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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

猫と異形

作者: イル
掲載日:2024/05/24

 ある所に、人間が統べる大きな国があった。

 その国から少し離れた場所に、深い森があった。豊かな緑に染まり、多くの動物たちが平和に暮らす、そんな穏やかな森。

 そして、その森には昔からある噂があった。

 あの森には異形の怪物がいる。

 そんな噂が――




 その日は暖かい日だった。春の陽気に溢れた森は、伸び伸びと茂った木々の枝葉から零れる陽に照らされている。穏やかな風が草木を揺らし、動物たちの毛皮を撫でた。彼らは心地よさそうに風を受け、躍る光を楽しそうに眺めていた。

 そんな彼らの様子を、陽の射さないほど暗い緑に塞がれた場所で異形は見ていた。苔むした木に置かれた手には彼らの誰よりも鋭い爪が生えており、羨ましそうに細められた眼は鮮血のような赤をしている。前身は闇に溶けそうな程に黒く、毛も鱗もない身体はどこか霧のようにぼやけている。姿形は人のそれに近いが、決して人とは呼べないものだ。

 異形は光の溢れる広場で寛ぐ彼らを暫く見つめた後、ゆっくりと顔を背け森の奥へと歩みを進めた。

 異形には家族が居ない。彼らのように親から産まれる事もなく、気が付いたら森の奥深くで目が覚めたから。

 異形には仲間が居ない。どれだけ森の中を彷徨い歩いても、自分と同じ存在を見つけるは」できなかったから。

 異形には友達が居ない。彼らは未知の存在である異形を恐れ、近付こうとも関わろうともしないから。

 異形は歩きながらいつもの思考を巡らす。自分は何者で、何の為に生きているのか。

 この森の外には自分と同じ仲間が居るのかもしれないと思い、少しだけ森の外に出たこともあった。自分と何処か似たような姿をした生き物に気付かれ、それらは悲鳴を上げて逃げていった。

 その時に異形は悟った。自分は他の生き物とは違う。それらにとって、自分は恐ろしい存在なのだと。

 その頃から異形はただ一人、彼らにも会わないようにひっそりと影の中で過ごし続けた。

 異形は散歩が好きだった。一人で気ままに森の中を歩いていれば、吹く風や草木の匂い、それらが擦れて奏でる音がとても心地良い。たまに綺麗な花を見つけ、ふっと笑いかけるように目を細めると、それに答えるかのように揺れた花弁が愛おしく思える。

 移ろう季節の中で様相を変えていく森の中は、異形にとっては充分な程に目まぐるしい変化で、それらを感じている時は孤独の寂しさを紛らわせることができた。

 だから異形は今日も散歩をする。もはや散歩が日課となっている異形には、この森の中で知らない場所はなかった。

 今日は何処に行こう。あのキラキラと輝く泉か、はたまた白く愛らしい花たちの場所か。

 先の羨望を紛らわせるように思考しながら歩いていると、前方にある気配を感じた。

 異形は咄嗟に身を隠すが、その気配がやけに弱弱しく小さなものでその場から動く様子がなかった為、気配の正体に気付かれないように静かに近付く。そして木陰からそっと覗いてみると、そこに居たのは一匹の小さな子猫だった。

 異形は彼らの、特に子供が少し苦手だった。好奇心の赴くまま無警戒に近付いて来て、必死の形相で大人が連れ戻しに来る。そんな事が今までに何回かあった。異形には彼らを害そうという意図はないので、その光景を悲しそうな顔でやり過ごしていたのだ。

 しかし、その子猫はいつもの元気な様子ではなかった。よく見れば、呼吸が浅く苦しそうで、口の周りが吐瀉物で汚れている。辺りを見渡すと、子猫の近くに欠けた小さなキノコが落ちていた。

 異形はそのキノコを見て――自身の身体に血が流れているかは分からないが――血の気が引いた気がした。

 そのキノコは中々に強い毒性を持つもので、大人が食べると多少腹を下す程度で済むが子供が食べた場合、量によっては命を落とす危険があった。何故異形がそんな事を知っているのかというと、異形は耳が良く、そういった彼らの会話を小耳に挟んだ事が幾度となくあるからだ。

 異形はどうしようかと逡巡する。先程の広場に居た彼らの元へ連れて行こうにも、彼らは異形を見た瞬間に逃げ出してしまうだろう。この辺りには子猫の親も、他の動物たちの気配も無い。子猫を助けるには、異形がどうにかしなければならない。

 自分が上手くできるだろうか。こんなに小さな子に触れたら、壊してしまわないだろうか。

 様々な不安や自身が動かなくても良い言い訳が頭を巡るが、そんな中、子猫が静かに咽た音が聞こえた。


 ――このままでは、あの子は死んでしまう。


 異形の思考は残酷な事実で満たされ、重く絡みつく不安や言い訳からするりと身体が抜け出した。

 必要なのは毒を中和できるもの。異形は目を瞑ると記憶を辿り、彼らの会話を思い出す。

 それから自身の身体を薄く引き伸ばし、地面を這わせるように広げていく。黒くぼやけた地面には幾つもの赤い瞳があり、きょろきょろと周囲を見渡している。

 そして見つけた薬草を何本か取り込むようにして回収し、それは元の姿に戻った異形の手に握られていた。

 後はこの薬草を食べさせれば、きっとどうにかなる。そう考え異形は子猫に近付くが、その子の様子を見て再び動きが止まった。既に吐き戻してしまっている子が、こんな薬草を食べられるだろうか。

 異形は何度も記憶を辿るが、彼らはよく噛んで食べる事が大事だとしか教えてくれない。

 目の前の小さな命が消えゆく光景を見ている事しか出来ない自分の弱さに、異形は歯噛みした。

 それでも異形は諦めなかった。彼らに恐れられ、避けられていたとしても、見捨てる理由には出来なかった。異形は手に握った薬草へ視線を落とす。異形の力で押し潰されたそれからは、緑色の液体が染み出している。

 食べさせる以外で効果があるのかは分からなかったが、それでも試してみるしかなかった。

 異形は更に強く薬草を握る。すると、生命力を奪われたかのように薬草は萎れ枯れてしまった。手を開くと薬草の残骸は僅かな風に吹かれて消えていったが、澄んだ緑色に輝く一粒の雫が残されていた。雫を溢さないよう慎重に、子猫の口元へと落とす。子猫の喉が、僅かに動いたのが分かった。

 その様子を見て異形は安堵しかけたが、頭を振るい気を引き締めなおすと次の行動に移った。


 ――この子の為に、出来る事を。


 この日、異形は初めて他者の為に動いたのだ。

 異形は森の中を疾走する。その手には小さな子猫を乗せていた。揺れないよう細心の注意を払いながら、それでいて彼らの誰よりも速く。異形が通った後には一陣の風が吹き、小さな枝葉は折れて弾け飛ぶ。

 そうして数刻もしない内に辿り着いたのは、異形が気に入っている森奥の小さな泉だった。泉周辺は広場になっており、遮られる事のない陽の光が燦燦と降り注ぎ水面を輝かせている。普段この辺りで異形は過ごしている為、貴重な水場ではあるがここへは彼らも滅多に来ない。異形にとっては数少ない陽の光を浴び、空を眺めながらゆっくりできる憩いの場である。

 子猫を岸辺にそっと降ろし、汚れている口元を優しく水で洗う。綺麗になったのを確認すると異形は再び身体を変形させる。自生している植物を片っ端から触り、比較的柔らかい葉だけを集めると、近くの木陰に敷き詰め子猫を寝かせた。その顔には先程までの苦しそうな表情は無く、呼吸も多少は安定しているようだった。

 子猫の為に出来る思い付く限りの事をした異形は落ち着かない様子でおろおろと動き回る。後は薬草の効果と子猫の頑張り次第だと頭では理解しているが、心がざわついて静まらない。異形にとっては初めての感覚で、初めて他者を心配するという感情だった。

 散歩の続きをしようと思っても、子猫の側から少し離れては戻ってきてしまう。子猫が少しでも苦しそうにしていると、少量の水を飲ませ予備として採取した同じ薬草を手に掴む。

 そんな調子で時間は過ぎていき、そして陽が少し傾き始めた頃、子猫は静かに目を覚ました。異形は喜んだのも束の間、子猫と目が合い咄嗟に近くの木の裏へと隠れた。


 油断した。自分は彼らとは違うのだと、少しだけ忘れてしまっていた。怖がらせてしまったのではないか。


 異形がそんな風に考えている間、子猫はきょろきょろと辺りを見渡していた。そして自分の下に葉が敷かれている事に気付き、お腹が空いて小さなキノコを食べた事を思い出した。その後は気持ち悪くて、苦しくて、辛かったが、それが途中で和らいだのだ。

 子猫は病み上がりでふらつきながらも立ち上がり、ある木の元へと向かう。

 未だに自分の迂闊さを悔やんでいる異形は、ふいに何か小さく暖かいものが足に触れた事に気が付き、視線を下した。そこにはあの子猫がおり、小さな頭をすりすりと擦り付けていた。異形はぎょっとした様子で子猫から離れるが、その子は懸命に後を追い、再び頭を擦り付ける。

 異形が戸惑った様子で子猫を見ていると、子猫は顔を上げて異形と目を合わせた。


「にゃあ」


 そして小さく鳴き、異形は目を見開いた。

 異形には彼ら特有の行動が意味する事や感情表現などは理解していないが、彼らの言葉ならば理解する事が出来る。


「ありがとう」


 それは異形が生まれて初めて向けられた感謝の言葉だった。ならば、この子の行動も感謝故のものだろう。異形は目に熱いものが溢れてくるのを感じた。それは目だけではなく胸の辺りも同様だった。


 初めて誰かに感謝された。

 初めて誰かと触れ合えた。

 初めて誰かに怖がられなかった。

 初めて誰かの役に立てた。


 異形はその場にしゃがみ、大きな手をゆっくりと子猫に近付ける。彼らならば、皆恐怖に怯えすぐに逃げ出すだろう。

 だが子猫に恐怖の感情はなかった。自身の顔に軽く触れる指がもどかしくて、自ら頭を押し付ける。

 異形は身体が強張るのを感じたが、それでもゆっくりと、花を愛でる時を思い出しながら子猫をそっと撫でる。少しずつ慣れてくると、子猫が心地よさそうに目を細めた。

 異形は再び目が熱くなるのを感じた。それが何なのかは彼には分らないが、決して不快なものではなく、寧ろ嬉しいような、自然と微笑んでしまう不思議な感覚だ。

 二人は暫くそうして戯れていたが、子猫が突然動きを止めた。聞いた事のない音が子猫のお腹から鳴り、異形が慌てて薬草を手に握る。

 子猫が心配しないでと鳴き、それから少し気まずそうにもう一度鳴いた。


「お腹が空いちゃった」


 子猫はどこか照れくさそうな表情を浮かべるが、異形は何のことか解らず首を傾げた。異形は空腹を知らなかった。彼は飲食の必要がなく、今まで何かを食べた事がなかったのだ。

 異形は再び記憶を辿る。お腹が空く、という言葉自体は何度か聞いた事があり、彼らが何かを食べているところも見た事がある。そして異形は初めてお腹が空くと何かを食べるのが普通なのだと知った。

 しかし、この子が普段何を食べているのかは分からない。


「どうしたの?」


 先程から動かなくなってしまった異形に子猫が問うが、異形は答えない。異形は生まれてから一度も喋った事がなかったのだ。そもそも、自分が喋れるのかも分からない。何かしらの声を発した事もなければ、自身の身体から音が聞こえた事もない。どうしたものかと考えた末、異形は自分なりに喋ってみる事にした。


「――――」


 彼らや子猫のように音として声を出そうとしたが、僅かな息すらも放出されなかった。異形は自分の喉を擦ったり軽く揉んだりしながら何度か試す。だがどれだけ繰り返しても結果は変わらなかった。

 子猫が不思議そうに見てくる中、異形は他の方法も試してみようと思い立つ。しかし、記憶の中の彼らからは口を動かして音を発する以外の事は解らず、他にどうしたら良いのか皆目見当も付かない。そして諦めようと思った時、最後にどうにかして子猫に伝わって欲しいと願いながら『駄目みたいだ』と心で呟いた。


「え?」


 その時、異形の心の声に反応するように子猫が首を傾げた。

 異形は驚きながらももう一度同じようにして、今度は子猫に話しかける。


『言葉、わかる?』


「わかるよ!」


 異形の声はしっかりと聞こえたようで、子猫は元気よく答えた。異形は何とか意思疎通が取れる事に安堵し、同時に初めての会話に心が躍った。


「ねえ、何か食べよ?」


『何を、食べるの?』


「虫とか、ねずみとかだよ。でもキノコは……もう食べない……」


『虫とねずみ……』


 子猫の返答に異形は少し顔を顰めた。彼は虫の声は聞こえないが、ねずみの声は理解できの。異形にとっての彼らには、ねずみも含まれているのだ。それに、異形は自分以外の生物が種を問わず好きだった。

 しかし、虫が他の生物を食べているところを見た事はあるし、逆に彼らが虫や他生物を食べたりしている事も知っている。その為、異形はとても複雑な気持ちではあったが、そういうものなのだと思う事にした。


「きらいなの?」


『食べた事ない』


「そうなの? 虫は……苦いやつが多いけど、ねずみは美味しいんだよ!」


『でも、食べなくてもいい。ずっと、何も食べてこなかったから、平気』


「お腹空かないの?」


『うん。お腹空いた事ない』


「そうなんだね。でも、食べてみたらきっと美味しいと思うよ!」


 そう言って子猫は歩き出した。その後ろ姿はどこか楽しそうで、見ているだけで笑みが零れそうになる。

 だが異形は子猫の後を着いて行かなかった。この子が自分の事を怖がっていない事はわかっているしとても嬉しいが、もし一緒に居るところを彼らに見られたらと思うと気が気じゃなかった。疎まれ者と関わる者は、きっと同じように疎まれてしまう。それに、子猫の親に出会ったら、記憶の中の彼らと同じ反応をされるだろう。そうなった時の事を想像すると、異形はとても悲しい気持ちになった。

 子猫は異形が着いて来ない事に気が付き立ち止まる。


「どうしたの?」


『……ここで、お別れをしよう』


 異形は目を伏せながら静かに答えた。


「どうして、そんな事言うの?」


 子猫が悲しそうに問う。異形は俯いた。子猫の目を、悲しそうな顔を見てしまったらきっと、決心が揺らいでしまうから。


『ボクは……キミとは、キミたちとは違う。一緒には、居られないよ』


「でも、優しくしてくれた。助けてくれたよ? お話だってできるのに、何がいけないの?」


『キミも、彼らや、親から言われたでしょ? ボクと関わっちゃいけない。近付いちゃいけないって。ボクと一緒に居るところを見られたら、キミまでボクと同じになってしまうかもしれない。それは、嫌なんだ』


「大丈夫だよ! 異形さんが本当はとっても優しいって、皆に教えるから! そうしたら、皆もきっと怖くなくなるはずだよ!」


『もし、そうならなかったら?』


「その時は、わたしが皆に怒る! この分からず屋って!」


『でもっ……ボクみたいに、一人になってしまうかもしれないよ……』


「少し悲しいけど、大丈夫だよ? 異形さんがいるもん!」


 子猫の言葉に、異形は思わず顔を上げた。自分に笑いかけているその表情からは、嘘や孤独の恐怖などは一切感じられない。

 どうしてか、異形の視界はぼやけてしまった。不思議に思い手で目を擦ると、そこには透明な水が付いており、良好になった視界には心配そうな顔をした子猫が映る。


「泣いてるの?」


『泣く……?』


「異形さんは、今までずっと寂しかったんだね。でも、これからはわたしが一緒にいるよ!」


 異形の視界が再びぼやける。

子猫と出会ってから、異形にとって初めての事ばかりだった。




 その森には噂があった。

 刃のような爪、血のような深紅の瞳を持ち影に潜む恐ろしい異形の怪物が居ると。


 異形が子猫と出会ってからというもの、彼の生活は一変した。どれだけ説得しても子猫は彼らの元へ戻ろうとはせず「異形さんと一緒がいい」の一点張りで、異形は内心嬉しかったがほとほと困り果てていた。他にも理由があるのかと聞いてみれば、親が居なくなってしまったそうだ。

 そして、異形が『彼ら』と一括りにしていたのは過ちであり、種族の壁は途方もなく高く厚いものだと知ったのだ。思えば見た目の違う者同士で話をしていたりする事はあれど、共に暮らしてはいないという事実に記憶を辿り気付いた。仲睦まじそうに見えていた彼らの実態が実は淡白だったと事に異形はショックを受けたが、それでも子猫と共に過ごしていればそんな事実も大して気にならなかった。

 子猫は親を探しながら森中を歩き回り、狩りも出来ない程に弱り仕方なく普段は食べないキノコを食べ毒に当たったのだという。親が居ない事を気にしている様子はないが、それでも時折見せるどこか寂しそうな表情は異形の胸を締め付けた。

 当然のように異形は親を探そうと提案する。しかし、子猫がそれを受け入れる事はなかった。きっと探しても意味がないのだと。それが異形には理解出来なかったが、子猫が頑なだったのでそれ以上言うのは止めた。

 そうして彼らは共に過ごすようになったのだ。

 子猫との生活は新しいもので溢れていた。共に過ごす。ただそれだけの事なのに、既知の事ですら未知と同程度の楽しさが感じられる。そもそも、異形は楽しいという感情も抱くのも初めてであった。陽が沈みまた陽が昇る。そんな至極当然の事も、子猫と居るだけで彼の瞳には新鮮に映った。

 時には彼らと出会う事もあった。異形は耳が良い為、彼らの存在には子猫よりも先に気が付く。一人の時ならば必ず出会わないよう避けていたが、今となってはもうそんなことはしない。彼らと出会う度、子猫が彼らに異形がどれ程優しいかを叫ぶからだ。叫ぶのは異形を見た瞬間彼らが逃げるからである。逃げられるのはまだ少し悲しいが、それでも異形は子猫の行動を喜んで受け入れていた。

 時には異形が気に入っている場所を共に巡った。異形は自分が美しく思うもの、好いているものを共有できる喜びを知ったのだ。その時間は楽しく幸せなものであり、異形のお気に入りの場所は異形と子猫のお気に入りへと変わった。

 そして異形は初めて食事をした。子猫からの催促もあったが、何より食事の楽しさも共有したいと感じたからだ。

 声を出そうとした時から異形は自分の身体に口と呼べる器官がない事に気付いていた。体内に取り込むだけなら簡単にできるが、それでは肝心の味が分らなかった。幸い異形は身体を自在に変形させる事が可能である為、子猫の口内を観察させてもらいながら試行錯誤を繰り返し、なんとか口を創り出した。

 そして初めて『味』を知ったのは小さな赤い木の実である。彼らの枠に入っているねずみを食べる気にはどうしてもなれなかったのだ。口の中で木の実を噛むと、潰れる感触と共に果汁と果肉が飛び出す。それは甘酸っぱく、異形にとっては衝撃的な味だった。だが決して嫌な味ではなく、木の実を幾つか食べ進めると段々と美味しいという感覚が芽生え始めた。それから異形はいろいろなものを食べ、子猫と食事を楽しめるようになった。

 そんな幸せな日々を過ごしていたある日の事。異形は昔、森の外で見た生き物と再び出会ってしまった。

 それは良く晴れた夏の日の事、異形はいつも通り子猫と共に森を散策していた。自然が創り出した天然の天井が燦燦と照る日差しを遮り、森の中は夏だというのにひんやりとした空気を感じられる。

 そんな中、寛ぎながら歩いていた異形の耳を劈くように悲鳴が聞こえた。


「今のは……」


『行ってみよう』


 悲鳴は子猫にも聞こえていたようで、互いに顔を見合わせると異形は手に子猫を乗せ声の聞こえた方へ疾走した。

 そこに居たのは二人の狩人と脚に矢を受け倒れている一頭の鹿だった。この森は外の人々に恐れられており、普段ならば近付こうとする者も殆どいない。しかし、人が近付かない為に多くの動物や植物が自生しており、それを狙う輩がこうして時たまやって来るのだ。


「なっ! 異形……!」


 異形の姿を見るなり鹿は必死に逃げようと藻掻くが、激痛のせいか上手く立ち上がれずにいた。パニックに陥ったのは狩人たちも同じで、顔を青ざめさせ何かを叫んでいる。


「――――!」


「――――――!」


 異形には狩人たちが何を話しているのか理解できなかったが、何をしようとしているのかは一目瞭然だった。一人が弓を異形へと向け、もう一人がそれを止めようとしている。弓に関する知識はなかったが、鹿の様子を見るに他者を傷つける道具だと察した異形は矢を番える狩人の腕を少し強めに上から叩いた。矢と弓はどちらも折れ、地面へと落下する。


「――――!」


 狩人は叫び声をあげながらその場で悶える。見れば叩かれた両腕がおかしな場所で折れ曲がっていた。異形は人間の身体に明るくなく、狩人の状態についても理解が出来ず未だ立ち上がれていない鹿を守るように二人の前へ立った。

 異形が何もしてこないと見るや否や、もう一人の狩人が腕の折れた狩人をどうにかして支え一目散に逃げていく。

 狩人たちの姿が見えなくなると、子猫は異形の手から飛び降り鹿の元へ駆け寄った。


「大丈夫?」


 異形も倒れている鹿へ視線を向ける。左後ろ脚の腿の辺りに矢が深々と突き刺さり、今もなお血が流れ出ていた。視線に気付いた鹿はびくりと身体を震わせた。


『……』


「異形……助けて、くれたんだよな」


 彼の問いに異形は頷いて答えた。


「異形さんは優しいんだよ! 怖くないから安心して!」


 いつものように子猫がそう語る。だが子猫の明るい声は沈黙に消えていった。気まずい雰囲気の中、子猫はおろおろしながら異形と鹿の顔を交互に見やる。そして沈黙を破ったのは彼からだった。


「どうして? 俺たちはお前を嫌っていた。恐れ、疎んでいたのに……」


『それでも、助けない理由にはならないから』


 異形は然も当然だと言うように、ハッキリとした口調で答えた。子猫を助けた時と同じだ。

 彼は驚いたように目を開き、息を溢すように笑った。


「優しい、か。……俺たちの方が、よっぽど怪物だったんだな」


『そんなことない……それよりも……』


 異形は彼の脚へ視線を向ける。既に血は止まっているが、脚を伝う赤い痕跡が痛々しい。異形は自身に向けられた矢を思い出す。あの鋭利な先端が突き刺さっていると思うと胸が苦しくなった。


『どうしてこんな……』


「凄く痛そう……ひどいね」


「奴ら……人間の考えなんて知らん。この森へは滅多に来ないが、それでも時々ああして襲ってくるんだ」


『人間……』


「お前らも、人間には関わらない方が良い。と言っても、あんたならどうとでもなるだろうけどな。まあそんな事より、脚に刺さってるのを抜いてくれないか?」


 そう言われ、異形はたじろいだ。再度矢の形状を思い出す。狩人の使っていた矢には所謂剣尻と呼ばれる形状の鏃が使われていた。あの鏃が刺さっているのなら引き抜くときにどうなるか、想像は難くない。現に矢の刺さっている鹿の脚は、鏃が完全に肉に埋もれ、鏃と同じ大きさの傷口がある風には見えなかった。つまりそれは引き抜く際に肉ごと抉り出すようなものだ。


『本当に……? きっと凄く痛いよ……』


「わかっている。だが、こんな物を刺したままでは生活に支障が出るだろう。いいからやってくれ」


『……わかった』


 異形は彼の味わうであろう痛みを思うと気が進まなかったが、彼が良いと言うのならばと矢をそっと握った。その僅かな動きでも相当の痛みなのか、彼は小さく声を漏らす。


『じゃあ、抜くよ……』


「頼む」


 そうして異形は矢を一気に引いた。はっきりとした抵抗を感じたが、異形の力で引っ張られた矢はあっさりと抜けた。だが、酷く開いた傷口からは鮮血が溢れ、肉を無理矢理裂いたような嫌な感触が異形の手に伝わる。


「ぐうううああああああぁぁぁ‼」


 彼はあまりの痛みに絶叫すると、少しでも痛みを誤魔化そうと荒い呼吸を繰り返す。

 子猫と異形はそんな彼の様子を泣きそうな顔で見ていた。血を止める方法や痛みを和らげる方法については記憶を辿っても答えはなく、何も出来ない事を異形は悔やんだ。


「本当に大丈夫……?」


「……大丈夫だ」


 子猫が泣きそうな声で問うと、彼は深呼吸を繰り返してから静かに答えた。

彼は立ち上がろうと脚に力を入れるが、その度に傷口から血が流れ痛みに顔を顰める。異形も子猫も彼を止めようと声を掛けた。彼は問題ないと制止を無視してどうにか立ち上がった。


「お前達には命を救われた……感謝している。それと――」


 彼は改めて異形へ身体を向けた。何事かと困惑していると彼はしっかりと異形の目を見て言葉を紡いだ。その瞳には異形に対する恐れも嫌悪も既に無く、『彼ら』へ向けるものと同じ色を宿していた。


「今まですまなかった。俺はもうお前を恐れたりはしない。それから贖罪……という訳でもないが、俺の仲間達にも話しておこう。お前が本当に優しいやつだって事を」


 彼の発言を聞き、異形は目を見開いた。子猫以外にそんな事を言ってもらえるなんてと、驚きと喜びで鼓動が早まる。子猫がまるで自分の事かのように目を輝かせながら異形を見上げる。


「よかったね!」


『うん、嬉しい……』


 異形達の様子を見て彼は微かに笑うと、ふらつき脚を引き摺りながら背を向けた。


「俺は戻る。家族の元へ行かなくては」


「またね!」


『無理はダメだよ』


 そうして彼は森の奥へと消えていった。

 異形は自身の手を見た。僅かだが、自分の意思とは関係なしに震えている。それは期待と嬉しさからくるものだ。

あまりにもゆっくりではあるが少しずつ、しかし確かに、自分という存在がこの森に認められているような気がしていた。




 その森には噂があった。しかし噂だったそれはある日を境に真実へと変わる。

 森には『人を襲う』恐ろしき異形の怪物が居る、と。


 時間の進み、季節の変遷は気付けばあっという間に過ぎるもので、異形と子猫が出会ってから既に約半年が経過していた。春も秋へと変わり、異形の目から見れば大した差はないが子猫も随分と大きくなった。

 何より大きな変化が『彼ら』の異形に対する態度の変化だろう。彼らが異形を恐れていた理由は異形という存在が未知である事と、その異様な見た目からだ。子猫がひたすらに叫んで来た異形は優しいという訴えに、危ない所を助けられ更に人間を追い払ってくれたと言う話が決め手になり、異形に向けられた印象や恐怖が段々と薄れていったのだ。

 彼らからは見る事すら憚られ、出会う度に逃げられていた。それが今では自ら近づいて来る者もおり、出会っても逃げるどころか今までの態度を謝罪する者も少なくなかった。未だに異形を恐れる者達も勿論居たが、それでも森全体で異形を不気味と思い恐れる風潮は減った。そうした環境で過ごしていれば異形にも自然と友達と呼べる存在ができ、鹿の彼を筆頭に段々と増えていった。

 そして、異形は純粋な好奇心の対象として子供達から人気があった。連日遊び、森の中を探検する。子供を預けてくれるのは、その子の親からの信頼の証である。異形はその信頼に常に全力で応えていた。

 多くに囲まれ、認められ、好かれている。必要とされている。

 森の一員として、また仲間として。そして――


 異形は子猫へ目を向ける。いつも側に居て、苦楽を共に過ごしてくれる。子猫と出会ってから、何もかもが変わった。感謝してもしきれない。ありがとうなんかじゃ足りない。

 視線に気付いた子猫と目が合う。幸せそうな明るい笑顔は、相変わらず眩しく輝いていた。


「楽しいね!」


 ――家族として。


『そうだね』


 子猫の笑顔に異形も笑顔を返す。黒く靄のかかっている異形の表情は読み取りづらいが、大事なのは心だ。異形の真っ直ぐに澄み切った薄氷のように美しい心の前では、その程度の障害など些事であった。

 異形は静かにこれまでの事を振り返る。暗い森の中で訳も分からぬまま生まれ、疎まれ恐れられて一人で過ごしてきた。誰かと話す事も、過ごす事も、ましてや笑いあえる日が来るなんて夢にも思わなかったのだ。

 一つの偶然から全てが変わった。

 そうして得られたのはこの上ない幸せ。

 いつまでもいつまでも、この生活が続くことを誰もが心の底から願っていた。




 その日は風が強かった。気温も下がり酷く乾燥した空気に包まれ、まるで森全体が寒さに震えているかのような、そんな錯覚を覚える。

 彼らの多くは冬眠こそしないが越冬の為に栄養を蓄える事に注力しており、ここ最近の生活はまた静かなものとなっていた。

 異形は冬ごもりなどとは無縁であり普段と変わらない生活を送っていたが、食事をする事は控えていた。少しでも多くの食べ物を彼らに食べてほしいからだ。異形が食事をしていたのは子猫や皆と気持ちを共有するのが理由であり、本来ならば食事を摂る必要は全くない。異形が食事を止めてから子猫は寂しそうな表情をする。その顔を見るのは心苦しかったが、訳を話せば納得してくれた。

 異形は子猫に目を向ける。二人が居るのは森奥の泉。異形が子猫を看病した場所である。決していい思い出とは言えないが、それでも大切な思い出であり、大切な場所である事に変わりはない。この広場は異形と子猫にとっての憩いの場となっていた。子猫は陽の当たる場所で丸くなって眠っている。時折動く耳を見て異形は微笑む。

 異形が視線を泉へと戻すと、風に吹かれて波打つ水面が陽光を乱反射してきらきらと輝いていた。静かなこの広場で聞こえてくるのは木の葉が擦れる音だけだ。一人で過ごしていた時には孤独と虚しさしか感じなかった今のような静かな時間も、今となっては悪くないと思える。

 しかし、憩いの静けさは唐突に終わりを迎えた。


「大変だ!」


 息を切らしながら現れたのは鹿の彼である。一目見てただ事ではないと分かる程に切羽詰まった様子の彼に、子猫も飛び起き異形と共に彼の言葉を待つ。


「人間が……大勢の人間が森を焼いている!」


 告げられた衝撃の知らせに、異形と子猫は言葉を失った。


「どうしてそんな……」


 異形は火を知っていた。昔、大雨の日に空から落ちて来た光が木を焼いた瞬間を見た事があった。火は命を奪う恐ろしいものだ。人間が森を燃やす? 何故? 住処がなくなる。皆は無事だろうか。危険。避難。新しい森を……。異形は一瞬の間に思考が巡り半ばパニックになっていたが、子猫の声で落ち着きを取り戻した。


『皆は無事?』


「ああ。各自逃げながらこうして他の奴に伝えて回っているから大丈夫だ。逃げ遅れた奴もいない筈。……クソッ、なんなんだよアイツ等は!」


 人間。異形は記憶を辿り、人間と出会った時の事を思い出していた。初めて見たのは、まだ異形が独りぼっちだった時だ。森の外に出た時に偶然その姿を見た。その次は彼の事を襲っていた二人組の人間。どちらも異形の姿を見て逃げたので、こちらから何かをしなければ特に問題は起こらないと思っていた。


「お前達も早く逃げた方が良い」


「そうだね。逃げよう、異形さん! ……異形さん?」


 子猫は返事を返さない異形を不思議に思い、彼を見上げる。異形は目を瞑って立ち尽くしていたが、暫くして目を開くと彼と子猫に告げた。


『ボクは、人間のところに行く』


「何言って――」


『大丈夫。人間はボクの姿を見れば逃げるよ。今までもそうだったから、きっと追い返せる』


「俺を襲った奴らと同じものを持った人間が数えきれない数居るのだぞ! 無事に帰って来られる保証なんてどこにもない!」


「そうだよ……一緒に逃げよう?」


 彼の心配にも子猫の言葉にも異形は答えない。鮮血の色をした瞳には決意が宿っている。自暴自棄な思考や自滅願望などはこれっぽっちも無く、ただこの森と自分を受け入れてくれた彼らを守りたい。その思いだけが異形の中を満たしていた。

 彼は異形の目を見つめながら思考を巡らす。どうにかして異形の行動を阻止できないかと。異形は正真正銘の『異形』なのだ。未知の力を持っていたとしても何らおかしくはない。彼も異形が人間程度に後れを取るとは思っていなかったが、万が一という事もある。そうなれば子猫はどうなるというのか。子猫も大分成長している。もう一人で生き抜く力もあるし、仲間と共に生きる道もある。それでも、異形が居なくなってしまった時の傷は埋めようがないのだ。

 彼は口を開いた。子猫の事はどうするのだと、そう訴えようとした。しかし、口から出た言葉は全く別のものだった。


「わかった。俺はこの子と一緒に逃げる。お前は好きなようにするといい」


「そんな……」


 一緒に引き留めてくれると思っていた子猫は彼の裏切りに衝撃を受けた。


『ありがとう。必ず戻るからね』


 彼と猫にそう告げると、異形は子猫が何かを言う前にその場から走り去った。それは子猫が着いて来ないようにする為の行動であり、異形なりの優しさだ。

 異形の姿は瞬く間に見えなくなったが、彼は暫く異形が向かった先を見つめていた。その視線には心配と、僅かな期待が込められている。見上げれば空高く立ち上っている白煙が見えた。


「無事に帰ってこい……さあ、俺達も逃げるぞ――」


 彼が視線を降ろすとそこに子猫の姿は見当たらなかった。辺りを見渡すがこの広場には既に子猫の姿はなく、どこかに行ってしまっていた。


「おい……嘘だろ!」


 子猫が向かった先はいとも簡単に予想が出来る。

 彼は逡巡した後、白煙の立つ方へ駆けた。しかし、その道中で炎に阻まれ子猫を追う事が出来なかった。


「くそっ! 頼むから無事でいてくれ……!」




 異形が森を進んでいくと、次第に煙が濃くなり空気が不自然に熱を帯びていく。それと同時に大勢の足音と、ガチャガチャという聞き覚えの無い硬質な音、そして燃えた草木の弾ける音が大きくなる。

 そして然程時間もかからずに異形は人間達の元へ辿り着いた。燃えているのは森の浅層部分であり、延焼もまだ酷くはなっていなかった。これならどうにかなるかもしれないと思い、数えるのも億劫になる程の人数だったが、姿を見せれば逃げる筈だと鎧を纏い武装した人間達の前に異形は飛び出した。そして逃げた後で燃えている木を処理しよう。そう考えていた異形だったが、その計画は大きく崩れる事となった。


「――――!」


 異形を見た途端、一人の人間が大声で叫んだ。そして列の先頭に居た数人が弓を構え、一斉に矢を放つ。幾つかの矢が異形に突き刺さり、一部の人間が期待のこもった声で何かを呟いた。

 自身の身体に刺さった矢を見て、異形は動きを止めた。痛みはなく、血も流れない。ただ異物が体内にあるという不快感だけがあった。異形は次々に矢を抜き、地面へと捨てた。

 その様子を見て人間達が動揺する。その顔には恐怖と嫌悪が見て取れた。

 一方、予想外の事態に異形も困惑していた。人間達は逃げるどころか敵意を剝き出しにして攻撃してきた。弱く臆病なあの姿は何だったのか。計画は出だしから頓挫し、どうすればいいのかも最早分からない。

 その間にも乾燥した空気の中で火は燃え広がり、人間達は矢を撃ち続ける。

 森を守りたい、人間を追い返したい。しかし、傷付けたくはない。そんな幾つもの想いが異形の中でせめぎ合い、その結果異形は動けずにいた。自分の心が自分では制御できず、何から始めればいいのか分からない。人間を追い返そうにも彼らは逃げてくれない。森の延焼を止めようにも人間が居る限り火を放ち続ける。


人間を傷付けたくない。森を守りたい。皆を守りたい。傷付けたくない。守りたい。どうすればいい? どうしたら……。


 自分の事も、人間の事も、乾燥した季節は延焼が早く進むという事も、異形はあらゆる事を知らなさ過ぎた。そして自身の無知に気が付けないまま、あまりにも多くを求めすぎた。


「異形さん!」


 聞こえてきたのは、あの子の声。

 異形は身体中に矢を受けたまま、ゆっくりと振り向いた。

 そこに居たのは異形の事が心配で着いて来てしまったまだ小さな子猫。

 そして――


「あっ……」


 その小さな体を、一本の矢が貫いた。


『え』


 異形は間の抜けた声を出す。頭の中が真っ白になり、先程まで悩んでいた全ての事が綺麗に消え失せた。視界が揺らぎ、よろめきながら子猫の元へ歩み寄る。子猫のすぐ傍まで来た時、ようやく視界が良好になり見たくもないものをその眼に映した。

 子猫の腹に、一本の矢が刺さっている。血が溢れ、子猫の身体を濡らしていた。まだ微かに息があった。しかし、子猫は薄く開いた瞼の奥にある瞳を僅かに動かし異形を見ると、すぐに瞼を閉じてしまった。異形が幾ら呼びかけ揺さぶっても、子猫は答えなかった。小さな身体に刺さった矢が異様に大きく見える。


 死んでしまった。

 その事実が頭を過り、異形はその場に膝を突いた。

 数人の人間がここぞとばかりに剣で異形を切り、刺し貫く。

 それでも異形には効果が無く、また異形もそんな事は眼中になかった。

 異形は子猫に刺さった矢を震える手で掴む。


『痛いけど、我慢してね』


 そう言うと矢を引き抜く。当然のように子猫が反応を示す事はなかった。


『我慢強いんだね。凄いよ』


 尚も異形は話し続ける。子猫の腹に空いた穴を見て、異形は呟いた。


『穴、塞がないと』


 異形は近くに居た一人の人間の頭部を掴むと、そのまま地面に叩きつけた。骨が砕け肉が潰れる嫌な音が辺りに響く。他の人間が悲鳴を上げ、出鱈目に剣を振り回し異形を切りつける。

 それすら意に返さず、異形は死んだ人間の腹部へ指を突き立てた。いとも容易く鎧を貫き、鍛えられた筋肉質な肉を抉る。ぐちゅぐちゅと水音が鳴り、異形は抉り取った肉を引っ張り出すと子猫の腹の穴に当てがった。


『傷は塞がった? もう大丈夫かな……』


 その光景を見て、一部の人間達は錯乱状態に陥った。武器を捨てて逃げる者や、嘔吐する者。恐怖は伝播し、後方に居た人間もパニック状態になった。

 そうして人間達を追い返すという当初の目的は達成された。しかし、最早異形には関係のない事であった。

 燃える森の中、煙と熱に巻かれて異形は子猫を抱き上げる。

 もう二度と目覚めない子猫を想って――――




あれから数日が経ち、森の延焼も自然と収まった。


「これは、あいつがやったのか……」


 彼がこの場に辿り着いたのはつい先程の事だ。

 彼は頭部の潰れた人間の死体を見て呟いた。既に腐敗が始まっており、虫が集まり酷い悪臭を放っていた。辺りには無数の矢の残骸と数本の剣が転がっている。人間達、異形と子猫の姿は既になく、灰と煤に塗れたこの場所は最早別の世界だ。

 見上げれば青い空が広がり、遠くには立ち上る大量の黒煙が見えた――






 クソッ! どうしてこうなった。たかが化物を一匹狩るだって話だったのに!

 弓も剣も毒も、何も効かないなんて聞いてない!

 悲鳴が聞こえる。街が燃えている。全てあのクソ野郎のせいだ!

 放っておくべきだった! 手を出す必要なんてなかったんだ! ただの噂にしておけばよかったのに!

 仲間の声が聞こえる。嫌だ、死にたくない。

 化物が大事そうに抱えていたものは何だ? あれは腐肉の塊だ。殺された奴らは皆アレの一部になった。友達も、仲間も、民も……女だろうが子供だろうがお構いなしだ!

 ああ、化物がこっちに来る。

 あんなものになりたくない。死ぬならせめて人間のまま死にたい。

 来るな、来ないでくれ……頼む……。

 嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ! 死にたくない止めてくれ!

 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……!


「嫌だ嫌だいやだいや――」


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