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ふたりの最短焦点距離

作者: こう しげる

 校舎の南側の、植え込みのある斜面に群生しているシロツメクサの一群へ向けて、みゆきはピントをあわせた。

 背中越しに、新入生を迎えたグランドの活気に満ちた声が飛び交っているのがわかる。ちょうどうまい具合に、フレームの中の花のひとつに、アブが一匹止まった。

 みゆきは息を止めて、エア・レリーズを握りしめた。

 ぱしゃん。

 五〇〇分の一秒のシャッター音が黒い小さな機体の中で響く。

 その振動に驚いたわけもないだろうが、アブはあわてて白い花から飛び去った。

 みゆきは肺にためていた空気を一気に吐き出した。

 四月の日差しは一年の中で、生き物をいちばんいきいきと煌めかせる。

 三月では冬の名残りの光が弱々しい影を作りだすし、五月では照り返しの強い日があったりして、もう駄目なのだ。

 四月の光の中では、花も緑も小さな虫たちも生きる歓びに満ちて、なんの小細工もなしにその姿を印画紙に焼き付けることが出来る。

 長身をかがめてファインダーを覗く姿は細身だが、首から肩にかけてふっくらとした柔らかい線を描いているのがブラウスごしにもわかる。

 みゆきはそのままのアングルで、もう一枚フィルムを巻き上げた。

 シャッターを切ろうとレリーズに手をかけた瞬間、ふいにシロツメクサの小さなお花畑に影が差した。

「みゆき!」

 声の主は荻野美穂。

 みゆきと同じ陽炎高校写真部の二年生。

 すこし巻き上げた標準服の紺地のタータンチェックのプリーツスカートトお揃いのベストという標準服がよく似合っている。

 二年生になるときにばっさり切ったショートボブの髪型が、頭の形の良さを引き立てていた。

「なにやってんのよ」

 ずかずかと歩み寄る美穂を、ファインダーから目を離したみゆきは、無言で睨み返した。

「あ……」

 しまった、という顔をして美穂は二、三歩後ずさったが手遅れである。

 くの字に曲げていた腰を伸ばすと、美穂より頭一つと半分も背の高い、目つきの鋭い少女が立ちはだかった。

 ばさり、と多い髪の毛が目のあたりに落ち掛かる。

「ばか」

みゆきは吐き捨てるように言った。

 被写体に美穂の陰がかかり、露出が台無しになったのだ。

 集中力のいる接写には最大の妨害である。

「なにか用か」

「なにか用か、じゃないでしょう。忘れたの?今日は新入生歓迎のスライド上映会をやるって」

「そうだったけ?」

「いいから、来なさいよ」

といって美穂はみゆきを引きずるようにして部室へと連れていった。


 写真部の部室は、四階建ての東校舎の三階の南の端の理科第二実験室に間借りしていた。

 予算の関係で専用の部室ではない。

 物好きな新入生をゲットして、部室はいつになく盛り上がっている。

「連れてきたわよ、部長」

「お、サンキュ。みゆき、リバーサルはほとんどきみの作品だから。解説頼むわ」

「え」

 戸惑うみゆきを無視して、待ってましたとばかりに部長の斎藤は机からすべりおりると、スライド映写機を取りに、いったん黒板の裏の準備室に引っ込んだ。

「あ、ちょっと、一年生諸君」

 美穂はぱんぱんと掌を打って、新入生たちの注視を集めた。

「こちらが杉浦みゆきさん。今から上映する作品はほとんど彼女のものよ」

 みゆきはまるで興味がないといいたげに、腕組みしたままそっぽを向いている。

 そんなことはお構いなしに、美穂は勝手に一年生たちの紹介を始めた。

 男2人に女1人である。

 まあ、どっちにせよ長続きなんかしない、とみゆきは半分高をくくっているので上の空である。

「……松波くんね、あなたの写真が気に入って入部する気になったんですって。ちょっと、聞いてるの?」

 肘で小突かれてみゆきは我に返った。

「え?」

「『セイタカアワダチソウとアキアカネ』の写真に感動したそうよ」

「げっ」

 反射的にみゆきは変な声をあげてしまった。

 松波邦生というその新入生は美穂より少し背が高いくらいの、色白で目元の印象的な少年だった。

「松波邦生です。よろしくお願いします」

 ぺこんと頭を下げると、みゆきの目の高さから、きれいに刈り込まれた白い襟足が見えた。

 新品の濃紺のブレザーを着ているというより、まだまだ着られているといった感じだ。

 そうこうしているうちに、準備ができたようだった。

<やっぱり、そういうことね……>

 予想していなかったと言えば嘘になるが、ああいう俗受けする写真に引っかかってくる奴っていうのがかならずいるのよね、と思ってため息を吐いた。

 邦生が「感動した」と言ったみゆきの写真『セイタカアワダチソウとアキアカネ』というのは、新入生歓迎の部展、要するに新入部員獲得のための客引きのような展示のために、みゆきがしぶしぶ提出した作品である。

 サイズは四つ切すなわち約27センチ×約35センチというかなり大きなサイズに焼き付けたカラープリントで、夕陽に映える一面のセイタカアワダチソウの上を、夥しい数のアキアカネが飛び交っている様を、ソフトフォーカスで捉えたという、およそ高校生が撮ったとは思えないようなしろもので、実のところ、みゆき自身も半分冗談で撮影したものだった。

 もともとプリントするつもりはなかったのでリバーサル(スライド用フィルム)で撮ったものだったのだが、部員たちには妙に受けてしまったのだ。

 それで、勝手に大きなサイズにプリントされて『いったいプリント代にいくらかかったのか』と思うと、みゆきはうんざりした。

 ソフトフィルターでぼやぼやの写真なんて、下品極まりないと日頃から言っているみゆきが、その「下品極まりない作例」として制作したものだったからだ。

 ところが、あまりにも意図どおりに仕上がってしまったことに、一瞬恐ろしくなったりもした。

 とにかく、そんなものに感動されては、みゆきの立場がないのであった。

 暗幕が引かれみゆきが映写機のスイッチを入れると、正面の白いスクリーンに光が広がった。

 扇形の光の帯の中に小さな塵が舞い踊って、ティンダル現象を見せていた。

「えーと、これは、去年の夏の合宿で撮った……」


 次の日の放課後、みゆきが部室に顔を出してみると、見知らぬ顔がまた何人か増えていた。

 入学祝いに買ってもらったのか、見るからに新品の最新鋭の高級一眼レフを自慢たらしく首からぶら下げているものもいる。

 だが、ほとんどの新人たちはカメラにはあまり触ったこともないような連中ばかりのようである。

 もっとも、入部を決めてから買っても遅くはなかったし、クラブにも貸し出し用のカメラもあるのだから、勢い込んで買う、買ってもらうこともないのだが。

 先輩たちから、基本的なカメラの操作方法についてレクチャーを受けているようであった。

 みゆきは残っているフィルムを消化するために、きのう使っていたカメラをバッグから取り出した。

 今日は使い勝手を考えて、普段は外してあるモータードライブを装着した。

 きのうより風は出ているが、日差しは安定している。

 今日はスライド上映会なんかに引っぱり出されることもないだろう。

 みゆきは今日の撮影ポジションをどこに選ぶか、考えていた。

「あの……」

 そこへおずおずと声をかけてきたのは、松波邦生であった。

「……」

 顔を上げたみゆきに、邦生はためらいがちに話しかけた。

「きのうは、ありがとうございました」

 妙に腰が低く、それでいて人なつっこい後輩に、みゆきはなにか落ちつかないものを感じた。

「でも、とってもよかったです。先輩の作品。あの『セイタカアワダチソウ』だけが先輩の世界じゃないってことがわかって、改めて感動しました」

「……そう。そりゃ、よかった」

 こういう場合、どう返事をしていいのか見当のつかないみゆきは、思わず木で鼻を括ったような返事をしてしまった。

 幸い悪気がないことは、相手には伝わっているようだ。

「先輩のような写真が撮りたいんです」

 のっけから単刀直入な物言いだった。

「は? わたしみたいなって……」

なんだか、押され気味である。

 あどけない顔をして、妙に大胆な奴だとみゆきは思った。

「カメラ持ってるの?」

初歩的なことから訊いてみる。

「いいえ」

「……」

 頭の中が混乱しそうだった。

「じゃあ、使い方は」

「……」

「ごめん、悪かったわ」

 カメラを持っていないものが、使い方なんて知っているわけがないのだ。

「でも、家には一台くらいあるだろう」

「はい。父が持ってるみたいなんですが」

 まあ、カメラに興味のない人間なら、家にカメラがあろうがなかろうが、あまり頓着しないものなのだろう。

 うちが特殊なんだと、自分に言い聞かせた。

「古い奴が、ひとつ。でも、あまり使ってるとこ見たことないんです」

「ふうん。それ、触ったことあるの?か」

「いえ、あんまり」

「じゃあ、遊んでるのか。いや、つまり、滅多に使わないってことね」

「そうです」

 かわいそうになあ、とみゆきがひとりごちた。

「……やっぱり、新しいのを買った方がいいでしょうか?」

「無理しなくていいよ。なんだったら、部の貸しカメラだってあるし。まあ、先輩たちのをいろいろ触らせてもらってから、決めることね。買うときは、新品は高いから中古を探すんだけど」

「はあ」

 邦生は中途半端な返事をした。

「わたしの、見る?」

 なんとなく「間」がとれなくなって、みゆきはカメラを差し出した。

「あ。はい」

 少しだけ目を輝かせて、邦生は返事をした。

 みゆきはマクロレンズとモータードライブのついたカメラを手渡した。

「重いわよ」

 ボディのほとんどが金属で出来ているカメラは出現当時は軽量を謳われたものだが、いまでは決して軽い機体とは言えなかったし、105ミリの望遠マクロレンズとモータードライブを付けると2キロ近くになった。

 最近のプラスチック・ボディのオートフォーカス機に比べると、どうしても重たく感じてしまう。

「おおっと、気をつけて」

 カメラを受けた右腕が、がくりと肩から落ちるのを見て、みゆきは驚いて思わず邦生の手ごと両手で支えた。

「すみません」

「いいか。カメラが重いときは、こうやって持つのよ」

 みゆきは邦生の手を取って、カメラの安定した持ち方を教えてやった。

 男のくせに、すべすべした手の持ち主だと思った。

 左手でレンズとボディの接合部であるマウント部分に手を添えて、右手で本体を支える。

「そう。それで、脇を絞めると、手ブレをしないから」

 念のためにストラップを首にかけてやりながら、みゆきは言った。

「あの、覗いていいですか?」

「フィルムが入ってるから、気を付けてよ」

「はい」

 といっても、シャッターはロックしてあるし、シャッター・ボタンがどこにあるのかも知らないはずである。

「持ちにくくない?」

「え?」

「まあいい、覗いて見て」

 言われて邦生は、おそるおそるカメラを目の高さまで持ち上げた。

「脇を絞めて!」

 邦生はうっかり開いていた脇を、あわてて引き締めた。

 それから、ピントリングを回して焦点を合わせてみたりした。

「マクロだから、繰り出しが多いでしょ」

「は?」

 みゆきは思わず日常で使っている専門用語を使ってしまったことを後悔した。

「いや、その、ピントを合わせる操作が大きいってこと」

「はあ」

 邦生は頼りない返事をした。

「ありがとうございます」

 ひととおり触ってみて納得がいったのか、邦生は丁重にカメラを返した。

「どんな感じ?」

 みゆきはとりあえず感想を聞いてみた。

「……」

 邦生は答えに窮しているようだった。

 無理もないことだった。

 カメラというものをろくに触ったことのない人間に、いまだに生産されているとはいえ、10年以上前の高級1眼レフ(それもマニュアル・フォーカス)を「触ってみただけ」の感想を言えという方が、間違っているのである。

「……なんだか、『親方』みたいな感じがしました」

 邦生がぽつりと言った。

「このカメラを持つ人を見守ってくれているような、なにか、懐の大きい感じが……」

 そして、頬を赤らめた。

「ごめんなさい、偉そうなことを言って……」

「いいのよ。面白い子ね、あなた」

 みゆきはそう返すのが精一杯だった。

 自分なりの言葉で、初めて触った小さな機械について、この少年はなにかを言い表そうとしたのだ。

 みゆきは少しだけ、邦生に引き寄せられた。

 奇妙な、めまいに似た感覚を振り払うように、みゆきは頭の中を今日の予定に切り替えた。

「これから外に撮りに行くんだけど、ついてくる?」

「いいんですか?」

「ええ。後輩の一人くらいめんどうみなけりゃ、バチがあたりそうだもの」

 くすりと照れ笑いを浮かべて、みゆきは言った。

「それじゃ、ちょっと行ってくるわ」

 みゆきはカメラを肩に掛けながら、ほかの部員たちに漠然と声をかけると、三脚を邦生に持たせた。

「行くよ」

 部室を出ていくみゆきの後ろを、三脚を大事そうに抱えた邦生がついて行くのを、部員たちは不思議なものを見る目で見送った。


 桜はとっくに散ってしまっていたが、桃の花にはまだ少し早い。

 ちょうど今が盛りなのが、校庭の端の校長室の裏手にあたる花壇に植えられている、コデマリやエニシダであった。

 校長室は部室とは同じ校舎にあり、位置的には真下にあたる。

 みゆきたちは南端の階段を下りて、校舎の外に出た。

 絵になりそうな構図を探して、みゆきは花壇のまわりを少しの間うろうろしてみた。

 そして、気に入ったポジションが見つかると、邦生から三脚を受け取り、脚を伸ばしてセッティングを始めた。

「花が、お好きなのですね」

 ファインダーを覗いて構図の調整をしているみゆきに、邦生が静かに話しかけた。

「そうでもないのよ」

「でも、きのう見せていただいたスライドは、ほとんど花でした」

「まあね」

 みゆきは生返事を返した。

「花は、いつでもそこにいるから」

「そうでしょうか」

 珍しく邦生が即座に異議を唱えた。

「花の生命って、短いじゃないですか」

 その言葉に、みゆきの身体は瞬時に凍り付いた。

「だから、そこにいなきゃ、ならないのよ!」

 思わず声を荒げていた。

 突然のみゆきの激昂に、邦生は目を見張った。

 見えない壁が、一瞬ふたりの間の空気を遮った。

 邦生の瞳に怯えと困惑の色が映ったが、みゆきは見て見ぬふりをしながら

「覗いてみる?」

 と、邦生にファインダーを明け渡した。

 促されるまま邦生は、ぎこちなくカメラの後ろで中腰になった。

 ファインダーの向こう側に広がる世界に、邦生は思わず息を呑んだ。

 白い小さな花をちりばめた、天然のボタンのようなコデマリの花房の後ろ側に、ぼんやりと黄色い影が浮かんでいる。

 エニシダの花に違いなかった。

 コデマリの小さな花びらぎりぎりにあわされたピントと、陽炎のようにぼやかされたエニシダの花色のコントラストは、見事というほかなかった。

 ぱしきゅん、と一瞬、目の前を闇が走った。

 二五〇分の一秒で、シャッター幕が走ったのだ。

 邦生のすぐ横で、みゆきがレリーズを持って立っていた。

「自分で、やってみる?」

 みゆきは邦生にレリーズを握らせた。

 距離も露出もそのままに、フィルムはモータードライブが巻き上げてくれているから、そのまま黙ってシャッターを切れば、もう一枚同じ写真が撮れるというものである。

 邦生の目は遠慮しているようだったが、みゆきは「やれ」と視線で指示した。

 邦生は大きくひとつ息を吸い込んだ。

「そっと、押すのよ」

 その時、なんの前触れもなく、ふいに空が翳った。

 きゅん。

「それ、あなたの写真よ」

みゆきの声には少し申し訳ないというか、はにかむような響きがこもっていた。


*  *  *


 邦生が入部して、数週間が経とうとしていた。

 新入部員たちも、何人かは安定したようだ。

 邦生はまだカメラを買っていなかった。

 みゆきは最近の手軽なAFオートフォーカス機を薦めたのだったが、邦生自身はみゆきと同じ機体、もしくは同じメーカーの機種を買いたいらしく、未だに決心がつかないらしかった。

 それでも、部の貸しカメラで何枚か写真は撮っていた。

 みゆきのカメラで初めて撮った写真も、スライドマウントといっしょに、わざわざプリントしたものをプレゼントされた。

 みゆきの真似をして、植物の接写を試みたこともあったが、あまり成功しているとはいい難たかった。

 それよりも、人物の捉え方に、キラリと光るものを何枚かの写真に見いだすことが出来た。

 みゆきは相変わらず、校庭の片隅でちまちまと草花をとり続けていた。

 その後ろを邦生がくっついて回るというのが、定番になりつつあった。

「珍しいこともあるもんだな」

 久しぶりに部室に顔を出した、三年生の三上が言った。

 受験を控えた三年生たちの中には、一学期から半分引退状態になるものもいる。

 将来を写真の道へ進路を取るもの以外は、それほど熱心に活動しなくなるのだ。

 三上もそんな中のひとりだった。

「杉浦がアシスタントを連れてるのか」

「え?」

 部長の斎藤が聞き返した。

「ああ、あれね。一年の松波。もう、杉浦にべったり」

「へー」 

 感心しているのか、呆れているのか。

「まあ、杉浦についてりゃ、いい勉強にはなるだろうが」

「偏っちゃいますよね」

「あいつも、強情だからな。いい腕してるのに」

「なにがあ?」

 二人の会話に割って入ったのは、美穂であった。

「杉浦のことだよ。絶対に『人間』撮らないもんな」

「絶対、ってわけじゃないけど」

 みゆきは滅多に人を撮らない。

 学校行事などで、どうしても必要なとき以外、人物にレンズを向けることがないのには、ある理由があった。

「なに考えてるんだか」

その話題になると、美穂は何故か不機嫌になる。

「知ってるのか、あの一年坊主」

 三上が言った。

「さあ。誰もそのことは言わないから。でも、いずれわかるんじゃないかな」

 斎藤が答えた。

「誰かが吹き込むってか?」

「いや、あいつなんだか勘のいい奴だから」

「どうして人物を撮らないんですか、って」

美穂が続けた。

「ずけずけ訊くっていうのかよ」

 と斎藤。

「そりゃ、マズイよ」

三上が頭を抱えた。

「俺たちだって、本人から直接聞いた訳じゃないんだ。いわゆる暗黙の了解って奴なんだ。その話題に直接触れるのは、やっぱりマズイ」

「先輩ったら、気を遣いすぎなんですよ。そんなに山岡先輩に義理立てする必要、あるんですか?」と斎藤が呆れると美穂も「そうよ。みんなして、みゆきを甘やかせすぎなんだわ」と憤慨する。

「おお、そうだ、山岡先輩で思い出した」

 と、三上は持っていたファイルケースの中からはがきを一枚取り出した。

「先生から預かってたんだ。どこかわかるところに貼っといてよ」

「なんです、それ」

「わ、山岡先輩の個展の案内だ」

 色めき立ったのは美穂である。

「日本に帰ってきてるんだ」

 山岡耕筰は大学を卒業後、若手のコマーシャル・フォトグラファーとして近年頭角を現していたが、れっきとした写真部の誇るべきOBである。

 現在はニューヨークを拠点としていたが、この個展には凱旋の意味もあるようだった。

会場は都心の有名フォトサロンである。

 三上からはがきを受け取った斎藤は、黒板の横の掲示板に画鋲で留めた。

 そこへ、みゆきが邦生を伴って入ってきた。

そして、斎藤が手を離したばかりの掲示板に目をやると、一瞬凍り付いたようにその視線が一点に固まった。

 が、すぐになにも見なかったように、機材を机に置きに行った。

 三脚を抱えた邦生も後に続いたが、みゆきの顔色の変化にはまだ気づいていない。

「なに、あれ」

美穂が言った。

 少しカチンと来ている。

山岡耕筰の名前が出ると、みゆきの周りにぴりりと電流のようなものが流れる。

 理由はわからないが、みゆきと山岡の間には曰くがありそうだと美穂は睨んでいる。

「受験のめんどう、見てもらってたんでしょ?」

「そうらしいな」

三上は曖昧に答えた。

「山岡さんの大学の先輩が、みゆきのお兄さんだったらしい」

「なんでも、凄腕の名カメラマンだったんだってさ」

斎藤が感嘆した。

「大学時代から、凄かったらしいぜ」

「あの山岡さんが絶賛してたからなあ」

 みゆきの兄である杉浦翔平は、新進気鋭のフリーのフォトジャーナリストとして売り出し中であった。

 妹のみゆきとは十歳近く年齢が離れていたはずだ。

 学生時代から、主に人物のスナップ写真やポートレートで写真コンテストで入選を繰り返していた翔平は、大学卒業と同時に、ごく自然に写真家として活躍する道を選んだ。

 だが、組織に縛られることを嫌った彼は、大手新聞社の写真部からの誘いも蹴って、単独で世界を巡り歩く旅に出た。

 そこで出会った、さまざまな立場や環境に置かれている人々の赤裸々な姿を、カメラで捉えるためである。

 二十二才から三年間に三十八カ国をさすらい、その間帰国したのはたったの4回。

 そのうちの2回は妹と母の誕生日(いずれも六月)のためだけで、フィルムに収めたカットの数は、10万カットにも及ぶという。

 翔平が亡くなったのは2年前。

 みゆきが中三の時のこと、5回目の帰国の直前であったと聞いている。

 ある欧州の国の内戦事情を取材するため、単独で隣国へ入り、内戦状態にある国の首都で敵対する民族同士の銃撃戦に巻き込まれたのであった。

 翔平が最後に日本に連絡を取ったのは、死の3週間前、みゆきの誕生日までには日本に帰る、というものだった。

 だが、帰ってきたのは、彼の愛機だけであった。

「山岡さんとしては、みゆきが不憫なわけよ」

「それだけかしら」

「なに?」

「別に」

美穂がみゆきの背中に冷ややかな視線を送った。

「個展かあ」「才能だよな」と斎藤たちが呟いている。

 そんなやりとりを、みゆきは聞いて聞かない振りをしていた。

 邦生は気になっているのか、ちらちらと先輩たちの方を向いている。

「先輩たち、なに話してるんでしょう?」

 邦生はごく素直にみゆきに質問した。

「山岡耕筰の個展でしょ」

 そっけない答えが返ってきた。

「あのはがき、ですか」

「あの、山岡耕筰って……」

「うちのOB」

もちろんそれだけではない。

「行きたいの」

 みゆきの受け答えはいつになく切口上であった。おまけに目を見ないで答えている。

「いえ、別に……」

としか、答えようがない。邦生は、またもやみゆきの腫れ物に触れてしまったらしいということを何となく理解したが、なぜそれが触れてはいけないものなのかは、全くわかるはずがなかった。

「ちょっと、みゆき!」

 突然美穂が割って入った。何やら憤然とした態度でみゆきに迫った。

「おい、美穂、よせ」

斎藤が制止したが、まるできかない。

「なによ」

「いい加減にしなさいよ」

「何のこと」

「あなた、まるでわかってないわね」

 邦生は間に挟まった形になっておろおろしている。

「松波くん、こんな女にね、くっついて歩いてることなんかないわよ」

「どうしたんですか、美穂先輩」

「甘えてるのよ!山岡先輩に!!」

「!!」

みゆきはそのことばに激しく反応した。

「やめろったら」

 斎藤が肩を掴んで引き戻そうとするのを美穂は振りきった。

「見捨てられたと思ってるんでしょ。お兄さんの身代わりだったら」

「なに……!!」

「ホントは会いたいくせに。山岡先輩が好きなんでしょ?」

ズキン、とみゆきは心臓が痛くなった。

 ものすごい目で美穂を睨み返した。

「この子に教えて上げなさいよ! あなたが人物写真を撮らなくなったわけを!」

 バチン、美穂の頬に平手がとんだ。

 美穂の身体が崩れて斎藤がそれを支えた。

 みゆきは唇をかんで、美穂を睨みつけている。

 一瞬の出来事に、一同は呆気にとられている。

 邦生は少し震えて、体中の血管が激しく脈打つのを感じて息が苦しくなった。

「みゆき……」

 誰も止めるものもなく、みゆきは部室から出ていった。

「まさか殴るとは思わなかったな……」

 三上が眉を曇らせた。

「もっとも、美穂も言い過ぎだ、ありゃ」

 ま、殴られたのは気の毒だがな、とつけ加えた。

「大丈夫か、美穂」

 心配そうに斎藤が美穂の顔を覗き込んでいる。

美穂は必死で涙をこらえていた。

 痛さのためなのか、殴られたショックのせいかはわからなかった。

 彼女が独り言のように呟くのを邦生は聴いた。

「私、知ってるもの……、彼女、いい写真撮れるの。人物、写真で……」

斎藤は美穂を椅子に着かせると、ハンカチを湿らせて頬に当ててやった。

「あの……」

邦生は気が動顛していたが、なんとか美穂のことばの意味を尋ねようとした。

「美穂先輩、どういうことです?」

「みゆきね、中学時代は、お兄さんが亡くなるまでは、ちゃんと人物写真撮ってたのよ。写真雑誌の投稿のコンテストでよく入賞してた。お兄さんのことはよく知らなかったけど、彼女の写真はよく見てた……」

美穂の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。

「松波、悪かったな。びっくりしただろう」

 三上が邦生の肩に手を置いた。

「いえ……、はい」

「何も聞いてないだろ?」

何を何もきいていないのかすらわからない。

 みゆきは自分のことはほとんどしゃべらなかった。

「山岡先輩とみゆきは、ちょっとな、いろいろ、めんどうな関係なんだ」

三上が話し始めた。

「といっても、変な意味じゃないんだが」

 三上は山岡と杉浦兄弟との関係をざっと説明した。

「……」

が、そんな説明を聞いたところで、みゆきの過敏な反応についての説明にはならなかった。

「でも、おまえなら何とかなるかもな」

「何がですか?」

「あいつ、おまえには気を許してるところがあるだろう」

「そうでしょうか」

「そうだよ。ま、気むずかしいところもあるが、写真の腕は確かだ。これからも奴のこと、よろしく頼む」

「はあ」

先輩から先輩のことを頼まれてしまった。邦生は困った顔をした。


 そんな出来事があって数日後、みゆきは邦生を連れて中古カメラ店巡りに誘った。

 あれからみゆきと美穂は出会っても口もきかない。

 部室にいるとぴりぴりと空気が突き刺さるようで、みんな居心地が悪くて迷惑していたが、やっぱりだれも何も言わなかった。

 邦生はできるだけ平静を保つようにして、みゆきのそばから離れなかった。

 みゆきも何も言わず相変わらずそんな邦生を引き回しているし、可愛がってもいる。

 助手としても呑み込みの早い方だと、みゆきは思っていた。

「いつまでも部の貸しカメラじゃあね」

ある日、みゆきが呟いた。

「カメラを買う気、ある?」

そんなわけで、ふたりは街中の中古カメラ店街に来ていた。

 これから気に入ったカメラが見つかるまで、中古カメラ屋を一日かけて回ろうというのである。

 みゆきの荷物はおよそ女子高校生らしからぬ、中型のカメラバッグひとつである。

 ついでだから、掘り出し物のレンズがあれば買ってもいいな、などと考えてもいた。

天気はあまりよくない。

 分厚い雲が空全体を覆って、空気を重くしている。

  数日前テレビのニュースが少し早い目の梅雨入りを知らせていたのを、みゆきは思い出した。

「降るかな」

「どうでしょう」

「傘、持ってる?」

「いいえ」

「……そう」

みゆきはなんとなく安心した。

 邦生の感覚の鋭さにときどきはっとすることがあったのだが、案外ぼんやりしたところがあるもんだと、少し肩の力が抜けたように思った。

「さっさと廻っちゃいましょ」

「はい」

 ふたりは1軒目のカメラ屋に飛び込んだ。


「決めた? 買いたいカメラ」

 何軒か見て回った後で、みゆきは邦生に訊ねた。

「ええ、いちおう」

 自信なさげに邦生は答えた。迷いがないわけではなさそうだった。

「やっぱり、先輩と同じメーカーにしようかと……」

 やっぱり、というのはみゆきと同じメーカー機種にしたい、という邦生の希望がまだ捨て切れていないという意味であった。

「マニュアル・フォーカスのやつで……」

 だてにみゆきにくっついてはいなかった、というか、みゆきの教育の賜物か、邦生はマニュアル・フォーカスのカメラの操作方法はあらかた身に付けていた。

「なにを撮るの?」

 カメラの機種選択は「なにを撮るか」で半分が決定するといっていい。あとの半分は「どう撮るか」にかかっているのだが。

「人を、撮ります」

 小さい声だったが、きっぱりとした口調で、邦生は答えた。

 みゆきは反射的に邦生を見返した。

「人物写真……」

 少し間をおいて、みゆきが反芻するようにいった。

「女の子でも、撮るの?。スカートの中、なんてのだけはやめといてね」

 冗談のつもりで言ったのが、口の中で空回りしている。

「いえ……。撮る相手も決まっています」

 思い詰めた眼差しが返ってきた。

「先輩を、撮ろうと思うんです」

「なに?」

胃の腑のあたりを重い拳で殴られるような感覚を憶えた。

「今、なんて?」

「だから、先輩、あなたを撮りたい、って。……駄目ですか?」

 身体が固まる、という言い方をすることがあるが、この時のみゆきがまさにそうだった。

 普段のみゆきならへらへらとはぐらかして、この信じがたい申し出をなんとか切り抜けられたであろうが、邦生の眼には異様な熱意がこもっている。

 ひとこと返すのがやっとであった。

「やめて」

「人物写真、嫌いですか」

「ええ、嫌いよ」

「お兄さんの、せいですか?」

「……!」

そのことばにみゆきは弾かれたように邦生の顔を凝視した。

 心臓も凍り付くかと思うほども激しい感情の色が現れていた。

「誰から聞いたの?」

「そんなこと……」

邦生は一瞬言いよどんでこう言い放った。

「みんな知ってますよ!」

「く……!」

みゆきも薄々感づいているはずだ。

 何故みゆきが頑なに人物写真を撮ろうとしないのか、誰もそのことを指摘しない理由を、「暗黙の了解」として他の部員たちがわきまえてくれていることを。

 そして、みゆきが語るはずのない真相が、誰によって告げられたのかも。

 知っているけど、知らない振りをしていた。

 それは、明らかにみゆきの甘えである。

 邦生が誰から兄のことを聞いたにせよ(三上先輩であれ、美穂や斎藤であれ)いずれ彼の耳に入るであろうことは、無意識のうちに織り込み済みであったというわけだ。

 自分の口からはいわないが、いずれ誰かが告げてくれる。

 自分は兄を失い、傷ついた哀れな妹だ。

 そんなポジションをみゆきはいつのまにか居心地のいい隠れ処にしてしまっていたのだ。

 邦生のことばは、図らずもみゆきの目に見えない意図を暴露したのであった。

「ぼく、美穂先輩の言ってたこと、間違ってないと思います」

「……」

「偉そうなこと言ってごめんなさい。偉そうついでに言っちゃいますけど、先輩は甘えていると思います」

「松波……!」

「殴られるのは覚悟してます。でも、美穂先輩には謝った方がいいです。だれであれ手を挙げるのはやっぱりよくないですよ」

「美穂は、いいのよ」

「そういう問題じゃないでしょう」

邦生がたしなめた。

「好きな人には、会った方がいいです。たとえ、どんな事情があるにせよ」

「ばか」

「いつまでも、逃げてちゃだめです」

「逃げる?」

「あなたは写真を逃げ場にしている」

「松波……」

恐ろしいほど鋭い指摘に、みゆきは愕然とした。

「なに?」

「聞きましたよ、美穂先輩から。あなたの人物写真はとてもよかったって、よく写真雑誌で見たって」

「やめて!」

「ぼく、前に言ったこと撤回します。先輩のような写真が撮りたいと思ってたけど、あれはもうなしです。なにかから逃げるために写真を撮るくらいなら、ぼくは写真をやめます!」

「じゃあ、やめちゃえば」

「先輩、だだをこねるのはいい加減にして下さい」

ほとほと困り果てた声で邦生は言った。

「ぼくは人を撮りたいんです。お花もいいけど、やっぱり人です。泣いたり笑ったり、怒ったりする人の表情が好きなんです。その人のすべてを捉えたいんですよ!」

 その人のすべて、と言ったときの邦生の瞳には、思わず引き込まれそうな輝きがあった。

みゆきの心にその輝きが突き刺さった。

 はっとして、改めて邦生に向きなおった。

「そう……、美穂には謝らなきゃ……」

なんなんだろう、この邦生の一生懸命さは。

 何がこの子にそこまで……。

 そんな思いがみゆきの脳裏に宿った。

 でも、なんだかうれしい。

 こんな風に他人から真剣に思われると心の澱が溶けていくような気がする。

「あの、お願いがあります」

ふいに、邦生の声が厳かに響いた。

「先輩のお兄さんの写真、見せていただけませんか」

 空からぽつり、一雫落ちて邦生の頬を濡らした。

「?」

 突然の邦生の要求に、みゆきは面食らった。

「お兄さんの作品、見たいんです」

邦生は濡れた頬を拭いもせず、みゆきを凝視したままである。

「人物写真のお手本を、見せて下さい」

『逃ゲルナ!』。

邦生の眼がそういっている。

 誰もみゆきに言わなかったことばだ。心には思っていても、その瞬間誰もが眼を伏せる。

『逃ゲルナ!』。

今度の声は、みゆき自身の内側から聞こえてきた。

 そうだ。

 そうだよ。

 みゆきは答えた。

「おいで。にいさんの撮ったもの、見せてあげる」


「ホントは今日みたいな日に写真を整理するのはよくないんだけどね」

といいながら、みゆきは邦生を翔平の部屋に案内した。

 写真は湿気を嫌う。

 こういうことは晴天の湿度の低いときにする方がいいとわかってはいたが、みゆきはなにかに憑き動かされるように押入の戸を開けた。

 兄がこの世を去って2年、手を一切つけないまま、膨大な量のネガとプリントがしまわれたケース5個分が、主のいなくなった部屋の中に引き出された。

 そのうちの3個分は兄が生前に整理を済ませてあったので、残りの2個が実質的に整理を待っているネガ、ポジ、プリント--それに未現像のフィルムたちであった。

「一応、これで全部。日付もなにもわからなくなっているのもあるけど。一日で何とかなる量じゃないでしょ」

 みゆきのいうとおりだった。

 半端ではない量に、邦生はしばしことばを失った。

 みゆきは未整理分のケースの一方から、袋をひとつ取り出した。

 中にはネガとサービス判プリントが無造作につっこまれていた。

「これなんか、どこの国かもわかんないからなあ。東南アジアの方だとは思うけど。撮影日誌と照合してやらないといけないから、ちょっとうんざりするでしょ?」

確かに、翔平は写真に日付を入れたりはしていなかったから(観光の記念写真とちがうのだから)場所と日付は翔平が丹念に書き込んだ撮影日誌から割り出すほかはなかった。

 みゆきはケースのそこの方から、かなり傷んだ数冊の大学ノートを取り出した。

それは、翔平の取材日誌でもあり、還らぬ人の遺産でもあった。

邦生が一冊を手に取ると、それはずしりと掌にかかった。

 一人の男の生の重さといってよかった。

 ノートに書かれていたこともさることながら、邦生にとってその写真の数々は目を見張るものばかりだった。

 内戦で荒れた国土で貧困にあえぐ人々、飢えた子どもの顔、ささやかな歓びにほころぶ家族、怒りに拳を震わせる人。

 泣き、叫び、笑い、憩う市井の人々の赤裸々な姿が、若きフォトジャーナリストの真正面からぶつかっていこうとする視点から描かれていた。

 邦生は一言も口を利かず、もくもくと写真を見続けていたが、結局ケースの半分も見終わらないうちに根を上げてしまった。

 ふーっと深くため息をついたまま、しばらくの間放心したように身動きすることがなかった。

 みゆきはどちらかというと投げ遣りな気分で、それらの写真を眺めていた。

 自分で自分を追いつめるようにして撮り続けた写真の束を見ても、釈然としない気分ばかりが先に立つ。

 兄の写真がすばらしければすばらしいほど、兄の死という現実が受け入れがたくなってしまうのである。

 2年という月日は関係なかった。

 こんな写真さえ撮ろうとしなければ、兄は死ぬことはなかったはずだ、と思う。

 だが、兄の遺したものの偉大さにはいつも圧倒されつつ、憧れてもいるのだ。

 いつかは兄のように撮りたいと思う。

 だがそれは、兄の死を直視しない限り越えられない壁の向こうにあると、みゆきはわかっていた。

 わかっていることと、できることは別であった。

 それを乗り越える方法を邦生が示してくれるのではないかと、みゆきはぼんやり考えていた。

「先輩、これなんですか」

 いつの間に立ち直ったのか、邦生が整理の着いている方のケースから、厳重に封をされた包みを見つけた。

 みゆきも始めてみる袋だった。

 A4判の紙が入るくらいの大きさの封筒で、紐が掛かるようになってる襠付きの書類入れという感じである。

 紐だけでは物足りないとでもいうように、しっかりと糊付けされていた。

 タイトルもなにも書いていないし、中身が何なのかかなり分厚く膨らんでいる。

 かなり古いもののように見えたが、あまり出し入れしたような形跡がなかった。手に取ってみると結構重たい。

「なんだろな」

こんな封筒があったなんて、どうして今まで気が付かなかったのだろう。

 確かに奇妙なその封筒は、たった今忽然と目の前に現れたかのようであった。

 あるいは、邦生によって始めて見つけられるのを待っていたかのように。

「開けてみる?」

「いいんですか?」

「どうせおにいちゃんのだから、かまわないでしょ」

ためらいもなく、みゆきは封筒の口をカッターナイフで切り裂いた。

中から出てきたのは数本のネガと、珍しくキャビネサイズの写真。

 しかし、そこに写っていたものは、みゆきには信じられないものだった。

「これが……」

兄さんの写真なのか。こんなものを、兄が撮っていたなんて……。

「樹ですね」

手元をのぞき込んで邦生が言った。

確かにそれは樹であった。

 一本の樹。

 それも相当齢重ねた古木である。

 大きさは不明だが、一本の注連縄が神聖な樹であることを物語っている。

みゆきの驚きにはもう一つ意味があった。

 これは確かに見覚えのある、いや、知っている「あの樹」である。

みゆきの中にひとつの記憶が蘇った。

「どうしたんです、先輩?」

異変に気づいた邦生がみゆきの肩をつかんで激しく揺さぶった。

「先輩?」

 嘘じゃなかった、邦生はみゆきがそう呟くのを聞いた。


みゆきがこの樹を見たのは中学3年の夏休みである。

 信州のとある山の中にある古い神社の境内に、それはひっそりと佇んでいた。

 みゆきはそれを一人で見たのではなかった。

 その場所にみゆきを連れて来た人物がそばにいた。山岡耕筰である。

 兄の死はみゆきを写真から遠ざけた。

 少なくとも、しばらくの間みゆきはカメラを持つ気を失った。

 最愛の兄を写真が、写真を撮るという行為が奪い去っていったような気がしていたからだ。

 みゆきはカメラを手にすることもなく、受験期の夏休みへと突入していった。

 山岡耕筰が現れたのは、そんなときである。

 初対面は告別式で、大学関係の友人たちの焼香者の列に並んでいた一人としてであったが、みゆき自身ははっきりとは憶えていなかった。

 兄と同じくらいの背丈の、上背のあるすらりとした印象の青年であったように思った。

 ただ、式が済んだ後、片づけに忙しく立ち回っている大人たちの中で、寄る辺なさそうに突っ立っているみゆきに声を掛けてきたのが、彼であった。

「みゆきさん?」

 ぼうっと顔を見上げる少女の顔をのぞき込むようにして、その若い男は言った。

「写真、やめるんじゃないぞ」

 それだけ言うと男は慌ただしく動き廻る大人たちの中にまぎれてしまった。

 その時、肩に置かれた大きな手の感触は、兄のそれを彷彿とさせて、みゆきの中にしまい込まれていた悲しみが堰を切って流れ出した。

 でも、何故、写真をやめるなだなんて。

写真をやめるとか続けるとか、その時のみゆきはとてもそんなことを考えている余裕などなかった。

 にもかかわらず、その男は、やがてみゆきの心が揺れ動くようになることを予見していたかのようなことばを残して去ったのである。

 そして、そのことばどおり、みゆきは写真と訣別しようとしていた。

 すでに夏休みに入っていた。みゆきは発作的に愛用のカメラを売り払ってしまおうと、行きつけの中古カメラ屋に足を運んだ。

 偶然にも、その店に山岡がいた。

店長と親しげに話しているところを見ると、彼も常連客らしかった。

 みゆきははっとして、二の足を踏んだ。

 店に入ってきた少女がみゆきであることに気が付いて、山岡から声を掛けてきた。

「やあ」

 このときみゆきはまだ山岡の名を知らなかった。

 あの兄の葬儀の日、「写真をやめるな」と言い残した青年であることしか、記憶にはなかった。

 山岡はみゆきがカメラの機材一式を持っているのを見て、売り払いに来たことを判断したようだった。

「売りに来たの?」

「……」

 みゆきは身体が固まったまま、ことばに窮した。

「写真、やめるんだ」

 呟くように、問いかけた。

「……」

 なにか言おうとしても、唇から先にことばが出ない。

「放っといてください」とか「わたしの勝手でしょう!」とか言えば良さそうなものなのだが、最初に釘を刺されているのが大きいのかもしれなかった。

 なんだか、待ち伏せされていたような気がしてきた。

 そうなると面白くない。

「また来ます」

 それだけ言ってみゆきは踵を返した。

 店を出たところで、山岡が追いかけてきた。

「待てよ、みゆきさん」

「写真をやめるのも続けるのも君の自由だ。でも、その前に君に見せたいものがある」

 なんだか妙な雲行きになってきたな、とみゆきは思った。

 名前もちゃんと知らない男から、強引に迫られているような気がする。

 そこで始めて山岡は自己紹介をしている。

 兄の翔平の大学の写真部の後輩だという。

 「君のことは、よく先輩から聞かされていたんだ」

 深い慈愛とどこか哀しみの宿った眼差しは、みゆきには眩しかった。

いつのまにかみゆきは喫茶店の椅子に座って、オレンジジュースを目の前にしていた。

 山岡はコーヒーを頼んでいた。

 冷房が利きすぎているくらいで、冷えた汗が落ちつかなくさせていた。

「来年、受験だったっけ」

「そうです……」

当たり障りのないところから、会話は始まった。

「予備校は?夏期講習とか」

「いろいろあったから、申し込む隙がなくて……」

「そうか……」

 山岡はしばらく考えて

「よかったら、ぼくが見て上げようか。……役に立つかどうか、わからないけど」

「はあ……」

唐突な申し出に、みゆきは正直戸惑った。

「バイト代なんて請求しないから。本来なら、君のお兄さんがするはずだったんだろうけど……」

「……」

そんな約束もしていたな、とみゆきは思った。

「悪かった……。ぼくにお兄さんの代わりが勤まるはずが、なかったね……」

「いえ、いいんです」

 しばらく沈黙が流れる。

 気持ちとことばが噛み合わないまま、グラスの氷がゆっくり溶けていく。

「先輩がよく言ってたよ。『妹のみゆきは素直な写真を撮る奴だ』って」

みゆきは黙って俯いたまま、山岡がなにを言いたいのかわからない振りをした。

「『あんな写真は俺には撮れない』って、『俺の写真は攻撃的だから』って」

 山岡の視線が、俯いたみゆきの頭の上に注がれる。

 思わずみゆきは顔を上げた。

「君に見せたいものがある。いや、ぜひ知っておいて欲しいことでもあるんだ」

「なんですか?」

「少し、遠くへいかなきゃならないんだけど……」

 そういって、山岡はある場所へみゆきを誘った。

行き先は「少し、遠く」という距離ではなかったが、そのころには山岡はすっかりみゆきの家庭教師という立場で杉浦家になじんでいたので、受験勉強に差し障りがないなら、と両親は許してくれた。

 数日後山岡はみゆきを伴い車で信州に向かった。

 一泊二日の小旅行であった。

 もちろん、カメラ持参である。

現地に着くまで、というより、その樹の生えているまさにその場所に立つまで、山岡は「見せたいもの」がなにであるか明かさなかった。

 みゆきは黙ってついていった。

 山岡を信用していた、というより、山岡が知っていて自分の知らない兄の一面を知ることができるかもしれない、という期待があったのである。

 そんなものがあること自体、みゆきにとって面白くないといえば面白くないことではあったが。


「けっこう、いいところだろう」

「……はい」

宿となる民宿からそう遠くない緩やかな山道を登っていったところに、古びた神社があった。

 あまり大きくない石の鳥居をくぐって、十数段の石段を上ると小さな本殿がある。

 由来を彫った苔蒸した碑は、風雪にさらされて判読しにくくなっていた。

 地元の人が時折掃除に来る程度の神社で、だだっ広いだけの境内には観光客など滅多に来ることもないのだろう。

 だが、写真を撮るにはなかなかの穴場だといえた。

 木漏れ日の中の古い社殿や、鳥居、石段も角度を変えてみるとそれなりに絵になる。

 特に目を引いたのは、御神木らしい注連縄の張られた巨大な欅の樹であった。

 それは、ことによるとこの神社よりも古くから、この場所に生えているのかもしれなかった。

その圧倒的な存在感と厳かな佇まいを、みゆきは写真にとらえることは出来ないと感じた。

 少なくとも、今の力量では。それに、このカメラでは。

 こんなに大きなものを相手にするときは、ふつうのカメラでは追いつかない。

 不意に、写真を撮ることが無意味なもののように思えた。いわんや、自分の存在までも。

「……どうした?」

「……いえ……。なんか、すごいんで。おおきい……。ふつうのフィルムじゃ無理ですね……。超広角でも役に立たない」

「そうだな、こういうのを相手にするときは、大判カメラを使うのがふつうなんだ」

山岡は言った。

 大判カメラとは4インチ×5インチの以上の画面サイズのカメラをいう。

 スケールの大きなランドスケープの写真などを撮る場合に、多く使用される。

「先輩は、撮らないんですか?」

「ぼくは、撮らない」

「どうして?そのために来たんじゃないんですか?」

 それには答えず、山岡は欅の大木を見上げながら言った。

「ここへは昔、翔先輩に連れてきてもらったんだ」

梢の先にあるなにかを探すような目で、眩しそうにその樹を見つめていた。

「先輩は言っていたよ。これが撮れるようになるまで、自然ネイチャー・フォトには手を出さない、ってね」

「え……!」

まさか。

 亡き兄が、あの人物しか撮らないと思っていた兄が、密かに志していたのがネイチャー・フォト、それも一本の巨木だった---。

「みゆきくん、君には才能がある。それがどれほどのものかぼくにはわからないが、少なくとも先輩はそう言っていたよ。先輩は君の撮る写真が好きだったんだ。素直でまっすぐな、決して攻撃的ではなく、ありのままをとらえる眼……」

「兄さんは、そんなことなにもいってなかった……!」

「帰ってきたら、言うつもりだったんだよ」

「……!」

「君に伝えたいこと、もっといっぱいあるはずだったろうけど、ぼくはそう思う」

「なんで、じゃあなんで、人物ばかり撮っていたの?」

半分涙声になりながら、みゆきは訴えるように問いかけた。

「先輩はいちばん遠回りの道を選んだ人だ。自然を撮るためには、まず身の回りのものを見る目を養わなければならないといって、人に目を向けた。人もまた、身近な自然だからだ。人を見つめ、自分を見つめる中で、先輩はこの樹と向かい合える時が来ると信じていたんだ」

「そんな……。ぼくみたいな写真だなんて、信じられないよ。あんなに写真巧かったのに。ぼくなんてまだまだ……」

「嘘じゃない。君の家のどこかに、この樹を撮った写真が残っているはずだ。先輩はここに来て何枚もこの樹を撮っていたんだからね」

 そういって泣き崩れるみゆきの肩を、山岡はそっと抱き寄せた。

「先輩が果たせなかった夢を実現できるのは、君だけなんだ」


 家に帰ってから、みゆきはその写真を探した。

 もちろん、押入のケースの中もくまなく探した、はずだった。

 でも、あのときは未整理のケースの方しか真面目に探さなかったのかもしれない。

 半信半疑だったから、見つかるものも見つからなかったということか。

 まさか、こんなに厳重に封をされて、タイトルも付けていない封筒に収まっているなどとは思いもよらないことであった。

みゆきは邦生にこの樹の写真にまつわることを、とぎれとぎれに語った。

「わたし……」

なにか大変な間違いに気づいたという顔である。

「山岡さんの言ってたこと、本当だったんですね」

「え……」

「よかったじゃないですか。お兄さんは、本当に先輩の写真が好きだったんですよ」

気休めではなく、心から邦生はそう思い、感じたままを口にした。

「でも、山岡さんのことも、信じてたんでしょ?」

 邦生が言った。

「だって、先輩結局写真をやめなかったじゃないですか」

そうなのだ。

 山岡のことばは証明されなかったけれども、みゆきは写真を続けることを選んだ。

 それは山岡のことばを信じたからなのか?

「あの人が嘘を言ってるとは思ってなかった。でもそれは、信じるということとはちょっと違うのよ。わたしたちはにいさんという共通の夢を共有していただけ」

 みゆきはわかりにくい表現をした。

「お兄さんが、共通の夢?」

「わたしたち、夢見てたの。いつか、にいさんみたいな写真が撮れるようになりたいって。いつだって、にいさんは目標だった。わたしにとっても、あの人にとっても……」

 だが、だれも翔平にはなれなかった。

「あの人にはいろいろ教えてもらったよ。写真のことも、勉強も。お陰で高校にも無事入れた。それもしっかりあの人の母校だ。ところが、あの人はわたしが写真部に入ったのを見届けると、自分だけ勝手にアメリカへいっちゃった」

ぐっ、とみゆきは自分で自分の身体を抱きしめて目を閉じた。その手に思わず邦生は自分の手を重ねた。

「好きだったんですね」

邦生の目がまっすぐにみゆきを覗き込む。邦生の、男にしてはいやに長い睫毛が気になった。

 ふと、我に返る。「松波……?」

「ねえ、会いに行きましょう、山岡さんに」

「え?」

「日本に帰ってきてるんでしょう?」

邦生のいたわるような目がみゆきの心を押し包んだ。

「一緒に行ってあげますから」

「バカ」

 みゆきの頬が少し赤らんだ。

「なあ、どうしてわたしなの?」

不意に、みゆきが邦生に問いかけた。

「たぶん、先輩が好きだからです」

「わたし?、好き?」

「はい。先輩の、カメラを構えているる姿が好きなんですよ」

「そう」

「わたしは、にいさんにはなれない」

「わかってます。誰もそんなこと望んじゃいません」

「……そう?」

「そうですとも。先輩は先輩です」

「松波……」

「先輩」

ふたりの肩が触れあった。邦生の耳元で、静かに嗚咽が響いた。

「……ごめんね……」

「いえ……、いいんです……」

 嗚咽はやがて慟哭に変わった。


* * *


 その次の週の日曜日、みゆきと邦生は結局お預けになった邦生のカメラ購入計画を実行に移すため、再びふたりで街に出た。

 ただし、カメラを買ったらその足で山岡の個展にも顔を出すという約束付きである。

 その日の日曜日は5日間開催する個展の中日に当たっていた。

 特にアポイントを取ったわけではなかった。

「会えても、会えなくてもいいじゃありませんか。会えればラッキー、ということで」

 邦生のことばに励まされると、みゆきは鉛のように重い心を何とか引きずってでもいけそうな気がした。

 それはさておき、まずは、邦生のカメラ購入である。

 邦生の選んだカメラはマニュアルフォーカスの自動巻き上げという一風変わったものであったが、小型で掌に収まりのよい機種だった。

 とりあえず「基本は標準」ということで、五〇ミリのレンズを付けて、三万八千円という値札のところを、みゆきが3万円の現金払いまで値切り落とした。

 一昔前までは高校生の身分では「ブルジョワ」などと呼ばれていたカメラも、新機種のオートフォーカス機全盛の今ではマニュアルフォーカスの機種もレンズもびっくりするほど値下がりしている。

 そのおかげで、みゆきたちのような高校生女子が長期休暇に少しファストフードでバイトをするだけで、往年の名機が手に入れた。

 邦生の予算五万円には充分余裕があったので、「ガラ箱」と呼ばれる使い古しのカメラケースやレンズフード、フィルターなどが雑然と放り込まれている箱の中から、みゆきが探しだした金属製のフードを買い、別の大きなカメラ専門店で新品のレンズフィルターを買い足した。

 しばらくはこの装備で間に合うはずだ、とみゆきは思った。

 それは、機種こそ違えども、初めてみゆきが手にした装備とほぼ同等なものだった。

 もちろんそのカメラは今でも使っているが、それを兄から譲り受けたのはみゆきが中学一年の時のことであった。

 兄の翔平は学生時代の愛機を、最愛の妹に譲ったのである。

「それが使いこなせるようになったら、広角でも望遠でも好きなのを買うのよ」

 ショウウィンドウに並ぶ大小さまざまなレンズの列を眺めながら、みゆきが言った。

「ポートレートでもですか?」

「ああ、人物写真はなんでもいける。広角でも被写体にぎりぎりまで近づいていけば面白いものが撮れるし、望遠なら背景がきれいに飛んで、人物だけがぽんと浮かび上がる。アイドル写真みたいにわかりやすい画が撮れるんだ」

 ふと、1本のレンズに目が止まった。

 ぼーっとそのレンズに気を取られているみゆきに、邦生の声が届いた。

「先輩、行きましょうよ。もう4時半ですよ」

 山岡の個展に行く話である。

 じりじりと、何となくみゆきは行く時間を遅らせていたのかもしれない。

 けれども、邦生はそれを許してくれなかった。

 幸い、個展の会場はふたりがいるところから歩いていけない距離ではない。

 みゆきは深いため息を吐くと、歩き出した。


 直線的で、モノトーンにまとめられた、都会的でシックなギャラリー。

 空調も程良くきいた空間が、山岡耕筰の個展会場であった。

コマーシャル・フォトのエキシヴィジョンらしく、各方面から祝いの花束や鉢植えが目をひいた。

 大手メーカーから贈られた、高級な蘭や百合をふんだんにあしらった花篭が妍を競っている。

 空調の音に交じって薄く流れている音楽は、ニューヨークの空気を演出する粋なモダンジャズであった。

ちょっと場違いともいえる雰囲気の中に、高校生がふたり紛れ込んだみたいになって、みゆきたちは少しだけ気後れのようなものを感じた。

 受付のきれいなお姉さんが記帳を勧めてくれたが、みゆきはご辞退申し上げた。

 そのくせそわそわと中にいる人たちの様子をうかがおうとしているのを悟られて「どなたかにご用ですか?」ときかれる始末で、みゆきの及び腰はますますひどくなった。

「なにやってんですか、先輩」

 業を煮やした邦生が尻を叩く。

「訊けばいいじゃないですか」

「わかってるわよ」

ひそひそ声で会話するふたりを、受付嬢が不審なものを見る目つきで窺っている。

「あの、山岡さんは……」

ついに邦生が訊いてしまった。

「申し訳ございません。本日はこちらへは参る予定はございませんが」

 受付嬢は極めて事務的な口調で答えた。

「そうですか」

踵を返そうとするみゆきを邦生が引き留めた。

「せっかく来たんだから、見ていきましょうよ」

 ためらいもせず、邦生はずんずんと中に入っていく。

「松波ぃ」

あわててみゆきが後を追う。

 受付嬢がくすっと笑うのが目に入った。

山岡の作品はどれも明快でメリハリの利いた画づくりが特徴であった。

 女性モデルのポートレートであれ、ヌードであれ、フランス料理の一品であれ、とにかく切れ味の鋭さの際だった写真ばかりである。

 巧い写真、しかも分かり易いというのがぴったりだった。

 報道や芸術写真とは対極にある、人に感動を与えることなどまるで目指していない商業写真としての使命を全うした写真だった。

「これもひとつの才能、ね」

 みゆきが呟いた。

「そうなんですか?」

「たぶん」

 そして、ふたりはギャラリーの一番奥の、山岡のアマチュア時代の作品群のコーナーに入った。

 主にモノクロの、四つ切りか八つ切りほどの大きさの作品ばかりである。

 その中のひとつに、みゆきは釘付けになった。

『S先輩』

 心臓を掴まれて、そのまま引きずり出される感覚がみゆきを襲った。

「これ……」

 それは、紛れもなく兄・翔平のポートレートであった。

「兄さん……」

「え?」

 凄い写真だ、とみゆきは思った。

 この写真には感情のうねりがある。

 それは、山岡が見せたことのない類の写真であった。

「どんな風に撮れば、こんな写真ができあがるんだ?」

「先輩……」

 邦生の目にもその写真の尋常ならざる迫力は映っていた。

 在りし日の翔平が、カメラを構えて被写体に立ち向かおうとするその瞬間を捉えている。

 精悍な瞳の輝き、大きな手にがっしりと掴まれた愛機。

 背景がすっかり飛んでしまっているのは、かなりの望遠で撮ったことを示している。

 写真のそばに小さく撮影データが記されていた。

 その記述にみゆきは驚いた。

 確か、兄も同じレンズを持っていたはず……。

 胸の鼓動はまだ治まっていなかった。

 じんわりと汗が額を伝っていくのがわかる。

 みゆきは立っているだけで精一杯であった。

「先輩、大丈夫ですか?」

 邦生の腕がみゆきを支えた。

 そして、その写真の前から離れようとした。

 気がつくと、わずかに会場の空気がざわめいている。

受付の前に、数人の男たちがたむろしている。

 その中で、ひときわ背の高い、アルマーニのスーツをさりげなく着こなした若い男が、出口に向かうふたりを見とがめた。

「みゆき」

 呼び捨てにされてみゆきは、その場に立ちすくんだ。

「耕筰さん……」

「来てくれたのか……、あ、君は?」

 しっかりみゆきにくっついている華奢な少年に、山岡は問いかけた。

「松波邦生といいます。杉浦先輩の写真部の後輩です」

 といって、軽く会釈をした。

「よろしく、山岡耕筰だ」

山岡は右手を差し出した。つられて出した邦生の右手を、山岡の柔らかい掌が包んだ。

「見てくれた?」

「……はい」

 山岡はにっこり笑って、そう、といって、受付嬢に「ジュースかなにか、頼んであげてくれますか」といった。

「あ、いえ……」

「ゆっくりしていけるんだろう?」

 低く柔らかい声が静かな会場に響く。

「は……」

「どうしたんだ、みゆき。久しぶりに会ったのに……」

どこまでも優しく包み込むように語りかける。

 そうこうしているうちに受付嬢がオレンジジュースを2人分運んできたので、しかたなくみゆきたちはギャラリーの端のソファに座らされた。

「感想をきくのもなんだな。ぼくの写真はモノを売るための道具なんだし。それでも、こんな晴れがましい展覧会をやってもらえるなんて、ありがたいことだよ」

 みゆきは黙ったまま俯いている。

「これも、翔先輩のお蔭だと思っている」

「あの、いいですか?」

 邦生が話しかけた。

「ぼくがすごいと思った写真があるんですけども」

「なにかな」

 口元にかすかな笑みを浮かべて邦生に向き直る。

「あちらの、奥の方のアマチュア時代の作品なんですけど」

 邦生はストローでジュースを一口飲んだ。

「『S先輩』という作品です」

 口元の笑みはそのままに、山岡は少しだけ目を細めた。

「すごいって?」

「ふつう、あんな風には撮れませんよね」

「あんな風?」

 みゆきは思わず邦生の顔を見た。

 何を言い出すのかと思う間もなく、次のことばが出た。

「まるで、恋人を撮るみたいに」

 一瞬、山岡の顔がひきつった。

 その瞬間を、みゆきも見逃さなかった。

「ごめんなさい、偉そうなこと言っちゃって」

そう言うと、邦生はもう一度ジュースを飲んだ。

「ぼくも、あんな写真が撮れたらいいなって、そう思っただけです」

「撮れるさ、その人のことを本当に好きならね」

そう言った山岡の目はみゆきを見ているようで、どこか別のところを見ているようでもあった。

「そうだ、君に渡したいものがあるんだ」

 ふいに思い出したように、山岡は明るい声で言った。

「まさか、今日君に会えると思っていなかったから、持ってきていないんだけど」

 山岡は立ち上がりながら言った。

「後で自宅の方へ送っておくよ」


*  *  *


数日後、みゆきの家に荷物がひとつ届けられた。

 丁寧に梱包された箱には「取り扱い注意」のステッカーが貼ってあり、送り状の品名欄には「光学機器」と記されていた。

 送り手は山岡耕筰であった。

 さっそく荷を解いてみると、出てきたものは1本の大きなレンズであった。

 間違いない。

 山岡が翔平を写したあのレンズである。

 翌日、みゆきは邦生を自分の家に呼んだ。

「なんですか、先輩」

「まあ、あがって」

 玄関で出迎えたみゆきは邦生をためらいもなく部屋に通した。

 完全に男そして意識していないのである。

 梅雨の合間の蒸し暑い日で、扇風機が一台申し訳程度に回っている。

 部屋の隅の防湿庫と無造作にカメラバッグが置かれている以外は、ごく有り触れた女子高校生の部屋である。

母親が冷えた麦茶を運んできて、散らかってるけどゆっくりしていって下さいね、と月並みな挨拶をして階下に降りていった。

みゆきは例のレンズを邦生に見せた。

「これは……」

「あの人が、送ってきた」

「このあいだ言ってたあれですか」

「そう。これはもともとにいさんのだったの」

「お兄さんの?」

「そう、にいさんが卒業するときにあの人に譲ったらしいわ」

 みゆきは荷物に同封されていた手紙を見せた。

 簡単に、翔平からもらったレンズを返すということだけが書かれてあった。

「でも、何故でしょう」

「さあな」

そんなことはみゆきにもわからない。

「着けてみてもいいですか?」

 邦生が訊くとみゆきは一瞬ためらいを見せたが、いいけど、と返事をした。

 邦生は50ミリのレンズをはずすと、少し重い望遠レンズを自分のカメラに取り付けた。

 狭いみゆきの部屋の中では、三〇〇ミリレンズの最短焦点距離は長すぎて、ピントが合わせられない。

 窓の向こうの電信柱がちょうどいいくらいである。

 邦生は黙ってレンズをはずした。

「遠いんですよね」

「なにが?」

「被写体との距離ですよ。これじゃ、相手に肉薄できない」

 ずいぶん厳しいことを言うようになった、とみゆきは思った。

「でも、いいレンズよ」

「そうですね。でも、ぼくは使わない」

「そう。でも、あの人はこれでにいさんを撮っていた。あの写真を見たとき、すべてがわかったよ」

「なにがですか?」

「これは、遠くから憧れを見つめる眼よ。手に入らないものを近くに引き寄せる道具……」

独り言のように、みゆきは続けた。

「そういう存在だったんだよ。あの人にとって、わたしのにいさんは……。にいさんがあの人のすべてだった」

「やめて下さい、先輩」

邦生がみゆきの肩を掴んで叫んだ。

「先輩にはぼくがいるじゃありませんか」

「……?」

 みゆきの目が邦生を捉えた。

 永遠にも似た一瞬、濃密な沈黙がふたりを支配した。

 邦生の甘い息がみゆきの鼻腔をくすぐった。

 口の中が渇いて、唇を湿らす舌の動きが妙に艶かしい。

「邦生……」

みゆきは声に出し掛けていた。

 が、はっと先に我に返ったのは邦生であった。

 なんとなくばつの悪い思いがして、ふたりは麦茶で喉を潤した。

それから、みゆきはごそごそとバッグの中を探しはじめたが、まもなく目指すものを見つけたようだった。

「35~70なんてのも、いいかもね」

ほい、と言ってみゆきはカバンから1本のレンズを取り出した。

 みゆきには珍しいズームレンズである。

「着けてみたら」

「……はい」

 みゆきから受け取ったズームレンズを装着した。

 そこそこに明るいこのレンズは使い勝手のいい万能レンズである。

 翔平がちょっとしたものを撮るときに愛用していたレンズでもあった。

「どう?」

ファインダーを覗いている邦生に向かっていう。

 みゆきに焦点を合わそうと、邦生はヘリコイドをまわす。

「いいと思います」

「気に入った?」

「え?」

「よかったら、使って」

「いいんですか?」

「わたしには用のないレンズだもの。にいさんのお古だけど、使ってくれたら、嬉しい」

「そんな……、駄目ですよ……」

「気に入らないの?」

「いえ」

邦生は愛しげにそのレンズを撫でていたが

「お気持ちはありがたいのですが」

そして、名残惜しそうに言った。

「このレンズに負けない写真が撮れる自信がついたら、いただきにあがります」



*  *  *


みゆきは相変わらず人気のない校庭の片隅で小さな花の写真を撮っている。

 その傍らに、買ったばかりのカメラを構えた邦生を見ることができた。

「ねえ、先輩」

邦生が言った。

「山岡さんは、わかっていたんじゃないでしょうか」

「?」

「この距離が、埋められないものだってこと」

標準レンズをぎりぎりまで繰り出して、邦生は距離をとった。

「これが今の僕たちの距離です」

 四五センチメートル。

 それがふたりの距離だった。

 山岡と翔平の距離は--。

「でも、もっと、短いのがいいな」

邦生はぽつりと言った。

 そしてカメラを構えたまま、みゆきにすり寄るとそのままぐっと顔を近づけた。

「それじゃ、マクロでしょ」

ふざけてみゆきも邦生に顔を寄せる。

「そう。先輩に、ぎりぎりまで寄れるから……」

こんなふうに。

「なに?」

ふっ、と邦生の唇がみゆきの唇を掠め盗った。

オミナエシの白い花が、風に揺れた。

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