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陽だまりのコンシェルジュ  作者: ワタリ
贖罪のチーズケーキ
6/8

2

 週末の休日。その日は比較的湿気が少なく気温も落ち着いた日だった。それでも七月ともなれば暑いことには変わらず、エアコンをつけないとじっとりと汗ばんでくる。

 僕は光里と昼食をとったあと、食後のニオイが籠らないように、そして午前から稼働させていたエアコンの空気の入れ替えを兼ねて換気をしていた。午後からは八代が来ることになっているので、居間の環境を良くしておきたかったのだ。

 二階にある僕の部屋で勉強をしても良かったのだけれど、二人分の教科書とノートを開くのに十分な大きさの机は居間にしかなかった。テレビとL字ソファーの間に設置されているローテーブルは、二人で使用しても余裕があるくらいの大きさだ。僕の部屋で狭々しく勉強するよりは集中できるだろう。

 それに二階には光里の部屋もある。先ほど昼食をとったあと、いつも眠たそうに見える光里の半開きの目が更に眠たそうに目尻を下げていた。これから昼寝でもするつもりかもしれない。八代が来ることは伝えてあって了承も得ているけれど、僕たちの声で昼寝の邪魔をしてしまうかもしれない。

 昼食で使用した食器と調理器具の洗い物が終わって、最後にダイニングテーブルの上を濡れ布巾で拭いた。あらかた後片付けが終わる頃には空気も入れ替わって、室内は外の気温と遜色ないくらいになっていた。もう充分だと掃き出し窓を閉じて、エアコンをつけ直す。エアコンから噴き出る風が、汗ばんだ肌を冷やして気持ちが良かった。

 それから僕の部屋に行って、苦労して持ち帰った教科書とノートを居間に運んだ。暗記がメインの教科は教える必要がないだろうから、古典と数学と理系の教科さえあれば問題ないだろう。それらをテーブルの上に運んでから時計を確認する。そろそろ約束の時間だ。

 間もなくインターホンの音が鳴った。約束の時間通りに鳴ったので八代に間違いないだろうけれど、念の為にモニターで確認する。モニターには予想通り、八代が夏の日差しで眩しそうに目を細めて立っていた。

「今開けるね」

 インターホンからそう伝えると、僕は玄関の扉を開けに行った。扉を開けた途端、強い日差しが入り込んで目が眩む。薄目で八代の姿を確認すると、夏の涼しげな装いに少し大きめなショルダーバックを肩に掛けていた。右手には紙袋を持っている。

「いらっしゃい」

「今日はよろしくな。……それにしても暑いな」

 見ると八代の額には汗が滲んでいた。家の中で窓を開けているくらいなら平気だけれど、直射日光の下で歩いてきたとなるとそうもいかないらしい。手の甲で額の汗を拭っている。

「上がりなよ、エアコンつけてあるよ」

 扉から身を引いて、家に入るように促した。八代は土間に入ると靴を脱ぎながら、

「そうだ、これ渡しとく。手土産持ってきたんだ」

 そう言って持っていた紙袋を渡してくれた。中身を確認すると底の方に長方形の紙箱が、その上に手提げのついた紙箱が重なるようにして入っていた。手提げの紙箱となると、中身はケーキだろうか。

「ありがとう。でも別に気を遣わなくてもよかったのに」

「わざわざ休日潰してもらってまで世話になるんだ、これくらいはな。甘いものには詳しくないから、ケーキ屋でバイトしてる姉貴に見繕ってもらった。姉貴の店で人気のやつらしいから味はいいはずだ」

 八代に姉がいたとは知らなかった。ケーキ屋で働いている人の選定ならば期待が持てそうだ。僕も光里ほどではないけれど甘いものは好きだ。自分で作る際の参考にもなるので楽しみにしておこう。

 八代を家に上げて居間へと案内する。エアコンがきいて涼しくなった部屋に入ると、八代は襟元を掴んで扇いでいた。そして室内を一瞥すると、感嘆の溜息をつく。

「すげえ綺麗にしてるな。いつもこうか?」

 言われて八代と同じように室内を見渡す。生まれてからずっとこの家に住んでいるので、僕にとっては何の変哲もない光景だった。普段から掃除と整理整頓を心がけていれば、少なくとも汚くなることはないだろう。しかし綺麗とまで言われる程かはわからない。他人の家と比べたこともなかった。

「別に普通だと思うけど」

「そうは言っても、二人暮らしだろ? よく手が回るな。俺なんて自分の部屋すら汚いぞ」

「昔からだからね。もう慣れたよ」

 掃除は昔から僕がやっていた。一度に掃除しようとすると大変だけれど、毎日違う場所を少しずつ掃除すれば負担は少なくて済む。地道に続けるのが大事だ。

「冷たいお茶でも持ってくるよ」

 台所に行って手土産を冷蔵庫に入れる。ついでに冷やしておいたペットボトルのお茶を取り出した。中に氷を入れたコップをふたつ用意する。

 それらを居間に持っていくと、八代は早速お茶を注いで飲み干した。さすがに体を冷やしてからでないと勉強にも集中できないだろう。僕たちはそれから世間話を楽しんでから勉強を始めた。


 勉強を始めてから数時間が経過して一区切りがついた。

 八代は確かに授業でやった内容がまるでできていなかった。しかし、いざ教えてみるとすんなりと飲み込んでいった。本人はついていけてないと言っていたけれど、授業を真面目に受ける気がなかっただけのようだ。正直これなら勉強会はいらなかったようにすら思える。

「思ったよりずっと覚えが早いね。中間考査がなんで悪い点だったのかわからないくらいだよ」

「全くと言っていいほど勉強してなかったからな」

 受験では筆記試験を受けていないと言っていた。そもそも受験勉強自体を碌にしていなかったのだろう。それから中間考査までの間、勉強していなかったのならば悪い点になったのも頷ける。

「少しでも勉強してれば違ったんじゃない?」

 八代はソファーの座面を背もたれにして、両腕を上げて伸びをした。

「しようとはしてたんだ。けど、いざ始めようとすると他のことを始めちまって全くできなかった」

 気持ちはわからないでもない。やりたくないことを後回しにするのは人間の心理だろう。それでも僕はやらなければいけないことは、なるべく気持ちを押し殺してやるようにしている。でなければ結局は悪い方向に転がっていってしまうからだ。

「だから勉強会を頼んだんだ。さすがに監視の目があれば俺でもやるらしいな」

「とりあえず期末考査は問題なさそうだね。あとは暗記の科目だけど、それは頑張ってもらうしかない……ちょっと休憩しようか」

 そう言って僕は机の上を見る。開いた教科書とノート。七割くらいお茶が入っているコップには、途中で補充した氷がまだ溶け切らずに浮いている。お茶のペットボトルの中身は空になっていた。ついでに片づけようと、空になったペットボトルを片手に台所に向かった。

 ペットボトルを潰してゴミ箱へと入れる。休憩がてら八代からもらった手土産でも頂こう。そう思って冷蔵庫から冷やしていた紙箱をふたつ取り出した。

 手提げが付いている紙箱を開けると、中身はベリーのタルトがふたつ入っていた。一人用の大きさのタルトレットの上に、色鮮やかな赤と紫色の実が一杯にのっている。ベリーにはナパージュが塗られていて、鮮やかなベリーに艶を出して、より彩が増していた。パイ生地の端には粉砂糖がデコレーションされている。見たところブルーベリー、ラズベリー、ブラックベリーと……この赤い小さい粒はなんだろう。レッドカラントだろうか。この四種類が使われいてる。

 ベリーは夏が旬だ。八代のお姉さんが働いているというケーキ屋で人気となれば味には更に期待ができそうだ。それらを紙箱から取り出して、それぞれ小皿に乗せる。

 もうひとつの長方形の紙箱を開けると、中にはマカロンが入っていた。箱の中心には仕切りがあって、六個ずつ左右に分かれて入れてある。生地にはチョコレートが挟まれていた。比較的涼しかったとはいえ、八代は夏の日差しの中を歩いてきたというのに全く溶けていなかった。不思議に思っていると、蓋の裏に保冷剤が張り付けられているのに気がついた。おかげで形が崩れずに済んだらしい。

 それにしても、タルトとマカロンの両方を食べるとなるとちょっと量が多そうに見える。マカロンは二、三個くらいで十分なのだけれど折角の頂き物だ。大皿を取り出してマカロンは全てそれに盛ることにした。これなら各々が好きな量を食べられる。

 お菓子に合わせる飲み物はどうしようかと悩んでコーヒーにした。コーヒーカップを棚からふたつ取り出して、それぞれにインスタントコーヒーを淹れる。美味しそうなお菓子を頂いたのだから、本格的に淹れてもいいのだけれど、あまり待たせるのも悪い。八代の好みはわからないので、スティックシュガーとフレッシュをひとつずつ付けておいた。

 用意ができたので最初にコーヒーを、次いでタルトとマカロンを持ってきてテーブルに置いた。それまでの間、八代は教科書を捲って暇を潰していたようだった。本人は他のことをして勉強をやらなかったと言っていたけれど、一度始めれば集中して取り組めるの性格なのかもしれない。

 テーブルの上に用意されたお菓子を見て、八代は意外そうな顔をしてこちらを見た。

「あれ、これ俺の持ってきたやつか? 俺の分もあったのか?」

 それを聞いて首を傾げる。持ってきた八代が数を把握していないとはどういうことだろう。

「八代が買ってきたんじゃないの?」

「姉貴にバイト帰りに買ってきてもらったんだ。俺は中身を見てない。自分で食うつもりなかったから、俺の分まであるとは思わなかった」

「ちゃんと人数分あったよ。お姉さん、気を遣ってくれたんだね」

「あの姉貴がねえ……まぁ人数分あったってことは、そうなんだろうな」

 八代は教科書を閉じて、テーブルの端へと押しやった。互いにフォークを取って同時にタルトに手をつける。

 フォークをタルトの中心に刺して、底にある生地に切れ込みを入れる。一口サイズにしてから食べると、旬のベリーの強い酸味を中に隠されていたカスタードクリームが口の中で混ざり合ってまろやかな味わいにしてくれていた。恐らく、これは今日の午前中に買ってきたのだろう。ベリーもクリームも生地も乾燥しておらず口当たりがとても良かった。フルーツやベリーは解凍してから食べると食感に影響が出るけれど、これにはそれを感じない。

「これは美味しいね。人気なだけあるよ」

「そうだな。俺は甘いものはそこまで好きじゃないが、これはいい。酸味のおかげで甘すぎない」

 あれ、と不思議に思う。甘いのが好きではないのなら、何故ケーキを手土産に選んだのだろうか。勉強を教わるからと僕の好みに合わせてくれたのだろうか。僕が甘いもの好きと八代は知っていたのかと疑問に思うけれど、小学生からの付き合いだから言ったこともあるかもしれない。八代のお姉さんは、甘いものがあまり好きではない八代を考慮してベリータルトを選んだのだろうか。八代は姉に対して微妙な反応をしていたけれど、やはり気を遣ってくれているみたいだ。

 それにしても、このタルトが店で人気なのも頷ける。タルトに盛られたベリーの配置が色鮮やかで可愛らしい。その見た目に負けない味の良さ。もしそのケーキ屋に行くことがあれば、僕はこのタルトを買うに違いない。

 そして胸がちくりと痛んだ。このタルトがふたつしかないのが残念だった。これほど美味しいのであれば是非とも光里にも食べてもらいたかった。最初から美味しいとわかっていれば、僕の分を光里にあげていたかもしれない。けれど、折角八代が持ってきてくれたのだ。食べないのは八代にも、選んでくれた八代のお姉さんにも失礼だ。それでも自分だけ食べていることに少しだけ罪悪感を感じる。

 それを紛らわせるように、八代に別の話題を持ち出した。

「八代はさ、なんで高校で陸上やらなかったの?」

「なんだ、唐突だな」

 半分ほど食べ進めていた手を止めて、八代はコーヒーを一口飲んだ。それから少し考えてる様子を見せてから話しだす。

「そうだな。好きでできる限界までやったって思ったからだな」

「好きでできる限界?」

「あぁ。俺は障害走……ハードル走をやっててな、初めた時は面白かった。足が速いだけじゃダメなんだ。どこから飛ぶか、飛び越えられるギリギリのラインを攻められるか、ロスが少なくなればなるほどタイムは縮む。上達してるのが目に見えてわかって楽しかった」

 ハードル走は小学生の頃、体育の授業でやった覚えがある。しかし印象にはあまり残っていない。飛んだ時にハードルが足に引っかかりそうで怖いなと思ったくらいだ。でも走る以外の余地があるというのは上達するのがわかりやすいのかもしれない。僕は練習したことがないからわからないけれど、初めたばかりなら短距離走の方がタイムを縮めるのは難しそうだ。

「俺はのめり込んで四六時中ハードルを飛び越えることばかり考えてたよ。そういえば、その時は部活一辺倒でハルともあまり遊ばなくなってたな」

「僕の方も色々あったしね」

 家のことで遊ばなくなったから、そして違うクラスで話す機会も少なくなったからと思っていたけれど、八代の方にも事情があったようだ。

「楽しいうちは良かった。でも上達していくと苦しい時間も多くなった。コンマ一秒タイムを縮めるのに練習して考えての毎日さ。早く起きて朝練に行って、授業中に考えて、部活の時間に試して、帰ってからまた考えて。その繰り返しだった」

 気づくと、タルトを食べる僕たちの手は止まっていた。この間の昼休みでの話が頭によぎったから出した話題だったけれど、思いのほか真剣な話になってしまった。思えば、八代とは小学生の頃からの付き合いだけれど、八代自身の話を聞くのは初めてのような気がする。

「あの時は辛かった。もう楽しいとは思えなかった。でもな、続けられたのはハードル走が好きだったからだ。好きだから楽しくなくても頑張れたんだ」

 八代は当時を懐かしむように目を細める。僕はコーヒーを一口飲んで話の続きを待った。

「そんで最後の大会だ。俺はその日、自己ベストのタイムを出した。大会で練習以上のタイムが出たんだから完全燃焼さ。それでも、俺より先にゴールした奴がいた。そいつは悔しがってたよ。陸上ってちょっと複雑でな。全中に出るのには条件があって、規定のタイムを越えてなきゃいけないんだよ。そのレースで何位かは関係ないんだ。そいつは標準記録に届かなかった」

 相槌を打ちながら聞く。僕はスポーツに詳しくないので、各競技の規則には疎い。どの競技も単純に勝った人がそのまま駒を進めていくものだと思っていた。でも考えてみれば、確かに速すぎる人が一人いるだけで予選落ちとなったら不平等だ。

「それを見て思った。俺より速い奴はたくさんいて、全中ではそいつらでも届かない記録を突破した奴らが集まって競い合っている。そんな奴らはどれだけ頑張ってんだろうってな。そりゃ体格とか才能の差はあるだろうけど、だからって努力してない奴なんかいない。俺にはこれ以上は無理だ。やり切ったって思ったのさ」

 八代は僕の顔を見た。そして呆れたように笑う。

「おいおい、悲しい話じゃねえぞ。むしろ最高の気分だった。本番で自己ベストってのはそうそう出るもんじゃない。それでも届かなかったんだ。これ以上先に行くには更に努力が必要になる。辛くても好きだからやってこれたけど、ここまでだ。これ以上はハードル走が嫌いになるだけだ」

 ここまで話しておいて、八代は恥ずかしそうに頭を掻いていた。

「全中に出てるような奴らはすげえよ。嫌いになる覚悟を持ってやってるんだろうぜ。好きでもないのにやり続けるのは俺には無理だ。化け物だよ、そんな奴らは」

 どれだけ頑張れるのかは人による。楽しいと思える範疇でしかできない人もいれば、辛くても努力できる人もいるだろう。けれど、好きなものを嫌いになってまで努力できる人はどれほどいるだろうか。好きでできる限界までやったと言い切る八代がしてきた努力は、僕なんかでは想像もできないほど苦しいものだっただろう。これを聞いてしまったら高校でも続けてみればとは言う気にはもうなれない。

「だから悔いなんて欠片も残ってない。最高の形でやめれて良かった。おかげでまたハルとも遊べるしな」

 そう言って八代はマカロンを掴んで口に入れた。僕もそれにつられてマカロンを摘む。サクサクの生地の歯ごたえに、蕩けるような濃厚なガナッシュクリームの食感が口内を楽しませる。マカロンは生地がパサパサすぎたり、クリームが甘すぎたりすると味が悪くなる。実は美味しく作るのは難しいのだけれど、人気というだけのことはあって美味しかった。

「美味いけど……俺にはちょっと甘すぎるな。こんなには食べられそうにもない」

「僕は大丈夫だけど、量は少し多かったね」

 口内に広がったマカロンの甘味をコーヒーで流し込む。そして食べかけのタルトを口に入れる。

「休憩と思ったけど、区切りもいいし勉強はここまでにしようか。見たとこもう大丈夫そうだしね」

「そうするか。ありがとな、付き合ってくれて……ってもまだ解散するにはまだ早いな」

 時計を見ると、時刻は一六時を過ぎたところだった。おおよそ三時間くらいは勉強に集中していたらしい。

「折角だし、食い終わったらなにかするか。ハルってゲームとか持ってるのか?」

 八代はそう言ってテレビ周りを見渡す。しかし、そこにはゲーム機の類は置かれていない。

「持ってるよ。ただ、基本的に遊ぶのは光里だから居間には置いてないんだ。ちょっと持ってくるね」

 ゲーム機の類は光里の部屋にある。残り少なくなったタルトを一口で食べきって、二階にある光里の部屋へと向かった。階段を昇って奥にあるのが光里の部屋だ。扉の前に立って、ノックをする前に耳を当てて中の様子を確認した。昼食の時に眠そうにしていたのを思い出したのだ。眠っていたとしたらノックの音で起こしてしまうかもしれない。

 中からは物音がしなかった。一人で部屋の中にいて暴れたり騒いだりする方が珍しいと思うので、寝ているかどうかは判別できない。起こさない程度の軽いノックを数回して様子見してみるけれど、特に反応はなかった。

 音を立てないように扉を開けると、肌寒いくらいの冷気が漏れてきた。光里は暑いのも寒いのも苦手だけれど、暑いのは特にダメなのだ。基本的に自分の部屋にいる時は、このように遠慮なくエアコンを稼働させているのが常だった。

 静かに中に入ると、ベッドの上でタオルケットを蹴飛ばして寝ている光里の姿が見えた。夏らしく薄手の寝間着を身に包み、静かに寝息をたてていた。客人が来るからと普段着でいる僕でもこの部屋は肌寒く感じる。それなのに、この格好でタオルケットも掛けずに眠っていて寒くないのだろうか。風邪でも引いたらいけないので、起こさないように慎重にタオルケットを掛け直しておいた。

 テレビの方に目を向けると、ゲーム機がふたつ目に入った。どちらのゲーム機がいいのだろうか。僕は一人ではゲームをやらない。光里に誘われて一緒に遊ぶことはあるけれど、自分から遊ぶゲームを指定することはない。なので、どちらのゲーム機になんのゲームソフトが入っているかを把握していないのだ。

 両方持っていくこともできないので、どうしたものかと困っていると、ベッドの方から物音がした。振り返ると光里が半身を起こして眠たそうに目を擦りながらこちらを見ていた。

「ごめん、起こしちゃったね」

「……なにか用ですか?」

 眠気の残った声を出しながら背を伸ばしている。再び寝るつもりはないようだ。

「勉強に一区切りついたからゲームでもして遊ぼうって話になったんだけど、どれがいいのかわからないんだ」

 それを聞いて光里はベッドから立ち上がった。腰まである綺麗な黒髪が寝癖で少しうねっている。僕の髪は寝癖がつくと重力の法則を無視するので、あの程度にしかならない髪質が羨ましい。それとも長髪だと寝癖がつきにくいのだろうか。

 光里は僕の隣にしゃがんでカラフルなデザインのゲーム機に指を差した。

「こっちがいいと思います」

 光里に誘われて遊ぶ時はこちらのゲーム機の方が多い気がする。コミカルなキャラクターで対戦するゲームが多い印象で、操作性も簡単で初心者の僕でも遊びやすい。もう片方のゲーム機はグラフィックがリアル感があって操作が難しく、一人用のゲームが多い印象だった。とはいえ知識のない僕の印象でしかない。どちらがいいか決めかねていたので光里の助言は非常に助かる。

「わかった。こっちにするね」

 そう言って手を伸ばすけれど、本体が黒いスタンドに挟まれていて、そこから配線が伸びているのを見て動きを止める。本体を持っていけばいいのか、それともこれら全て必要なのだろうか。ゲームの設置は、というか電気製品の設置は概ね光里に任せている。コンセントを入れるだけでいいならできるけれど、コードの接続がいくつか必要になってくると僕にはお手上げだ。それにいい加減に触って間違った扱いをしたら大変だと逡巡する。

 そんな様子を見かねたのか光里がこちらを見て、

「……私が持っていきましょうか?」

 と意外な発言をした。

 光里はコミュニケーションが苦手ではない。けれど、自分から会ったこともない僕の友人と顔を合わせるような行動をするとは思っていなかった。家族の知り合いが家に来たからと積極的に関わろうとする人は珍しいだろう。少なくとも僕が小学生の頃、友人の家に遊びに行った先ではいなかった。

「ありがとう、助かるよ。でも大丈夫?」

「そのくらい平気です」

 光里は立ち上がって配線を外していく。仮に光里が眠ったままで、僕が一人でこのゲーム機を持ち出せたとしても、居間のテレビに接続できたかはわからない。本人が大丈夫と言っているなら全て任せてしまおう。

「先に行ってるけど、その前に」

 言いかけた言葉に、光里は手を止めてこちらを見る。

「身だしなみはちゃんと整えてきてね。急がなくていいから」

 寝起きの締まりのない顔に寝癖のついた髪に薄手の寝間着。さすがに自分の家の中とはいえ年頃の女の子が人前にでる格好ではない。

「わかってます」

 光里は自身の格好を一瞥すると、何事もないように言い放つ。本当にわかっていたのかと心配になるけれど、忠告はしたのでしっかり整えてきてくれるだろう。


 一階に下りて居間に戻ると、インスタントコーヒーの芳醇な香りが鼻腔をくすぐった。

 見ると、八代もタルトを完食するまであと少しといったところまできていた。甘いものがあまり好きではないと言っていたので、ゆっくりと食べ進めているようだ。

「あれ、どうした?」

 八代は帰ってきた僕を見るなりそう言った。目線は僕の手元に向けられている。ゲーム機を取りに行ったはずなのに、手ぶらで戻ってきたのに疑問を抱いているのだろう。

「光里が持ってきてくれることになったよ。配線のやり方がよくわからなくてね」

「ゲームの配線くらい俺でもできるが……まぁでもちょうどいいか」

 ちょうどいいとはなんだろうかと首を捻る。八代は光里になにか用でもあったのだろうか。八代は光里の存在は知っているけれど面識はないはずだ。小学生の頃に見かけたことくらいはあるかもしれないけれど、僕は八代に光里を紹介した記憶が無い。久しぶりの再会ということはないと思うけれど。

「ちょうどいいって?」

「これだよ、これ。光里ちゃんにも出してやってくれ」

 八代はそう言って食べかけのタルトに指を差した。

「え? タルトはもうないけど」

「あれ? 人数分あるって言ってなかったか?」

 そして僕らは顔を合わせて固まった。お互いになにを言っているのか理解するのに時間がかかったのだ。そして徐々にどういうことなのかを理解し始めるが、念のため八代に聞いておく。

「タルトは僕に買ってきたんだよね?」

「いや、ハルと光里ちゃんの二人に持ってきた」

 休憩にタルトを出した時のやり取りを思い出す。あれは八代が勉強会のお礼に買ってきたものだと思っていた。だからふたつのタルトは僕たちのだと思い、お皿に盛って八代に出したのだ。しかし、八代は自分の分もあったのかと聞いてきた。この返答を聞いて僕は不思議に思った。休憩の時に一緒に食べるつもりがあれば、八代にタルトを出しても疑問に思うはずがないからだ。けれど僕は八代が面識のないはずの光里の分まで買ってくれていると思い至らなかった。なので本来は僕の分だけタルトを買うつもりだったのだと考えた。そして、ふたつあったのはお姉さんが気を遣って八代の分まで買ってきてくれたのだと思ったのだ。

 八代の方は紙箱の中に何個入っているかを知らなかった。なので僕と光里に持ってきたつもりの八代からしてみれば、『人数分あったよ』と聞いて三人分あったのだと勘違いしたらしい。

「……ごめん、僕の言い方が悪かったね」

「いや、俺もちゃんと確認しなかったからな」

 折角の八代の好意を無駄にしてしまった。美味しいタルトとマカロンを、わざわざ光里の分まで買ってきてくれたというのに。

「まさか光里の分も買ってきてくれてるとは思ってなかったよ」

「この間の昼休みにハルの家に行くって話したあと、飲み物買いに行っただろ。教室に戻ったらハルと臼井さんの会話が聞こえてな。光里ちゃんが甘いものが好きって言ってたから、ケーキでもと思って買ってきたんだ。俺は詳しくないから姉貴に頼んでな」

 甘いもの好きではない八代がケーキを手土産に選んだ理由はこれだったのか。

 本来であれば、あのタルトは光里も食べられるはずだった。あれだけ美味しければ喜んで平らげただろう。このタルトを手違いで食べられなくなったと知って光里はどう思うだろうか。僕が馬鹿な勘違いをしなければ、こんなことにはならなかったのに。けれど食べてしまったものは返ってこない。せめて光里が残念に思わないようにできないだろうか。

「……誤魔化すか」

「どうした?」

 独り言を呟いた僕に八代が訝しむ。それを気にせず僕は考えを巡らせた。僕はこのタルトの美味しさを知っている。そして本来ならば光里がそれを食べられたことも。食べられる機会を失って悲しむのなら、最初からタルトが無かったのだと思わせればいい。美味しいタルトも、それを食べられる機会があったことも、知られなければ悲しむこともないのだ。

 その上で僕は罪悪感を消す方法を思いついた。

「タルトは無かったことにしよう。光里がゲーム機を持ってくる前に、できるだけ痕跡を消すよ」

「なにを言って……なんか楽しそうだな、ハル」

 八代は僕の顔を見て言った。楽しそうとはなんのことか。少し思いついたことはあるけれど、決して楽しんでなどいない。

「まぁ俺は構わないぞ。とはいえ、タルトを片付ければ終わりだろ」

 八代は残り少なくなったタルトにフォークを刺すと一口で食べきった。これでタルト自体は無くなった。問題はそれが存在していた形跡をどう消すかだ。

「いや、少しでも違和感があれば気付かれる可能性がある。光里は信じられないくらい鋭い子だからね」

「確かに女の勘は鋭いっていうけどな」

 光里のはそれとはちょっと違う気がする。あれは直感的なものではなく理論的なものだ。しかし、僕はわざわざ訂正はしなかった。兄である僕がひけらかすようなものでもないし、説明している時間もない。

 なるべく手早く効果的に事を済ましていくべきだ。光里がいつ準備を終えてここに来るのか、正確な時間はわからない。光里はずぼらなところが……ずぼらでぐうたらでだらしないところはあるけれど、身だしなみには気を遣う子だ。滅多に外出しない上に、来客の少ない我が家にいるので、服装などは先ほどの通りだけれど髪の毛のケアは怠らない。母親譲りの長く綺麗な黒髪は、光里の日頃のまめな手入れによって保たれている。人前に出てくるのに寝癖をそのままにしておくとは考えられない。身支度を済ませるまでの時間が勝負だ。

 僕はまずテーブルの上に置いてある二人分の小皿とフォークを纏めて台所に片付けた。これらがテーブルの上に存在してはいけないのは大前提であり大原則だ。光里でなくてもなにかを食べたのだろうと簡単に推測できてしまう。

 それから居間に戻ると、僕はもう一度テーブルの上を注視した。氷が浮いている麦茶の入ったコップがふたつ。冷めて湯気が出なくなった、飲みかけのコーヒーが入ったカップセットがふたつ。マカロンが盛られた大皿がひとつ。テーブルの端に押し込まれた八代の教科書とノート。

 これらから、タルトに結びつく証拠となるものはあるだろうか。

「そんな真剣に考えなくても大丈夫だと思うけどな。そもそもタルトがあったって知らないんだから、意識して観察する訳でもないだろうしよ」

 タルトの存在は知らないという状況こそ、僕が光里を誤魔化せる唯一の道筋だ。八代の言う通り、知っていなければわざわざ注意して周囲を観測などしない。注意力が散漫な状態ならば、いつもは細かいところまで気付ける光里も違和感を抱かないかもしれない。多少の粗は見過ごされるだろう。しかし、誤魔化そうとしている相手はあの光里だ。僕が考えられる程度のことはやっておくべきだ。

 とはいえ、そう簡単には思いつかない。ここにタルトの痕跡が無い以上、目の前に広がる状況から違和感を抱き推測して、真実に辿り着けるとは思えない。……タルトの痕跡か。

 僕はタルトの特徴を思い出す。パイ生地の中に入っていたカスタードクリーム。その上に盛られた四種のベリー。生地の縁にまぶされた粉砂糖。タルトは生地が崩れやすい。比較的しっとりとしていた生地で、食べてる時に崩れていた印象はないけれど、知らない内に生地の屑が零れ落ちてしまっているのかもしれない。そう思って食べていた辺りを細かく見ると、生地の屑と粉砂糖が散らばっていた。それは隅々まで眺めないとわからない程度のものだったけれど、なにが切っ掛けで気付かれるか予測ができない。僕はティッシュを持ってきて、それらを拭き取った。

 これでタルトの食べ跡を見つけて気付かれることはないはずだ。僕は再びテーブルへと視線を向ける。コーヒーの入ったカップセットが斜向かいに並んでおり、その隣にマカロンが入った大皿が配置されている。先ほどタルトをのせていた小皿を片付けたので、そこには不自然な空間ができていた。これではカップセットの並びに違和感がある気がする。カップセットを向かい合わせに変えて、マカロンをその近くに寄せた。

 これでマカロンをおやつにコーヒーを飲んでいる構図に見えるだろう。……いや、本当にそうだろうか。

 大皿にはまだマカロンが大量にのっている。紙箱を開けて大皿に盛った時、十二個のマカロンが入っていたのを確認した。僕と八代がひとつずつ食べたので、ここには十個のマカロンがあるはずだ。マカロンがいくつあったのか、元の数を光里は知らない。けれどこの数ならば、まだ大して手をつけてはいないと思うだろう。それにしてはコーヒーの量が減りすぎている気がする。

 僕たちはタルトを食べながらコーヒーを飲んだ。八代の話をしながらゆっくりと飲んでいたので、コーヒーは冷めて湯気も出ていない。麦茶が机の上にある以上、マカロンに合わせてコーヒーを持ってきたと考えるのが自然だ。であれば、もう少しマカロンは減っていなければおかしい。眼前に広がる光景では、大量のマカロンに対してコーヒーが明らかに減りすぎている。これでは辻褄が合わない。他のなにかを食べていたのではと光里が察してもおかしくない。これは懸念材料だ。

 ではどうするべきか。マカロンに対してコーヒーの量が合わないのであれば、マカロンを食べて調整すればいい。そう思ってマカロンに手を伸ばすけれど、いくらなんでも一人で減らすのは難しい。タルトを食べたのでそこまでお腹は空いていない。八代の協力が必要だ。けれど、果たして八代は食べられるだろうか。

「マカロンってまだいくつか食べられる?」

 僕の言葉に八代はマカロンを見てから僕に向き直り、

「いや、無理だな。頑張っても一個だ」

 と答えた。

 このマカロンは甘すぎると言った八代に無理はさせられないだろう。いつ光里が来るか不確定な状況で、無理やり食べて数を減らすのは非効率だ。誤魔化す手筈は迅速に行われなければならない。となればこっちだろう。

「コーヒーを片付けよう」

 残り少なくなったコーヒーを一気に飲み干した。八代もそれを見て、僕と同じようにしてカップの中身を空にした。

 空になったカップセットを再び台所に行って片付けた。シンクには証拠となる小皿とカップセットが水に浸けてあるけれど、これは問題ないだろう。光里が台所にくる用事は飲み物かおやつを取るくらいなものだ。わざわざシンクの中を覗きはしないだろう。それに、お昼に使った食器と調理器具を洗って水切りかごは一杯になっている。注意して見なければ入りきらなかった食器を水に浸けておいただけに見える。と思いたい。

 こうしてテーブルの上にはマカロンがのった大皿と麦茶、それに八代の教科書とノートのみとなった。片付けたおかげですっきりとしている。情報は少なければ少ないほどいい。これで光里がここを見ても違和感を抱くことはないだろう。

 いつまでも偽装工作に時間は割けない。髪を整えて着替えてくるのであれば、まだ少しは時間があるだろうけれど、ここらで落ち着くべきだろうか。誤魔化している最中に光里が来ても、それは情報になってしまう。ある程度の余裕はみておくべきだろう。

 そう思ってソファーに腰を下ろした。いくら光里でも、前情報が無い状態でタルトに辿り着くことは難しいはずだ。その上で偽装工作までしたのだから、ほぼ不可能と考えていい。そう思いながらも、僕は光里が居間に来た時にどう見えるのか、頭の中でシミュレーションをした。

 居間の扉を開ける。そこには僕と八代がいる。勉強に区切りがついたと言ったのだから、なにもしていないのは違和感がないはずだ。テーブルの上にはマカロンと麦茶と教科書とノート。マカロンを見て、うちには無いお菓子だから、八代が持ってきたのを二人で食べているのだと考えるはず。飲み物の麦茶は多少減っているけれど、これは問題ない。これは勉強中に用意したものだと言えば、マカロンと差があることに説明がつく。

 なにも問題はないように思えた。けれど、このシミュレーションはなにかが抜けているような気がした。そしてそれは致命的なミスとなってしまう予感がする。一体僕はなにに不安を感じているのだろう。僕は思案して、その不安の正体に気付いた。

「八代、窓を開けよう」

「窓?」

「そう、この部屋の窓を全部」

 僕はエアコンの電源を切って窓を開けた。窓を全開にすると空気が循環してカーテンが揺れる。こうなれば、あとは光里が来るまでに換気が終わるのを祈るばかりだ。

 僕が光里の部屋から戻った時、居間がインスタントコーヒーの香りで充満していたのを思い出したのだ。今では鼻が慣れてしまってコーヒーの匂いがわからなくなっている。けれど、居間に入った時に光里は気付くだろう。そしてコーヒーの香りがするのにテーブルの上にはないことに違和感を覚えるはずだ。そして、そこには八代が持ってきたであろうマカロンがある。コーヒーは飲み切っているのに大量に余っているマカロンを前にして、他になにかを食べていたと察したことだろう。

 この段階で気付けて良かった。光里が居間に来る直前に換気をしても、匂いはすぐには消えない。ある程度は時間に余裕がないと間に合わなかった。

 運が良いことに穏やかな風が絶え間なく吹いていた。昼食後に換気していた時は汗が滲むくらいには暑かったけれど、時間帯が変わって吹きこむ風は肌を心地よく撫でていった。エアコンの人工的な涼しさよりも、むしろ気持ち良いくらいだ。これなら窓を開けていても不自然ではない。

 シミュレーションによって気付いた不安材料はこれで解決できたはずだ。まだなにかできることはないか、僕はもう一度考え直しテーブルに目を向けたところで、階段を下りる足音が聞こえてきた。準備を終えた光里がこちらに来ているのだろう。時間切れの合図に、僕は何事もなかったかのようにソファーに腰を下ろした。

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