第3話:ツツジ咲く庭で(後編):朝陽
今日は何となく早く目が覚めた。というのも昨日家に帰ってきたときに、夕空に影を落とす龍の姿を見たときから、どうにも落ち着かない気分でいたのだ。もう少し寝ていたい気持ちもあるけれど、神さま自身が僕を急かしに来た以上、これ以上の先延ばしは誰のためにもならないだろう。それに管理人のいる社までの参道は今でも管理、整備されているとはいえ、やっぱりそれなりに距離もある。数日前に行ったときは勢いも手伝ってかそこまで疲労は感じなかったけれど、あえてまた行くのであれば意識するに越したことはない。
僕は、無地のよれた半袖にジャージのハーフパンツという格好で部屋から出て階下に降りた。僕の部屋は2階の奥、手前に母さんと父さんの寝室がある。1階の正面奥にはリビング、入って右手にキッチンスペース、その間をつなぐよくわからない空間の左手側に、父のPCデスクがある。僕は大学入学時に自分のノートPCを買ってもらったけれど、それまでは父さんのPCを一緒に使用していた。それを見たとき、そういえば今ならネットで調べるという手もあったんだなと思い至った。
改めて自分はなんか抜けてるんだよなと思い知ったような気分になる。まぁ、文人さんに会えたからよしとしよう。結局、本で読もうがネットで調べようが、そもそも文献が出回っていなければ仕方がない。口止めされるような情報が、そのあたりにごろごろ転がっているはずはないのだから。ひとまず水を飲もうと思ってキッチンに入ると、慌ただしく準備をしていた母さんと目が合った。
「あら朝陽、珍しいじゃない、この時間に起きてくるなんて。」
「そうかな。」
「そうよ。だってまだ七時じゃない。いつもは昼近くまで寝てるんでしょ?」
「まぁ、そうだけど。」
「それに声をかけたって起きないし。」
「起きてはいるよ。ベッドから降りないだけ。」
「そう?まぁ、いいんだけど。食べるものは冷蔵庫に入ってるから、適当に出して食べなさいね。」
「うん。ありがと。」
「じゃ、お母さんもう行くわ。また夜にね。」
そう言って母さんは、いつものようにコーヒーの入ったタンブラーと、仕事用の鞄を掴んでバタバタと家を出て行った。玄関の扉をくぐるときに「行ってきます。」と言うのが聞こえたので、「行ってらっしゃい。」と返した。高校の時はいつもこんな感じだった。ただ当時の僕はこの時間はギリギリで余裕がなくて、こんな風にゆっくり見送ったりはしなかった。
改めて水を飲むために食器棚からグラスを取って冷蔵庫を開ける。ペットボトルの水が入っているはずだ。ついでに、母さんが入れてくれた食べるものを確認しようと中を見回す。おにぎりが数個と、昨日の残りのから揚げ、たぶんお弁当の残りだった卵焼き、それとサラダ。うん、お昼はこれで十分だな。朝ごはんにはパンがある。僕は、朝はあまり食べるほうじゃないけれど、今日はいつもより早い時間に起きたからか何かお腹に入れておきたい気分だった。
パンを軽くトーストしながら、カフェオレを用意する。このあたりは昔とさほど変わらない。朝、もとい起きた直後に固形物を口にするのは得意じゃない。それでも軽く焼いたバターロール2つを手づかみで食べながら、温かいカフェオレを飲むのが好きだった。それは今も変わらない。お茶漬けも好きでよく食べていたけれど、あれは食べきるのに少し時間がかかってしまう。朝はあまり時間がないので、手軽にパパっと食べられるものが嬉しかった。しかもあまりがっつり食べると体が重くなってしまう。朝ごはんは健康的な生活習慣の一つとしてよく推奨されているけれど、僕の場合は逆に具合が悪くなってしまうので難しい。
パンは早々に食べきってしまったので、カフェラテを飲みながら今日のこれからについて考える。まず山に行くのは確定なのでそれについてはいいとして、目的の社がある地点まではだいたい40分くらいあれば行けるだろうから、あとは何時に行くかだ。神さまはいるかもしれないが管理人である学さんの都合がわからない。急に行っても大丈夫なものだろうか。それに、昨日街に行ったついでに菓子折りでも買っておけばよかった。本当に僕はいつも何か一つ足りない。
ふぅ、と息を吐いて重心を右側に落とす。へこんだ時によくやる癖だ。その後ですっと背筋を伸ばしてあたりを見回す。キッチンには背の高いテーブルがあって、その上にはパンやお菓子、お湯に溶かすタイプのカフェオレやココアのスティックなんかが置いてある。母さんは僕が中学生くらいまでの時は、お菓子やジュースの類は全く家に置かなかったのに、高校生になると勉強疲れや部活動の影響でお腹が減りやすくなった僕を心配して、個包装のチョコやパンなどを軽食の扱いでストックしてくれるようになっていた。
今は昔ほど家計が苦しくなくなったのもあるんだろう。制限されていたものが解禁された影響かほんの少し胸の苦しさを感じるけれど、前よりもずっと明るくなった家には心地のよさを感じている。
テーブルの上を見渡すと、まだ未開封のチョコレートの詰め合わせが置いてあった。学さんの口に洋菓子の甘味が合うかどうかはわからないけど、甘いもの自体は嫌いじゃなさそうだった。
そういえば、神さまはどうだろうか。人間の食べ物は食べるのか、食べるとして好みはあるのだろうか。初めて会ったとき神さまはずっと庭にいて、学さんが出してくれた和菓子に口をつけるところは見られなかった。それに龍がもし動物、犬や猫と同じような生き物だとしたら、うかつに食べさせてはいけないかもしれない。いや、でも人間の姿に変化していたしあんまり関係ないのかも?とはいえ、お供え物としての意味くらいはあるだろうか。うんうんと唸って、結局はチョコの袋を持っていくことに決めた。
カフェオレを飲み切って自室に戻った僕は、それまで着ていた部屋着からジーンズとTシャツに着替える。半袖ではあるが、行く場所は山なので長袖の上着を着ていくつもりだし、履きなれたスニーカーの用意もある。さらに手ごろなサイズのリュックに、キッチンから持ってきたチョコの袋と水を入れたボトルを詰める。リュックは大学に通うときにも使っていたもので、細部がかなり擦り切れている。そろそろ新しいものを買わないと、と思ってまた日にちが経ってしまう。他に、何か詰めるものがないかと考えてみたけれど特に思いつかなかったのでそろそろ出かけることにした。なんやかんやでもう十時だった。時間的にもちょうどいいかもしれない。
昨日本に挟んだツツジの花を確認する。きれいに乾くにはもう何日か必要かもしれない。小学生の頃はよく作っていたけれど、押し花なんて久しぶりに作ったな。そういえば、そろそろ社近くに植えられているツツジの花が満開になるんじゃないだろうか。あの神さまもツツジの花が好きなようだった。あそこのツツジは白い花のものばかりだったはず。赤いツツジもかわいいけれど、僕は白い花のツツジが特に好きだから、心なしかうきうきとした気持ちになる。
もう一度ツツジの花をきれいに挟んで、元の位置に本を戻してリュックを背負う。最後に、あの神さまが置いていった黒い鱗の1片をなんとなくジーンズのポケットに押し込んで、僕は玄関へ向かって階段を下りた。
しばらくして、僕は山のふもとへとたどり着いた。山のふもとまでは来るのはそれほど大変ではないけれど、小さいとはいえ山は山。社までの道は、管理こそされてはいるものの少し細くて歩きづらい。前管理人である瀬尾のおじさんが山を下りてしまったのにも納得できる。そんなところに涼しい顔して住んでいる学さんの方がすごいのではないだろうか。そんなことを思いながらなんとか道を歩ききったものの、ぜぇはぁと息をして額にはうっすらと汗がにじんでいる。大学の3年や4年の先輩が自分のことをおじさんと表現するのもわかる気がする。体力はこうも簡単に落ちてしまうのだと改めて痛感した。
意識的に深い呼吸を繰り返してどうにか息を整える。よし、と顔を上げようとしたその時、突如として強い風が目の前から襲ってきた。まるで風そのものがぶつかってくるような突風に思わず腕で目を覆い、足を引く。しかし、すぐ後ろが階段だったことを思い出してぐっとお腹に力を込める。体感十秒ほどで風は止んだ。けれど目の前からなんとなく圧を感じる。
「朝陽君!」学さんの呼ぶ声が聞こえたのでゆっくりと目を開ける。
「えっ、わ!」目の前に現れた巨大な壁に驚き、今度は思いっきり後ろにのけぞってしまった。
「あ、やば。」
「おっ、と……危なかったですね。」
階段を転げ落ちると覚悟した瞬間、急いで駆け付けたであろう学さんが、後ろから僕の肩を抱き込むように受け止める。そういえば学さんは結構背が高くて筋肉質だったなと、安定した支えに安心してなんとなく思い出した。ほっとしたのもつかの間、目の前に現れた壁の正体を確認して、再び目を見開く羽目になった。だってそれは、あまりにも巨大な龍の顔だった。
「朝陽君、大丈夫ですか?」驚きで固まってしまった僕の肩を抱きながら、心配そうな学さんの声が耳もとで聞こえる。
「うぁ、大丈夫です。」まだ驚きが冷めやらないまま、なんとか体勢を整える。いつまでも学さんに体を預けているわけにもいかないので、のけ反った体を前に起こす。状況を察してか黒い龍がわずかに顔を引いた。と思ったら、急に鼻先を僕の体に押し付けてきた。冷たいような温かいような不思議な感触に、反射的に体が震える。というかこの大きさのものが収まるスペースなんてあったっけ。冷静になりつつある頭の中では、やっとこの不可思議な状況を分析し始める自分がいる。
「理央さま、そろそろ勘弁してやってくれませんか。」微笑みつつも困ったような声音で学さんが龍に向かって話しかける。
「え、理央さま?」
「はい、これが本来のお姿なのです。しかし、あまりに急で、驚かせてしまいましたね。申し訳ありません。」
「あ、いえ、全然大丈夫です。驚きはしましたけど。」
落ち着いて状況を確認してみると、決して広くはないスペースに、黒い龍はきれいに体をたたみこんで収まっているのが確認できる。いやなんというか器用なものだな。そうこうしている間に龍の体は徐々に小さくなっていき、最終的には前にも見た金髪の人影へと変わっていく。完全に変わり切るかと思ったその時に、その人影は、今度は思いっきり腕を広げて僕の体へとダイブしてきた。
「うわ!」しっかり受け止めつつも、また不安定な体勢になってしまった僕の肩を、学さんが片手で支える。ほんとしっかりしてるなこの人。当の神さまはというと、僕より少し小さめの体躯で僕の胸に頭を擦り付けているのを見るに、神さまと聞いて思い浮かべるような大仰な性格よりも、むしろかなり懐っこい性格なのではと思い直す。
「本当に懐かれてしまったみたいですね。」やれやれといった体で微笑んでいる学さんの声を隣に聞きながら、脳内に浮かんだ無数のはてなを、ひとまず脇に置いておくことに決めたのだった。




