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「ごちそうさまです」
光里が夕食を残さず平らげて、すでに洗い物を始めている僕のもとに空いたお皿を持ってきてくれた。光里は勉強会もといゲーム対戦会が終わって自室に戻ったあと、次に会った時には部屋着になっていた。やはり、私服でいるのは窮屈だったらしい。
僕は光里からお皿を受け取ると、自室に戻る前に呼び止めようとする。けれど、何故か光里は台所から出ていくとダイニングテーブルの席に座り、仕切り越しに洗い物をする僕の方を見ていた。いつもなら食べ終われば居間でテレビを見るか自室に戻るのだけれど、今はなにをするでもなく所在なさそうに足を揺らしている。
光里は僕に用があるのだろうか。それなら僕も光里に用があったので都合が良い。手早く洗い物を済ますと、軽く手を拭いてから光里と対面するようにダイニングテーブルの席に座った。
「なにか用でもあった?」
声を掛けられた光里は観察するように僕の顔を眺めると、ゆっくりと口を開いた。
「兄さん、八代さんと二人で食べたお菓子はそんなに美味しかったんですか?」
言われた瞬間、僕は表情が固まり身を強張らせてしまった。それでも傍目から見れば僕の動揺がわかるほどではなかっただろう。八代が帰った後でも僕は油断していなかった。八代と一緒に遊んでいる間は光里は追及してこないと思っていたからだ。指摘されるとすれば、夕食が終わった今がいい頃合いだろう。そう身構えていても、実際に言葉にされると全くの平常心とはいかなかった。
「……なんのこと? マカロンなら光里も食べたよね」
それでも僕は素知らぬ顔をして誤魔化そうとする。想定していたより具体的だった指摘に、もはや言い逃れができないほど見抜かれているとわかっていながら。しかし、一度始めたからには社会的儀礼にのっとり最後まで犯人役として立ち回るべきだろう。
僕の見え透いた演技を見ても光里は表情一つ変えずに続ける。
「マカロンじゃないです。その前になにか食べてますよね」
一体なにが原因でバレてしまったのか。確かに時間制限があって満足に証拠隠滅できたとは思わない。けれど、仮になにか証拠があったとしてもわかるものだろうか。さすがに存在を知らなかったはずのタルトに辿り着くような要因などなかったようにしか思えない。
「どうしてそう思うの?」
光里は揺らしていた足の動きを止める。
「兄さんが嘘をついていたからです」
「嘘?」
嘘をついていないといえば嘘になる。しかし、それは僕の発言や行動に不自然な点がなければわからないはずだ。とはいえ数時間も遊んでいればどこかで手落ちがあってもおかしくない。どのタイミングで犯したミスが光里に真実まで辿り着かせたというのか。
「エアコンをつけないで勉強をしていたのかと聞いたとき、兄さんはそうだと答えました。それが嘘です。エアコンは私が来る前に消したんですよね」
まさかの最初の会話だった。いや、それでもそれが嘘だと気付く経緯があったはず。思い返している僕をよそに光里は続ける。
「八代さんから貰ったチョコマカロンを食べたとき違和感がありました。いくら風で涼しいといっても、それは体感温度の話です。夏の常温の元で放置していればクリームが緩んでいてもおかしくないです。ただ、そのときは疑問に思っていただけでした」
光里がひとつめのマカロンを食べていたときの様子を思い出す。そういえばマカロンを半分ほど食べたあとクリームを気にしていた。
「ですが、私が八代さんに対戦ゲームで負けたあとのことです。八代さんは麦茶を飲もうとコップを取りました。そして結露した水滴が手について、兄さんに拭くものを借りていました」
「そうだね。思ったより水滴がすごくてタオルを貸してあげた」
「そこで兄さんが嘘をついていたと気付いたんです」
言われて僕は首を傾げる。元々はエアコンがきいていたからコップに水滴はついていなかった。しかし、換気をしたことで冷たいコップに湿度の高い夏の空気が触れて結露が起きた。光里にとっては初めからエアコンはついていない認識だったはずなので、それはなにもおかしな点にはならないはずだ。
「氷の入ったコップが結露しててもおかしくないよね?」
「そこじゃないです。拭くものを借りたってところです。二人はあのテーブルで勉強してたんですよね。教科書とノートが置いてありました。勉強するのに不都合にはならなかったんですか?」
……あぁ、しまった。それは思いついていなかった。確かにあのタイミングで八代がタオルを借りるのはおかしい。結露したコップを持てば当然手は濡れる。濡れた手で紙の教科書やノートを触ることはないだろう。エアコンがついていなかったことにするのなら、テーブルに拭くものを用意しておかなければならなかったのだ。とはいえ、あの限られた時間の中でそこまで考え付くのは僕には難しかったと思う。
適当な言い訳が思いつかずに言葉が出ない僕を横目に光里は更に続ける。
「エアコンがついていたのなら、拭くものの用意がなかったのもクリームが緩んでいなかったのもわかります。間違いなく嘘をついているなと思いました。そして嘘をつくのは大抵の場合なにかを隠したいからです。では、なにを隠したかったのか。そのヒントは八代さんの発言でした」
八代は光里の観察力や推理力の高さを知らない。黙っていればバレることはないと思っていただろう。とはいえ、僕より真剣ではなかったにしても隠蔽には協力してくれていた。タルトに繋がるような発言はしていなかったように思えたけれど。
「元々八代さんの言っていたことに違和感はありました。最初は気にしていませんでしたけど、なにかを隠しているとわかったら、その違和感が兄さんの嘘と繋がりました」
「なにか言ってたっけ?」
「私がマカロンを見ていたら食べていいって言ってくれたんです。私の為にもと思って買ってきてくれたそうです。いい人です」
「あぁ見えて意外と気を遣うんだよ」
「ですけど私が居間に来たのも一緒にゲームをしたのも偶然だったはずです。それなのにマカロンが用意されていました」
そういえばそんな会話をしていた。僕たちがタルトを食べてしまったので、光里に渡せるのはマカロンだけになってしまった。八代からしてみれば手土産を渡す絶好のタイミングだったのだろう。
「つまりあのマカロンは二人の分として用意されていたはずです。それなのに二人ともあまり食べようとしてませんでした。ほとんど私が食べてましたよね」
僕と八代はタルトを食べたあとだったので、あの量のマカロンを食べる余裕はなかった。八代にはもう少し余裕はあっただろうけど舌に合わなかったため食べるのをやめてしまった。間食として用意したはずのマカロンを食べようとしない僕たちを見て光里が違和感を抱くのも当然だ。
「変だなと思っていたところで兄さんの嘘に気付きました。それで何故エアコンをつけていたのを私に隠していたのか考えました。エアコン至上主義の私につけていたことを隠す必要はないはずです」
光里の部屋に入った時のことを思い出す。夏とは思えない程の冷気の中で光里は気持ちよさそうに寝ていた。今更ながらあの寒さの中で無防備に寝てるのは心配になってきた。
「お腹が冷えるからほどほどにしてね」
僕の心配は果たして届いたのか、光里はそれには全く反応してくれなかった。
「隠さないと不都合だったから消したのでしょう。どんな状況ならエアコンがついていると都合が悪いのか。それは窓を開けなければいけない事情ができた場合です」
いつもは解決に導いてもらっている側だから、光里が真実を暴く様子を感嘆としながら見ているだけだった。けれど、こうして暴かれる側になると受ける印象は違ってくる。当時の僕の行動を見てきたかのように言い当てる姿は、その小さな体に似合わぬ重圧感すら感じさせる。探偵役に追い詰められる犯人たちは皆こういう気持ちなのだろうか。
「窓を開ける理由なんて換気以外にないです。換気をしなければいけなくなった要因こそが兄さんが本当に隠したかったものです」
「うーん、どうだろうね」
僕はわざとらしくとぼける。言い返そうにも特に文句のつけるところが見当たらなかったのだ。
「まず自分たちの為に用意したマカロンを食べようとしなかった理由です。用意した以上はお腹が減っていなかったということはないでしょう。他になにかを食べたのか、もしくはよっぽど口に合わなかったか……でもマカロン美味しかったです。二人とも口に合わないって考えにくいです。むしろ兄さんは好きそうです。なので、すでになにかを食べてお腹が満たされていたと考えました」
さすがにこれまで一緒に色んなお菓子を食べてきただけあって僕の好みは誤魔化せない。間違いなくあのマカロンは美味しかった。お腹が膨れていた状態で食べても美味しく感じるほどに。
「次に換気をした理由です。換気は悪くなった空気の入れ替えをする為にするものですが、籠ったニオイを消す為にもします。勉強の区切りに空気の入れ替えでもしているのだと思いましたけど、兄さんが嘘をついたとなれば話は別です。空気を入れ替えるだけなら嘘をつく必要はないです。それなら、なにかのニオイを消す為に換気をしていたのではないかと思いました」
まさか八代にタオルを貸しただけで、ここまで結び付けられるとは思わなかった。けれど、言われてみれば確かに換気をしてただけと伝えればよかったのだと思える。エアコンをつけないで勉強をしていたことにする必要はなかった。
「それらを合わせて考えれば、こういう結論になります。私が来る前になにかを食べていて部屋にニオイが残ってしまった。そのなにかを私に勘づかれたくなくて換気をしていた」
長々と喋っているからか、光里は乾いた唇を舐めて湿らせる。
「そのなにかはマカロンと一緒に用意されたものです。同じ洋菓子で食べ応えのあるものだったでしょうから、それはケーキの類だったのだと思います。でも換気しなければいけないほどニオイのあるケーキって思いつかないです。となれば兄さんのことだからケーキに合わせてコーヒーでも出したんじゃないですか? ケーキに合わせてコーヒーを飲んだはいいものの、ケーキの存在は隠さなければいけなくなりました。そして大量のマカロンに対して減りすぎたコーヒーだけが残ってしまった。私がそれを見たら勘づくかもしれない。兄さんはそう思って、コーヒーも無かったことにしようとしたんです。ニオイも一緒に」
テレビもついていない居間は静まり返っていて、時計の秒針の音だけが響いていた。それが裁判の判決を言い渡されるまでのカウントダウンのように聞こえてくる。
「でも、それは私に隠す理由にはならないです。二人で八代さんが持ってきたケーキを食べただけの話です。私に後ろめたい事情があったからこそ隠すことにしたはずです。そこで思い出しました。八代さんは『私のためにも』買ってきてくれたのだと」
光里は両腕を組んでテーブルの上に乗せた。前かがみになりながら僕の顔を覗くと、動きに合わせて長くて綺麗な黒髪がさらりと流れた。
「八代さんは兄さんと私のために二人分のケーキを買ってきたんじゃないですか? でも間違えて二人で私の分のケーキも食べてしまった。それが兄さんの隠したかったことじゃないですか?」
そこまで言い当てられてしまえば、とぼけるのはもう見苦しいだけだ。僕は素直に負けを認めた。
「いや、参った。降参だよ。さすが光里だね」
「なんとなくピンときただけです。でも、そういうことだと確信できることはありました」
本人もよく言うけれど、光里は確固たる証拠を揃えて真実を突き詰めているわけではない。推論を重ねた結果、最もありえそうな可能性をあげているだけだ。光里はそれを『妄想』だと表現することもある。それでも筋道の立った『妄想』は、偶然というにはあまりにも高い精度で真実を突き止める。
「最初に食べたマカロンと最後に食べたものでクリームの状態が変わっていませんでした。やはり室温の変化はほとんどなかった、つまり私が来る前はエアコンがついていたのだなと思いました」
「そうだね。光里がゲーム機の持ってきてくれる少し前に慌てて窓を開けたんだ」
換気を始めてから再びエアコンをつけるまでは十分もなかっただろう。さすがにそのくらい放置した程度ではチョコが溶けはしなかったらしい。
「もし私がゲーム機を持っていくことにならなければ、私は居間に行くことはありませんでした。それなのに兄さんはマカロンは出しているので全部と言ってました。それで私の分も間違えて食べてしまったのだとわかりました」
あらかじめ光里の分も含めての手土産だとわかっていれば、マカロンを取り分けて保存していただろう。確かに、あの場で全てのマカロンを出していると言ったのは失敗だった。光里の分もあるとは知らなかったと言っているようなものだ。
「そして八代さんは甘いものは得意じゃないそうです。それなのに随分甘いものを用意したなと思っていたんです。元々は八代さんの分はなくて、兄さんと私に買ってきたものだったんですね。だからケーキはふたつしかなかった」
「まさか勉強しに来るのに光里の分の手土産を用意してるとは思わなかったんだ。だから僕と八代の分だと思ったんだよ」
「ちなみに食べたのってなんだったんですか?」
光里は興味ありげに聞いてくる。あのマカロンの出来の良さだ。本命であったはずのケーキが気になるのだろう。
「ベリーのタルトだよ。ケーキ屋でアルバイトしてる八代のお姉さんが選んでくれたんだ。八代も中身を知らなかったものだから、ちょっとした行き違いでふたつしかなかったタルトを三人分あると勘違いして食べちゃったんだ」
言いながら僕は席を立つ。全くもって光里の能力には驚かされる。けれど、僕も伊達にこれまでの人生で光里の兄をやってきたわけではない。光里が僕の不十分で不慣れな偽装工作など見抜くことはわかっていた。それでも凄いことだと思うけれど、想定していた通りの凄さだ。想定以上ではない。
僕は台所に行って冷蔵庫から例の物を取り出した。大きなお皿の上に乗っているステンレス製の円型の筒。光沢の強い銀色が照明の光を眩しいほどに反射している。
それを持ってダイニングテーブルまで戻ってくると、光里の前に先ほどまでは無かった白い包みが置いてあった。
「それはなに?」
僕は言いながらテーブルの上に例の物を置いた。
「後からならなんとでも言えますからね」
光里はそう言って白い包みを指先で軽く弾いている。
僕の問いに対してなんの答えにもなっていない返答に思わず首を傾げる。
「どういうこと?」
「そもそも兄さんは何故私にこんな嘘をついたのか」
今更なにを言っているのだろうか。嘘をついた理由なんて、今しがた光里が言い当てたばかりだというのに。
「光里のケーキを間違って食べたのを誤魔化す為だけど」
「……本当に誤魔化したいなら、もっと簡単な方法がありました。タルトもマカロンも、最初から私の分なんて無かったことにしていればよかったんです」
光里の言葉に、僕は思わず口を閉ざした。
「その方が自然じゃないですか。会ったこともない人が私の分もケーキを買ってきてくれるなんて考えませんよ。兄さんもそう思ったって言いましたよね」
半開きの目から覗く大きな黒い瞳。それは今、僕を真っ直ぐに捉えている。
「それか正直に言ってくれても良かったです。『ごめん、間違えて食べてしまった』と。私とは関係ない、兄さんの友人からの貰い物です。それで私が怒ったりするわけないじゃないですか」
いや、それはどうだろう。甘いもの以外なら素直に頷けたけれど、甘いものに関しては怒るまでとはいかなくとも拗ねるくらいはしてもおかしくない。
光里はそんな考えを読んだかのように、なにか言いたげな視線を僕に送る。僕は咳払いをしてそれを誤魔化した。
「兄さん、私に見抜かれるとわかって嘘をつきましたね?」
喉の奥になにかが詰まったように息が止まる。それでも振り絞るようにして声を出した。
「まさか、なんでそんなことするのさ」
光里はじろりと机の上に置かれた例の物を見る。そして円型の筒を慎重に取り外した。すると、型通りの形になった白いクリームケーキが姿を現す。
「これはなんですか?」
「ヨーグルトで作ったレアチーズケーキだよ。夕食の仕込みをする時に食材が余ってたから作ってみたんだ」
僕がゲームを中断して夕食の仕込みをした理由はこれを作る為だった。あの時、これの材料であるヨーグルトと生クリームを冷蔵庫から取り出そうとしていたら光里が現れた。それらを取り出す姿を見られていたとしたら、光里に夕食の準備をしているわけではないとバレる可能性がある。それを誤魔化す為に今日の夕食はお肉の料理となった。お菓子作りなんてするつもりはない、ヨーグルトは仕込みで必要だったから取り出したと思わせる為に。
「美味しそうですね。……これを私に食べさせたくて嘘をついたんですね?」
「食材が余ったから作ったまでだよ」
僕はさらに嘘をつく。エアコンの件は証拠隠滅するためについた嘘であり副次的なものだった。その嘘の先にタルトを間違えて食べてしまったという真実があって、それを光里に暴かれるまでが僕の予想の範囲内だった。けれど、今光里が言及している内容は予想の範囲を超えている。僕が何故こんな行為に及んだのか、いわば動機についてまで見抜いてしまったというのか。しかし、そんなことが可能なのだろうか。証拠があれば行為の証明はできるけれど、その理由を明かすまではできない。それこそ『妄想』が過ぎるというものだ。
「兄さんは私の分のタルトを食べて罪悪感を覚えたんです。本当は私も食べられるはずだったタルトが、自分の手違いで無くなってしまった。その埋め合わせがこのチーズケーキです」
「いくらなんでも考えすぎだよ。埋め合わせをするなら、それこそ嘘をつく必要なんてないと思うけど」
素直に謝って代わりにケーキを用意したと言えばいい。むしろ、そうしなければ埋め合わせにはならない。僕の失敗を光里に伝えなければ、単純にケーキを作って渡しただけになってしまう。埋め合わせがしたいのに光里が僕の嘘を暴くのが前提だなんて無茶苦茶な話だ。けれど、光里の言葉は間違いなく僕の本心を暴いていた。それがどうにも腑に落ちない。
「兄さんは悪者になりたかったんです。私に糾弾されたかったんです」
「なんでそうなるのさ」
「タルトが美味しかったからです」
本当に、その時の僕の心情を見てきたかのようだ。あの場に光里はいなかったはずなのに、推論で気持ちまではわかるはずはないのに。
「甘いものが好きな私から美味しいタルトを奪ったのを申し訳なく思ったんです。だから嘘をついて私に指摘されて、悪いことをしたと言われたかったんです。そしてこのケーキを食べさせる大義名分を作ったんです」
いつもの光里らしくない説明の仕方だなと思う。光里は確固たる証拠がなくても、そう思わせる根拠の元に推論を組み立てる。けれど、僕の動機に関してはその手の説明が全くない。それなのに的確に真相を突いてこれるのは一体何故なのか。
そして僕は自分が作ったチーズケーキを見て、その答えに気がついた。
「光里、それ今考えたね? 僕がケーキを持ってきたから、そういうことだって思ったんでしょ」
「……」
光里は再び白い包みを指で弾いた。僕の近くまで飛ばされてくると、それがはっきりと視界に映る。その包みはキッチンペーパーだった。
それに僕は思い当たる節があった。まさかと思いながらも包みを開けると、中からデザートフォークが現れる。
「そう言われると思ったから用意しておきました」
さすがに僕は驚きで言葉が詰まった。これは僕が夕食の仕込みと言いつつチーズケーキを作ろうとしていた時に光里が持っていったものだ。つまり、あの時点で僕がお詫びのケーキを作ろうとしていたと読めていたのだ。このフォークは後出しで喋っているわけではないという証拠だ。
「兄さん、もう一度聞きます。二人で食べたタルトはそんなに美味しかったんですか?」
光里は最初と同じ質問を繰り返した。それを聞いて、なるほどと納得した。やはり後出しではなく全てわかった上で聞いていたのだ。タルトを隠していたことではなく、初めから僕が嘘をついた理由について質問していたのだ。
こうも見せつけられては、僕はもう言い訳をする気にはなれなかった。
「……そうだね。すごく美味しかった。是非とも光里にも食べてみてほしかった」
「兄さんがそこまで言うタルト、興味ありますね。……でも今はこれでいいです」
光里はそう言って、精一杯手を伸ばして僕の手からフォークを抜き取ると、チーズケーキを掬って一口食べた。
「美味しいです」
淡々とした口調で言っているけれど、口元が綻んでいる。僕は溜息を吐きながら、肘をついて食べる様子を見守ることにした。
「ねぇ、なんで僕がケーキを作るってわかったの。確かに僕は光里が見抜けるように嘘をついたつもりだった。光里の分のケーキを食べたのを黙ったままでいるのは居心地が悪かったんだ。だけど代わりのケーキを作るのは予想できるものじゃないよね」
「そんなの簡単です」
光里は答えながら咀嚼しているケーキを飲み込んだ。そして僕を真っ直ぐ見つめると得意げな顔で言った。
「生まれてからずっと兄さんの妹してますから。兄さんの考えることなんて手に取るようにわかります」
根拠もなにもあったもんじゃない回答に面食らい、思わず目を見開いた。それから可笑しくて声を上げて笑ってしまった。そういう理由で行動を読まれていたのなら仕方ない。なにせ僕だって光里なら見抜いてくれるだろうという勝手な理由、いや、信頼でケーキまで作ったのだから。疑問が解けて胃に腑が落ちていった。想定通りだったのは僕の方だったわけだ。光里は僕の想定以上だった。
「……兄さん、私に罪悪感なんて抱かなくていいです。気を遣う必要も遠慮もいらないです。兄さんは気にせずやりたいようにやってください」
妙に真剣な眼差しと口調だったので不思議に思っていると、すぐに何事もなかったかのようにチーズケーキを頬張り始める。
僕は余計な気をまわしすぎてしまったのだろうか。光里は甘いものに目が無い。あのタルトを食べたら、その美味しさにきっと目を輝かせていたに違いない。僕の馬鹿な失敗でその機会を失ったのなら、せめて代わりのケーキくらいは食べさせてあげたかった。それは僕のエゴだったのだろうか。
罪悪感を抱くことも、気遣いも遠慮もいらないと光里は言った。このチーズケーキはその結晶だ。それなら、
「このケーキはいらなかったかな」
本人がいらないと言ったのだから、必要ないのだろう。そう思って僕は食べかけのチーズケーキに手を伸ばす。
「だめです」
光里はお皿を自分の方に引いて僕の手を退けた。
「それはそれ、これはこれです」
「…………」
やっぱり、僕が素直に謝っていたとしても許してくれなかったのではないだろうか。しかし、それは今となってはわからない。ただ、例えエゴだったとしてもケーキを口に入れるたびに緩む光里の表情を見ていると、それでも良かったのだと思えてくる。
「それにしてもよく食べるね。マカロンに夕食にチーズケーキ。作った僕が言うのもあれだけど」
「夕食後にケーキが出てくるだろうと思ってマカロンは抑えてました。本当は全部食べられました」
あのマカロンは大きめで食べ応えのあるものだった。全部食べたとして九つ。この小さい体のどこに入るのか、いや、どこに消えていくというのか。甘いものは別腹とはいうけれど、本当に胃袋がふたつあるんじゃないかと疑いたくなる。
そんなことを考えていると、ポケットに入れていた携帯が通知音を鳴らしながら振動した。取り出して確認すると僕の叔父からのメッセージが届いてた。
「誰からです?」
僕の様子が変だったのを察したのか、光里が頬をケーキで膨らませながら聞いてくる。
「叔父さんからだよ。もうすぐ帰ってこれるってさ。労ってあげないとね」
叔父は仕事の事情で家から離れていることが多い。かれこれ一年近くは帰ってきてはいないはずだ。過酷な環境から久々に解放されるのだから、我が家に来た時には思い切り寛いでもらおう。
「うるさくなりそうですね」
光里はあまり興味無さそうにケーキを食べ進めていた。叔父は僕たちにとっては感謝してもしきれないくらいの恩人なのだけれど。この反応は親愛の裏返しなのだろうか。そうであってほしい。
テレビがついていない室内は静寂に包まれている。まるでこれから訪れるであろう夏の賑わいを予感させる嵐の前の静けさのようだ。けれど、僕はこの落ち着いた時間が嫌いではない。静かな環境に身を置いていると、僕だけが取り残されたような孤独を感じる。そうするといつも一緒にいてくれる人のありがたみがわかるような気がするのだ。
そんな静寂を光里のケーキを咀嚼する音が切り裂いていく。折角気分に浸っていたのに、全てを台無しにされた僕は光里の方を見た。光里は頬にクリームをつけながら、口元だけを緩ませながら食べ進めている。
僕は再び溜息を吐いてテーブルの脇に置いてあったティッシュを一枚取り出すと光里の頬を拭ってやった。光里は無言で頬を差し出しながら、それでもケーキを食べる手を止めることはしなかった。