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第14話 余韻の朝

◆星明りのあと


 夜の裂け目が閉じてから、しばらく誰も言葉を発せなかった。

 王都の上に戻った星は、まるで焼き上がったパンの表面に散った胡麻のように、静かに瞬いている。

 私は窯の前にしゃがみ込み、炉床に手を当てた。灰はぬくく、鼓動のような微かな脈を打っていた。――まだ、生きている。


『レオン』

 肩に降りたミルが、小さく羽根をすぼめる。

『王は退いた。けど、夜がぜんぶ終わったわけじゃない。人は、朝の噛みしめ方でまた空腹にも満腹にもなる』


「わかってる。……朝を焼こう」


 私は灰を均し、薪を一本だけ足した。ぱち、と火の舌が笑い、窯の壁に薄い琥珀色が差す。


◆鐘の二打


 暁。

 王都の塔が、息を合わせるように二度だけ鐘を鳴らした。

 勝鬨ではない。喪鐘でもない。――“起床”だ。

 兵舎から、礼拝堂から、路地の奥から、人々がゆっくりと立ち上がる気配が広がる。

 泣きながら眠ってしまった子が目をこすり、肩を貸し合って座っていた兵が姿勢を起こし、祈りの姿勢のまま固まっていた老人が背を伸ばす。


 私は“朝の生地”を窯から出し、粗熱を飛ばしながら裂いた。

 白い湯気が立ち、琥珀の皮に薄いひびが走る。

 周囲にいた少年モルが、いつもの荷車を押して駆け寄る。


「配るよ」


「頼む。――一人ひとつ。噛むたびに息を吐けって伝えてくれ」


「うん」


 モルは荷車を押しながら、路地へ消えていった。車輪の“きゅるきゅる”が、王都の朝の最初の音になった。


◆余韻の朝餉あさげ


 広場の石畳に簡素な配り台を組み、私は“朝のパン”を積んだ。

 列は長いが、焦りはない。順番を譲り合う手、ちぎった半分を誰かの掌にそっと置く仕草。

 パンを噛んだ子どもが、目を丸くして言う。


「――昨夜、おなかの中で“明かり”が点いた」


 母親が泣き笑いになって頷く。

 老人は指で皮の硬さを確かめ、噛みしめ、ずいぶん昔の名前を呼んだ。

 兵士はひとかけを口に入れ、鎧の留具を締め直した。


 マリアが白衣の袖を捲り、配り台の端で黙々と包帯を外していく。

 その手つきは祈りに似ているが、今朝は一層、日常の家事に近い。

 ザイラスは長机に腰をおろし、空の羊皮紙に鉛筆で線を引いた。「“食後”の脳波の整い方」などと書きつけている。学者の顔に戻った横顔に、皮肉ではない微笑が宿る。


 アルドが列の最後尾に並び、順番が来ると私の前で一礼をした。

 差し出したパンを受け取り、裂き、半分を私に返す。


「レオン。……俺はずっと“勝ったら食う”と教えられてきた。

 昨夜、おまえのパンで“食うから勝てる”にやっと変わったよ」


「それでいい。勝たなくても、食う。食えば、立てる」


 アルドは短く笑い、半分をマリアに、さらに欠いた欠片を近くの少年に手渡した。


◆宰相の申し出


 鐘が三度目に鳴る頃、宰相シグルドが広場へ現れた。

 やつれた顔だが、目は澄んでいる。

 彼は膝を折り、周囲を憚らずに私に頭を下げた。


「レオン殿。王国は――あなたに礼を尽くしても尽くしきれぬ。

 よって、王命をもって“王国パン房総監パンマイスター・ジェネラル”に任じたい。王城内に常設の大窯を造り、各地へ『パンの道』を敷設する。あなたの“焼き”を学ぶ学校もつくる。……どうか、王都に残ってはいただけぬか」


 ざわめきが広がる。称賛も期待もある。

 けれど、私は一呼吸だけ置き、静かに首を横に振った。


「俺は勇者じゃない。王国の役職にも向いてない。……俺は、パン屋だ。

 この王都にも焼き手は必要だろう。でも、あの村にも、まだ俺の席がある。

 だから、こうしよう。『パンの道』は賛成だ。総監の名は受けない代わりに、“設計図”を置いていく」


 宰相の眉がわずかに上がり、やがて口許に笑みが浮かぶ。

「――それでこそ、聖なるパン職人だ」


 私は板の裏に、短い字を書いた。

 〈火は恐れず、灰は信じる。風は道、土は膚。名を刻め。座・喉・息――〉

 それは魔術でも祈祷でもない。誰でも、噛めばわかる“焼きの約束事”だ。


◆ざまぁでも、赦しでもない


 ひときわ目立つ赤髪が近づいてきた。

 かつての“勇者パーティー”を追放した三人目――宮廷魔術師ザイラスが、珍しくためらいの色を見せて立ち止まる。


「レオン。……私には贖罪が必要だ。おまえを切り捨てた。

 だが、わたしは“ざまぁ”を受けに来たのではない。叩かれ、捨てられれば楽だ。贖罪を終えた顔をして、また元の魔術師に戻れるからな」


「じゃあ、贖罪はやめろ。――代わりに、毎朝ここに来て、粉を触れ」


「粉を?」


「魔術師の頭は“考える”で疲れる。粉は“触る”で楽になる。

 おまえの魔法は、粉を触った手で唱えたほうが、たぶん街の役に立つ」


 ザイラスは目を瞬かせ、それから肩の力を抜いて笑った。

「……やってみよう。叩かれるより難しいな」


 少し離れたところで、聖女マリアが一人の老女と抱き合って泣いていた。

 昨日、影の“前菜”に引かれかけた孫を救った祖母だという。

 泣き疲れた二人に、私は薄いラスクを渡した。

「――忘れない味」

 マリアは頷き、静かに口に運んだ。祈りよりも先に噛む。今朝の彼女はそれでいい。


◆パンの道


 午前のうちに、王都の各区画で火の点検が始まった。

 崩れた竈は煉瓦を組み直し、煤で詰まった煙道は兵士が肩を入れて通す。

 パン屋、酒場、菓子屋、神殿、孤児院――火のある場所を細い路地でつなぎ、それを広場で束ねる。

 私は地図に糸をかけ、ミルが糸を風で撫でるたび、通りには見えない“香りの道”が浮かんだ。


「王都の“皮”は厚くなった。――次は、他の町だ」


 宰相は頷く。

「西の交易都市バルト、北の鉱山町グレイン、南の港アズール。まず三本の支道を整えよう。

 各地から“パン見習い”を募集する。商人組合とも手を組み、穀物の備蓄を“食える形”で巡回させる」


「名前を決めよう」モルが指を上げた。「“パン行軍パンキャラバン”!」


「いい名だ」

 私は笑って、荷車の側面に焼き印で〈PAN CARAVAN〉と打った。

 子どもたちが真似をして、板切れに下手くそな字を刻む。

 字は曲がっているが、熱は真っ直ぐだ。


◆土の家からの使い


 昼下がり、窯の下の土が“ごろっ”と鳴って亀裂きれつがひと筋走った。

 ミルが顔を上げる。

『土の家から、使いが来た』


 炉床の隙間から、素焼きの小瓶がひょいと持ち上がる。

 封を切ると、冷たい香りが立った。――水。

 透明な舌で喉を撫でられるような、清浄の気配。

 小瓶の底に、丸い文字がひとつ。「澄」。


《“膚”は厚くなった。つぎは“澄”。水は記憶を運び、渇きを洗い流す》

 土の精霊の声が、瓶の縁で揺れた。


「礼を言う。……“澄”は、スープに。喉と目と耳を洗う」


 夜の王はもう退いた。だが、人の中には夜が残る。

 “澄”は、その夜を薄めるだろう。

 私は大鍋を据え、パンの端くれと野菜を入れ、瓶の一滴を落とした。

 香りが軽くなり、鍋の中で記憶の角が取れていく。


◆小さな葬送


 午後、城壁の外の共同墓地に、いくつかの小さな塚が増えた。

 昨夜、守り切れなかった命。

 私は籠を提げ、焼き色の浅い白パンを塚に供えた。

 派手な言葉はいらない。噛む音だけが、空へ届けばいい。


 アルドが黙って隣に立ち、剣を地に突き立てた。

 マリアが祈りを、ザイラスが火の小さな灯を供える。

 ミルは風を沈め、雲の端を薄く裂いて陽を落とした。


「……生きている者は食え」

 私は最後にそう言って、籠を肩にかけた。

 泣き声は止まない。止めるつもりもない。

 けれど、歩く足は止めない。パン屋はそういう生き物だ。


◆若木の名


 日が傾くころ、王都の中央広場に一本の棒が立った。

 根も葉もない棒。

 だが、モルたちが周りにパン屑を撒き、女たちが水を注ぎ、老人が土を押し固めると、棒の先に小さな芽がついた。


『風の糸が絡んで、芽が迷わなくなった』

 ミルがうれしそうに笑う。

『名前をつけて』


「――“レーヴァ”。ここで見る夢、って意味だ」

 私は芽に向かって囁いた。「伸びろ。影より速く」


 芽は、風を飲み込むように震えた。


◆帰る場所


 夕刻。

 宰相が文書を持って再び現れた。

「正式に決まった。“パンの道”建設、パン見習いの募集、王都大窯の常設――。

 そして、エイルの村の窯を“パンの道”の起点に据える。王都からの護衛と供給を付ける」


「エイルが、道の起点に」

 胸の奥の小さな焚き火が、ぱち、と明るくなった気がした。


「レオン、帰るの?」

 モルが不安そうに袖を引く。


「帰る。けど、終わりじゃない。道は行き来するためにある。

 俺は村で焼き、王都に配り、また村に戻る。――パン屋の行軍だ」


 ミルが肩でひと回りして笑った。

『わたしも行く。風は道を忘れない』


◆夜の入口


 最後の配りが終わると、王都の火は一段落し、灰の呼吸だけが残った。

 私は窯の口を半ば閉じ、灰の上に掌を置く。


「覚えているか、灰」

 灰は、薄く熱で答える。

 昨夜の恐怖も、今朝の味も、午後の涙も、ぜんぶ呑み込んで、消化して、次の火に変える準備をしている。


『レオン』

 ミルが耳元で囁く。

『きょうの“応援”を、最後に一行だけ言って』


「……よし」


 私は配り台の端に、木炭で短く書いた。


きょうも読んでくれてありがとう。

明日も焼く。君が噛む一口分だけ、火を長く。


 石畳に影が伸び、灯りがひとつ、またひとつと灯る。

 王都は眠り、灰は覚え、風は道を張り、土は膚を厚くする。

 パン屋は、明日の粉の重さを指で量ってから、ようやくあくびをひとつした。


 ――そして、朝の匂いを少しだけ先取りして、目を閉じた。


つづく

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