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第10話 希望のパン、世界を満たす

◆夜明け前の仕込み


 王都の空がいちばん深い青に沈み、東の端が紙一枚ぶんだけ薄く白んだ頃、私は窯の前に立った。

 風の精霊ミルが肩に降りる。羽根先が、まだ眠っている町の屋根をそっと撫でた。


『レオン。世界が、空腹で目を覚ます時間だよ』


「ああ。――焼こう」


 粉袋を裂く。石臼の香りが立ち、朝の冷気を押し返す。

 塩は岩塩、指先で少し砕く。

 水は夜のうちに桶に汲んでおいた井戸水。冷たいが、窯の呼吸でほどよく緩んでいる。

 酵母は――村から持ってきた干し葡萄の系譜、王都の台所で継いだ泡が静かに歌をうたっている。


 私は静かに混ぜ、捏ね、叩き、折り返す。

 掌に伝わる弾力。筋肉が目覚め、網が編まれていく。

 窯の内壁がぱち、ぱち、とわずかに鳴り、火の舌が煙道の奥で笑う。

 この都市全体がひとつの大きな胸となって、呼吸し始めているように感じられた。


『今日の“配合”は?』


「――希望を、焦がさないこと」


 私はハーブをきざみ、少量の蜂蜜を混ぜたオイルで和える。

 村のオズにもらった葉と、王都の市壁の外で採れた小さな野の花。

 香りは強くなくていい。鼻孔でなく、胸の奥に届く道筋だけあれば。


「ミル、手を貸してくれ。香りの道を、街路の上に」


『うん。風の糸を張っておく。人と人のあいだを結ぶための糸』


 羽ばたきが、目には見えない道標を空に描いた。


◆希望の生地


 私は大きな生地を三つに分けた。

 ひとつは“朝の生地”。目覚めのため、軽く、優しく。

 もうひとつは“昼の生地”。戦場へ向かう者の骨に力を通す。

 最後のひとつは“宵の生地”。倒れた者に夜明けを思い出させる。


 朝の生地には、湯種を少し混ぜ、内側に水分を抱かせる。

 昼の生地には、麦芽とナッツを挽いて加え、噛むたびに音が出るようにした。

 宵の生地には、干し果実を刻んで練り込み、口に含めばゆっくりほどける甘みを用意する。


 成形の手が止まらない。

 指の節が熱を帯び、掌の線に粉が入り込む。

 汗がこめかみを伝う感覚は、剣を握っていた頃に似ている――だが、切っ先を前に向けないだけ、世界は温かい。


 窯口を開き、朝の生地から送り込む。

 炎が低く唸る。

 香りが、すでに街路へ滲みはじめた。


◆広場の配り場


 王城の前の広場。

 まだ日が差す前だというのに、列ができていた。

 兵士、負傷者、子ども、老人、祈祷師、商人――名札も肩書きもここでは意味を持たない。ひとつの列。ひとつの腹。ひとつの朝。


「一人にひとつ。急ぐ者は半分ずつでもいい。噛んで、息をして、立ち上がれ」


 言うたび、自分に言っているようでもあった。

 私は籠を持ち、焼きあがった“朝のパン”を配っていく。

 表面はやわらかく、指の跡がすぐに戻る。裂けば白い湯気がのぼる。


「……うちの子の熱が下がっていく」

「膝が、ほら、曲がる。昨日まで痛くて眠れなかったのに」

「怖くない。――行ける」


 そんな声があちこちから上がった。

 私は頷きながら、次の焼き上がりを合図で受け取り、また配る。


 ふと、人混みの端で立ち尽くす少年の目と合った。

 痩せてはいるが、目だけは強い灯りを湛えている。

 私は小さな丸パンを手渡した。


「名前は?」


「モル。……市場の片付けをしてる。兵隊じゃない」


「人はみんな、誰かを支える兵だ。おまえの両手も、誰かのためにあいてる」


 少年はパンを抱えたまま、顔を上げた。

 うなずきが小さく二度。

 彼は駆けていき、路地の奥でひざを抱える老女にパンを半分に割って渡した。

 風が、その動きをやさしくなぞっていく。


◆旧友たちの朝


 アルドが鎧を着込みながら近づいてきた。

 顔色は眠れていない人間のそれだが、瞳は澄んでいる。

「……俺にも、朝をくれ」


 私はパンを手渡した。

 彼は無言で裂き、ひとかじり。

 肩から余計な緊張が落ちる音が、目に見えるようだった。


「ありがとう。――今日が、本当の意味でのはじまりになるといいな」


「剣をふるうのはおまえだ。道をつなぐのは、パンだ」


 マリアには宵の生地からのひとつを渡した。

「祈りは、時に自分をいちばん後回しにする。甘みを忘れるな」


 彼女は微笑み、目元にほんの一滴だけ涙を光らせた。

 ザイラスには昼の硬めのパンを。

「噛む音が、考えを整える」


「……パンで思考速度を制御するとはな。認めるのは癪だが、科学的だ」

 彼はかすかに口角を上げた。


◆東の空が裂ける


 朝の列がひと段落した頃、城壁の見張り台から、甲高い角笛が鳴った。

 東。

 山脈の上空に、黒い亀裂が走っている。

 雲ではない。影でもない。――空そのものが裂け、向こう側に虚がのぞく。


 そこから、冷たく湿った風が吹いた。

 風の精霊ミルが羽根をすぼめる。


『……あれは、飢えの口。他の世界へ繋がる抜け道。魔王は、そこを通って“空腹”を集める』


 空腹。

 腹だけじゃない。

 満たされない想い、叶わない祈り、失われた日々の穴――。

 そのすべてを餌にして、あの闇は肥え太っていくのだ。


 私は窯の火を見た。

 炎は揺れるが、怯えてはいない。

 薪を足す。息で煽る。

 昼の生地を送る合図を、手の甲の動きひとつで出した。


「配るだけじゃ、届かない場所がある。――ミル」


『うん。風の網を広げる。上空の流れを変える。香りを、裂け目の向こう側にまで』


「頼む」


◆香りの矢


 昼のパンが次々と焼き上がる。

 噛み応えのある皮を持った小ぶりの棒パン。

 私はそれを、城壁に設えた投擲機に載せた。

 隣で兵士が目を白黒させる。


「ま、まさか……パンを射るのか?」


「香りは届いたときに生きる。空の裂け目に、香りの道を通す」


 ミルが風を巻き、パンの表面に細い旋回の刻印を付ける。

 投擲機の腕が唸り、棒パンは弧を描いて――見えない糸に引かれるように、東の空へ吸い込まれた。


 最初の一本。

 次に、二本。

 十本。二十本。

 香りの矢が、裂け目の縁に沿って風の網を紡いでいく。


 城壁の上にいた兵士が、ぽつりと呟いた。


「……腹が、空かない」


 人は恐怖の前で体温を下げ、胃袋を閉じる。

 だが今、兵たちはゆっくり息を吐き、膝の力を抜いて、しかし目線は落とさない。

 香りは、体の奥から“立てる姿勢”を思い出させる。


 遠く、裂け目のふちで、闇がわずかに脈動を緩めた。


◆街路の昼


 王都の通りに、いくつもの即席の配り場ができた。

 パンを手渡す人、切る人、砕いてスープに落とす人、子どもの口に小さくちぎって含ませる人。

 モルが仲間を引き連れて、荷車を押している。

 彼らは路地の袋小路まで迷いなく入り、扉の向こうの影にパンを差し出した。


「――どうしてわかる?」


 荷車の脇で問うと、モルは肩をすくめた。

「いつも腹が減ってる場所は、匂いで覚える。……今日は違う匂いがする」


「どんな匂いだ?」


「泣いてる人が、腹を鳴らす匂い」


 私は笑った。

 子どもは時に、神よりも確かな言葉を使う。


◆王城の作戦会議


 昼過ぎ。

 宰相シグルドが戦況図を前に、深い皺を寄せていた。

 東の裂け目に向けて各門の兵力を再配備。騎士団は二線目で交代を繰り返す。

 アルドが剣の刃を布で拭い、マリアは祈りの帳を畳む。ザイラスは魔力回復の陣を刻む。


「レオン殿の“香りの矢”で、敵の進攻が鈍っている。だが、夜までに裂け目が広がれば、押し流される恐れがある」


「夜は、空腹の時間だ」私は言った。「夕餉までの長い隙間。そこを魔王は嗅ぎつける」


「どうする?」


「――街ぜんぶに、同じ時刻に“宵のパン”を焚きつける。窯は城だけじゃ足りない。各区画の厨房、パン屋、酒場、菓子屋、神殿の竈。火を一斉に上げる」


 ザイラスが眉を上げる。

「都市規模の結界ならぬ、“焼き”の連鎖か。連絡網は?」


 モルが一歩前に出た。

「ぼくら、走るよ」


 宰相は短く笑った。

「よかろう。王都の網は、商人と子どもがいちばん速い」


 マリアが地図の四隅に指を置き、祈りの薄い膜を張る。

 パンの香りが届く場所に、祈りは届きやすい。

 彼女の手が震えていない。朝の甘みが、確かに彼女を支えているのが見て取れた。


◆宵の一斉焚き


 太陽が傾きはじめ、影が長く延びる。

 王都各所で、一斉に火が上がった。

 私の窯からは干し果実の甘みを含んだ“宵のパン”が次々と生まれ、風の糸に拾われて街路に流れていく。


 酒場の古い竈、神殿の控えの竃、屋台の鍋の下――火は場所を選ばない。

 人が集まり、息を合わせ、タイミングを合わせる。

 風が区画と区画の境を撫で、香りをこぼさず運ぶ。


 城壁の上で、兵士たちの目がまた驚きで丸くなる。

 腹が鳴る。だが、それは弱りの合図ではない。

 体が“取り入れる準備”をはじめた証だ。


 東の裂け目が、ひとつ、縮んだ。

 闇は、飢えの供給路を狭められて苛立つように、ざわりと揺れる。


『レオン、効いてる!』


「ああ。――もうひと押しだ」


 私は最後に残しておいた大きな生地を、分割せずに丸ごと窯に入れた。

 王都の地図と同じくらいの大きさに膨らむ――気持ちとして、だが。

 釜の温度がほんの少しだけ落ちる。火の脈動を読み、薪をほんの二本差す。

 扉を閉め、耳を澄ます。

 パンの声が、私にだけわかる言葉で告げる――「いま」。


 私は扉を開いた。

 宵の光が窯口に飛び込み、丸パンの表皮に金の皮膜を落とす。

 それを掲げ、風に晒す。


「――王都まちよ、食べろ」


 ミルが羽ばたき、丸パンの香りが四方へ割れ、数えきれない粒のようになって街上に降った。

 人々が、同時に息を吸う。

 誰もが、口の中に温かさを覚える。

 家の中でも、路地でも、城壁の上でも、戦列の前でも。

 パンの“宵”が、胃袋と心に灯を点す。


 空の裂け目が、はっきりと狭まった。

 黒い縁がきしみ、闇の向こうから何かがこちらを凝視する気配がする。

 “飢え”そのものが、初めて拒まれて怒っているのだ。


◆影の王の声


 そのとき、王都全体に響く声があった。

 巨大ではない。むしろ耳のすぐ後ろで囁かれるような、近さ。

 温度のない声。乾いた砂が舌の上で転がる音。


『――よくも、わたしの糧を奪ったな』


 城壁の上で、何人かが膝をついた。

 空の裂け目の中心に、目のような暗点が開き、その縁に薄く牙が並ぶ。

 私はその“口”を見上げ、はっきりと言った。


「腹を空かせた王よ。――俺はパン屋だ。世界の腹を満たす」


『パンなど泡沫。飢えは尽きぬ。人の胸は穴だらけだ』


「穴にこそ、温かいものは沁みる」


 声がいったん止まり、次に笑いに似た音が落ちた。

 乾いた笑いだ。砂の笑いだ。


『ならば、試してみるがいい。今宵、わたしは“王都の夜食”を奪いに行く』


 裂け目が、再び口を開く。

 闇の糸が垂れ、街灯の影を舐めて伸びてくる。

 人々の懐に潜り込み、無理やり胃の底を冷やそうとする指が動く。


 私は窯の前で両手をひらいた。

 怖くないと言えば嘘になる。

 だが、掌には粉の白と火の熱が残っている。

 この手を空に向けたとき、私は勇者ではない。

 ――パン屋だ。


「もう一窯、いけるか?」


『いけるとも』

 ミルの声が力強い。

『わたしの風も、王都じゅうの竈の火も、あなたの“いま”に合わせる』


 私は頷き、最後の薪束に火を点けた。


◆パンの結界


 王都のあらゆる厨房で、同時に火が上がった。

 釜蓋が開き、皮の弾ける音が夜のリズムを刻む。

 屋根の上に、湯気の輪がいくつも浮かび、風に溶けてひとつの膜になる。


 香りは香りとして、しかし確かに“膜”になった。

 鼻孔と胸と胃袋と、そのもっと奥、心の水面に薄い油膜を張るように。

 闇の指が触れれば、そこにぬくもりが広がって潰れる。

 飢えの針が刺されば、柔らかい生地が弾んで、針を抜く。


 城壁の上で兵士が笑った。

「腹が減るのは、生きてる証拠だな」


 その言葉が、合図のようにあちこちで繰り返される。

 「生きてる証拠」。

 私の掌が、少し震えを忘れた。


 裂け目の口が、今度は明らかに歪んだ。

 飢えの王は、初めて“満腹”という概念に押し返されている。

 胃の壁が伸び、心臓がしっかり脈打ち、脳が“食べた”と宣言する波。

 その波を、香りが、パンが、風が――運んでいる。


◆夜の終わりに


 夜がいちばん深いところを過ぎると、空の黒に薄い藍がにじんだ。

 裂け目は、完全に閉じはしない。だが、今夜、王都の上に降りることはできなかった。

 闇は舌打ちのような気配を残し、少しだけ高みに退いた。


『……ひとまず、退いたね』


「うん。――腹は、満ちた」


 広場では、配り場の最後の列が静かにほどけていく。

 子どもが欠伸をして、パンのかけらを握ったまま眠りかける。

 兵士は壁にもたれて短い仮眠をとり、見張りが交代で城壁に上がる。

 パン屑が石畳に小さく残り、風がそれを拾ってどこかへ連れていく。


 アルドが横に来た。

 剣は鞘に収まり、肩の力は抜けている。


「……おまえがいなかったら、今夜で終わっていた」


「違うさ。窯を囲んだのは全員だ。俺ひとりの焼きじゃない」


 マリアが祈りの帳をたたみ、胸に手を置く。

「香りに祈りが載るのを、初めて見たわ」


 ザイラスが、目の下の隈を指で押しながら苦笑した。

「香りを媒体にした心身の調律――学術的に興味深い。いずれ論文に……いや、まずは寝る」


 笑いが広がる。

 私は窯の火に蓋をし、灰を均した。

 火は消えていない。

 灰の下の赤い点が、静かに呼吸している。


 ミルがその上を輪を描くように飛んで、私の肩に戻った。


『レオン。世界は、まだ空腹だよ』


「わかってる。だから、焼き続ける」


 東の端の白が、さっきより幅を広げた。

 夜の底から、鳥の小さい声がひとつ。

 私は空腹を確かめるように腹に手を置き、笑った。


「――朝を焼こう」

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