0. 既知感
「ねえ聞いた?フィン王子が来月、遊学から帰ってこられるって話」
それは、カフェテリアでの他愛もない会話の一つだった。
「フィン王子って、第二王子の?ヒュー王子なら拝見したことがあるんだけれど、どんな方なの?」
1年前からの記憶しかない私には、名前を聞いたことがあるくらいの覚えしかない。
第一王子は去年の暮れに参加した晩餐会で、遠目に金髪の王子然とした風貌を見たけれど。第二王子は3年ほど前から隣国に遊学中だったらしく、これまで全く話題にも上がっていなかった。
そもそも王子様なんてうちの家格からは手の届かない存在で、話題にする必要すらない方だったし。
みんながキャッキャ騒ぐのを聞きながら、そんなに大した話なのかしらと尋ねてみると、一瞬場が静まり返った。
「イライザ、あなた本当にそういうところよ」
「もちろんお相手なんて、私たちより遥かに家柄の良い方々から選ばれるでしょうけれど、それでも興味は湧くものじゃない?」
「フィン王子といえば、他国にも名の通る絶世の美男子なのよ」
畳み掛けるように言われても、知らないものは知らないんだから仕方ない。
家庭教師にもお母様にも聞かなかったら、寄宿学校に入るまで私の知識の元はないようなもの。
なんて思っている間にも、フィン王子の、主に顔面の素晴らしさが語られ続ける――結局、スゴく顔が良いというだけの話なんだろうか。
「ただ、女性は寄せ付けないような鋭さがあるらしくて、なかなか婚約者も決まらないみたいね」
やっと顔以外の話題が出たと思えば、意外な話だった。
王子ともなれば、本人の意思によらず政略結婚させられるものだと思うけれど。
そもそも3年前の遊学も、そういった話から逃げるように出て行ったらしいという噂だったとか――それでも帰ってくるのだから、いずれにせよ腹を括ったのだろうか。
この国では、王族だろうと17歳まではこの寄宿学校に通うから、帰ってくるなら一学年上に入ることになるはずで。
ただでさえ女子は良い相手を見つけるのに必死なのに、婚約者もいない第二王子なんて入学してきたら、こんな噂話の比ではなく、学校全体がえらいことになりそうだ。
まあ、男爵令嬢の私には関係ないけれど。
「だから、リアムだって言ってるだろ」
何回聞けば覚えられるんだ、と大きな息を吐きながら呆れられる。
母親同士が学生時代からの友人だということで、セオとは幼馴染として小さな頃から仲良くしてもらっている――といっても、私とは去年からの仲なわけだけれど。
彼の遠縁の親戚で仲良くしているという友達の話も、今まで何度も聞いていたのだけれど、何故かその名前だけは、なんとなく覚えられないでいた。
「リアム・エヴァンスだよ。領地が西の果てだから、次の休暇は帰らないでうちに泊まるんだって言ったと思うけど」
流石にフルネームで聞けば、聞き覚えもある名前だった。
休暇の話をした時に、そんな話を聞いたような。
「西の果てって…うちだって2、3日はかかるんだけど」
何度も聞いた引け目もあって、名前のことは流しつつも、果てなんてあまりの言い様にじとりと見る。
うちは北側だけれど、首都からならそれくらいはかかってしまうもの。
「いや、ほとんど西の国境だから馬車でも片道一週間以上はかかるし、方言もあっち寄りで結構キツいんだよ。話せばわかると思うけど」
そんな私に、セオはなんでもない様子で返す。
今まで首都近くで暮らす人としか話してこなかったから、この国に方言があるということも、この学校に来て初めて知った。
国境付近の領地なら、確かに隣国の言葉と混ざってしまうものなのかもしれない。
とはいえ、セオとはクラスが違うせいで、彼と話すことはあっても、他の人と話している姿を見ることは少なくて。
機会はあってもおかしくないのだけれど、そもそもエヴァンス様を見たことも話をしたこともない。そう考えると、名前にも話にもピンと来ないのも、仕方ない気もした。
「そっか。セオのお友達なら、私も機会があればお話したいわ」
今だけは、折角色んな人と関わることができるんだもの。
機会があればとお願いすると、セオは少しだけ目を瞬かるようにしてから「まあ、そのうちな」と笑った。
そう。
なんだか、名前を聞いたことがあるような気はしていたんだけれど、どこかで誰かに聞いたせいなんだろうなと、特に気にも留めていなかった。
南の海で突然起こった大きな嵐で、国を挙げて新天地の探索に送り出した船が沈んだことも。
それと入れ替わるように海から飛来した大量の虫が、南部の農村部を食い荒らして穀物畑が荒地に変わっていったことも。
隣国から広がったといわれる原因不明の疫病が、東部一帯に蔓延していることも。
国の北西の山々を覆う永久凍土が溶けだして、白い山脈が剥き出しの岩肌を見せているということも。
何もかも、どこかの歴史で聞いたことがあるせいだと。
「『星詠の神子』って言った?」
朝、教室に入るなり言われた言葉を聞き返しながら。
これは聞いたことがないけれど知っていると、頭の中で静かに警鐘が鳴っていた。
「そうなの、最近起こっている厄災を鎮めてくれるはずだって、神殿が探してきたんだって!」
「おとぎ話の中だけだと思ってたけど、本当にいるのね」
多神教の国なので、絶対神のある宗教ほど信心深い人は少ないけれど、それでも小さい頃に絵本で読んだという神子の話に、みんなが興奮して騒いでいる。
イライザもきっと、絵本で読み聞かせられてはいたのだろうけれど――当然そんな昔の記憶を、私が知るはずもない。
だけど、聞いたことがあった。
それは私が、イライザ・ハーヴェイになる前のこと。