第12話 記憶種のパン
◆記憶の種
夜。王都の空は再び裂け目に覆われ、街路の灯りを舐め取るように黒い指が伸びていた。
昨日よりも深く、濃い。飢えの王が「皮を剥ぐ」と予告した通り、王都の外壁の石は乾き、内側の人々の皮膚までざらつきを帯び始めていた。
私は窯の前で膝をつき、壺の中の“古い種”を見つめた。
オズに託された、酸の強いパン種。干し葡萄の祖先。
その泡がひとつ弾けるたびに、村の記憶が甦る。
幼い子どもの笑い声、老人の咳払い、畑を渡る風の匂い。
『レオン。焼ける?』
ミルが不安げに囁く。
「焼くさ。これは、みんなの“忘れない味”だ」
私は粉を捏ね、古い種を混ぜ込んだ。
膨らみはゆっくりだが、強い。
生地そのものが語りかけてくるようだった――「忘れるな」と。
◆王都の不安
広場では、人々が影の冷気に震えていた。
昨日は笑顔を取り戻した兵士も、今日は唇を噛んでいる。
「明日の朝は迎えられないのでは」と、囁きが広がっていた。
アルドが剣を掲げて叫ぶ。
「恐れるな! レオンがいる! 俺たちはパンで立ち上がっただろう!」
だがその声に答える力は、昨日より弱い。
マリアは祈り続けているが、光が薄い。
ザイラスも額に汗を浮かべ、魔力を絞り出す。
人々の心が“空腹”に引き寄せられ始めていた。
◆焼き上がり
窯の扉を開けると、黄金を超えて琥珀色に染まったパンが姿を現した。
皮は強く張り、中身は柔らかい。
ひと口齧れば、誰もが思い出すだろう。
――村で食べた温かい朝食。
――戦場で分け合った一片。
――家族と囲んだ夕餉。
私はパンを抱え、広場の中心に立った。
「食べてくれ! これは“記憶種のパン”! 忘れていた温かさを思い出せ!」
人々が手を伸ばし、パンを裂き、口にする。
涙を流す者もいた。
「母の味だ……」
「幼い頃、祭りで食べた甘さ……」
「俺は一人じゃなかった……!」
人々の胸に、失われかけていた灯が戻る。
空の裂け目がひび割れ、黒い指が後退する。
◆飢えの王の声
その時、街全体に乾いた笑い声が響いた。
『記憶など、所詮は噛みかけの残り滓。満腹にはならぬ。――ならば、わたしが直々に喰らおう』
裂け目が大きく開き、夜空を覆う影が王都の真上に垂れ込めた。
黒い舌が石畳を舐め、屋根を這う。
兵士たちが剣を抜き、祈りと呪文が交錯する。
私は窯の火を見据え、拳を握った。
「来るな……いや、来い。これ以上は食わせない」
ミルが肩で震えながらも微笑む。
『レオン。あなただけの焼きが、王を止める。焼こう――“最後のパン”を』
私は頷いた。
火は燃えている。灰も覚えている。
人々の記憶が生地となり、希望が発酵する。
――飢えの王との最終決戦が始まろうとしていた。
次回「第13話 飢えの王、降臨」
影そのものが王都を覆い尽くす。レオンは“最後のパン”を焼き上げるため、仲間と共に最前線に立つ!