エアコンなどという気の利いた設備はなく、冬の冷気がそのまま居座っている薄暗い通路を歩きながら、サトシはふと自問した。
思い返せば、これまで自分で強く決めたことなど、ほとんどない。
進学も、バイトも、その場その場で無難そうな選択肢を選んできただけだ。
このバイトだって、そうだった。
「通っている電機大学から近い」「シフトの融通が利く」「時給がそこそこ」。
そんな条件だけで選んで、気づけば二年近く続いている。別に嫌いではないが、好きでもない。ただ、続けているだけだ。
誰かに言われたことを言われるがままこなし、気づいたら流れに乗っている。
それがいつものパターンだった。
辛いとか苦しいと感じるほどでもない。
けれど満足しているかと聞かれたら、素直に頷くこともできない。
自分の人生のはずなのに、どこか他人事のような距離感がある。
まるで、誰かの書いたシナリオをなぞっているような、そんな感覚。
そんな思いを振り払うように歩いていると、不意に背筋にゾクッと冷たいものが走った。
そんな思案をしながら関係者用駐車場に出ると、170センチほどある長身に、がっしりとした体つきの見慣れた後ろ姿があった。
生物園で一番頼りになる飼育員で、サトシがここで迷子になるたびに助けてくれた人だ。
彼女は、生物園のロゴ入りキャップと厚手の防寒ジャンパーを着こみ、軽バンのリアゲートを開けていた。
「箱音さん、お待たせしました」
声をかけると、彼女は振り返った。
少し日焼けした健康的な肌に、肩くらいまで伸ばした髪を軽く茶色に染めている。笑うと目尻に細かいしわが寄る、20代半ばくらいの女性である。
「あれっ、丑前くんじゃん!?林王さんは?」
「園長なら、売店でのんびりしてますよ」
箱音サナエは一瞬だけ何かを察したような顔をし、それから小さく笑った。
「ってことは、丑前くん、また林王さんに仕事押し付けられたんだ」
「まあ……やることなくて暇でしたし」
軽い自虐のつもりだったが、それがツボに入ったのか、サナエはくすっと吹き出した。
「はいはい。じゃあ後ろに積んであるケージ下ろすから、丑前くん、台車持ってきてくれる?」
そう言って、サナエは車両後部に積まれた、布で覆われた五十センチ四方ほどのケージの固定ベルトを外し始めた。
覆いの下は見えないが、カサカサと何かが動く音とともに、チュルチュルとネズミの声にも似た甲高い鳴き声が聞こえてくる。
変わった生き物らしい、ということだけは伝わってきたが、それ以上のことは、物置へ向かうサトシにはさっぱりわからなかった。
物置の扉を開けると、古びた台車が壁に立てかけてある。
タイヤがすり減っており、動かすとガタガタと音を立てる。それでも、まだ使えるからと捨てられずにいる代物だ。
サトシはそれを引っ張り出し、車両の方へと押していった。
台車を持って戻ると、すでにベルトは外され、サナエがケージを慎重に下ろそうとしていた。
「持ってきました。そっち手伝いましょうか?」
「ありがとう!お願い!」
サトシは反対側に回り、ケージの底に手を添える。
せーの、の掛け声で持ち上げると、拍子抜けするほど軽かった。
「軽いですね。この中に何がいるんですか?」
「あれ?林王さんから聞いてないの?」
歩きながら頷くサトシに、サナエは少しだけ口元を緩めた。
「この中にはね、『グンディ』っていう生き物がいるんだよ」
「ぐんでぃー?聞いたことないですね」
「そりゃそうよ。この国じゃ、ウチ含めて二か所でしか飼ってないんだから」
サトシは台車にそっとケージを載せながら相槌を打つ。
小動物なのだろうが、姿が見えないぶん、実感が湧かない。
布の下からは、相変わらずチュルチュルという鳴き声が聞こえてくる。
「そのグンディって、どんな動物なんですか?」
「砂漠に住むネズミの仲間」
「ネズミ!?マジですか!?」
思わず声が裏返った。
「どうしたのよ、その顔」
サナエは首をかしげた。
「い、いや……ネズミはちょっと苦手でして……」
「へえ、初めて聞いた。何かあったの?」
「小学生の頃、友達のハムスターに噛まれまして。しかも変な菌が入ったみたいで、一週間寝込んだんですよ」
そのときの記憶が蘇る。ズキズキと痛む指先、熱にうなされた夜。母親が一晩中看病してくれたことが記憶に残っていた。
「あー、あるある。痛かったでしょ」
「とっても」
サトシはケージから半歩距離を取る。
それを見て、サナエは苦笑した。
「大丈夫。この子たちは滅多に噛まないよ。それに結構かわいいよ」
そう言われても、サトシの中の警戒レベルは下がらない。
ネズミの仲間と聞いた瞬間、あの小さくて鋭い歯が脳裏に浮かんでしまう。
「じゃあ私が台車押すから。丑前くんはケージが落ちないように見ているだけでいいよ」
「助かります」
サトシは正直にそう答えた。
二人はゆっくりとバックヤードのある五階へ向かって進み始めた。
途中、別の飼育員に声をかけられ、簡単な立ち話を挟んだりしながら、動物運搬用の大型エレベーターへと乗り込む。
普段、サトシはめったに使わない、業務用の大きなエレベーターだ。壁には引っかき傷や汚れがついていて、長年動物たちを運んできた歴史を物語っていた。
扉が閉まると、ケージの中の鳴き声が、箱の中で反響するように強くなった。
チュルチュル、カサカサ。何匹かいるのだろうか。複数の鳴き声が重なり合っている。
特に会話もなく、サトシが階数表示のパネルをぼんやり見上げていた、そのときだった。
『おい、誰ぞいるのか?』
唐突に、よく通る声が脳裏に響いた。
中性的な、それでいて威厳を感じるような声である。
「……え?箱音さん、何か言いました?」
「えっ?何も言ってないけど?」
サナエは不思議そうに首を傾げる。
その表情に嘘はなさそうだった。
聞き間違いか。
それとも、疲れているのだろうか。
そう思った瞬間、エレベーターが五階へ到着し、扉が開いた。
サトシは誤魔化すように台車を押し、バックヤードの空きスペースへケージを運び込んだ。
空調の効いた飼育室の床へ慎重に下ろすと、サナエが言う。
「じゃあ、この場所でいいかな」
「この後どうするんですか?」
「しばらくは群れで慣れてもらうから、このままケージ生活だね。環境に慣れたら、展示用の部屋に移すつもりだよ」
サナエは台車の持ち手を掴みながら続けた。
「じゃあ私は園長に書類書いてもらってくるついでに、台車片づけてくる。悪いけど、ちょっと待っててくれる?」
「大丈夫です」
「ありがとう。グンディ見てもいいよ!」
「……検討しておきます」
気にした様子もなく、サナエは台車を押して去っていった。
広い飼育室に残されたのは、サトシと、布をかぶせられたケージだけだった。
室内には、エアコンの稼働音と、ケージの中から聞こえる小さな鳴き声だけが響いている。
「……ネズミの仲間、か」
珍しい生き物を見たい気持ちと、できれば関わりたくない気持ちがせめぎ合う。
少し迷ってから、サトシは小さく息をついた。
「せっかくだし……少しだけ」
ケージに近づいた、その瞬間。
『二度も言わせるでない。誰ぞいるのか?』
「えっ、誰!?誰かいるんですか!?」
確かに聞こえた。今度は間違いない。
『そこにいる者よ。この天幕を外せ』
「天幕って……?」
声は、ケージの方から聞こえてくる。
『余たちを覆うこの幕のことよ。はよう外せ』
――中に人がいるのかもしれない。
そんなありえない事態が脳裏に浮かんで、サトシは慌ててケージを覆う布を引き剥がした。
当たり前というべきか、中に人影はなかった。
代わりにいたのは、きな粉色の毛並みをした、丸っこい小さな生き物だった。
モルモットを一回り小さくしたような体に、扁平で体にめり込んでいる耳が特徴的である。
体長は十センチほどだろうか。ふわふわとした毛に覆われていて、確かにサナエの言う通り、可愛らしいと言えなくもない。
そんなネズミが、つぶらな瞳でこちらを見つめながら、小さく首を傾げた。
サトシは呆然とケージを見つめた。
まさか、生き物が言ったのか……?
『おい、下僕よ。余は退屈である。しばし付き合え』
声は確かに、ケージの中から聞こえてきた。
きな粉色のネズミが、サトシの方を見つめている。
その瞳には、確かに知性の光が宿っていた。
グンディ可愛い、というモチベーションのみで書き始めました。
気になった方はぜひ調べてみてください。
次回もどうぞお付き合いください。




