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居間の扉が開くと、ゲーム機を持った光里が入ってきた。
レース付きの白いブラウスにデニムのショートパンツといった夏らしい装いで、久しぶりに見た私服姿に僕は密かに感動していた。いつもはゆったりとした部屋着姿なので、カジュアルな服装でありながら小綺麗に着こなしている姿は新鮮だった。ただ、あの服は光里が中学生になる前くらいに着ていた記憶がある。あの頃から二年以上経っているはずだけれど、今でもサイズは合っているのだろうか。ぴったりに見えるけれど、光里にはサイズが小さく感じているのかもしれない。そう思いたい。
寝ぐせで少しうねっていた髪は、いつも通り綺麗に真っすぐになっていた。今なら外に出たってなんの違和感もなく周囲に溶け込めるだろう。僕がそんな思いを巡らせていると、光里は呆れたような目つきで僕を見ていた。
「……暑いです。エアコンつけないで勉強してたんですか?」
「そうだけど、風が吹いてて意外と涼しいよ」
開け放たれた窓から窓へ風が通り、体感ではそれほど暑く感じない。それでも暑いのが苦手な光里には不快に思えるのだろう。
仮に風が吹いて涼しいと知っていたとしてもエアコンをつけていたと思う。確かに風は気持ち良いけれど、穏やかとはいえ風がページを捲って邪魔をするかもしれないからだ。けれど、僕は嘘をついた。そうしないと窓を開けている説明がつかない。ただ、この程度の風で『この環境で勉強しているのはおかしい。なにか隠している』とは思わないだろう。それだけでそこまで考えていたら疑心暗鬼が過ぎる。
光里はコーヒーの匂いに気付いているのだろうか。それとも、もう換気されて匂いは消えているのだろうか。鼻が慣れた僕には居間に香りが残っているのか確認できない。間に合ってくれていればいいけれど。
「こんにちは、初めましてだな。俺は大和田八代っていうんだ、よろしくな」
光里を見て、八代は人の良さそうな笑顔で挨拶をした。僕と会話している時には見せない表情だ。まるで小さな子供と接しているかのような愛想に、八代が光里の年齢を見誤っているのだと確信した。
「初めましてです。佐倉光里といいます。大和田さん、よろしくです」
そう言いながら、光里の目はテーブルに置かれているマカロンに釘付けになっていた。光里は昼食を食べてから、恐らくなにも口にしていない。そろそろ小腹が空いてくる時間帯というのも相まって食欲がそそられているのだろう。
「八代でいいよ。ハルもそう呼んでる……それ、食べたければ食べていいぞ。元々光里ちゃんにもと思って買ってきたんだ」
光里の露骨な視線に気付いて八代が言った。光里はそれを聞いて、テレビの前にゲーム機を置いてからマカロンをひとつ摘んだ。
「八代さん、ありがとうございます!」
光里はお礼を言うなり、すぐにマカロンに齧り付く。そして一口で半分ほど食べると、
「チョコレートですね、美味しいです」
と中身のクリームを確認して言った。そして咀嚼しながら不思議そうにクリームを見つめ続けている。なにか変な味でもしているのだろうか。けれど、光里は口に含むなり美味しいと感想を述べているし、僕が食べた時も違和感はなかった。滅多に食べる機会のないマカロンに興味を持っているだけだろうか。そう思っていると、すぐに光里は残りのマカロンを平らげた。
それから光里はゲーム機の設置をしてくれた。それを僕と八代は二人で眺めている。光里はすぐに設置を終えるとこちらを見た。
「二人は食べないんですか?」
光里は二人でソファーに座っているだけでいるのを不思議に思ったらしい。空腹を感じていなかったので、マカロンに手を伸ばそうと思わなかったのだ。確かに勉強の区切りがついたと用意したはずのマカロンを食べようとしないのはおかしい。失敗したと動揺しながらも、僕はそれが顔に出ないように努めた。
「そうだね、僕も食べようかな」
言いながらマカロンをひとつ掴んで口に入れる。やはりこのマカロンの出来は良く、そこまで食欲がなくても美味しく感じられた。
「さっき食べたけど、俺には甘すぎたな。よかったら二人で食べてくれ」
光里はきょとんとした顔をしながら八代に顔を向ける。
「甘いものは苦手ですか?」
光里に聞かれて八代は愛想の良い立ち振る舞いは崩さずに答えた。
「あぁ、甘いものはそこまで得意じゃない」
「それなら遠慮なくいただきます」
言葉通り遠慮なく、光里はふたつ目のマカロンを頬張った。なにも考えずに全てお皿に盛ってしまった為、光里が食べてくれるのは正直助かる。マカロンは生菓子であまり日持ちしない。常温の中に置いているのもあって、なるべく早く処理したいと思っていた。
けれど、残りはまだまだある。たった今僕がひとつ、光里がふたつ食べたので残りは七個。八代はもう食べる気がないみたいなので、僕ら二人で食べ切るのはちょっと難しそうだ。可能なところまで食べて、残りは冷蔵庫に保存しながら明日にでもいただこうか。
そう考えていると、八代がゲームのコントローラーを手に持っていた。いつのまにかゲームを起動してなんのソフトがあるのかを確認している。
「みんなで遊べるやつあるじゃん。よかったら光里ちゃんも一緒にやろうぜ」
八代は屈託のない笑顔で光里を誘う。光里はマカロンを食べながら、あまり表情を変えずに答えた。
「特にやることないのでいいですけど」
その答えに僕は驚いた。ゲーム機を持ってきてくれただけでも意外だったのに、まさか遊びの誘いに乗るとは全くの予想外だった。
「その前にエアコンつけましょう。暑いです」
光里はいかにも暑さが鬱陶しいといった表情だった。エアコンを切ったのはコーヒーの匂いを消すための工作だったけれど、それでも風のおかげで適度な涼しさは感じる。そこまで不快そうにするほどではないように思える。けれど、光里の部屋は鳥肌が立ってもおかしくないくらいに室温が下げられていた。光里にとっては落差でより暑く感じてしまうのかもしれない。
それで僕は部屋中の窓を全て閉めてから改めてエアコンの電源をつけた。はためいていたカーテンが動きを止めて室内が落ち着きを取り戻していく。これで空気の流れがなくなって、風で匂いは誤魔化せなくなった。完全に残り香が消え去っていることを祈りながら、僕はゲームのコントローラーを手に取った。
ゲームはとても白熱した内容となった。最初にやったパーティーゲームは八代が勝ち、次にやったレースゲームは光里が勝利。そして現在プレイしている対戦アクションゲームでは二人がほとんど互角の勝負を繰り広げている。
ちなみに僕はというと、
「ハル、お前ゲーム下手だな」
「昔から私と一緒に対戦してるはずなんですけどね」
と二人に言われるくらいには叩きのめされていた。この二人が上手すぎると言いたいところだけれど、僕はどのゲームもCPU操作のキャラクターにすら苦戦していた。僕がCPUと最下位争いをしている中で、光里と八代は常に二人での競い合いをしている。
この対戦ゲームはステージ上で多人数で戦い、場外に吹き飛ばされたらストックを失う。設定したストック数を全て失った人から脱落し、最後まで生き残っていたら勝ちというルールだ。つまり脱落したらやることはなく、勝利者が決まるまで画面を見つめ続けるしかない。僕とCPUはすでに退場済みであり、二人が戦っている姿をソファーの背もたれに体を預けながら見守っていた。
攻撃は軽いけどスピードのある八代のキャラクターが素早く動き回り、動作は遅いけど一撃が重い光里のキャラクターがそれを捕らえようとする。光里が一方的にダメージを蓄積されていくと思いきや、時折入る一撃で一気に互角に。そんなやり取りを繰り返して、勝負は佳境を迎える。八代が攻撃を繰り出そうとする瞬間を読んで、光里があらかじめ攻撃を出していた。出るまでは遅いが、当たれば間違いなく場外に飛ばせる一撃。思惑通り八代のキャラクターがそこへ飛び込んでいくが、後出しだった八代の攻撃がわずかに早く届いて、光里のキャラクターが場外へ吹き飛ばされていった。それが最後のストックだった為、今回の勝負は八代の勝利となった。
「最後危なかったな。たまたま間に合った」
「思ったより早く飛び込まれました」
紙一重の勝負を終えて感想を言い合う二人。忘れないでほしいけど、これは一対一ではなかった。CPUはともかく僕も対戦していたはずなのに完全に蚊帳の外だ。
「二人とも凄いね。全然手も足も出なかったよ」
技術に関する内容はなにも言えないので、僕はとりあえず思ったそのままの感想を述べる。
「ハルはあれだな。なんというか闘争心が足りてない」
「負けて悔しいとか、相手を倒そうって気持ちがないですよね。まぁ兄さんらしいです」
二人は口裏を合わせたように同じような内容を僕に伝えた。光里はともかく、今日初めて一緒にゲームをした八代にすらそう言われるのだから本当にそうなのだろう。僕はやられても相手を凄いとは思うけれど、悔しくてやり返そうとは思わない。それは積み重ねた努力がないからというのもあるけれど、僕自身の性格によるものが大きい。相手より上回りたいという欲求が多分人より薄いのだ。
「ゲームに限らず勝負事で勝つためにはそういう気持ちは大事だぞ。悔しさは向上心に繋がるってな。まぁ確かにあまりハル向きではないか」
そう言いながら、八代はこれまで放置していた麦茶を手に取った。しかし、何故かすぐに手を放したと思ったら服に手を擦りつけていた。
「ハル、なにか拭くものないか?」
見ると放置されていたコップは結露して沢山の水滴が付いていた。持った時に水滴が手について濡れてしまっていたらしい。僕は近くの棚からタオルを持ってきて八代に渡した。
「お、サンキュ」
そう言って八代は渡されたタオルで、コップと水滴が垂れて濡れていたテーブルも一緒に拭いた。ついでに僕の分のコップも一緒に拭いている。それをなんとなく眺めていると、光里が心ここにあらずといった様子でぼんやりとしていた。
「光里、どうしたの?」
僕が話しかけても光里は反応が無かった。しかし、すぐに動き出したかと思うとマカロンを摘んで一口食べた。そしてまた食べかけのマカロンの中身のクリームを見つめていた。それからようやく僕の方へと振り返る。
「なんでもないです。……それにしてもマカロン結構ありますよね。これで全部ですか?」
光里が手に取ったばかりのマカロンを除けば残りは四つ。ゲームを始めてから僕と八代はマカロンに手をつけず、合間に全て光里が食べていた。このマカロンはそこそこの大きさがあって食べ応えがある。甘いもの好きで小腹が空いているとはいえ、光里はもう五つも食べていることになる。さすがに全ては食べきれないようだ。
「そうだね、これで全部。食べきれない分は冷蔵庫に保管して明日食べようか」
「……そうですね。これ以上食べると入らなくなるので、私はこれでやめときます」
光里がこれ以上食べないのであれば、今日はもう保管しても問題ないだろう。僕と八代はもう食べないだろうし、無駄に常温に晒す必要はない。そう思って僕はお皿を持って台所に行こうとする。ふと時計を見ると、割といい時間になっていた。区切りが良いので、僕はこれを台所に持っていくついでに晩御飯の仕込みでもしておこうかと考えた。
「ちょっとこれ片付けて晩御飯の仕込みでもしておくよ。二人は気にせずゲームしてて」
「おう、わかった。……光里ちゃん折角だから一対一しようぜ」
光里は手に持っている残りのマカロンを食べてから、
「いいですよ。リベンジです」
と答えてコントローラーを手に持った。
僕は台所に来ると、マカロンの乗ったお皿にラップをかけて冷蔵庫にしまった。それからすっかり乾燥した食器と調理器具を片付けて、代わりに水に浸けていた小皿とコーヒーカップを洗ってから空いた水切りかごに置く。
仕込みをするならこのタイミングしかない。都合の良いことに光里は八代とゲームをしていて、こちらに来ることはないだろう。僕は再び冷蔵庫の扉を開けて材料の確認をする。休日は勉強会をする予定だったので、いつも週末に楽しんでいるお菓子作りをするつもりはなかった。だから、冷蔵庫の中身は日常的に使う食材しか入っていない。その中から僕は、いつも朝のデザートとして食べているヨーグルトと、お菓子作りで余らせたものを手に取ろうとする。
「兄さん」
その時、僕の背後から光里の声が聞こえてきた。油断しきっていたところに急に声を掛けられたのと、声の主が光里だったというのも相まって思わず肩を震わせて驚いた。しかし、瞬時に僕は冷静な風を装って動揺を隠そうとする。体をびくつかせてしまったけれど、後ろから急に声を掛けられたら誰だってそうなるだろう。多分、そこまで不自然な対応ではない。
「あれ、ゲームはどうしたの?」
先ほど光里は八代に誘われてゲームをしようとしていたはずだ。それなのに何故ここにいるのだろう。喉が渇いて飲み物でも取りに来たのだろうか。
「すぐに済むので待ってもらってます。……キッチンペーパーってどこにありますか?」
「キッチンペーパー?」
全くの予想外の言葉に思わず首を傾げる。ゲームを中断してまでそれが必要になる状況が思いつかなかった。僕は疑問に思いながらも戸棚からキッチンペーパーを取り出して光里に渡した。
光里はそれをミシン目の一区切り分だけカットした。そして食器棚の引き出しからフォークを取り出すと、それにキッチンペーパーを巻き付けてデニムのポケットに入れていた。
「なにしてるの?」
光里の行動の意図が全く読めなかった。マカロンは片付けたので居間にはもう食べ物はないはずだ。それにマカロンにしたって手づかみで食べるものだ。手が汚れるのが嫌で食器を使う人もいるかもしれないけれど、光里は気にせず食べていた。それを何故今になってフォークを必要として、それをキッチンペーパーで包んでいるのか。皆目見当もつかない。
「あとで必要になるんです」
光里はそれだけ言って台所から出ていった。
一体なんだったのだろうか。しかし、光里の行動の意味を考えて裏を読むのは僕の領分ではない。いくら考えても結論は出ないのはわかりきっているので、僕は僕のやるべきことをやるべきだ。
仕込みを終えて居間に戻ると、光里と八代はまだ対戦を続けていた。冷静な光里とは対照的に八代は唸りながらゲームをしている。画面を見てみると、まだ充分にストックを残している光里を相手に、後が無くなった八代が攻めあぐねていた。余程のことが無い限り逆転は難しいような状況だと思いながら見ていると、案の定有利に進めていた光里が八代のキャラクターにとどめの一撃をお見舞いして勝利していた。
「だあぁぁ、くっそ。やればやるほど勝てなくなるな」
八代は頭を掻きながら悔しがる。僕が離席する前は互角の対戦だったように思えたけれど、この短時間でなにがあったのだろうか。
「動きを読むのは得意なんです」
光里は得意げに八代に言うと、僕の方へと振り返る。
「兄さん、もう仕込みは終わったんですか?」
「うん、終わったよ」
僕は返事をしながら二人と同じようにソファーに腰を下ろした。
「晩飯作るんだったら、そろそろお開きにした方がいいか?」
八代は携帯の画面で時間を確認しながら言った。
時計を見ると十九時を過ぎたところだった。勉強を終えたのが十六時くらいだったので、約三時間ほどゲームで遊んでいたらしい。よその家庭がどの時間帯で晩御飯を食べるのかわからないけれど、一般的にはそろそろ頃合いだろう。僕もいつもは大体十九時から二十時頃に晩御飯を用意している。だけど、今日は間食の量が多かったのでそこまでお腹は空いていない。それは恐らく光里もそうだろう。だからいつもより晩御飯の時間を遅らせるつもりだった。それにどちらにせよ今すぐ料理に取り掛かることはできない。
「あと一時間くらいは漬けておきたいから、そのくらいになったら終わりにしようか。八代の時間が大丈夫ならだけど」
「漬けておく?」
隣りに座っている光里が僕を見上げていた。今日の晩御飯がなにか気になっているのだろう。先ほど台所に来てはいたけれど、僕が冷蔵庫から材料を取り出す前に戻っていったので、光里は食材すら見ていないはずだ。
「お肉をヨーグルトに漬けてるんだよ」
「ヨーグルト? なんでまたそんなものに漬けてるんだ?」
八代は思ってもいなかった食品の名前が出たのか意外そうな顔をしていた。
「ヨーグルトで漬けるとお肉が柔らかくなるんだ」
「へぇ、初めて知ったなそんなの」
「私もです」
光里と八代は感心したように声を漏らした。確かに料理をしない人からすれば案外知らない使い方なのかもしれない。料理番組を見ていたり、レシピを調べていたりすると、割と紹介されているメジャーな方法なのだけれど。
「まぁともかく、折角ならそれまでやろうぜ。ハルも協力してくれ。混戦にしてなんとか光里ちゃんを倒すぞ」
「そうだね。少しは見せ場を作ってみせるよ」
このゲームはバトルロイヤル方式なので味方は存在しない。なので、八代と協力して光里を先に退場させたとしても残った僕らで決着をつけなくてはならない。残された僕が八代に勝てるとも思えないけれど、三人で見合っていても間違いなく僕が先に退場する羽目になる。ちょっと卑怯な方法かもしれないけれど、協力して先に有力なプレイヤーを退場させるのは戦略のひとつだ。同級生と二人で妹に挑む構図はどうかと思うけど。
「望むところです」
しかし、光里は事も無げにそう言った。これはちょっと、いくらなんでも見くびられすぎている気がする。ゲームとはいえ兄としての威厳を少しは見せつけなければならない。こっちは二人がかりだけど。
「晩御飯食べていかなくてもいいの?」
「あぁ、親が用意してくれてるだろうからな」
あの後、一時間ほど対戦を楽しんでから解散することになった。八代を玄関先で見送っている間、光里はゲーム機を片付けてくれている。これから夕食を作るつもりで、折角ならと八代を夕食に誘ったけれど断られてしまった。もう時間も遅いし、あらかじめ連絡していないと八代の両親も困るだろうから仕方ない。でもちょっとだけ作った料理を食べてみてもらいたかった気持ちもある。
僕のそんな気持ちを見越してか、八代は付け加えるように言った。
「……今度遊びに来る時は楽しみにしてるわ」
「その時は腕によりをかけるよ」
今回は勉強会という名目だったはずだけれど、もうその意味は薄れて遊んでいた記憶の方が濃くなっている。次回があるのなら是非お菓子も振舞って感想を聞いてみたい。いつも光里としか食べていないから、味付けがかなり僕らの好みに寄っている気がするのだ。他人の意見を聞けるのなら聞いたみたいところだ。その時はあまり甘すぎないものにしよう。
「それにしても、ボコボコにされたな」
「まさかあの後一回も勝てないとはね」
協力関係を築いた僕らは、その利点を存分に活かすべく二人で光里を標的にした。僕の心の内では、ある程度有利を作ったら関係を裏切って笑い話にするつもりだった。恐らく八代もそうだったのではないかと思う。皆で楽しむために始めたゲームで雰囲気を悪くするのは本末転倒だし、そもそもそこまでして勝ちたいとは思っていなかった。そんな軽い気持ちで光里に襲い掛かったはいいものの、僕らはいいようにあしらわれた。息が合わなかったタイミングを突かれ、地形を利用され、CPUが加わって乱戦になったところを光里のキャラクターの重い一撃で纏めて吹き飛ばされた。
対戦回数を重ねるごとに勝機は薄れていった。僕が夕食の仕込みをしている間に八代が勝てなくなった理由がわかった。光里は対応力が妙に高く、本人が言っていたようにプレイヤーの癖を読むのが上手い。同じ様な動きをしているとすぐに通用しなくなってしまう。
「今日は楽しかった。いいゲーム友達もできたしな。フレンドコード教えてもらったから今度リベンジするわ」
「フレンドコード?」
「知らないのか? コード交換してればネットを通して一緒に遊んだりできるんだよ」
そんなものがあったとは知らなかった。僕はいつも光里に促されるままにゲームをしているので、システムについて気にしていないというのもあるけれど。そういえば光里が一人でゲームをしている時に、ネットを通じて他のプレイヤーと遊んでいるのを見たような気がする。
僕が思い返しているのを、八代は別の意味に捉えたようだった。
「大丈夫だよ。小学生相手に夜遅くまでゲームの相手をしてもらおうとか思ってないって」
快活に笑う八代。やはり思っていた通り、勘違いしていたようだ。
「八代、光里は一個下だよ」
それを聞いて八代は目を丸くする。それから一瞬の間があってから再び笑い出した。
「いくらなんでも騙されないって。冗談だなんて慣れないことするもんじゃないぜ、ハル」
僕はそれを至って真面目な顔つきで見ていた。しばらくすると、冗談ではないとわかったのか八代が笑うのをやめた。
「……え、マジ?」
「マジだよ」
すっかり暗くなった夜空の下、玄関からの照明が間の抜けた八代の顔を照らしていた。鳩が豆鉄砲を食らったような顔とは誰が最初に言ったのか。豆鉄砲なるものを僕は見たことはなく、当然ながら鳩にそれを当てたこともない。けれど、八代の顔を見て真っ先にその言葉が頭に浮かんだ。
光里と毎日顔を合わせている僕ですら、たまに光里の年齢が疑わしくなるときがある。顔合わせしてから今まで小学生だと思い込んでいた八代には特に衝撃的だったのだろう。それから八代が再び動き出すのに、十秒近くの時間を要することとなった。