第二話
ソフィーネは夢を見ていた。
幼い頃の夢だった。
まだ両親がいて、たくさんの使用人がいて、多くの人々から愛情をたっぷり注がれている幸せだった日々の記憶。
母はソフィーネに言った。
「どんな時でも笑顔を絶やさず前向きでいなさい。笑顔で前を向いていれば、向こうから幸せがやってくるわ」
それが母の口癖だった。
どうして忘れていたのだろう。
ソフィーネはそんな母に言いたいことがたくさんあったが、声が出なかった。
そんなソフィーネを母が優しく抱きしめる。
声は出せなかったが、彼女にはそれだけで十分だった。
(ありがとう、お母様)
両親が死んでから、初めて心が安らいだ気がした。
パチッと目を開けてソフィーネはギョッとした。
気付けば見知らぬ寝室の見知らぬベッドで寝かされている。
(なに? どういうこと?)
慌ててベッドから起き上がる。
見れば綺麗な服に着替えさせられていた。
そしてその脇には、ビリビリに破かれていたはずのドレスが元の状態のまま直されて壁に吊り下げられていた。
(すごい、ドレスまで元通りになってる……)
ベッドから足を下ろすと、ふかふかの絨毯が素足に気持ちよく吸い付いた。
かなり高級そうな部屋だった。
よく見るとベッドもキングサイズでかなり上質である。
(ここ、どこ?)
そう思っていると、一人の女性がソフィーネに話しかけてきた。
「気が付かれましたか?」
メイド服を着た女性だった。
優しそうな瞳をしている。
彼女は裁縫の途中だったのか、手にした服を横に置くとソフィーネに言った。
「少々お待ちくださいませ。今、旦那様をお呼びいたしますから」
そう言って出て行くメイド。
ほどなくして二人の男性がソフィーネの前に姿をあらわした。
「おお! 目が覚めましたか!」
「ああ、よかった」
人懐っこそうな中年の男性と、目を見張るような金色の髪をした青年だった。
中年の男性はソフィーネの手を取ると、心配そうな顔で尋ねた。
「怪我はしておりませんか? どこか痛いところは?」
ソフィーネは何が何やらわからず、とりあえず首を振った。
「いえ……。痛いところは特に……」
「本当にもう、皇太子殿……んんっ! リチャード様が無理やり欄干から引きずり下ろしたものですから、頭でも打ったのではないかと心配しましたよ」
「飛び込む寸前だったのだから仕方なかろう」
金髪の青年がムスッとして答える。
しかしソフィーネに顔を向けると優しい笑みで問いかけた。
「にしても、大丈夫かい? ずいぶん思いつめたような顔をしていたけど」
ソフィーネは目を見張った。
こんなに整った顔をした男性は見たことがない。
今まで出席したパーティーでも、女性たちが騒ぐ美男子は数多くいた。
けれども、今目の前にいる青年は彼らの比ではないくらい美しかった。
「は、はい、大丈夫です……」
そう答えるソフィーネに、中年の男性が眉をひそめて青年に言った。
「リチャード様、大丈夫なはずはございますまい。橋から飛び降りようとしていたのですぞ?」
「ああ、それもそうだな。君、何があったか差し支えなければ教えてもらえないだろうか」
青年のどこか威風堂々とした凛とした言葉に、ソフィーネは抵抗することもできず、今までのいきさつを語り出した。
両親が他界してシューベル男爵のもとに引き取られたこと。
そこでは奴隷のような毎日を送らされていたこと。
パーティーの帰りに義理の妹の手引きで犯されそうになったこと。
すべてを語り終えると、人のよさそうな中年男性はハンカチを取り出して「ううう、なんとむごい」と涙をふいていた。
対する青年は、ソフィーネの言葉を聞いてすぐに人を呼び、それが事実かどうかを確認するように命じた。
(この人たちはいったい何者なんだろう)
ソフィーネは改めて彼らを見つめる。
どう見ても普通の市民ではない。
けれども、貴族のパーティーでは見たことがない。
もしもこんな美男子が参加していたら、それこそ大騒ぎになっているはずだ。
「あ、あの……」
ソフィーネは思わず声をかけた。
「ん?」
吸い込まれそうになる綺麗な瞳に、ソフィーネはドギマギしながら頭を下げた。
「お、お礼を言うのが遅くなりました。助けてくださってありがとうございました」
「いや、助けられてよかったよ。死なずにすんでくれてありがとう」
ニコッとほほ笑む青年に、ソフィーネは(なんていい人なんだろう)と思った。
「それよりも、もう帰るところがないんだろう? しばらくここに滞在するといい。このトンプスキン・ダンベルはこの国で一番の金持ちだから、いつまででもいていいよ」
トンプスキンと紹介された中年の男性は「ちょっと殿下、また勝手に」と慌てふためいた。
「殿下?」
ソフィーネが眉を寄せる。
トンプスキンはさらに慌てふためいた。
「あ! いや! えーと……殿下ーじゃなくて、カーディガン! カーディガンでもいかがですかな? お寒いでしょう」
そう言って侍女にカーディガンを用意させる。
特に寒くはなかったが、ソフィーネはその厚意に甘えた。
そんな彼の行動に、青年は「クックックッ」と楽しそうに笑う。
「そういえば自己紹介がまだだったね。僕はリチャード。見ての通り普通の市民だよ」
どう見ても普通の市民ではなかったが、聞くに聞けない雰囲気だった。
「初めまして。私はソフィーネと申します」
「この屋敷は僕の別荘といったところかな」
人懐っこい笑顔でそう言うと、すかさずトンプスキンが訂正した。
「わ・た・しの屋敷です」
「いいじゃないか、僕の別荘って言っても」
「勝手に自分のモノにしないでください」
そんな二人のやりとりを見て、ソフィーネは思わずプッと笑った。
「クスクスクス」
彼女が笑ったことで、ようやくトンプスキンもリチャードも顔を見合わせて笑みを浮かべた。
「よかった、ようやく笑ってくれたね」
「ありがとうございます、リチャード様。トンプスキン様」
ソフィーネは心から感謝した。
こうやって心から笑ったのはいつぶりだろう。
「安心しましたぞ。先程までこの世の終わりのような顔をしておられましたからな。リチャード様がおっしゃってたように、しばらくこちらに滞在してください」
「あれ? やっぱりよかったんじゃないか」
「リチャード様が勝手に決めるのがよくないのです!」
リチャードとトンプスキンのやり取りを見て、ソフィーネはまたクスクスと笑ったのだった。
※
その日から、ソフィーネはトンプスキンの屋敷に滞在することになった。
トンプスキンの屋敷は本当に大きく、シューベル男爵の屋敷の何倍もの広さがあった。
後で知った事だが、トンプスキンは貴族ではなく商人らしい。
どうりでパーティーでも見たことがないと思った。
しかしこれが貴族ではなく商人の屋敷だとは到底思えなかった。
あまりに大きい。
商人ともなればこんなに大きな屋敷を持てるのだろうか。
トンプスキン含め屋敷の使用人は皆親切で優しかった。
そして時折リチャードが来てはソフィーネの話し相手をしてくれた。
いつもいそいそと来てはいそいそと帰って行く。
普段、何をしている人物なのかソフィーネにはまったくわからなかったが、彼の優しさだけは本物だと思えた。
このまま居候するのも気が引けたソフィーネは、トンプスキンに頼んで屋敷内の家事全般をやらせてもらった。
シューベル男爵の屋敷で毎日奴隷のように働かされていたため、その手際はよく、多くの使用人たちが驚いた。
「ほら、こうすればこちらを片付けてる間にこちらもできるでしょう?」
「本当だ! これなら無駄な時間が短縮できますね!」
その結果、屋敷内の作業効率は飛躍的に上がり、ソフィーネは屋敷の使用人たちから尊敬されるほどになった。
料理の腕も完璧で、普段シューベル男爵たちは何も言わずにソフィーネの作った料理を食べていたが、トンプスキン以下屋敷の者たちは皆一様に「美味しい」と言って彼女の料理を褒め称えた。
「さすがはソフィーネ様。これはお店を開くレベルです!」
「ふふ、喜んでもらえてよかった」
「これで普段の食費を3分の2に抑えてるなんて信じられません!」
「どんな魔法を使ったのですか?」
ことここに至って、ソフィーネが男爵令嬢だと知った使用人たちは、まったく偉ぶらないソフィーネをより一層尊敬するようになった。
「ソフィーネ様、ずっとここにいてください!」
そう懇願してくる者までいた。
しかしソフィーネは気がかりだった。
あの逃げ出した晩から3週間。
シューベル男爵はどう思っているのだろう。
アリッサもサリーも怒っているに違いない。
もしかしたら制裁を加えようと血眼になって探し回っているかもしれない。
彼らに捕まった時のことを想像して、ソフィーネは身体を震わせた。
トンプスキン家がいくら裕福であろうとも、貴族には逆らえない。
特にシューベル男爵は下の者を見下すことで有名だ。
自分をかくまっていることがバレたらただではすまないだろう。
けれどもトンプスキンは「大丈夫ですよ」と笑い飛ばしていた。
それがソフィーネにはかえって不安だった。
そんなある日のこと。
数日ぶりにリチャードがやってきた。
「やあソフィーネ。元気かい」
「リチャード様、ごきげん麗しゅう」
スッと頭を下げるソフィーネ。
彼はアハハと笑いながら手を振った。
「そんな固い挨拶はやめてくれっていつも言ってるだろう? 僕がそういうの苦手だって知ってるくせに」
「うふふ、そうでしたわね」
何度か会話をするうちに親しくなったソフィーネは、次第に彼が来るのが待ち遠しくなっていた。
誰もが振り向くほどの美青年。
しかしその心は無邪気で幼く可愛らしい。
そんな彼が、今日は身なりの良い一人の男を引き連れている。
「実は今日、君に話があって来たんだ。どこかで話せないかな? もちろんトンプスキンも一緒に」
「わたくしに?」
「大事な話だ」
応接室に通されたソフィーネは、リチャードとトンプスキン、そしてもう一人の男と向かい合って座らされていた。
「い、いったいなんですの? わたくしにお話というのは……」
言いながらソフィーネは内心緊張していた。
まさかシューベル男爵が自分の居場所を嗅ぎつけたのではないだろうか。
それでリチャードやトンプスキンに私をかえせと圧力をかけてきたのではないか。
だとしたら自分はもうここにはいられない。
楽しくて幸せだったここの生活も終わってしまう。
すっかり青ざめた顔をしたソフィーネを見て、リチャードは言った。
「ああ、大丈夫。安心して。君が想像してるようなことじゃないから」
「え?」
「実は今日連れてきたこの人、王家御用達の弁護士さん」
「お、王家?」
王家とはあの王家だろうか。
それともオウという名の有名な金持ちなのだろうか。
ソフィーネはわけもわからずリチャードとその男を見比べた。
「以前ソフィーネが言っていたことが事実だったかどうか、調べてもらっていたんだ」
言われてソフィーネは出会った時のことを思い出していた。
シューベル男爵での仕打ちの数々。
パーティー会場で襲われそうになったこと。
逃げる途中、橋の欄干を飛び越えて死のうと考えていた自分。
改めて思いなおすと、目の前のリチャードは本当に命の恩人であり、自分をこの屋敷に住まわせるよう進言してくれた大恩人である。ますます頭が上がらない。
しかし当の本人はそのことなどまったく気にしていない様子だった。
「調査結果を聞いて驚いたよ。本当にその通りだったなんて」
リチャードは憐れみの目を向けてソフィーネに言った。
「むしろもっと悲惨な目にあわされておいででした」
弁護士と紹介された男は、スッと立ち上がると、ソフィーネに名刺を渡した。
「申し遅れました、わたくし王家の弁護団の代表を務めておりますレオ・マクウェルと申します。どうぞお見知りおきを」
名刺を渡されたソフィーネは反射的に立ち上がって名刺を受け取ったが、「はあ」と気の抜けた返事をするしかなかった。
「この度、我が国の皇太子殿下直々の要請で、ソフィーネ様の事情を細かく調べさせていただきました」
ソフィーネはまたも「はあ」と返事をしたものの、聞き捨てならない言葉に目を丸くした。
「えッ!? 皇太子殿下ッ!?」
ほぼほぼ絶叫に近かった。
一瞬、聞き間違いかとも思った。
しかし名刺を見ると確かに王家の烙印が押され、「王家顧問弁護団代表」という肩書がついている。
どういうことだ。
生まれは貴族だが、両親の死後シューベル男爵の養女となった自分に王家との接点はないはずだ。
名刺を見ながら混乱していると、レオと名乗った弁護士は呆れた表情で楽しそうに笑っているリチャードに顔を向けた。
「まさか、いまだに名乗っておられなかったのですか?」
「あはは、だってその方が気兼ねなく会話ができるじゃないか」
「はあ、あなたというお方は……」
まだ状況が飲み込めていないソフィーネに、レオは姿勢を正してリチャードに手を差し出した。
「ソフィーネ様。ご紹介いたします。我が国の皇太子リチャード・ルロイ・フォン・ブラウン殿下です」
「えええッッッ!?」
今度はさすがに腰を抜かした。
まさか、時々やって来ては言葉を交わしていたこの美青年が皇太子殿下。
ソフィーネは開いた口がふさがらなかった。
両親が生きていた頃でさえ、王家とはなんの関りも持っていなかった。
貴族であった父は少なからず接点はあったかもしれない。
しかし当時幼かった上に女だったソフィーネには王族など遠い存在だった。
そんな皇太子殿下が今、目の前にいる。
しかも自分のことを名前で呼んでくれている。
信じられなかった。
言われてみれば、時たま威厳を感じさせる言動があったりもした。
なぜその時に気付かなかったのだろうと思わずにはいられない。
リチャードは「今まで黙っててごめん」と謝りながら、
「ソフィーネとは仲のいい関係でいたかったからさ」
と取ってつけたような言い訳で誤魔化した。
「実はね、このトンプスキンも王家御用達の商人なんだよ。僕が街に出る時に気軽に立ち寄れる場所として、自分の屋敷を開放してくれてるんだ」
「勝手に泊まりに来てるだけでしょう」
トンプスキンがすかさず訂正する。
もうどちらが本当かわからない。
「まあ、つまり。ソフィーネはいつまでもここにいていいってことさ」
「は、はあ」
パクパクと口を動かすソフィーネに、レオはコホンと一つ咳をして言った。
「お話のほうをすすめてもよろしいですかな?」
「あ、は、はい……。ごめんなさい……」
ソフィーネはすぐに襟を正すと、レオに向き直った。
「実はそんなソフィーネ様にひとつ提案があるのです」
「提案?」
「はい。まずは養女となられたシューベル・スターレン男爵家とは絶縁していただきたい」
「ぜ、絶縁?」
要するにスターレン家からの解放である。
しかし他に身寄りのない彼女にとってその選択肢は今までにないものだった。
「でも私には他に頼れる親族は……」
「このダンベル家の養女、つまりトンプスキン様の娘となられたらいい」
「えッ!?」
寝耳に水だった。
しかしそれは願ってもない事だった。
貴族の肩書は失うが、スターレン家で毎日奴隷のように過ごすよりは断然いい。
「で、でもいいのですか?」
「今まで滞在されてわかったかと思いますが、トンプスキン様は独身でして家族がいらっしゃらないのでございます。トンプスキン様がサインをすれば、すぐにでも養女となられます」
「私もソフィーネ様みたいな娘なら大歓迎ですぞ」
日頃の彼女の行いを見ている分、むしろトンプスキンのほうが乗り気だった。
「ソフィーネ、どうかお父様と呼んでおくれ」
「気が早いんだよ、トンプスキン」
二人のやりとりを見て、ソフィーネは夢を見ているみたいだった。
こんな自分を娘にしたいと言ってくれる人がいる。
それが嬉しくてたまらなかった。
レオはさらに大きく咳をすると、仰々しく言った。
「そしてここからが本題です。ソフィーネ様を皇太子殿下の婚約者として迎え入れたく存じます」