第17話:白いツツジの導きと(前編):千絵美
私はカバンから、例の本と白いツツジの栞を取り出した。テーブルの上に置いて見せると、二人がぐっと顔を寄せる。
「裏山の神さま?」朝陽くんが小首を傾げながら尋ねる。
「これは、いったい?」学さんもなんだかよくわからないという顔をしている。
まぁこれだけ出されても、わからないのは当然だ。この本は別にベストセラーでもなんでもない。一作家の、よくありふれたエッセイ集だ。
「これは、私が中学生の頃に買った本です。民俗学者の父を持つ女流作家のエッセイ集。その表題である『裏山の神さま』というお話が好きでした。」二人は話の続きを待っている。
「このお話の舞台、実は、この山なんです。」
「なんだって?」学さんが驚いたような顔をする。それはそうだろう。おそらく、管理人が把握していない出版物だ。
「私は過去、この本を読んでこの山に来たんです。友達と一緒に。」
そして私は、茉莉ちゃんと一緒にこの山を訪れた時のエピソードを話した。山の入り口で突如とてつもないほどの突風に襲われたこと。頭上から白いツツジの花が降ってきたこと。そして、私が見た、煌めく黒い鱗のことも。
「それでつい先日、この本を見た時に気づいたんです。私が夢だと思っていた出来事は実は全部現実で、ファンタジーだと思っていたこのお話も、正真正銘の真実だったんじゃないかって。」
学さんは眉根を寄せて、何やら難しげな顔をしている。朝陽くんも同様だ。何をどう言ったらいいか困っているような顔つきで、食い入るように栞を見ている。
しばらくは、お互いに何を言うでもなく重苦しい沈黙が場を支配していた。けれど、何かを決心したように、先に動き出したのは朝陽くんだった。
「これ。」
朝陽くんがカバンから取り出して見せたのは、黒くて硬い石のようなものと、同じように栞にされた白いツツジ。
「これは?」私は朝陽くんに尋ねる。
「僕が帰省して、久しぶりにこの山に訪れた後、玄関先に置いてあったものです。たぶん、同じものが出どころなんじゃないかと思って。ねぇ、学さん。」
朝陽くんが学さんに言葉を投げた。私もつられてそっちを見る。学さんはまだ何も言わずに眉間に皺を寄せていた。
「そうだね。もうすでに接触されたと考えていいだろうね。それならば、話さないといけないだろうね。」学さんはゆっくり言葉を紡いだ。
「なんというか、最近は本当に予想外のことばかり起きるね。いや、本当に。」学さんはやれやれといった体でかぶりを振った。
「君は確かに、この山に住まう龍神さまに会ったんだろう。」学さんは苦笑いしながら言葉を続けた。
学さんが語って聞かせてくれたのは、皆瀬村の龍神伝説。それはこのエッセイ集にも載っていたので知っている。その上で学さんは、この話は全て真実だと語った。
「やっぱりそうだったんだ!」
私は胸の高鳴りが抑えられなかった。きっと二人が見ている私の目は、過去最高に煌めいていただろう。だってそうだ。ずっと、ファンタジーがファンタジーとしてではなく、現実として存在することを望んでいたのだ。私が興奮するのも当たり前だと思う。
「しかし、これは本来秘匿されなければならないことだ。こんなことが表に知れては、どんなことになるかわからない。だから私たち瀬尾の一族は、代々この山と龍神そのものを管理してきた。私もその任を受け継いでいる。」
学さんの口から出てくる真実は、どれもこれも小説の中のように現実味がなくて輝かしい。そんな世界が存在しただなんて。
「だからね、千絵美さんにも秘密にしていて欲しいんだ。」
「あ、そうですよね。」
私は少しだけ肩をすくめた。龍神さまの存在が、真実であったことは喜ばしい。でもそれが事実であるならば、当然隠されるべきものであることも想像がつく。公になんて、できるはずもない。
「あれ、でも私も?他にもいるんですか?知ってる人が?」
私は不意の疑問を投げかけてみた。まぁそうだとしたら学さんは確定であり、もしかしたらもしかするかもと思っただけなのだけれど。
「まぁ、ね。」案の定、朝陽くんが学さんに目配せをしている。
「この話を出した時点で話そうかとは思ってたんだけど、僕は何度か会ってるんだ。今日はまだ見てないんだけどね。」
「なんで教えてくれるの?」
「うーん、なんというか。もうあの神さまの方から接触したみたいだから、いいかなって。それに千絵美さんは、こう言う秘密を面白半分で吹聴したりとか、しなさそうだし。」
「さすがに信用するの、早すぎない?」もう少し疑ってもよかったのに、と心配そうな顔をする私を見て、2人は「ほらね」とでも言いたげな顔で目配せをした。
「私も会えるかな?」
「どうかな。気まぐれな神さまだし、分からないけど。一度会ったなら時間の問題なんじゃないかな。」
朝陽くんが言葉を言い終わる前に、急に屋内に生暖かい風が吹き込んできた。窓なんて開けてあったかな?不思議に思いながら風が吹いてきた方を見ると、そこには。窓の外を覆い尽くすほどの巨大な何かが鎮座していた。
「へ?」
素っ頓狂な声を上げる私の隣に、すすすっと朝陽くんが寄ってくる。
「ほら言ったでしょ。気まぐれだって。」それがどういう意味かは聞かなくてもわかる。
「ついでにイタズラっ子なのね。」目を見開いたまま呟く私。
「あはは。まぁそうかもね。」朝陽くんは、初めて見せる明るい顔で、ケタケタと笑って見せた。
私は、一体どちらに目を奪われたのかわからないまま、高鳴る胸をそっと押さえる。
「それで、どうしよう?さすがにこの大きさじゃあ、入れないよね?外に出たほうがいいのかな?」
「うん、まぁまだいいんじゃないかな。」どういう意味だろう?と私は眉を寄せる。
「ほら、今のうちに見ておいたほうがいいんじゃない?」朝陽くんに促されるまま、窓の外に陣取っている巨大な黒い生き物を眺めた。
大きさは判別できないほど大きく、かろうじて見える尾は綺麗に折りたたまれ、陽光を受けて煌めくように光を反射している。
よく見ると、鱗の一つ一つは手のひらぐらい大きく、微かに緑色の光沢を宿しているように見える。鱗のあるその生き物は、確かに本や何かで見た龍のような形をしている。
綺麗に添えられた手は鋭い爪を持っているし、吐く息はいちいち強風のように髪をさらう。瞳は宝石のような緑色で、神秘的な美しさである。
「あなたが龍神さま?」
私がそう語りかけると、龍は僅かに目を細めて首を振る。私がそっと手を伸ばすと、自分から顔を寄せて頬擦りをしてきた。
「ふふふ。」
猫か、犬か。こんなに大きな体をしているというのに、その人懐っこさが私の感覚を麻痺させる。
「ほんとうに可愛らしい。」
「ほんと、びっくりしちゃうよね。」私と朝陽くんはそれぞれの感想を口にしながら肩を寄せる。
ひとしきり頬擦りをして満足したのか、龍はおもむろに体を離した。
「あ、残念。」思わず口にした私の言葉が聞こえたのだろうか。龍は僅かに小首を傾げる。
突如、高く登った日差しが逆行になり、龍が影になり、そして徐々に形が変わり、やがて小さな人影になっていく。驚いた。そんなこともできるのか。次の瞬間、その小さな人影は、私の腕の中にいた。
「わ。え?」抱きつかれて困惑している私の隣で、朝陽くんが肩を振るわせて笑っている。
「あはは。やっぱり困惑してる!」
「そりゃそうでしょ。びっくりしない方がおかしいよ?」
「知ってる知ってる。僕も最初、どう反応していいか分からなかったんだから。ね?学さん。」
「ははは、そうだね。驚かせてしまって申し訳ない。そちらが龍神の理央さまだよ。理央さま、そちらは新しい客人の千絵美さんです。ちゃんと挨拶してくださいね。」
学さんがそう言うと、「理央さま」と呼ばれた龍神は、抱きしめた腕をすっと離して私の目の前に正座した。
丁寧に座ってにこりと笑いかけるその人は、丁寧に編み込まれた長い金髪を持つ子供のような姿をしている。瞳はよく見るとターコイズブルーのような色をしていて、本物の宝石のように煌めいている。
「初めまして、理央さま。私は倉内千絵美と申します。以後お見知り置きを。」
私は思わず背筋を正して、丁寧に深々とお辞儀をした。本当はそこまでしなくてもよかったのかもしれないけれど、なんだかそうしなきゃいけないような気がして。それはやはり、目の前にいるのが正真正銘の神様なのだと、心のどこかで感じたからなのだろうか。




