第20話:やがて雨脚は強さを増して(前編):文人
皆瀬村、水戸上山の管理人宅で朝陽くんと再会してからおよそ一週間。僕は通常通りの日々を過ごしながらも、なんとなく心が落ち着かないような気分でそわそわしていた。龍の住む山の管理人。まだ若いもののしっかりとした面持ちで、とても落ち着きのある、しっかりした人のようだった。
彼は龍神伝説を語って聞かせてくれたけど、それ自体はただのおとぎ話だと言っていたっけ。まぁそれはそうなのだろうけど、なんだか嫌に腑に落ちない。龍だなんて空想上の生き物だ。たいていの人は信じていないし、あの人が嘘をつくようにも思えない。それでも、今目の前に見えているものが龍神伝説のすべてであるとは到底思えない。
ここ最近は、千絵美もなんだか忙しそうにしている。これまではあまり着なかったようなズボンスタイルにリュックサック、そして新調したスニーカー。運動でも始めたんだろうか。まぁなんにせよ、これに関しては千絵美が楽しそうにしているのを見ると、いい付き合いでもできたんだろうと思うし、僕はそんな千絵美の姿を見るたびに、なんだか微笑ましい気分になる。これぞ兄ごころ、というやつだ。
ちなみに今日の千絵美は、またいつものようにスカートスタイルでおしゃれをして、朝食を食べて出て行った。千絵美いわく「茉莉ちゃんに会ってくる!」だそうだ。昔仲良くしてた子と、最近また連絡を取り合うようになったらしい。この子以外にもそういう子が複数いるのかもしれない。そう思いながら、少し遅めの朝食のパンを平らげた。
今日は土曜日で仕事は休み。僕の予定はというと、この後お昼ごろにカフェ「コンツェルト」に向かうことになる。そこで響歌さんに会うんだけど、なんだか最近恒例になりつつあるな。壁掛け時計を確認すると今はだいたい十時ごろ。まだ少し時間に余裕があるなと思ってスマートフォンを開く。
朝陽くんのチャットルームに移動してチャットを打つ。「今日はよろしくね」っと。さらにカフェの所在地を示したマップのURLを送信する。するとすぐに既読が付いた。「はい、ありがとうございます。」というメッセージとともに、うさぎがお辞儀しているスタンプが送られてきた。僕は思わず目を細めた。
朝陽くんはもうそろそろ家を出る頃だろうか。皆瀬村からこちらに出てくるには、本数の限られた電車に乗ってこないといけない。それは少し大変だろうな。「あ、今日のお昼は僕が出すから、気にしないで!」と追加でメッセージを送信した。「え、あ、ありがとうございます!」朝陽くんからの返信と、焦ったようにお辞儀をするウサギのスタンプ。それをとても微笑ましく思いながら、僕はカップに残っていた冷めたコーヒーをぐっと飲み干し、片づけを始めた。
まだもう少し余裕がある。とはいえ、本を開くには微妙な時間だ。リビングで、次に読む本でも物色しようかな。そう思って本棚を見ると、一冊の本が目に止まった。「裏山の神さま」だ。
懐かしい本だと思った。千絵美が好きで熱心に読んでいたのを近くで見ているし、僕も一度だけ貸してもらったことがある。そう言えばここ何年かは見かけなかったような。てっきり千絵美の趣味が変わったのだと思ったけれど、本棚に共有されている本の趣味は、昔からほとんど変わっていないように見える。たんに僕の前では読んでなかっただけなのかな。何度も繰り返して読んでいた本だけに、ほんの少し不思議に思える。
「あれ、でも確か前に、千絵がこの本を探してなかったかな…?」思わず独り言を呟く。
そうだとするならば、この本が見つかったのはいいことだろう。千絵美だって喜ぶだろうし。でもなんか引っかかるんだよな。表紙を見る。作家は、よく知らない名前だ。でもこれに関しては仕方がない。千絵美と僕は本の趣味がまるで違う。いくら司書だと言っても、全てのジャンルに明るいわけではない。あらすじを見てみよう。
本をひっくり返すと、だいたいの本なら本の要約文が書いてある。この本も例外ではない。さらっと読み込んでみると、この本は民俗学者の父を持つ女流作家のエッセイ集だとわかった。表題の作品「裏山の神さま」も例外ではなく、この作家のエッセイの一つなんだろう。
あ、表題作だから軽くあらすじが載ってるな?どれどれ。民俗学者の父に連れられて行った皆瀬村。そこの小さな里山で、私は神さまに出会ったのです。…おや?これ、皆瀬村の話?嘘だろ?
僕は内容を確かめるために紙をめくり該当のページを探し出す。しかし探すまでもなかった。栞が挟まっている。開きやすくなっているそのページを開くと、白いツツジの押し花がラミネートされた栞が挟まっていた。エピソードタイトルを確認する。「裏山の神さま」。ならここが該当のページか。この栞はおそらく、千絵美が挟んでいたものだろう。
ざっと中身を探るように読むと、多少ぼかされてはいるものの、それは確かに皆瀬村の水戸上山の話だった。エッセイを書いた作家は、山で謎の強風に煽られ、黒光りする龍の鱗を間近に見た。そして、村で語り継がれている龍神伝説が真実であったことを悟ったと書かれている。少し思考が追いつかない。時計を見ると、もう一時間は経とうとしていた。
「いけない!」
約束の時間にカフェにいるには、あと二十分後のバスに乗らないといけない。少しギリギリかな?兎にも角にも、僕はひとまず本をトートバッグに突っ込んで、急いで家を出ることにした。
無事に時間通りのバスに乗り込んでから、僕はふぅっと一息ついた。最近は少しジメジメとして息苦しい。そういえばと思ってスマートフォンで天気予報を確認すると、そろそろ梅雨入りとの予報が出ていた。そうか、だからか。もう時期夏が来るのか。いや、先に来るのは梅雨だけど、梅雨が来るといつも夏を連想して嫌になる。
バスの振動に揺られながら、カバンに突っ込んできた本を取り出す。改めて表紙を眺める。表紙は簡素なイラストで、白いツツジの花が描かれている。ツツジ。あの栞にラミネートされていたのは白いツツジで、水戸上山の社の周囲にも白いツツジが植えられていた。考えすぎだろうか。これじゃあまるで連想ゲームだ。
でもそういえばそうだ。千絵美が、この作者と似たようなことを言っていた。いや、覚えてる限りではほぼ同じだったような気がする。
「急に大きな風が吹いて、思わず踏ん張らなきゃいけないくらいの突風で、びっくりして思わず目をつむっちゃって。でもほんのわずかなタイミングだったけど見えたの。何か大きなものが横切っていくような影と、陽の光に煌めいている黒い鱗が。」千絵美は確かにそう言っていた。
千絵美は、この作者と同じ体験をしたのか?それなら僕は、なぜ遭遇しなかった?僕が水戸上山に行った時、何も起きなかったのはなぜなのか。龍に遭遇する条件は、まさか聖域に踏み入れることそのものではないというのか。いや、ここまではさすがに飛躍しすぎだ。もうすでに龍がいる前提で思考が進んでしまっている。まだそこまでは、いっていないだろう。僕は思わず唇を噛んだ。
はぁ、考えることが多すぎる。この話はどうやら、そこまで単純な話でもないらしい。あの管理人は、この本の存在を知っているのだろうか。もし、知らないとするならば…。いや、今考えるのはやめておこう。
「次は〜、市民図書館前、市民図書館前に停車いたします。」
時間だ。バスの揺れが一際多くなり、そしてまもなく停車した。「はぁ。」ともはや何度目かも分からないため息が漏れる。これから朝陽くんや響歌さんに会わないといけないのに。ほんのわずかに頭が痛い。いや、これはきっと低気圧のせいに違いない。僕は、他の乗客よりわずかに遅れて立ち上がると、ICカードで支払いをしてバスを降りた。
「ありがとうございます。」
バスの運転手に頭を下げる。何度も使っているので顔見知りなのだ。運転手の方も会釈を返した。さて、今日はどうなることやら。ポツンと、水滴が落ちてくる。
「え、雨?いけない!」
その雫は、水面に波紋を広げるように僕の不安な心を揺らす。少しずつ雨脚が強まる気配を感じた僕は、カフェ・コンツェルトに向かって迷わず走り出していた。




