第13話 飢えの王、降臨
◆闇の舌
夜半。
王都の空を裂いて、黒い口が広がった。
それは空というよりも“胃袋の奥”だった。
牙のように鋭い影が塔に突き立ち、城壁を舐める舌が家々の屋根を剥ぎ取っていく。
「来たか……」
私は窯の前に立ち、深く息を吸った。
灰はまだ赤点を宿している。
火は怯えず、ただ燃えていた。
『レオン。あれが、飢えの王』
ミルが羽音を震わせる。
『昨夜までの使徒や前菜は、ぜんぶ“食欲”の一部。いま目の前にあるのは――飢えそのもの』
「焼こう。最後のパンを」
◆人々の動揺
広場では、兵士も民も黒い舌の迫力に息を呑んでいた。
勇者アルドが剣を掲げて叫ぶ。
「怯むな! レオンが焼いている! 俺たちが盾になる!」
マリアは祈りを捧げ、光の膜を張る。
ザイラスが呪文を重ね、火の矢を撃ち込む。
だが黒い舌は、祈りも炎も飲み込み、なお肥え太って迫ってくる。
「やめろ! 食われるぞ!」
「どうせ逃げられない……」
民の中から弱音が漏れ、列が乱れる。
「座れ!」
私は“名持ちのラスク粉”を撒き、広場に“座”を刻んだ。
人々はその場に腰を下ろす。
座れば、腹は“受け入れる”準備を思い出す。
震える声が静まり、目線が上がった。
「……レオンのパンを、待とう」
誰かが呟き、それが広場全体の呼吸になった。
◆最後の生地
窯の前に戻り、私は粉を捏ね始めた。
混ぜるのは――
古い“記憶種”
土の精霊が与えてくれた「膚」
風の精霊ミルの羽の欠片
村と王都で配った、食べかけの欠片をすり潰した粉
それらをまとめ、生地をひとつに折り返す。
指先から心臓へ、心臓から窯へ。
全身がひとつのこね台になっていく。
『名前をつけて』
ミルがささやく。
『名を持つパンは、食べられない』
「名は――“世界のパン”。俺たち全員の焼きだ」
◆飢えの王、顕現
黒い口がついに王都の中心に降り立った。
塔の影が歪み、人の姿に似た巨体が形を取る。
頭から胸まで裂け目が走り、そこから覗くのは終わりなき胃袋。
飢えの王は、声にならない咆哮をあげた。
『よこせ。すべてを。思い出も、祈りも、剣も、命も』
アルドが剣を振るう。
マリアが祈る。
ザイラスが炎を叩きつける。
だがすべて、王の喉奥に飲み込まれ、力を失った。
「レオン!」
アルドが叫ぶ。
「おまえのパンしか残ってない!」
◆焼き上がり
窯の中で、“世界のパン”が膨らんでいた。
皮は厚く、内側は柔らかい。
裂け目の光を浴びても、揺るがない。
私は扉を開き、両手でそれを抱えた。
香りが広場に広がり、人々の胸を震わせる。
「これが俺たちの――最後の焼きだ!」
兵士も民も、かつての勇者たちも、声を合わせて叫んだ。
「食べろ! 思い出せ! 生きろ!」
飢えの王が舌を伸ばし、“世界のパン”を飲み込もうとする。
だが、その瞬間――
パンの香りが、王の胃袋に充満した。
“満腹”という感覚。
飢えが恐れる唯一の敵。
『――やめろ……やめろォ……!』
王の叫びは虚空に響き、黒い口はひび割れ、裂け目そのものが崩れていった。
◆静寂
闇が消えた。
王都の空に、星が戻った。
広場に座っていた人々が立ち上がり、互いに手を取り合う。
「終わったのか……?」
「生き残った……」
アルドが剣を納め、膝をついた。
マリアが涙を拭い、ザイラスが杖を支えながら笑う。
私は窯の前で、“世界のパン”の残りを静かに抱いた。
それは焼き切ったはずなのに、まだ温かかった。
『レオン』
ミルが囁く。
『あなたの焼きで、飢えは退いた。でも……世界のどこかではまた腹が鳴る。だから――』
「だから、焼き続ける」
私は笑った。
「俺は勇者じゃない。ただのパン屋だ。けど、このパンで――人を守る」
次回「第14話 余韻の朝」
飢えの王を退けた翌朝。王都に訪れる静けさと、人々が噛みしめる“生きている証”。そしてレオンが選ぶ道とは――。