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第19話 鉱山町の闇

◆鉄の匂いの町


 交易都市バルトを後にして北へ二日。山裾に貼りつくように家々が連なる鉱山町グレインが姿を現した。空気は冷たく乾き、風は粉塵を運ぶ。鼻腔の奥に鉄と硫黄、そして――疲れの匂い。


「……声がしない」

 肩の上でミルが囁く。

『飢えでも欲でもない。“諦め”の匂い。音を食べる影だよ』


 門は開いていたが、迎える者はいない。鉱夫たちは無言で坂を上り、無言で飯場に入っていき、無言で眠る。噛む音すら薄い。腹が減っていないのではない。噛む理由をなくしている。


 坑口の前で、煤にまみれた監督が私たちを見上げた。

「王都の“聖パン職人”ってのはおまえか。……悪いが、配るなら向こうでやってくれ。ここはもう、どうにもならん」


「どうにもならん?」

 アルドが眉を寄せる。

 監督は岩を蹴って吐き捨てた。「昨日、落盤だ。坑の奥に十人取り残された。救援を呼んでも、上からの命令は“採掘優先”。命より鉄だとよ。……笑えるだろ」


 マリアの指が強く結ばれ、ザイラスは唇を噛む。

 町全体に、諦めの膜が張り付いていた。祈りも怒りも呑みこむ、重い沈黙の膜。


「……焼こう」

 私は窯の蓋に手を置いた。「“声を戻す”焼きを」


ともすための生地


 町の古い共同竈は煤で喉を詰まらせていた。私は“澄”の一滴を煙道に落とし、灰を撫でる。窯がゆっくり息を取り戻す。


「配合は?」

『軽くないと届かない。でも、芯は強く。――“あかり”を入れて』とミル。


 私は粉に塩、少量の麦芽、そして坑夫が持つ塩漬け肉の出汁を薄く加えた。鉄の匂いに寄り添わせるためだ。さらにレモンの皮を削り、鼻先でだけ光る酸を混ぜる。

 名前をつける。「灯火ともしびパン」。噛むたびに胸の奥で火種が弾けるように。


 生地を叩き、折り、丸め、表面に小さく切り目を並べる。十の切り目。坑に取り残された十人に向けて。

 窯に送ると、炎がぱちりと笑った。


◆無音の影


 焼き上がった“灯火パン”を抱え、私は広場に立った。裂き、差し出す。だが人々の手は動かない。目は虚ろで、耳の後ろで風が鳴ればそちらへ逃げる――音が怖いのだ。音が希望を思い出させるから。


 そのとき、坑口の暗がりから“影”が立ち上がった。黒ではない。色がない。そこだけ音が吸い取られ、世界が無声映画になる。

『――“無音サイレンス”の従者』とミルが低く言う。『絶望は、音を消すことで増える。助けを呼べなくなるから』


 影が広場を這い、子どもの泣き声を奪い、鍋の煮える音を奪い、足音を奪う。

 私はラスク粉を掴んだ。「“座”……いや、違う。ここで必要なのは――鳴だ」


 粉を指で潰し、粒ひとつずつに“鳴”の名を刻む。風がそれを町じゅうに散らす。

 最初は小さかった。匙が陶器に触れる“ちん”という音。次に、石が石を擦る“ざり”。遠くで犬が“わん”。

 影が怯んだ。音が戻れば、人は顔を上げる。顔を上げれば、噛める。


「食べてくれ。――噛む音を、ここに戻す」

 私は“灯火パン”を差し出し、監督がためらいがちに齧る。

 その顎の動きに、広場の空気がつられて動いた。噛む音が増え、無音の従者は音の雨に打たれて薄れる。


◆坑へ


 だが十の切り目は、まだ返事をしない。

 私は籠を担ぎ、坑口へ向かった。

「行くのか」アルドが並ぶ。

「行く。パンは食卓に運ぶだけじゃない。届けるまでが“焼き”だ」


 坑道は冷たく湿っていた。時おり無音の波が頬を撫で、手元のランプの火が揺れる。

 分岐で立ち止まると、ミルが空気の流れを撫でて言う。

『あっち。諦めの匂いが濃いほう』


 崩れた梁、折れたレール。進むほど、静けさは濃くなった。やがて岩の隙間から微かな指先の音――“こつ、こつ”。

 私は地面に“座”を撒き、耳を地に伏せた鉱夫たちへ声を投げる。

「聞こえるか。パンだ。――息をしてくれ」


 返事はない。だが、隙間から伸びた指が空を掴む。私は“灯火パン”の端を細くし、隙間へ押し込んだ。

 数拍ののち、パンが引かれ、沈黙の向こうで“嚙む(かむ)”が震えた。

 ひとり。ふたり。みっつ。……十に届く前に、音が途切れる。


 崩れた梁の向こうで、無音の従者が渦を巻いていた。音を食う渦だ。

 ザイラスが杖を掲げる。「炎で吹き飛ばす!」

『待って! 音を奪われれば、火は“ぱち”を忘れる!』ミルが制す。


「――なら、“拍子”を刻む」

 私は坑道の壁にパン切りナイフの背を当て、一定の間隔で叩いた。

 “タン、タン、タン、タン”

 アルドが剣の柄で梁を叩き、マリアが祈りで小さく“カン”を重ね、ザイラスが杖で“コッ”と合いの手を入れる。

 拍は道になる。音は人を外へ導く。

 無音の渦が乱れ、隙間の向こう側で十の拍が揃った。


「いまだ、持ち上げろ!」

 梁に楔をかませ、ロープを引く。坑夫たちの手が現れ、目が光り、肺が音を吐いた。

 十の影――いや、十の命が、拍に乗ってこちらへ戻ってくる。


◆坑夫のパン


 地上へ出ると、広場は薄いざわめきに満ちていた。噛む音、泣く音、笑う音。

 私は新しい生地を成形する。塩を少し強く、干し果実を刻まずに大ぶりのまま、そして表面を深く切る。

 切り目の名は“歩”。

「坑夫パンだ。噛むたび足に力が降りる」


 十人が最初に受け取り、口に運ぶ。

 彼らの顎が動くたび、見上げる空が明るくなる。

 監督が膝をつき、顔を覆って泣いた。「すまない……守れなかったと思っていた」


「守ったさ。――拍を忘れなかった」


 ミルが笑う。

『音を食べる影は、拍で崩れる。人が合わせる“間”は、絶望の反対だから』


◆町と約束


 夕暮れ、町の会所に人々が集まった。

 私は地図を広げ、宰相から託された布告の写しを示す。

「“パンの道”を敷く。穀物を“食える形”で回す網だ。ここグレインには“夜のよるのかま”を置く。坑の交代の合図に合わせ、夜明け前の焼きを続けよう」


「費用は?」

「“分け合いパン”で賄う。売るのではない。――裂いて渡す。市場は“分け方”で稼げ」


 ざわめきのあと、年老いた鉱夫が立ち上がる。

「わしら、音を忘れとった。明日からは、“はよう来い”“おつかれ”の声を大きゅう出す。……それも道じゃろ」


「道です」

 私は頷き、板に短く刻む。〈鳴・歩・灯〉

 それはこの町の“焼きの約束”になった。


◆黒い報せ


 星が滲む頃、王都からの早馬が駆け込んだ。

 騎士の顔は青い。

「王都北東に、影の大波! 飢えと欲と絶望が、ひとつに絡み合って押し寄せています! “黒の合成影コンポジット”!」


 広場に緊張が走る。

 私は窯の灰に手を置いた。熱は強い。灰は覚えている。

 アルドが剣を立て、マリアが頷き、ザイラスが肩を回す。モルは荷車の棒を握り、うなずいた。


「――帰ろう。最後の焼きをしに」

 私は立ち上がる。「王都の大窯で、“未来のパン”を」


 ミルの羽が夜気を割り、風の糸が南へ向けて張られる。

『道はできてる。パンが通れば、人も通る。音も通る』


 鉱夫たちが坂の上で手を振り、拍を刻む。“タン、タン、タン、タン”。

 拍は背中を押し、足を軽くする。

 パン行軍は夜の街道へ滑り出した。


 空の端が、まだ見ぬ朝の色をほんの少しだけ滲ませる。

 灰は息をしている。火は待っている。

 ――最終の焼きへ。


つづく(最終話 第20話「最後の焼き、未来の道」)

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