1. 見覚えのない始まり
ふと目を開けると、知らない天井が見えた。
「えっ…と?」
状況がわからないまま、ひとまず起き上がろうと肘をついて肩に力を入れると、左の後頭部がつきりと痛む。
「いたたたたた…え、なに、てかここどこ!?」
いつの間に眠っていたんだろう。
突然起こった全く検討もつかない状況に、誰に聞くでもない一人言が増える。
けれど、何も分からないのに声を出してもいい場所なのかとやっと思い至って、慌てて口を閉じた。
ひとまず上半身だけ起こした状態で、頭が痛いのでキョロキョロとはできず、ゆっくりと自分と辺りを見回す。
パッと見は入院着のような白い薄手の服を着ていて、起き上がったから少しずり落ちているけれど、フカフカの掛け布団を被っていたようだ。自宅では無地の布団カバーに入れていた筈だけれど、なんだか細かい花の刺繍が入っている。
ベッドも私のものより随分と乙女らしい装飾が彫られているし、天井も壁も薄いティファニーブルーで、隅には白い花柄が描かれている。
クローゼットやテーブルも見えるけれど、どれもベッドや壁紙と同じようなテイストで統一されている。
吊り下がっている小さめのシャンデリアのようなものには、本物の蝋燭が刺さっているような。今は窓から入る陽の光で必要はないけれど、一見して他に照明はない。
とりあえず。
とりあえず、私の趣味よりも随分と可愛らしい、中世ヨーロッパのお城――とまではいかなくても、良いとこの家のような部屋だ。
何が起こってここにいるのかはわからないけれど、ひとまず全く見覚えのない家のベッドに寝ていたらしい。
いや、そんなことある?
部屋の中には誰もいないように見えるけれど、一応声は出さないまま自問する。
だって、どうしたってこんな状況、こんなモノローグ。
小説や漫画なんかで、見たことがある気がする。
頭がズキズキと痛んで、言いようのない焦燥感に駆られる。
だって。さっきから目に入る自分の手がやけに白くて細い気がするのも、耳に聞こえた声がいつもより高い気がしたのも、全くの気のせいに決まっている。
目が覚めるまでのことはまだよく思い出せないけれど、例えば外で急に倒れて、知らない誰かに拾ってもらったとか――できれば救急車を呼んでもらいたかったけれど。
あるいは道で攫われて、知らない土地に売り飛ばされたとか――今は異常に待遇が良いだけで、起きたと知られたら強制労働させられるとか。
でなければ、現実逃避願望なんてなかった筈なのに、変な夢でも見ているのかもしれない。
じゃなきゃこんなこと――
ガチャリ。
扉の方で控えめな音がした。
瞬間、何が起こるのか怖くなって、慌てて布団を被って顔までベッドに潜る。
「イライザ?」
私よりいくらか年上に感じる女性の声がする。
どう考えても女性の人名で、どう考えても私の方を向いて話しかけたように感じるけれど。
いや、まさか。
部屋の中には私しかいない筈だけれど、私は決してイライザなんて英米圏ぽい名前ではない。
それ以前に、何も思い出せないとはいえ、知らない女性に名前を教えた覚えもない。
誰か違う人を、どういうタイミングかで呼んだだけだと信じたい。
けれど、見えないまでも確実に、布の擦れる音とヒールの音がこちらに近付いてくるように聞こえる。
というか、そもそもこんな隠れ方をするより、誰かわからない人が近付いてくるなら逃げた方が良かったのかもしれない。こうなれば今更、逆に狸寝入りをするしかないのだけれど。
「まだ眠っているのかしら…イライザ?」
とうとうベッドの前に立った気配がしたかと思うと、私にかかっている布団に軽く手を置いて、彼女は話しかけてきた。
もうこれは、確実に、私に。
「…あー」
だとすれば、ここで狸寝入りし続けたところで、何も進まないんじゃないだろうか。
「えっと、私…」
恐る恐る布団を下げて、彼女を見上げる。
声の印象同じように、私と一回りも変わらないくらいの年齢の、上品そうな顔立ちの女性だった。
ぱちりと一瞬見つめ合った瞳は緑がかった褐色で、私と目が合った瞬間に瞳孔が開くのがよく見えた。
ブリーチに近い明るめの茶髪を後ろで結い上げているようで、肩周りはすっきりとしている。
この部屋のイメージに近いような、小さくフリルの入った略装のような服。
日本も多様性社会だから、まあ。
自分と違う色々な容姿や服装の人がいることには、もちろん全く依存はない。当然。
「まあ、目が覚めたのね!よかった、体は大丈夫?どこも痛くない?頭はたんこぶができていたものね、」
驚いたように肩を震わせた後、一息で心配と気遣いの言葉を投げかけてくる。
頭が痛いとは思っていたけれど、たんこぶができていたのか。
物理的な痛みで、頭痛の類ではなくて安心はするけれど、それはそれでこんなに痛くて脳とか大丈夫だろうか。
こうやって考えている間もずっと話しかけられていて、けれど何と答えたらいいのかわからなくて、曖昧に濁すしかない。
どこの誰かも知らないし、私との関係もわからない。
だけど、私の方が歳が近い筈なのに、なんとなくずっと、母のことを連想させる雰囲気を感じていて。
興奮した状態の彼女にこれを聞いてもいいのか、どう思われるのかという心配はありつつも、さっきと同じ。
ここで濁しても、前には進めない気がするから。
「ごめんなさい、私、何も覚えてないんです!」
この時、思い切って告げた言葉が。
私の、イライザ・ハーヴェイとしての、第2の人生の始まりだった。