第11話 飢えの使徒、黒き前菜
◆暁の灰
東の空が薄く白み、王都の屋根に露の線が描かれる。
私は窯の灰を均し、灰の下で赤く呼吸する火点を指先で探った。まだ生きている。昨夜、王都全体で張った“パンの膜”は、灰の奥のこの小さな赤点から始まったのだと思うと、胸の奥がじんと熱くなる。
『レオン。灰は覚えてるよ』
肩にとまった風の精霊ミルが、灰の上を軽く吹いて渦を描く。
『昨日の“宵”も、みんなの息も。――でもね、向こうも覚えた。あなたの焼きに、抵抗の仕方を』
「来る、ってことか」
『うん。飢えは学ぶ。次は“香りの膜”だけじゃ押し返せないかもしれない』
私は頷き、薪を三本足した。火はすぐに優しく牙を覗かせ、窯の内壁を琥珀に染める。
灰の匂い、濡れた石の匂い、粉の甘さ――それらが混ざり合った朝の空気は、戦支度の匂いでもあった。
◆小麦の便り
広場では、昨夜ほとんど眠れなかった顔ぶれが簡素な朝食を取り、交代で小休止している。
配り場の片付けをしていた少年モルが、黙って私の前に小さな包みを置いた。
「市場の外れ、城壁沿いの畑の人から。……“麦が静かすぎる”って」
包みは麦穂だった。朝露に濡れているのに、指先で撫でると、穂先から音がしない。
風が渡れば、麦は“さやさや”と体を鳴らすものだ。音のない麦は、息をしていない。
『レオン。畑を見に行こう』
「行こう。アルドと宰相には俺から伝える」
私は籠をひとつ肩にかけ、白パンと硬焼きパンを詰め込んで城壁外へ向かった。モルは荷車の棒に身体を預け、小さな車輪をきゅるきゅる言わせてついてくる。
◆沈黙の麦畑
王都の西側、堀の向こうに広がる共同畑。
朝露が葉を光らせる中、麦の列だけが不自然に静まり返っていた。
よく見ると、麦の根元の土が、薄く黒ずんでいる。湿気の色ではない。夜の裂け目がこぼした影が、地面から麦の喉に指を入れて窒息させようとしている――そんな色だ。
「いやな匂いだ」
私は膝をつき、土を掬った。冷たい。湿っているのに、潤いがない。
ミルが風の羽で土を払うと、土粒の間から細い黒糸のようなものが見えた。
『飢えの菌糸。空の裂け目から落ちた“渇き”が、土の中で糸を伸ばしてる。水を飲んでも喉が潤わないのは、この糸が吸い取るから』
私は籠から小さな丸パンを取り出し、半分に裂いて麦の足元に置いた。
パンの内側の白が、染みるようにゆっくりと土に溶け込む。
湿った空気がほんの少し、麦の葉の下で温度を取り戻した気がした。
『効くけど追いつかない。畑ぜんぶにパンを埋めるわけにもいかないし……』
「焼いて撒くのは? 香りの膜じゃなく、土の膜。――“麦守りパン粉”だ」
ミルの瞳がぱっと明るくなった。
『乾いた香りは長持ちする。土の粒に抱きつければ、菌糸の口に先回りして喉を潤せる!』
「戻ろう。粉を挽く。焼いて、砕いて、風で播く」
私たちは踵を返した。が、そのとき、畑の端の低木の影で何かが蠢いた。
人影――だが、人ではない。黒い襤褸をまとい、顔のところに口だけがある。目鼻が見当たらない。
口は縦に裂け、そこから伸びた舌が、畑の空気を舐め取る。
「……なに、あれ」
『飢えの使徒。厨房に忍び込む鼠みたいに、都市の隙間に入ってきて“腹の減り方”を悪化させる。昨夜の膜で飢えを止められたから、直接“匂い”を盗みに来たんだ』
使徒は私たちに気づくと、するりと麦の列に体を滑らせ、こちらへ一直線に向かってきた。
私は硬焼きパンを握りしめ、反射的に投げた。
石のような硬パンが口に当たる――が、使徒はそれを割って喉に飲み込み、さらに速度を上げる。
「食いやがった……!」
『“形あるもの”は、食べ物として数えられる限り、あいつらの腹に落ちる。――でも』
ミルの羽が、私の指にそっと触れた。
『“焼きの名”は食べられない』
私は息を吸った。「名を、刻む」
◆名持ちのラスク
城壁に戻るなり、私は窯に火を足し、朝の生地の取り分で薄い板状のパンを焼いた。
水分を飛ばし、香りを凝縮させる。
焼き上がった熱い板をすぐに包丁で削ぎ、細いラスクにする。
一本一本に、私は小さく音をのせた。「守」「息」「喉」「畝」。
名だ。言葉の芯。形ではなく、働きの、素の名。
「モル、これを十束、畑の四隅に撒いてくれ。合図したら同時に。撒いたらすぐ戻れ」
「やる」
少年は荷車に束を積み、脚に火を灯したような速さで駆けていく。
私は残りのラスクを臼に入れ、棒で砕いた。ざく、ざく、と軽やかな音。
粉になった“名持ちのラスク”を、ミルが風で一気に舞い上げる。
『いけっ!』
粉は線を描いて畑へ広がり、黒い糸の張り巡らされた土の表面に降り積もる。
ラスクの名が、土の粒に小さく沈んで灯る。
口だけの使徒が粉を吸い込もうと身をよじるが、“名”は喉の奥のさらに奥、食べ物という概念の外にするりと逃げ込む。
畑の緑が、ふっと音を取り戻した。
“さや”という、かすかだが確かな擦れの音。
使徒は身体を震わせ、のたうち、やがて畑の地表に貼りついた黒糸のほうへ自ら溶け込むように沈んでいった。
「……吸い戻された?」
『ううん、“食べる口”を閉じられて、飢えが自分自身を食べ始めた。栄養にならないものを延々食む“地獄”。――でも、まだ終わりじゃない』
ミルの視線が、王都の中心――王城の塔へと向かう。
薄い影が、塔の表面をなぞるように移動している。
使徒は畑だけじゃない。街の中にも潜った。
◆塔の影
王城の塔は、内側から疲れた光を漏らしていた。
宰相シグルド、アルド、マリア、ザイラスが作戦図の前で膠着した議論を続けている。
そこへ、床の石目が“乾く”音がした。じわ、と。
塔の壁に貼りつくように現れた影――口だけの使徒が、石目の水分を舐め、燃え尽きた蝋燭の芯を咀嚼する。
目に見えないのに、確かに“匂い”を盗む行為だけは存在感を持って空気を薄くする。
「下がれ!」
アルドが剣を抜くが、刃は影を裂けない。
マリアの祈りも滑り、ザイラスの炎も、燃えるものを持たぬ影には力を失う。
私は駆け込み、袋から“名持ちのラスク粉”をひとつまみ取り出した。
手のひらで押しつぶし、「座」をそっと息で吹きかける。
粉は塔の心臓に届く階段の踊り場に落ち、そこに“座”が生まれる。
使徒がその上を通ると、脚が止まる。座る。座ってしまう。
座れば、腹は“満たされる準備”をする。影の口が、仕事を忘れる。
ミルが一陣の風で使徒の“口”を裏返し、粉の“喉”を押し込んだ。
乾いた影が、ごくり、と空気を飲む――飲めた。
空気を“飲む”という当たり前の機能を思い出した影は、自分が“食べすぎていた”ことに気づく。
次の瞬間、影は自らの縁を食み、細くなり、塔の石目へと吸い込まれていった。
「……助かった」
ザイラスが杖を下ろし、額の汗を拭った。
「影は斬れん。だが“名”は概念の輪郭に楔を打つ。――パンの魔術、恐るべしだ」
宰相が短く息をつく。
「レオン殿、王都各所でも似た症状が出ている。飢えの使徒が台所、井戸、礼拝堂、寝室の“匂い”を盗んでいるらしい」
「配る。塔にいるだけじゃ追いつかない。網を広げる」
私は“名持ちのラスク粉”の配合をぞんざいに記し、配り手の印に小麦の焼き印を押して、モルたち子ども隊に手渡した。
「三つの“名”を覚えろ。“座”“喉”“息”。まず“座”だ。相手を座らせる。座れば、腹は“受け入れる”。次に“喉”。飲み込む道が開く。最後に“息”。香りを奥まで運ぶ」
「覚えた」
少年たちは散っていく。
宰相は王城の伝令を走らせ、各区の竈へ協力を仰いだ。
王都は、香りと名で縫い直され始めた。
◆もうひとつの気配
混乱がひと段落した頃、私は窯に戻り、炉床に手を当てた。
熱はある。だが、奥のほうに“逆向きの風”が絡んでいる。
ミルが眉をひそめる。
『この風……いやな匂い。わたしの“姉妹”の気配。でも、歪んでる』
精霊には、風だけでなく、火・水・土――それぞれの“家族”がいる。
ミルが言う“姉妹”は、たぶん――土の精霊だ。麦の根、窯の粘土、パンの皮――土はいつも、私たちの足元にいる。
「呼べるか?」
『ふつうなら、土はここにいる。――でも、眠らされてる。飢えの糸が、土の口に乾いた布を詰めてるみたい』
土の口を開かせるには、土の言葉がいる。
私は棚から小さな壺を取り出した。
村を出る前、オズに手渡された“古い種”――干し葡萄の祖先にあたる、酸味の強いパン種だ。
水で起こすと、低く、深い泡が上がる。
私はその泡の縁に、指で“土”の字を描き、窯の口の土台に押し当てた。
「――穀霊の主よ。土の家の者。眠るなら、目覚めの香りを」
壺の中の泡が、ひときわ大きく破裂した。
窯の下から、ぬくい気配がじわりと広がる。
床石の目がゆっくりと開き、土の声が、麦畑の奥底のような低さで響いた。
《乾いた布を、抜いてくれ》
『任せて』
ミルが旋回し、風の糸で黒い“乾き”を引きはがす。
土の精霊が喉を鳴らすように、炉床の下でごろりと転がった。
窯全体の呼吸が深くなる。
土が目を覚ませば、パンの皮は強く、内側は柔らかくなる。焼きの基礎が整う。
《パンの者よ。名を貸そう》
土の声が、壺の泡のはぜる音に紛れて落ちた。
炉床の縁に、細い亀裂が一本走り、それがやがて文字の形に収まる。
「膚」。
皮、肌。パンの一番外側、世界と触れる面。
「ありがとう」
私は礼を言い、ミルと視線を交わす。
これで“香りの膜”に加え、“皮の結界”が張れる。
飢えは香りを盗む。ならば、街そのものの“皮膚”を厚くして、ひっかき傷で血を流さないようにする。
◆黒き前菜
夕刻。
王都の四方の門の前で、一斉に黒い影が“屋台”の形を取り始めた。
屋台――としか言いようがない。机、棚、鍋。だがどれも影でできており、触れれば指先の温度を奪う。
屋台には看板が揺れ、文字が逆さに浮かぶ。「前菜」。
影の店主たちは顔がなく、口だけで“ふふふ”と笑う。
『王が、“食前”を持ってきた』
ミルの声が低くなる。
影の屋台は、歩み寄る者に冷たい匂いを吹きかける。
“あとでたくさん食べるから、今は少しだけ我慢して”――そんな、痩せる呪いに似た囁き。
列が乱れ、子どもが親の手を振りほどいて影に引かれそうになる。
「皮を厚く」
私は窯から取り出したばかりの大きな丸パンを、広場の中心に置いた。
皮は土の“膚”の名を借りて強く焼き締めてある。
表面に小さな切れ目を十字に入れ、そこに“座・喉・息”の粉をひとつまみずつ落とす。
パンは、呼吸をはじめた。
その呼吸が広場の石畳に降り、薄い皮膜になって人々の足の裏を包む。
影の屋台の冷気が皮膜に当たると、撥ねた。
“あとで”という囁きが、“いま”に溶ける。
いま噛む。いま飲む。いま息をする。
王都の人々の喉が、ひとつの合図でも受けたかのように動いた。
私は名持ちのラスクを砕いてスープに落とし、配り場で“前菜じゃない一口”を配りはじめた。
影の屋台は苛立ったように棚を鳴らし、鍋をひっくり返し、最後には自分の看板を食いちぎって、闇の底へ沈んでいった。
◆夜の予告
黒い屋台が消えた直後、空の裂け目が再び音を立てた。
今度は、ひどく近い。
城塔の天蓋に黒い指が触れ、そこに“舌”の印がつく。
乾いた声が、塔の内と外、すべての耳の後ろに同時に落ちる。
『――よくも、前菜を台無しにしたな。パン焼き』
「主菜は要らない。ここは食卓じゃない。寝台だ。家だ」
『ならば、わたしは家ごと食う。夜半。王都の“皮”を剥ぎに行く』
空気が冷える。皮膚が粟立つ。
ミルが小さく息を呑み、私の耳元で囁いた。
『今夜、来る。昨夜よりも深く、厚く。……レオン、焼ける?』
私は窯の口に手を入れ、火の舌に近いところで掌を止めた。
熱は痛い。しかし、怖くはない。
痛みは、焼けという合図だ。
「焼く。――皮を厚く、香りを深く、名をはっきり。
それともうひとつ。“忘れないパン”を」
『忘れない?』
「飢えが奪うのは、腹の中身だけじゃない。記憶も奪う。腹が減ると、人は昨日の温かさを忘れる。
――だから、思い出す味を焼く。村の朝、王都の夕餉、戦場の真ん中で分けた一口。
それを“種”にする」
ミルの瞳がやわらかく光った。
『それ、好き』
私は粉袋を開け、壺の古い種をひと匙落とした。
酸の香りが、胸骨の裏に懐かしさを刺す。
オズの笑い皺、村の子どもの手、王都の広場で泣きながら笑った兵士――それらが泡の表面に浮かんでは消えた。
「――よし。今夜は、記憶種のパンだ」
私は窯口を閉じ、灰の上に手を置いた。
灰は、昨夜の熱を覚えている。
覚えているなら、また燃える。
王都も、私たちも。
鐘が二度鳴る。夜が、ゆっくり深くなる。
飢えの王は“皮を剥ぎに来る”と言った。
ならば、皮をさらに焼き締め、内側を柔らかく、熱く保てばいい。
パンの仕事は、昔からそうだ。
「――焼こう」
火が応え、窯が息をした。
風が道を張り、土が膚を厚くし、名が芯を立たせる。
王都が、ひとつの大きなパンになっていくのが、確かに感じられた。
つづく