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裏山の神さま  作者: Nova
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第19話:白いツツジの導きと(後編):朝陽

 小川を渡って向こう岸へ行くと、理央さまは小川に沿ってさらに奥へと進み始めた。まだかろうじて道はある。だんだん空気が冷たくなってきた。なんというか、マイナスイオンとでも言うのか、そんな感じの冷たい水気を感じる。

 小川の上流に向かっているのだろうか。小学生の時には来たことがない。危ないからと止められていたのだったか。こっちの方が気にならなかったのが不思議なくらいだ。

 歩けば歩くほど空気はよりひんやりとして、梅雨入り前のジメジメした感じはすっかり消えてしまった。その冷気が強くなればなるほど、目的地に近づいていることが分かってきた。

 木々の重なる間を潜り抜けて行くと、目の前には小さな泉が広がっていた。小川の水はこの泉から湧き出ているらしい。さらに泉の周囲をぐるりと囲うように、大量の紫陽花が植えられている。おそらく自生ではないと思えるほど綺麗に並び、定期的に手入れもされているかのような雰囲気も感じる。


「わぁ!」千絵美さんが感嘆の声をあげる。

「こんな場所、初めて見た。」僕は思わず呟いた。

「学さん、この場所って?」僕は学さんに問いかける。

「この場所はね、理央さまの住んでいる洞穴の手前にある、理央さまの力の恩恵を最も強く受けている場所だよ。理央さまは毎年、梅雨の季節になるとこの場所へ来て、地上に雨を降らせるんだ。」

「紫陽花は?」

「先先代のそのさらに前から、ツツジと共に少しずつ植えられてきたものだよ。代々の管理人が手入れも請け負ってきたんだ。美しいだろう?」

「神秘的ね。」千絵美さんが泉に向かって踏み出した。

 心なしか、さらに空気が冷えているような気がする。僕たちは息を呑む景色に呆然とし、あたりを包む霧が煌めく様子をじっと見つめていた。水は仄青く、わずかに光り輝くような不思議な色合いをしていた。底が見えるほど透き通っていて、小さな魚の影がちらほらと窺える。


「ねぇ、この泉、すごく水が綺麗ね。」千絵美さんが静かに尋ねる。

「そうだね……。この泉は理央さまが作り上げたものではあるのですが、どこから来たのか魚が住み着き、小さな生態系を築いています。この辺りは鳥や動物も多くいますが、あまり凶暴ではありません。とても穏やかな空間です。不思議なほどに。」

「龍がいるから暴れられないんじゃないのかな。動物たちが理央さまをどう認識しているのかは分からないけど。」

 僕は、何度か見た黒龍の姿を思い返した。あんなに大きなものを見て、恐ろしいと言う気持ちが無いわけではなかった。普段の温厚な理央さまを知っている自分ですらそうなのだから、動物たちは余計にそうなのでは無いだろうか。

 しかし、過度に恐れられているわけでも無いみたいだ。目を凝らしてみると、そこかしこで寛ぐ動物たちの姿が見える。僕たちがいるのに構う様子もない。


「い、異世界?」現実離れしたその空気感に、僕は思わず呟いた。

「ははは、そう思っても仕方がないかもね。外からだとこの空間はなぜか見えない。理央さまの導きがないと辿り着けないみたいなんだ。私は紫陽花の手入れのために何度か来ているけれど、動物たちにとっては、理央さまに招かれているものなら人間であっても構わないらしい。」

「ほんとうに不思議。こんな空間があるなんて、目の前にあっても信じられないわ。」千絵美さんはほおに手を当て、静かにため息をついた。

「理央さまは?」やっと我に返った僕は、理央さまの姿を探す。

「あそこ。」千絵美さんが指を指す。

 指の先を見ると、泉の中央に佇む理央さまの姿が見える。こちらに背を向けて立つその姿は、異様なほど静謐な空気感を纏っているように見える。僕たちはみな、一様に息を潜めてその姿を見つめていた。

 理央さまの裸足の足が僅かに動く。そこでようやく、理央さまが水の上に立っていることに気がついた。

「浮いてる、のか?」思わず声に出していた。


 それは神秘的というほかない光景だった。理央さまは指先からゆっくりと動き出して。空を仰ぎ、そしてゆっくりと手を伸ばす。指の先はしなやかに空へと向かい、両の指を組んだ後、額の上で動きを止めた。

 それは祈りにも見える仕草だった。こちらからでは表情までは見えないけれど、重たくて美しい気を纏った理央さまは、神というよりは巫女のような、そんな風にも見える。

 空気が変わった。今まで水気を含んでもさらっとしていた空気感が、もっとしっとりと重たい空気感に変わった。濡れているような湿り気を帯びた空気の匂いが感じられる。雨が降る直前の。まさか。

「うわっ。」

 ポツンと、鼻の先に水の塊が落ちてきた。冷たいけれど柔らかい感触に、思わずのけぞって首を引っ込める。鼻を撫でると濡れていた。

「わっ!えっ?うそっ⁉︎」千絵美さんが慌てたような声を上げる。

「ねぇ、どうしよう?傘持ってきてないよ⁉︎」千絵美さんは頭の上に両腕をかざして、必死に雨を防ごうとしている。

 すぐに雨は霧雨の状態になり、僕らの服をしっとりと濡らした。木の幹に近づいて、木の葉で雨を防ごうと試みるも、大して効果は得られなかった。


「2人とも、これを使いなさい。」学さんの声がした。

 差し出されたものを見ると、2人分の傘だった。来る時は持っていなかったように思える。

「これ、どうしたんですか?」

「ここに来る時は唐突に雨に降られることがよくあるからね。そっちの方に常備してあるんだ。ほら、早く傘に入りなさい。」

 学さんは説明しながら傘を開き、僕らの頭上にかざした。

「ありがとうございます。千絵美さん、これ使って!」

「ありがとう!あら、でも傘は2本しかないのね。」

「君たちで使いなさい。私は大丈夫だ。」学さんはすでにかなり濡れている。その状態でもう一本の傘を差し出した。


「大丈夫!私と朝陽くんで一本、学さんで一本にしましょう!」

「えっ⁉︎」

「あら、嫌だった?」

「いや、大丈夫!少し驚いただけ!」

 少しどころかかなり驚いた。相合傘なんて、ずいぶん久しぶりだ。いや、邪な気持ちなんかがあるわけないけど、あいてが同年代の女の子ともなると、やっぱり少し恥ずかしい。

「あ、じゃあはい。学さん。」持っていたもう一本の傘を学さんに手渡す。右手に持っていた傘を高く掲げてスペースを作り、千絵美さんに入るように促す。

「ありがとう、朝陽くん。」学さんと千絵美さんがほぼ同時にお礼を言った。

 僕は少し照れ臭くなりながらも、千絵美さんが濡れないように可能な限り努力した。少し近すぎるような気がするけれど仕方がない。学さんは少し離れたところで傘をさしている。


「あ、そういえば、理央さまは?」徐々に強くなる雨足の中、雨を呼んだ龍神の姿を探す。

「ほら、あそこ。」

 千絵美さんが指を指した先は泉の中央。そこには、ヴェールのようなもの靡かせながら、ゆったりと優雅に踊る理央さまの姿があった。

「っ!」僕は思わず息を呑んだ。

 それは、これまで見たことのない龍神の姿。雨の中で舞う理央さまは、かつてないほど神秘的に見えた。

「すごい。」近くから千絵美さんの嘆息が聞こえる。

 そうだろう、それ以外に言いようがない。僕たちは思わず肩を寄せ合う。雨はどんどん強くなっている。

 それなのに僕たちは、その浮世離れした景色を、雨に濡れたことすら忘れてうっとりと見入ってしまっている。

「梅雨がやってくるね。」そう言ったのは学さんだった。

 ともすれば雨音にかき消えそうになるその声が、なぜだかいやにはっきりと響いた。梅雨がやってくる。理央さまは今、視界を曇らせるほどの激しい雨の中を、我を忘れたように踊り続けている。季節の移り変わりに、雨を呼ぶ龍神。それがただのおとぎ話ではなかったことを、僕たちは今、しっかりと目の当たりにしているのだった。


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