第14話:雨に記憶が芽吹くとき(前編):朝陽
しばらくたっても雨は止む気配を見せなかった。それどころか、雨脚は徐々に強まっているようにすら感じる。そういえば最近は少し暑かった。季節柄、唐突に強い雨が降りやすくなっているのかもしれないと思った。
僕はまだ学さんの家にとどまっていた。雨が降っているのに傘を持っていなかったからだ。学さんに借りようかとも思ったけれど、なんとなくもう少しだけ人のいる場所にいたかった。学さんは僕の気分を察してか、迷惑そうな顔一つせず、帰りを促すようなこともしなかった。その代わり、台所に片づけと追加のお茶を作りに行った。
僕は、自分の心を支配しているどうしようもない心細さで、体の芯が冷えていくのに耐えていた。最近はあまりなかったけれど、大学に通っていたころは常にこの心細さと戦っていたように思う。気がつけば、冷えた指先の感覚がなくなるほどに、強く手を握り込んでしまっていた。
「朝陽君。」ハッと顔を上げると、学さんが心配そうな顔で僕を見ていた。
「少し冷えませんか、雨が降ると。」学さんはふっと微笑みながら、湯気の立つカップを僕の方に差し出した。
「さぁ、生姜湯をどうぞ。きっと体が温まりますよ。こちらはソフトクッキーです。昨日作ったんですよ。美味しいといいのですが。」
少し遠慮がちに笑いながらクッキーのお皿をテーブルに置く。素朴な形の丸いクッキーもあれば、ハートや星の型で抜いたような形のものもある。古風な学さんと、可愛らしい形のクッキーの妙なアンバランス感に、僕は少しだけ笑ってしまった。
「クッキーとか、食べるんですね。洋菓子なのに。」
「和菓子派なのはそうだけど、最近は妻のおかげで洋菓子にも興味が出てね。食べやすいものを見繕ってもらってるんだよ。時間に余裕がある時は、妻と一緒に手作りするんですが、妻は紅茶に詳しくてね、合わせて楽しむのが最近の楽しみなんだよ。」
学さんは楽しそうに目尻を下げて笑っている。暖かいカップに触れると手のひらから伝わる熱が心地よく、生姜の香りが漂ってくる。
「……学さんは、一時期、この村から出ていましたよね?」
「……あぁ、そうだね。大学進学の時に、外の大学に行ったからね。」
「その時って、どんな感じでしたか。」
「そうだね……。どんな話が聞きたいかな。」
学さんは僕のなんとなくで投げたふわふわした質問にも丁寧に対応しようとしてくれている。質問した手前、なんでもないとは言えないような気がして、僕は少しだけ俯いてしまった。
「ふむ。そうだな。私も十代の頃は反発心が旺盛なタイプでね、田舎に骨を埋めるものかと抗ったりもしたものだよ。懐かしいね。私は家を継ぐことも期待されていたから、それで父とはよく喧嘩したものだよ。」話し始めた学さんを恐る恐る見上げると、懐かしそうに目を細めていた。
「この村が、嫌だったこともあるんですか。」
「嫌だった、か。どうだろうね。あの時は、ただ狭すぎる世界と決められた将来が嫌で嫌で仕方がなかった。それは私がこの村に留まっているせいだ、と考えてはいた。嫌いだったかどうかは分からない。ただ自分の置かれた環境を否定し、抜け出したいともがいていた。それが父への反抗心を産んでいたことは確かだろうね。」
しばらくの間沈黙が流れた。学さんは遠い過去を見つめるように遠い目をしている。僕は少しの間考え込んでいた。僕はどうしてこの村を出たかったのだろう。この村は好きだった。決して嫌いではなかった。それでも耐えきれなかった。
「僕は……。」気がついたら言葉が漏れていた。学さんがこちらに目をやる。
「ん?」
「僕は、この村が嫌いではありませんでした。でも耐えきれなかった。なぜでしょう。しかも、そうやって無理を言って都会の大学に行かせてもらったのに、結局途中で戻ってきてしまった。僕はいったい何がしたかったんでしょうか。」
言葉を吐き出しながら、嗚咽を堪える。涙が目から溢れてきて、耐えようとするほどに肩が震えた。学さんの心配するような気配が感じられる。
「大学を休学したんです。年数が増えれば、両親にはさらに負担をかけることなんてわかっているのに。僕は、どうにも心細くて。」
それ以上はどう言葉にすればいいか分からなかった。泣いてしまった手前、学さんの顔を見ることもできなかった。僕はいったい何をしているのだろう。
「そうか。朝陽君は、心細かったんだね。大学のある都会は、君には冷たい場所だったのかい?」
学さんは、僕の手をそっとさすった。大きくて、薄くて、程よくガサついた手の感触が暖かい。学さんとは理央さまとの一件がなければ、きっと挨拶をする程度の仲で終わっていただろう。こんな人だったとは、今の今まで知る由もなかった。
「都会が冷たかったのかは分かりません。田舎にいるのが嫌で都会に行ったのに、都会にも馴染めない現実が冷たかったんだと思います。周りは自分のことを誰も知らない。それを望んでいたはずなのに、どうしていいのかも分からなくて。僕はただ、甘えていただけだったのかも。親には泣き言なんて言えなかったし、友達もいないし、バイトと勉強の両立は思った以上に苦しくて……。」
言葉が後から後から溢れてくる。混乱しているんだと思う。何を言いたいのか上手く整理できないまま、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。学さんは僕の手をゆっくりと摩り続けている。そのうち言葉よりも、流れる涙の方が多くなって、僕は唇を噛んでしまった。悔しいのだろうか。悔しいのかもしれない。これはどういう感情なのか。
「大丈夫だよ、大丈夫。でも苦しかったんだね。泣きなさい。泣いてもいいんだよ。弱音を吐くことの何が悪いことか。なんにも悪いことじゃないんだからね。好きなだけ泣きなさい。」
その言葉を聞いて、僕は涙を堪えるのをやめた。嫌っていた泣き虫な自分も、今だけは許せるのかもしれないと思う。しゃくりあげるように泣いている自分は、小さな子供のようで見苦しいかもしれないけれど、学さんは何も言わずに隣に来て、僕の肩を抱きしめてくれた。
僕の涙が落ち着いてきた頃に、学さんが穏やかに話し始めた。
「私の都会行きはね、家を継ぐ前の最後の希望だったんですよ。」
「え?」
「私の家には代々、この社と龍神伝説を守り伝え、理央さまのお世話をするというお役目があります。私はこの家の長男であり唯一の息子。当然、父からも母からも、家を継ぐことを当たり前のように言われて育ちました。」学さんは少しだけ哀しいような目をした。
「だがそのことが私には受け入れがたくてね、早く外に出て結果を上げてしまえば、この現実から逃れられると信じていたんだ。」
「信じていた?」
「ええ。それはもう強くね。むしろそれこそがなすべき事だと信じて疑わなかった。そうでなければ困ってしまう。……そういう若者は、いつだって多いものです。」
「学さん……?」
「私は若かった。私の周りも若かった。私の通う進学校では、外に出るために偏差値の高い大学を目指したがる生徒も少なくなかった。そうでなければ、進学なんて選びません。みんな就職してしまう。なまじ知識があるがゆえに、今自分の置かれている環境が、鳥かごのように狭く小さく映ってしまう。私は当時、そのような得体の知れぬ閉塞感に、悩まされていたのでしょう。」
「僕は……。」
学さんは、あなたも同じだと言いたいのかも知れないと思って身構えた。これが若気の至りと言うのだろうか。
「ですが、それは必要なプロセスです。一体それがなんであれ、自分の道を辿るためには、紆余曲折を経ることもあるでしょう。かつての私がそうだったようにね。」
ぱっと見た学さんの表情は穏やかで、どこまでも優しく微笑んでいた。窓の外にはまだ雨が降り続いているけれど、この雨が止むように、いつか僕自身もこの情動を、過去として受け止める日が来るのかも知れない。
「お茶を、もう一杯飲んでいきませんか。」
「いただきます。」
学さんの穏やかな声音に応える僕は、いつになく晴れやかな気持ちでいられたと思う。きっと今直面している現実も、少しずつ動き出す。それこそ雨が、止む頃には。




