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売店バイト、グンディに会う(上)

――こんな暇でよいのだろうか?


 松の内もとうに明け、正月特有の浮ついた空気もすっかり抜け落ちた平日の午前。

 手伏区生物園(てふせくせいぶつえん)二階にある売店のレジカウンターで、丑前(うしまえ)サトシは小さくあくびを噛み殺しながら、胸の内でそうつぶやいていた。


 窓の外では、冬の陽射しが淡く園内の木々を照らしている。葉を落とした桜の枝が、風に揺れて影を落としていた。

 時刻は午前十時を少し回ったところ。平日のこの時間帯、来園者はまばらだ。


 散歩のついでに立ち寄ったのだろうか。おそろいのベージュのコートを着た老夫婦が、テーブルを挟み、ゆっくりと湯気の立つ紙コップを傾けている。

 ホットコーヒーだろうか。老婦人が一口飲むたび、安心したような表情を浮かべるのが見えた。老紳士の方は、持ち込んだのであろう新聞を広げながら時折妻の方へ視線を向けている。

 長年連れ添った夫婦の、穏やかな空気感がそこから醸し出されていた。


 その隣では、若い母親が毛糸の帽子を深くかぶせた幼児を抱き上げ、今にも泣きだしそうなその子を優しく揺らしていた。

 赤ちゃんの小さな手が、母親の髪を掴もうとして空を切る。母親は困ったような、それでいて愛おしそうな表情で我が子を見つめていた。


 ぐずり始めた赤ちゃんに気づいた老婦人が、ふいにこちらへ身を乗り出し、わざと変な顔をしてみせる。

 口を大きく開けて、目を見開いて。まるで子どもに戻ったかのような無邪気な表情だった。

 どんな魔法を使ったのか、赤ちゃんはたちまち泣き止み、きょとんとした顔で老婦人を見つめている。母親は思わず小さく頭を下げ、老婦人も柔らかく微笑み返した。


 そんなささやかな光景を、サトシはレジ越しに、なんとなく温かい気持ちで眺めていた。

 どちらの客も売店の商品棚には見向きもしない様子で、となれば、今のサトシにできることは、こうして景色の一部になることくらいしかない。


 実際、午前中の売店は驚くほど静かだった。

 棚に並ぶのは、モルモットのぬいぐるみ、オオカンガルーのキーホルダー、世界のカブトムシが描かれたクリアファイル。どれもありきたりか地味で面白みがあるとは言えない。

 一番の売れ筋のぬいぐるみですら、今日はまだ一つも売れていなかった。


 しばらくぼんやりしていたが、やがて彼は手元の電子工学の教科書へと視線を戻した。

 明日からまた大学の授業が始まる。そして二週間もすれば期末考査だ。


 前期でいくつか単位を取りこぼしている。

 特に必修科目を一つ落としたのが痛かった。これ以上単位を落とせば、来年のスケジュールが一気に窮屈になる。学業が窮屈になれば就職活動のスケジュールまで響いてくるだろう。

 今回は真面目にやらないと、同居する親からなんと言われるかたまったものではない。


 それでも、ページをめくる指先には、どうにも切迫感が伝わらず、目が上滑りする。

 「これが将来につながる」と強く実感できるほどの目標があるわけでもなく、ただ"今をやり過ごすための勉強"を積み重ねているだけ。

 サトシ自身、なにかざわつくものを胸に感じつつ、必死にそれを抑えるように本を眺めていた。


 高校時代は、それなりに目標があった。

 第一志望の大学に受かって、都内の企業に就職して、親元を離れて一人暮らしをする。漠然とした夢ではあったが、それでも前を向いていた気がする。

 けれど現実は、第一志望に落ち、浪人だけは絶対に嫌だったサトシは、合格した中で一番偏差値と就職率がマシなところへ進学した。


 同じ科目で受験できるという理由だけで選んだ大学に、特別な愛着はなかった。

 サークルにも入らず、友人と呼べる相手も片手で数えられる程度。家と授業とバイトを往復するだけの日々が、もう二年近く続いている。


 気づけば"就職活動"の文字が現実味を帯びてきている。

 友人たちは、そろそろ就職四季報や業界地図を買ったり、インターンシップの予定を組んだりしているらしい。

 だが、サトシ自身は何をしたいのか、何になりたいのか、まるで見えていなかった。


 夢なんて言葉は、今の彼にとって贅沢品のようなものだった。


 やがて喉の渇きを覚えたサトシは、棚の下からペットボトルを取り出すと、中の麦茶を一口飲んだ。

 ぬるくなった麦茶が喉を通り、胃に落ちていく。少しだけ、現実に引き戻される感覚があった。

 そうして、再び書籍に目を落とした時、唐突に声がかけられた。


「よう、ウシ。暇してそうだな」

 ダンディというには少し渋すぎる、聞き慣れた声。

 サトシは反射的に顔を上げた。


「あっ、園長。おはようございます」

 目の前には、手伏区生物園のロゴがついた、水色のジャケットを着た初老の男性がいた。

 日に焼けた色黒の肌、やや彫りの深い顔立ち。白髪交じりの髪をポマードでぴしっと固め、どこか昭和の映画スターめいた雰囲気を漂わせている彼は、サトシの上司でここの園長をやっている林王りんのうコウゾウであった。


 年齢は六十を過ぎているはずだが、その立ち姿には妙な迫力がある。

 背筋はまっすぐで、歩くときの足取りもしっかりしている。声も大きく、よく通る。

 古い体育会系の人間、とでも言うべきだろうか。サトシの父親より年上のはずだが、エネルギーの量がまるで違う気がした。


「新年早々、教科書とは感心じゃねえか。えらいぞウシ。でもな、売店のほうもちゃんと見とけよ?」

「わかってますって。やることはやってますよ」

「よし!なら文句なしだ。がんばれ若人!」

 暇なのを承知のうえで、園長はからからと笑いながらサトシの肩を軽く叩いた。

 その手は意外と力強く、サトシの肩に重みを残していく。


 サトシもつられて愛想笑いを浮かべる。

 おじいちゃん子だったサトシにとって、遠慮のないこの距離感はむしろ懐かしいくらいであった。

 幼い頃、よく祖父に肩車をしてもらった記憶がある。力強い手で支えられて、高い場所から見下ろすあの感覚。

 園長の存在は、どこかあの頃の祖父を思い出させた。


――と。


「ところでよ。ウシは、夢ってあるかい?」


 来た。

 先ほどとはうってかわり、サトシは内心で盛大にため息をついた。


 園長は、若い職員を捕まえては、決まってこの質問を投げてくる。

 昔のドラマか映画の名台詞らしいが、何度も聞かされるこちらの身にもなってほしい。

 しかも、この問いはサトシにとって、地味に痛いところを突いてくる。


 先月の忘年会でも、同じバイト仲間の大学生が、この質問を投げかけられていた。

 彼は「起業したいっす!」と即答して、園長から「おお、いいねえ!」と肩を叩かれていた。

 その光景を横目で見ながら、サトシは自分には言えることがないな、と思っていた。


「そうですね……最近は、いい会社に入って、それなりに暮らせたらいいなぁ、くらいですかね」

 口にしてから、自分の言葉の曖昧さに少しだけ嫌気がさした。

 本当に、それでいいのか。自分でもわからない。


「なんだそりゃ!淡泊すぎるだろ!もっとあるだろ?うまいもん腹いっぱい食いたいとか、可愛いねーちゃんとよろしくやりたいとかさ!」

「いつの時代の話ですか。そんな言い方していると、セクハラ扱いされますよ」

「おうおう、ウシも言うようになったじゃねえか」

 園長は嬉しそうに笑った。まるで、反抗期の孫を見守る祖父のような目だった。


「そりゃ言いますよ。じゃあ逆に聞きますけど、園長の夢って何なんですか?」


 若干呆れ混じりに返したその問いに、園長は待ってましたとばかりに歯を見せて笑った。

「あるとも!今年こそ、この生物園の来場者数を三十万人にする!」

 そう言って、ドン、と胸を叩く。


「誰も前を走ってねえ、誰もまだ踏み越えちゃいねえゴールだ。どうだウシ、ワクワクしねえか!?」

 サトシは、本格的に呆れる。

 この生物園は、決して広くはない。

 ゾウもライオンもパンダもいない。園内マップを見ても、目玉と呼べる展示はほとんどなかった。

 最大級の動物は、南半球にある動物園から迎え入れたオオカンガルー。あとは魚類と昆虫と小動物が中心だ。


 そんな、目玉になりそうなカンガルーをサトシは何度か見ている。

 オッサンのように寝転び、時に給餌用トレーを使って体を掻くカンガルーが、そんなに注目されるとは思えなかった。

 一応、その脱力感が一部のSNSユーザーに一瞬ウケたことがあるが、それも一過性のブームで終わった。


 そんな生物園なのだから、地元の住民や変わった動物好きくらいしか来ない。

 昨年度だって、ようやく二十万人を超えるか超えないかの来場者数だったのだ。

 そこから急に十万人増やすなど、現実的とは思えなかった。


 冷ややかな目で園長を見るサトシに、彼はなお不敵な笑みを浮かべたまま、言った。


「なんだその目は。さては信じていないだろう」

「信じる信じない以前に、どうやって三十万人に増やすんですか」

「よく聞いたな、ウシ!実はな、今度、新しい生き物を展示することにしたんだ!」

 サトシは目を見開いた。そんな話、全く聞いていない。まさに寝耳に水な情報であった。


「はあ!?そんな話知りませんでしたが?」

「そりゃあ、まだ一部のスタッフしか知らない極秘ニュースだからな。まあいい、今から特別に教えてやる!その生き物はな……」


 そこで一息ついた、その瞬間。

 園長の胸ポケットから、安っぽい着信音が鳴り響いた。

 昭和歌謡のメロディが、妙に場違いな明るさで売店に響き、座っていた子連れのお母さんがこちらを振り向く。


 スマホを確認した園長は、にやりと笑い、サトシに向き直る。


「ちょうどいい。たった今、着いたらしい。ウシ、お前、サナの手伝いに裏口まで行ってくれねえか?あいつ一人じゃ大変だろ」

「ええっ、なんで僕なんですか!?僕、売店のバイトですよ!?」

「いいじゃねえか!俺が許す!ここは俺が見てやるからさぁ!」



 あまりにも堂々とした権限行使に、サトシは一瞬言葉を失った。

 これは職権乱用なのでは――と思わなくもなかったが、上司にここまで言われてしまえば、断る理由も見つからない。

 それに、園長が売店に立つのは今に始まったことではなかった。むしろ、こうして現場に顔を出すのが園長の流儀だった。


 サトシは観念したように立ち上がり、園長と場所を交代する。


 夢だの目標だのと大きな話を振られた直後に、結局やるのは雑用だ。

 それが今の自分らしいな、と内心で苦笑しながら、彼はのっそりと裏口へ向かって歩き出した。

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