第21話:やがて雨脚は強さを増して(中編):文人
カフェ・コンツェルトの正面入り口にたどり着いたタイミングで、一気に雨が強くなる。急に走り出したことで乱れた呼吸を整えながら、わずかに濡れた額をぬぐう。肩で息をしながらもなんとかギリギリ間に合ったなと安堵していると、隣から声をかける人物がいた。
「あの、こんにちは。文人さんですよね?」
それは朝陽くんだった。僕と同じタイミングでカフェに到着したらしい彼はリュックを前に抱きかかえ、少しばかり雨に濡れている髪の毛の先から、ぽたぽたと水がしたたり落ちている。呼吸を整えながら彼の方に顔を向けると、不安そうだった彼の表情が、わかりやすく微笑みに変わった。
「あ、文人さん。間違ってたらどうしようかと。」
「あはは、ごめんね。気付かなかった。久しぶりに走ったものだから息が切れてしまって。」そう言いながらなおも肩で呼吸を繰り返す僕を見て、朝陽くんは心底心配そうな顔を向けている。
「本当に、急に降ってきましたね。僕もびっくりしてしまいました。」彼もまぁまぁ雨に濡れているのに、少し肩を落としてふにゃりと笑う。僕は、迷わず自分のハンカチを差し出した。
「はい、どうぞ。少し水滴をぬぐうといいよ。」
「え、そんな、悪いですよ。」
「ははは、そのままカフェに入る方が悪いから、ちょっとだけね。」
「あ、それもそうですね。すみません、お借りします。」
「うん、あ、僕も拭きたいからそのままちょうだい。」
「あ、まだだったんですね。よかったんですか?」
「うん、どうせ濡れるんだから関係ないよ。」
申し訳なさそうにする彼からハンカチを受け取って、額を伝う雫をぬぐう。この感じでは汗なのか雨なのかよくわからないな。軽く濡れた袖をパンパンとはたきながら、ガラス越しにカフェの中を覗き見る。人影はまばらで、むしろいつもより少ないような印象すら受ける。
「さぁ、ここにいても仕方がないし、中入っちゃおうか。」
「あ、はい。そうですね。」
「このカフェ初めて?」
「いえ、あー、はい。初めてです。」
「図書館には結構来てたのに?」
「はい。こんなところにカフェがあったなんて、全く気づきませんでした。」僕たちは扉を開いて中へと入る。
「それじゃあ、カウンターで何か頼もう。僕が払うから、好きなのを頼んでいいよ。」そう言いつつ、まずはいつものカフェラテとサンドイッチを頼む。朝陽くんも僕に合わせて軽食とドリンク、ホットサンドとオレンジジュースを頼んでいた。意外と甘党なのかな?そうして支払いを済ませてしまう。
「じゃあ、あっちの空いている席に座ろう。」これからもう一人来ることを想定して、壁際の四人用テーブル席を指し示す。
「はい、あの、ありがとうございます。ごちそうさまです。」朝陽くんが控えめにお礼を言う。
「うん、いいんだよ。こういうのは年上のたしなみだからね。」僕は何でもないよという風に笑って見せた。
カフェは、ガラス越しに見た通りに閑散としていて、いつものような昼時の賑わいにかけている。まぁむしろ、これからするであろう話について、内容の重さを考えたら、このぐらい静かな方が話しやすいかもしれなかった。カフェのガラス窓は、雨に打たれてうっすら曇りかけている。雨脚は徐々に強さを増しているようで、少しずつ音が大きくなっていく。綾坂さんは、濡れていないだろうか。
「そういえば、今日会う方はどんな方なんですか?」席に着くと真っ先に朝陽くんが訪ねてくる。
「あぁ、気になるよね。今日会う人は綾坂さんっていう女性の方なんだけど、大学院生でね。皆瀬村の龍神伝説を調べているみたいなんだ。」
「あぁ、そういえば前に少し言ってましたね。」
「うん。研究には情熱的な方でね、どうも独自に調査を進めているみたいで。会うたびに毎回興味深い話を聞かせてくれるんだよ。」
「知り合い、なんですか?」
「そうだね。連絡を取り合うほどの仲ではないけれど、仕事中に会ってから、このカフェでよく話をするようになったんだよ。」
「仕事中に?」
「うん。皆瀬村の郷土資料を探していたからね、少し手伝ったんだ。久しぶりに君に会った時と同じだね。」そう言いながら、サンドイッチを少しかじる。カフェラテを飲もうとしたところでカウンターの方に見慣れた人影を発見した。綾坂さんだ。
カフェラテを一口飲みこむ。朝陽くんもやっとランチに手を付け始めた。やっぱりこういうのは慣れていないんだな。綾坂さんはいつも通りのややフォーマルなスーツ姿、後ろに結った髪を揺らしながら歩いてくる。持っているトレーにはベーグルと紅茶。綾坂さん的にはいつものメニューなんだろう。
「遅くなりました。お待たせしましたか?」こつこつと靴音を鳴らしながら向かってきた綾坂さんは、空いている椅子に座りながら僕たちに問いかけた。
「いえ、僕たちもついさっき来たところですよ。」
「そうですか。おや、初めまして、でしょうか。そちらのお方は?」
「立花朝陽くんです。」
「初めまして。」僕が綾坂さんに紹介すると、朝陽くんは少し緊張したようにあいさつした。
「朝陽くんは皆瀬村の出身で、龍神伝説のこともある程度知っているので、一緒に話さないかと声をかけてみたんです。」
「……そう、でしたか。それはちょうどいいですね。よろしくお願いします。」綾坂さんはにこりと笑った。
「ああ、そうだ。申し遅れました。私は綾坂響歌。大学院生で、フィールドワークとして皆瀬村の龍神伝説について調べております。以後お見知りおきを。」かなり丁寧なあいさつだ。こういうことには慣れているのかもしれない。
「では、単刀直入にお聞きします。この前、水戸上山にいませんでしたか?すれ違ったような気がするのですが。」綾坂さんが目を光らせながら問いかける。それは朝陽くんに向かってだ。
「あ、……。そうですね。見たことあるな、と思ってました。すみません。」
「そうですか。よかったです。私だけが覚えているのかと、少し心配になりました。とはいえ、会話をするのは初めてですね?お話してみたいと、思ってたんです。」
「えっと、二人は一度お会いしたことがあるんですか?」僕は思わず問いかける。
「あぁ、会ったといっても、階段ですれ違っただけなんですがね。若い人が通っているのは珍しいなと、気になっていたんです。」綾坂さんが優雅に紅茶を一口飲んだ。やけに含みのある物言いばかりする。本当にただすれ違っただけなんだろうか。
「それはそうと、水戸上山の管理人さんとは話せましたか?」綾坂さんが僕に視線を向ける。
「あぁ、管理人の。はい、快くお話してくれましたよ。龍神伝説について、村に伝わっている伝承の中身を中心に。」
「そうですか。そうですよねぇ。あの管理人、なかなか口が堅いのですよね。」
「はい?」
「いえ、こちらの話です。それで、どう思いますか?」
「どう、とは?」
「管理人が、すべてを話していると思いましたか?」
「いや、それは……。」
なんだろう。綾坂さんは、やはり何かを知っているのか?前に話したとき、鱗を見つけたと言っていたけれど、そこからさらに進展でもあったんだろうか。
「あれ、でも、僕、管理人に会いに行くって言いましたっけ?」
「いいえ?でも、会いに行くようなことを、おっしゃってましたから。普段の行動を見ている限り、すぐにでも行ったんじゃないかと思いまして。」
「そう、ですか。それで、管理人はすべてを話していると思うか、に対する回答ですが、僕は話していないと思っています。」
「ほう?それはなぜ?」
「管理人さんはとてもまじめで誠実な方に見えるので、嘘はついていないと思うんです。でも、やっぱりどこか引っかかるんです。……うまくは言えないですが。」
「はい、私もそう思っています。だって彼、現存する龍の鱗に対して、否定ではなく黙秘という姿勢を取りましたから。」
「え?」
やっぱりどこか不自然だ。管理人の学さんの話ではなく、今日の綾坂さんの発言が。飲みかけていたカフェラテから口を離す。なんだろう。どこまで突っ込むべきだろうか。隣の朝陽くんに視線をやると、彼はわかりやすく緊張しているようだった。ホットサンドもオレンジジュースもほとんど減っていないし、目が泳いでいる。そして何かを考え込んでいるかのように口元が開いている。これは、どうすべきだろうか。僕はこの、異様な空気に胃が縮むような思いをしながら、改めて冷めかけたカフェラテを一口飲んだ。




