第16話:雨に記憶が芽吹くとき(後編):千絵美
ついに来てしまった。皆瀬村のあの山に。あまりにも久しぶりで無事に辿り着けるか不安だったけれど、どこもかしこも記憶の中と同じ。たった一度来ただけなのに妙に懐かしいのは、あの日の記憶があまりにも鮮明だったせいなのだろうか。
梅雨入り前の湿った空気感はあるものの、まだ初夏の爽やかさの方が季節感のベースである。木々は青々とした葉を蓄え、みずみずしさに溢れている。
前に来た時も今ぐらいの時期だったかな?学校が終わったあと、急いで駅に行って電車に乗り、暗くなる前に山に辿り着こうとした。帰りの時間は上手くいかなくて、なんだかすごく遅くなってしまったのを覚えている。
「よし、行くぞ〜!」
前みたいに、突風に襲われるようなことは無かったから、私はスムーズに階段を登ることができた。比較的きれいにされてはいるものの、山の階段はかなり急だ。今突風に吹かれたら転げ落ちてしまう。服装は山登りを意識した動きやすい上下にスニーカー。普段はあまりしない格好だからか、少し新鮮な気持ちになる。
普段から大学内を歩き回って、バイトで上下運動に立ち仕事を繰り返していたせいで、足腰には自信があった。地方のキャンパスは広いのだ。端から端まで行くには自転車でもないと少しきつい。しかも私の大学付近はほんとうに坂が多い。だから山の起伏に多少の疲れはあるものの、難なく階段を登り切ることができた。我ながら精一杯胸を張りたい気分だ。
敷地内を見渡すと、家らしき建物と社のような建物が見える。奥には白いツツジ。すごくきれい。やはり栞のツツジはここから来たものかもしれない。もう少し辺りを見回してみると、そのツツジがたくさん咲いている方に、立っている人影が見える。管理人さんかな?声をかけるために近づいてみることにした。そこに立っていたのは、パーカーの青年。結構若そうに見える。
「あの、こんにちは。」
「へ?あ……こ、こんにちは!」
その人はびっくりしたように振り向いて、大きい体で肩を縮こまらせながら挨拶してきた。目が泳いでいるのが可愛らしい。
「あ、驚かせちゃってすみません。管理人さんですよね?急に来たものですからご挨拶しようと思い。」持ってきた菓子折りを出そうとリュックに手をかける。
「あ、いや、あの!僕は、その!」
「え?」
「あっと、朝陽です!ここの管理人は別の人です!」
「あ。」
早とちりしてしまったみたいだ。そのまま時が止まったみたいに数秒間、なぜか顔を見合って立ち止まる私たち。
「倉内千絵美です。初めまして。」我に帰った私はひとまず彼に挨拶をする。
「あ、どうも。立花朝陽です。」ふたたび沈黙する私たち。微笑みながらじっと観察してみると、細身ながらしっかりした体躯の青年で、歳の頃は、もしかして私と同じくらいかな?
「つかぬことをお聞きしますが、もしかして大学生ですか?私も今二年生なんですが、同じくらいかと思いまして。」
「あ、そうです。僕も二年生です。」
朝陽くんは会話下手だな?またもや沈黙が二人を包む。でもなんだか少し可愛らしい。物静かそうな感じだけどパッと明るい目元がとても。
「こんにちは、お二方。そんなところで、どうしましたか?」
おや、どちらさんだろう?声のした方を振り返ると、またもや背の高い男の人が立っていた。この人は私たちよりも年上そうだな。
「あ、学さん。こんにちは。」
「学さん?」
「あの、千絵美さん、この人がここの管理人さんだよ。」ぼそっと呟くように教えてくれる。
「あ、そうでしたか。では初めまして、こんにちは。倉内千絵美と申します。」私は軽くお辞儀をしながら挨拶をする。
「これは、ご丁寧にどうも。管理人の瀬尾学です。お嬢さんは朝陽くんとはお知り合いでしょうか。」
「はい、知り合ったのは今ですが!ね?」私は朝陽くんに微笑みながら目配せする。
「あ、はい。そうです。今ここで会ったばかりで。」正直で大変よろしい。なんちゃって。
「そうでしたか。ではせっかく来ていただいたので、お茶でもいかがですか?」
「いいんですか?ではお邪魔します。あ、そうでした。これ手土産です。」私はやっと持ってきた菓子折りを管理人さんに渡すことができた。
「ありがとう。いただきます。ではこちらと合わせていくつかお茶菓子を出しましょうね。慎ましい家ですが、どうぞお上がりください。」
丁寧な管理人さんだ。年上と言ってもまだ若いように見える。三十代くらい?なのにこんなに落ち着いている。
「あれ、私前にもきたことあるんですけど、その時は確か、別の方がいらっしゃいませんでしたか?」そう、前に来た時はいかにもおじさんといった風貌の男性がいたはずだ。
「あぁ、それはきっと父ですね。少し前に代替わりしまして、今は私が管理人をしてるんですよ。きっと父なら覚えているでしょうね。まさか初めてではなかったとは。驚きました。」
「ええ、少し縁がありまして。」
そう、私が今日ここに来たのは、栞のツツジの花の出所と、本に書いてある内容を確かめ、そして私の体験を聞いてもらうためだった。朝陽くんとの出会いは想定外ではあったけど、オーディエンスは多い方がいい。それにもしかしたら彼からも、何か似たような話が聞けるかもしれない。
爽やかな風が髪の間をすり抜けていく。その時ふと、私は誰かの視線を感じた気がしてツツジが咲いている方を振り返った。そこには誰もいない。何かが一瞬煌めいたような気がしたけど、それはもしかしたら艶やかなツツジの葉に反射した陽光かもしれない。なんというか、この場所には、全てをファンタジーに変換してしまうような、不思議な力が漂っている気がした。
中に入ると、ほのかに木の香りがする古風なお家だった。リビングに通されて低いテーブルの前に正座する。朝陽くんは私の対角に座っている。少し警戒心が強そうなのが、猫ちゃんみたいで可愛らしい。彼はずっとテーブルを見ている。何か話しかけてみようかな?
「ねぇ朝陽くん。」
「はい、なんでしょう?」
「朝陽くんはここの村の人なんですか?」
「えっと、はい。実家がこの辺ですね。」
「そうなんだ。私はもう少し大きいとこに住んでるんだけど、ここには前にも来たことがあってね?今日は久々に来てみたんだ!」
「あ、そうなんだ。」
シーン。どうしよう。会話が続かないな。朝陽くんも少し気まずそうだ。もう少し頑張ってみようかな?
「あのね、ここのツツジ、すごく綺麗だよね!いつもこんなに咲いてるの?」
「あ、綺麗だよね。去年がどうだったかは知らないけど、僕が知ってる限りでは毎年この時期に咲いてると思うよ。」
「そうなんだ!ツツジの花好きなんだよね。お花屋さんのバイトをしてるのもあって、綺麗に咲いてる花を見ると嬉しくなっちゃう。」
「そうなんだ。うちも母親が花をよく買ってくるから、少しわかるかも。」お、進展あり。
「二人とも、お待たせ。」管理人の学さんがお茶とお茶菓子を持って戻ってきた。
「美味しそうですね!ありがとうございます。」
「どういたしまして。どうぞゆっくりしていってください。」とても柔和な人だ。背が高いから初見はびっくりしたけれど。
「それで、今日は私、見て欲しいものと聞いて欲しいことがあって来たんです。」お茶を少し飲んだ後で、私は彼らに向かって、例の栞と本、そして私の過去の経験の話を切り出した。
「あ、それ、僕が聞いても大丈夫なやつ?」
「うん、むしろ縁があるなら聞いて欲しいぐらいかな。もしかしたら共通の経験があるかもしれないし。」
「わかった。」砕けた口調になっている。どうやらいくらかは警戒を解いてくれたみたい。
「それで、学さんは。」
「私はもちろん大丈夫ですよ。普段もここまで来てくれた村の人たちの話をよく聞いているんです。」学さんは微笑みながら答えた。
私はカバンの中に例のものが入っていることを確かめて、高鳴る胸を押さえながら、ゆっくりと深呼吸をした。




