第18話:白いツツジの導きと(中編):朝陽
千絵美さんは、びっくりするぐらいきれいなお辞儀を披露した。なんというか、さすがにそこまでするとは思わなかった。僕が理央さまと初めて会った時は、もっと雑にことが過ぎていったような気がするけれど。でもこんな風に目の前で、しっかり力を見せつけられると、神仏を前にした時と同じように深々とお辞儀をしたくもなるかもしれない。あ、いや、理央さまも神さまだっけ。
僕も千絵美さんを見習うべきかもしれないと思い、今更ながらに頭を下げる。学さんが後ろで小さく笑っている声が聞こえる。少し恥ずかしくなってきた。
すると突然、それまでにこにこと笑っていた理央さまが千絵美さんの手をとって立ち上がった。
「え?」千絵美さんが驚いたような声を上げる。
理央さまは千絵美さんの手を引っ張って、どこかへ連れて行こうとしているように見える。
「あ、ねぇ、どうしよう?着いていっていいのかな?」千絵美さんは僕や学さんと理央さまを交互に見ている。
「あ、えっと、僕も一緒に行くよ。いいかな?」
理央さまに問いかけると、理央さまはにこりと笑って頷いて見せた。
「大丈夫、みんなで行きましょう。」学さんの声に、千絵美さんは少しほっとしたような顔をした。
慣れない場所を歩き回るのはやはり不安なのだろう。千絵美さんは理央さまに手を引かれ、僕と学さんはその後についていく形で理央さまに連れ添って歩いた。
向かっているのは社の方向、いや、そのもっと奥。社の隣を通り過ぎて、理央さまはどんどん奥へ奥へと進んでいく。こっちは確か、僕が最初に理央さまと会った場所じゃなかったか。
「ねぇ、これどこに向かってるのかな?」
千絵美さんが少し声を張って問いかける。それは理央さまにというよりは、僕と学さんに尋ねているような聞き方だった。
「えっと、ねぇ学さん。この方向って確か、小川のある方だったよね?」僕は学さんに問いかける。
「あぁ、確かにそうだね。ふむ。こっちには、あれがあるな。」
「あれ?」
「ふふ。私は見当がついてしまった。2人には、着いてからのお楽しみということにしておこう。なに、危険なものは何もないから、安心して着いて行くといいよ。」すごく含みのある言い方をする。
「ねぇ、なんだってー?」千絵美さんの声。
「大丈夫!安心して着いて行け、だって!」僕も声を張って応える。
「そうなの?分かった!あ!」千絵美さんが少し体勢を崩したのが見えた。
「大丈夫かい⁉︎」学さんがものすごいスピードで千絵美さんに駆け寄る。
「大丈夫!少し木の根に躓いただけよ!」
学さんに手を貸してもらいながら、千絵美さんは体勢を整えた。理央さまが近くで見ている。心なしか少ししょんぼりしているように見える。少し急ぎすぎたと反省しているかのようだ。
「ほんとに大丈夫よ!どこも痛くしてないからね!」
千絵美さんが理央さまに微笑んで見せる。僕は急いで2人の元に駆け寄った。
「うあっ!」まさかの僕も、張り出した木の根に足を取られて前につんのめる。
危ないと思ったその時、ガシッと力強い腕に抱き止められた。またもや学さんに助けられてしまった。僕は学さんの腕に掴まりながら、体を起こす。
「ふう、おんなじことやらかしちゃった。」
あはは、と笑いながら頭を掻くと学さんと千絵美さんも一緒に笑った。理央さまも元のにこにこ顔に戻っている。なんだか少しだけ楽しくなってしまった。
こんなに心地よく心が躍る時間は初めてかもしれない。いや前にもあっただろうか、忘れてしまっただけで。そうだとしても、この時間が僕にとって貴重であることは確かだった。どこへ向かい、何を見るとしても、そう悪いことにはならないという気がしている。
「もうだいぶ歩いた気がするけど、まだかかるかな?」
目の前に現れた小川を眺めながら千絵美さんが呟く。頭上からは優しい木漏れ日が降り注いで、あたりを明るく照らしている。理央さまは裸足の足を水に浸して涼んでいる。
まだ夏の盛りではないとは言っても、歩いていればしっとりと汗ばむくらいには暑い。しかも今は梅雨に入ろうとしている時期だ。僕も千絵美さんも、ほんの少し息切れしている。
そういう意味では、ここの小川は休憩するにはもってこいだ。流れも緩やかで大して深くもない。軽く手足を浸すくらいであれば、危ないことなんてないだろう。
僕は、熱を冷ますためにほんの少し腕をまくって、右手を手首の辺りまで水に浸した。
「気持ちいい?私もやってみようかな。」
千絵美さんが僕の隣にしゃがみこんで、同じように水に手を入れた。
「わ!冷たい!」千絵美さんがキュッと手を引っ込める。
「びっくりした!結構まだ冷たいんだね!」千絵美さんが笑いながら楽しそうにはしゃいでいる。
学さんは少し後ろから僕たちを見ていた。理央さまは相変わらず素足で川の真ん中に立っている。
「まだ6月だしね。プールでもこの時期はまだ寒いって言われてなかったっけ。」と、千絵美さんの方を見る。
「そうかも!でも最近は暑い日が続いているから、今が何月なのかすっかり忘れていたわ!」千絵美さんは本当に楽しそうに笑っている。
「あはは、言われてみれば。僕も今思い出したよ。」
「うふふ、朝陽くんって本当によく笑うよねぇ。」
千絵美さんの言葉でハッとした。よく笑う?僕が?いつも何を考えているかわからないと言われていたのに?
「そう、なのかな。」
「そうよ。だって今日はずっと笑っているもの。本当に楽しそうよ、あなた。」
僕はなんだか照れ臭くなって、濡れた右手で首筋をかいた。本当に冷たい。水が、僕の火照りをより強く認識させる。だいぶ休んで落ち着いてきたはずなのに、今はまた少し鼓動が早くなっている。
「朝陽くん、そろそろまた進むみたい。早く行きましょう!」
千絵美さんに促され、差し出された手を掴んで立ち上がる。その後で、しっかり握ってしまっている手に驚いてパッと離す。
「あっ、その、ごめん、えっと、ありがとう?」
「うふふ、どういたしまして。」
千絵美さんは、黒い髪を耳にかけながら微笑んだ。僕は慌てて理央さまの姿を探す。
「あっ、もうあんなところに、ほら行こう。」僕は理央さまの後を追おうとして、目の前の川に気がついた。
「川、そうだ。学さん!確か向こうに、小さな木の板が渡してある場所がありましたよね?」
「そうだね。すぐそこにあるね。そこからなら川を越えていけるだろう。」学さんはそう言うと、ぽんと僕の肩を叩いて歩いて行った。
「千絵美さん、向こうに川を渡れる場所があるんです。そこから向こう岸へ行きましょう。」
「うん!朝陽くんはこの辺り詳しいんだね?」
「小学生の時によくこの辺で遊んでたんです。さすがに変わってるかと思ったけど、あまり変化がなくて助かった、かな。」
「そっか。うわっ!」
「わ!大丈夫?」立ち上がる時に僅かにふらついてバランスを崩した千絵美さんの腕を咄嗟に掴む。そのまま腕を引いて、自分の方へ引き寄せる。
「あっ。ありがと!」
「うん!」咄嗟に抱き止める形になってしまった照れを隠しつつ、怪我がなくて良かったと安堵する。
「にしても、敬語、ない方がいいね。」
「あっ、ごめん。忘れてた。」
「いいよ。同い年でしょ?だったらこのままがいいな。ね?」
「うん。」
どさくさに紛れて、と言うべきか。すっかり敬語を外して喋っていたことに今気づいて赤面する。
「それじゃ、行こっか。理央さまと学さん、向こうで待たせちゃってるよ!」
「うん。」
腕を掴んで促す千絵美さんの笑顔が心なしか眩しく見える。山の中は依然明るく、陽光を受けて煌めく木々が、さらさらと音を立てている。
かろうじて残る小道の上を、僕と千絵美さんはお互いに転ばぬように支え合いながら、ゆっくりと歩いてゆく。学さんの微笑みと、理央さまの待ち侘びて拗ねたような顔が愛らしい。
僕は優しい木漏れ日の差す方へと、ゆっくり踏みしめながら歩いて行った。




