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「さて、聞き込みは終わった訳だけど」
話の切っ掛けを作るように、まずは僕が発言する。
「特に何もなかったね……。ごめんね、わざわざ私の為に動いてくれて」
臼井さんが申し訳なさそうに体を小さくしてそれに続く。僕が勝手に首を突っ込んだのだから気にしなくてもいいのだけれど、当事者としてはそうもいかないのかもしれない。
『意味ありましたよ。何故体操服は無くなったのか、とりあえずの説明はつくと思います』
そんな諦めムードだった僕たちの間に割って入るように、光里はそう言った。思いがけない言葉に僕と臼井さんは二人して、えっと小さく驚きの声を上げた。何か新しい情報があっただろうか。今残っている同級生からは何も聞けなかったというのに。
「嘘をついてる人でもいたの?」
と言っても一言か二言での会話をしただけで、光里がその真偽を見極める事は困難だろう。携帯を通じて相手の表情や仕草がはっきり判別できたとも思えない。
『いや特には。元々誰かが知っている可能性は低いと思ってました。本当のところは、この階の様子がどうなっているか確認したかったんです。聞き込みはそのついでみたいなものです』
聞き込みに行く前に、妄想の範疇であれば思いついている事があると言っていた。可能性を絞り切れる情報が、聞き込み以外の要素にあっただろうか。ごく普通の、何の変哲もない放課後の様子にしか見えなかったけれど。
「光里ちゃん、教えてくれる?」
臼井さんは居住まいを直して携帯へと向き直る。これが今回の話の核心だからか、先程の更衣室で見せた食い入るような態度ではなかった。その真剣さを受け取り光里は、はいと返事をしてから話し始める。
『これは言ってしまえば、偶然のすれ違いが起こした結果です。偶然に偶然が重なったから不思議なように見えているだけの、何でもない話です』
「あれ? 偶然性の高い可能性は排除するって言ってなかった?」
三つの前提の上で考えると、光里自身が条件を提示していた。その三つ目の前提が偶然は考えないといった内容だったと思う。光里の事だからそれを忘れているとは思えないけれど。
『正確には“現実的に考えにくい可能性については排除する”です。起きてもおかしくないと思える可能性はその限りではないです』
そういえば、根拠がなく偶然性の高いものは考えないという旨を言っていた。という事は根拠があればいい訳だ。どうも自分の中では上手く解釈できていなかったらしい。
「それで、すれ違いって?」
臼井さんが続きを促すように聞いてくる。それを聞いて、光里は一度小さく咳払いをしてから説明を始めた。
『体操服が無くなるには“先輩が放課後に追試があると知っていた上で、人目の中で気づかれず鞄から取り出す”、もしくは“普段は利用されない更衣室に誰かが入り、気づかれにくい場所に置き忘れた体操服を見つけて回収する”という二つの条件の内のどちらかをクリアしないといけません。であれば、クリアしやすい条件は断然後者だと考えます。つまり、先輩は焦って体操服を更衣室に置き忘れてたんですね』
教室で盗まれた可能性はほとんどない、と光里は言っていた。光里ほど具体性をもった説明はできなかったけれど、僕も盗むのは難しいと考えていた。であれば後者の方に可能性を見出すのは自然の流れだろう。けれど、誰が何の理由で更衣室に入ったのか特定するのは不可能のように思える。
「確かにあの時の私は急いでいたから、置き忘れたとしてもおかしくないと思う。絶対に鞄に入れたって言い切れる自信はないかも」
『体育の授業が終わってから先輩が更衣室を確認するまでには一時間近くの間がありました。その間に女子更衣室に入る用事があって、尚且つあの棚にあった体操服に気づけた人がいます』
臼井さんは、運動部は部室で着替えられるので更衣室を使う人はいないと言っていた。体育の授業で着替え損ねた人なら使いそうなものだけれど、最後に使用していた臼井さんは着替えに間に合っている。それ以外でとなると……全く思いつかないけれど、女子更衣室に入るとなれば女性だろう。そんな事を考えていると、
『更衣室に入って体操服を回収したのは勝田先生です』
と思ってもいなかった人物の名前を光里が告げた。
「勝田先生? 勝田先生がなんで女子更衣室に入るの?」
臼井さんも、僕と同じく思ってもいない人物の名前が出た事に驚いているようだった。
『聞き込みに行ってもらった時、誰もいない教室には鍵がかかっていました。教室の戸締りって誰がするか二人は知っていますか?』
言われた僕と臼井さんは顔を見合わせた。互いに様子を窺いながら答える。
「私は誰がしているかは知らない」
「僕も。教室が戸締りされる事すら知らなかったよ」
生徒の間でそういった係りは決められていない。そもそも帰宅時間がバラバラな生徒にさせるのは難しいだろう。
『その戸締りの担当が勝田先生です。先輩が追試を受けている時、兄さんが進路調査票に悪戦苦闘している時、勝田先生は教室を戸締りをしていたんです。一つ一つ教室を覗いて、誰もいないようだったら鍵を掛けてまわっていました』
「勝田先生は確かに一年生の学年主任だけど、だからといって教室の戸締りの担当とは言えないんじゃないかな。担任の先生がそれぞれ鍵を管理しているのかもしれないし、用務員さんが担当していてもおかしくないよ」
戸締りを誰がしているのか、生徒である僕たちには知らされてはいない。特定できる根拠がない限りは決めつけになってしまう。
『いえ、勝田先生です。本人が兄さんに言ってました』
「え、僕に?」
予想外の言葉に、勝田先生とのやり取りを思い返す。職員室を出た僕は勝田先生に挨拶をした。確か勝田先生は挨拶ついでに――
『勝田先生は兄さんにF組の生徒かと聞いたんです』
そうだ。僕はそこで自分の所属するクラスを言い当てられたのだ。
「それがどうして戸締りをしていることになるの?」
判然としない答えに臼井さんが疑問を投じる。僕も同意見だ。それは戸締りをしていた根拠にはならないと思う。
『兄さんは勝田先生の事を記憶力が良いと言ってましたけど、それは違います。接点が無い人の顔や名前を覚えるのは難しいです。実際、兄さんは先生の名前を憶えていませんでした。それに生徒からならまだしも、先生から見れば生徒はたくさんいます。兄さんを記憶していると考える方が不自然です』
先生から見れば生徒は約二百四十人。その中で全く接点のなかった僕の事を知らなくても当然だ。けれど、
「でも実際僕はF組の生徒かと聞かれたよ。それって少なくとも僕の学年くらいは知っていたってことだよね」
クラスを聞かれたのだから、学年くらいは知っていないとおかしい。僕の事を知らないというのなら学年すらわからないはずで、先生は学年とクラスの両方を聞いてくるはずだ。
『学年は見ればわかるじゃないですか』
「え、何で?」
中学生の時には制服の胸元に学年とクラスが刻まれたネームプレートを付けていた。けれど高校では付けていない。何か特定できるものがあるだろうかと思案していると、臼井さんが言った。
「上履きの柄の色ね」
『そうです』
はっと思い自分の足元を見る。上履きは白を基調にして横向きにラインが三本通っている。そのラインの色は学年毎に決まっていて一年生は赤色だ。そういえば体育の授業の時、同じ話題を八代と喋っていた。それと同時に、勝田先生に挨拶した時に不意に目線が下へと向いたのを思い出した。あれは僕の学年を確認していたのか。
『勝田先生は戸締りをしていました。恐らくA組から順にF組に向かって。ちょうどどこかの室内を確認している時に、兄さんが職員室に行ったのだと思います。誰もいなくなったF組に勝田先生が入ると、床に置かれている鞄と、机の上に書きかけの調査票があるのに気づいたのでしょう。まだF組は使用されていると思った勝田先生は戸締りをしませんでした。そして職員室に戻ったところで兄さんと鉢合わせしました』
光里は一度息をつく。僕と臼井さんが言われた事を頭の中で再現するのに十分な時間を取ってから続ける。
『そこで兄さんが一年生だと上履きで確認した先生は、戸締りで見回った時にはいない生徒だったと気づいたんです。であれば兄さんがどこのクラスなのかは自然とわかりますよね』
簡単な消去法。全ての教室を見回った人だけがわかる解答だ。僕の顔を全く知らなくても、どこのクラスの生徒なのかは容易に察する事ができるだろう。
「佐倉君を見てF組だと特定できる……それが勝田先生が全ての教室を戸締りしていた証拠になるのね」
『そうです』
「あれ、でもそれと更衣室に入るのって、何か関係があるの? 先生は戸締りをしていたんだよね? 女子更衣室には鍵が付いてなかったはずだけど」
更衣室には鍵が付いていない。その理由について考察までしたはずだ。鍵が無いのであれば更衣室の中に入ったと確実には言えない。
『鍵、あったじゃないですか。兄さんに確認してもらいました』
「あ、窓か」
教室の戸締りと聞いて、すっかり頭から抜けていた。そもそも教室を施錠する時にだって、窓の鍵がかけられているか確認するだろう。窓が開いているのに扉だけ施錠しても防犯の意味は薄い。
『兄さん曰く、先生は落とし物ボックスに小物を入れていたそうです。戸締りのついでに落とし物の確認と回収をしているのでしょう。更衣室に忘れ物が無いかも確認しているはずです』
八方塞がりだと思われていた案件が解決に導かれていく。盗難ではないんだと言い聞かせながら、あるいは願いながら、闇雲に探すしかなかったように思えたのに。暗闇の中で方向もわからずにいた僕たちを、光里は明るく照らしてくれているようだった。
「でも、先生が体操服を回収していたとしたら黄色い袋を持っていたはずよね? それなら何で佐倉君は気づかなかったのかな」
『兄さんは先生は忙しそうにしていたと言ってました。私が何故そう思ったのか聞いた時、両手が塞がるくらい荷物を持っていたと答えました。バインダーとトートバッグを持っていたそうです』
「あぁ、じゃあバッグの中に……」
『そういう事です』
手の中には回収した小物が入っていた。体操服を脇に抱えて歩き回るくらいなら、バッグに入れて持ち運んでいてもおかしくない。そしてふと疑問に思った事を口にする。
「先生は何で落とし物ボックスに体操服を入れなかったんだろう」
僕のその言葉に、光里は少しの間だけ沈黙した。光里との付き合いは誰よりも長い僕だ。その沈黙の間が、呆れた感情によるものだとすぐに察しがついた。
『……実は初めに落とし物ボックスの話を聞いた時から思ってはいたんです』
「うん」
『体操服が落とし物ボックスに入れられることはないです。落とし物ボックスの存在が全生徒に知れ渡っているくらい有名ならあるいは、と思ったので黙っていましたけど。でも、それなら先輩も確認しに行ったはずです。だから元々ありえないと思ってましたけど、案の定兄さんと先輩は落とし物ボックスの存在を知らなかったと言ってました』
もの凄く遠回しな言い方に、光里の呆れ具合が詰まっているようだった。段々と耳が痛くなってくる。
『名前が書いてある体操服を落とし物ボックスに入れる理由がないです。ましてや体操服なら学年までわかりますよね。兄さんこの前、赤の刺繍は目立って嫌だなって言ってたじゃないですか。学年と名前がわかれば、誰が拾おうと担当学年の先生に渡しますよ』
「その通りだと思います」
ぐうの音も出ない正論に、僕はそう答えるしかなかった。高校に合格して必要な物が準備できたか確認している時に、僕は光里に体操服を見ながら赤の刺繍について愚痴を言ったのを思い出した。なんだったら今日体育の授業でも八代に同じ事を言った覚えがある。なのに、どうしてこんな簡単な事も気づくことができなかったのか。
誤魔化すために、こほんとわざとらしく咳ばらいををしてまとめに入る。
「まぁとにかく、勝田先生が回収したという事なら、つまり体操服は」
『職員室に届けられてるはずです。……わかればなんて事はない話です。もし今日先輩が追試でなければ、先生が来る前に更衣室に行って回収できたはずです。兄さんが調査票を途中で切り上げなければ、戸締りに来た先生と会ったはずです。そして先生が回収したと察しがついたはずです。先輩が追試に、兄さんが職員室に、先生が誰もいなくなった教室に……偶然のすれ違いが体操服を消えたように見せただけの事です』
ついに結論が出る。わからなかった体操服の行方と経緯がわかって、臼井さんはてっきりまた拍手をして光里をたたえるのかと思っていた。しかし、予想に反して臼井さんの反応は薄かった。薄かったというより、安堵に胸を撫で下ろしているようだった。
「ありがとう、光里ちゃん。これで安心できた。……本当にありがとう」
『私は兄さんの頼みを聞いただけです。それに体操服は職員室にあったんです。私がいなくても結果は変わりませんでした』
臼井さんは横に大きく頭を振って言う。
「それでも、結果的にそうだったとしても全然違う。私、本当に不安だったの」
これからの高校生活を思えば、不安になるのも仕方がない。人生の中のたかだか三年間だけれど、今後の人生に影響の出る三年間であるのは間違いない。体操服の行方がわからないまま職員室に行くのは、大きな不安がつき纏った事だろう。それがあるとないのでは精神的な負担が全く違う。結果が同じだったとしても、臼井さんが光里に感謝の気持ちを抱くのも当然だ。
時計を見れば、時刻は十七時十五分を過ぎたところだった。僕が臼井さんに声をかけてから一時間近く経っている。今から職員室に受け取りに行けば、十七時半には間に合うだろう。
「臼井さん、とにかく職員室に行ってみたら?」
あまり話し込んでいると、折角間に合いそうなのに遅刻してしまうかもしれない。
「あ、そうだね。ちょっと行ってくるね」
臼井さんはそう言って小走りで教室を出ていった。誰もいなくなった教室に、遠ざかっていく足音が小さく響く。悪い結末にならなくて良かった。そして協力してくれた光里に感謝を述べようとした時だった。誰もいなくなった教室に光里の声が静かに響いた。
『――さて、ここからが本題です。兄さん、私は誤魔化されませんよ』
◇
日は暮れて、橙色の陽光が薄まってきた空は夜の始まりを告げているようだった。
そんな時間になって、僕は両腕に大量のビニール袋をぶら下げながら、ようやく自宅の前まで帰ってこれた。右手にはケーキ屋で貰った紙箱を持っている為、自由に使えるのは左手のみだ。ずっしりとしたビニール袋の重さに耐えながら、インターホンの呼び出しボタンに左手を伸ばす。呼び出し音が鳴ってから、数秒後にはスピーカーから音声が流れてきた。
『今、開けます』
それだけ言うと、スピーカーから聞こえてくる音が消えた。そのまま待っていると、玄関の方からぱたぱたと小走りをしているような足音が聞こえてくる。そして鍵を開ける音がしたと同時に扉が開いた。
「おかえりなさい、兄さん」
最初に目についたのは、弱まった陽光を反射して煌めく艶やかな黒髪。母親譲りの黒絹のような綺麗な髪は、さらりと真っすぐに腰のあたりまで伸びている。僕の顔を捉えている半開きの目からは、大きく黒い瞳が覗かせていた。薄暗い中でもはっきりとわかるくらいの、不健康にすら見える真っ白い肌。クロックスを履いて、歩きにくそうにしながら僕の近くまでやってくる。さほど上背のない僕の胸元辺りに頭がくるくらいの、小学生に見間違える程の小柄で華奢な体躯。
僕の妹の光里が出迎えてくれた。服は着ていた。
「ただいま。ちょっと荷物が多いから手伝ってくれる?」
両腕がビニール袋で塞がっている為、スクールバッグをリュックサックのように背負っている。家の鍵はスクールバッグのサイドポケットに入っているので、自分で鍵を開ける事すらできなかった。そんな様子を見て、光里は僕の右手にあるケーキ箱を受け取って、
「預かりました」
そう言って颯爽と家の中へと戻っていった。少しはビニール袋を持ってくれれば助かるのにと思ったけれど、せめてもの配慮か玄関の扉は開けっ放しにしてくれていた。そのまま中に入ると、なだれるように大量の荷物を玄関に置いた。両腕にじんじんと血液が行きわたるような感覚がする。重たい荷物を持ち続けていた反動で、自分の腕が妙に軽く感じた。
疲れから床にへたり込んでいると、廊下の奥からまたもぱたぱたと足音が聞こえてくる。
「兄さん、大変です。ケーキが二つ入ってます。兄さんも食べたかったんですか?」
光里は開けられたケーキ箱を持って、僕に中身を見せてくる。そこには大きな栗がのっているモンブランが二つ入っていた。
「どっちも光里のだよ。今日は頑張ってくれたからね」
ケーキ屋でモンブランを買おうとした時、残りは二つだけになっていた。一つでもいいかと思ったけれど、折角ならと二つ買ってきたのだ。
「ありがとうございます!」
そう言うと、再び小走りで廊下の奥へと駆けていく。
「今食べちゃダメだよ! 食後にしなさい!」
その小さな背中に注意の言葉を投げかけるけれど、
「わかってますー」
全く信用の無い声で返事をするのみだった。
いつまでも休憩してはいられない。買い物をしてきたので、時刻はもうすぐ十九時になるところだった。今から晩御飯の支度をしないと夕飯が遅くなってしまう。
まだ痺れている腕に気合を入れて、床に置いたビニール袋を回収すると台所に向かった。
『――さて、ここからが本題です。兄さん、私は誤魔化されませんよ』
そう言った光里の言葉に、僕は首を捻る。
「誤魔化す? 何を言ってるの?」
『体操服が消えた謎は解決しました。もうじき先輩が体操服を持って職員室から戻ってくると思います』
臼井さんの鞄はまだ教室に残っている。職員室から戻ってきたらすぐに部活に行くだろうけれど、関わった身として本当に体操服が見つかったのかは確認すべきだ。そう思って僕はまだ教室にいた。
『でもまだ、謎は残っています。……兄さんは小説をあまり読みませんよね。推理小説って知ってますか?』
光里に言われた通り、僕は小説をほとんど読まない。嫌いなわけではないけれど、小説は読み切るのに時間がかかる。学校に通いながら家事をしているので、まとまった時間が取りづらくて中々手が出ないのだ。
「殺人事件が起こって、探偵が犯人を見つけるやつでしょ?」
『馴染みのない人には、そういうイメージが強いと思います。簡単に言ってしまえば、謎を合理的に解決していく経緯を楽しむジャンルです。ありがちなのは兄さんが言ったような殺人事件です。他にも詐欺や盗難など、犯罪行為が題材になりやすいです。でも犯罪を題材にしないものもあります。“日常の謎”という日常生活の中にある、ちょっとした謎を解き明かしていく推理小説です』
「へえ、そんなのあるんだ」
推理小説と言えば、誰かが殺されて何故かそこに居合わせた探偵が事件を解いていくというイメージが強い。そして断崖絶壁に追い詰められた犯人は諦めて自白する……いやこれはドラマか?
『日常の謎は日常風景にある違和感の原因を追及すること、そして事件性が低いので解決できなくても問題にならないことが特徴です』
「うーん……あんまりピンとこないかも」
『晴れの日に傘を持っている人がいたら、変だとは思いませんか?』
「そうだね、何か事情があるのかなって思う」
『その事情を推測して結論を出すんです。仮に結論が出せなかったとしても誰も困らないですよね。これが日常の謎です』
「あぁ、なるほど。なんとなくわかった」
普段の生活に潜む、ちょっと気になった事の理由を突き詰めるといったところだろうか。それなら何でも題材にできそうなものだ。こんな時間の教室に何故まだ臼井さんの鞄が置いてあるのか、というのも十分に謎として機能するだろう。
『兄さんの言った推理小説との違いは謎が謎として認知されにくいところです。原因を作った本人からしてみれば何でもないような事ですから。日常風景に溶け込んでいる違和感に気づく存在がいることで、初めて生まれる謎なんです』
臼井さんの鞄を例にするのなら、僕からしてみれば謎にはならない。何故教室に残っているのかを知っているからだ。事情の知らないクラスメイトが教室に来て、鞄を見つけて違和感に気づく事で初めて日常の謎として成り立つ。
『今回の体操服が消えた件も、推理小説のジャンルに当てはめるのなら日常の謎に位置すると思います。けれど、これは本来はそうならないはずでした。鞄にしまったはずの体操服が無くなった。更に放課後には使われない更衣室を探しても見つからなかった。ならば盗まれたのではないか。先輩がそう考えて、不安を抱きながらも職員室に行って体操服を見つける。それだけの話でした。勝田先生が戸締り作業中に見つけてくれたよと説明を受けて、そうだったんだと納得して、謎は生まれる前に消えていったでしょう』
「まぁ、そうなっただろうね」
光里の説明にわからないところは特にない。けれど、何故こんな説明をしているのかがわからない。
『これが日常の謎になった原因は兄さんです。教室には兄さんがいたと新しい情報が加わることで違和感が生まれ、この件は日常の謎になりました』
「確かにそうかもね。僕は盗まれた可能性を低くする証人だった。それがより一層謎を濃くした感じはしたね」
『でももうひとつ日常の謎はありました』
「そんなのあったの?」
『兄さんの居残りです』
「え?」
一体何の事だろうと思案する。僕が教室で居残っていた事が、どうして日常の謎になってしまうのか。
『日直なので学級日誌を書く為に居残っていた、これはわかります。だけど進路調査票を居残ってまで書く必要はありませんでした。それは今週中までに書けばいいって兄さんが言ってました。普段家事があるからと直帰する兄さんが、期限に余裕がある進路調査票を居残って書こうとしていた。これが残っている謎です。私が気づいていなければ生まれる事のなかった日常の謎です』
そんなの謎でも何でも――と思ったけれど、光里の“原因を作った本人からしてみれば何でもないような事”という説明が頭をよぎった。成程、こういう事か。
そういえば光里は僕が協力を頼んだ時に、何故僕が居残っていたのかを聞いてきた。あの時点で光里はその理由について考えていたのだろう。
『兄さんは何故居残っていたのか。その謎を解く鍵は、お弁当です。あ、卵焼き美味しかったです』
「それは良かった。僕は友人のせいで食べられなかったから出来の良さはわからなかったけど」
『甘くてふわふわでした。甘くてふわふわは正義です。――でも、お弁当で手作りだったおかずはそれだけでした。冷凍食品を詰め合わせたといった印象です。そんなお弁当を食べた時、私はさてはと思って冷蔵庫を開けました。食材がほとんどありませんでした。そして居間のテーブルに残っていたチラシを見て閃いてはいたんです』
そこまで聞けば、僕が居残っていた理由を光里が理解しているだろうという事はわかった。けれど口は挟まずそのまま続けさせる。
『そしてお風呂に入っていたら、兄さんから電話がきました。話の流れで必要のない居残りをしていたのを確認して確信しました。……スーパーの特売まで時間を潰していましたね?』
「そうだよ」
特に隠していた訳でもなんでもない。食材が無くなったから買い出しにでも行こうかと思っていたら、今朝スーパーで特売をするチラシがあったのを覚えていたのだ。だからその時間まで暇潰しでもしていようと居残っていた。
『甘かったですね、兄さん。私を誤魔化すには情報を与えすぎました』
「誤魔化してるつもりなかったんだけど」
ここまで長々と説明された訳だけれど、つまり僕がスーパーに行くのは知っていたと言いたかったのだろう。それならば一言でそう言えばよかったのに。
「それで、何が言いたいの?」
『兄さんの作るケーキは美味しいです。でも兄さんのケーキは手作りだからこそ弱点があります』
僕の趣味の一つにお菓子作りがある。そして時間のある休日には手のかかるケーキなんかを作ったりしている。それを光里とよく一緒に食べて過ごすのだ。
『時期によって作れない種類のケーキがあることです。旬の時期でないと売ってない食材があった場合、兄さんはそれを作ることができません』
「そうだね」
『食べたければ、ケーキ屋さんで買うしかありません。でもわざわざ外出してまで食べたい訳ではないです。そんな時に兄さんからの頼み事です。これは協力するしかないでしょう』
「……何が食べたいの?」
ここまで聞けば、光里が何故こんな説明をしたのかはさすがにわかった。僕に恩を売ってお使いを頼みたかったのだ。
『モンブランです。栗のやつです。あのスーパーにはケーキ屋さんが併設されてるはずです』
栗のモンブランとなれば、確かに今の時期に手作りは難しい。栗が売り場に並ぶのは収穫時期である秋から冬頃にかけてだからだ。通販を使えば手に入れる事もできるかもしれないけれど、わざわざ取り寄せてまで手作りモンブランを作ろうとは思わない。滅多な事では出かけない光里がモンブランを口にする為には僕が作るしかない。なので栗が買えない今の時期に食べたくなったら買ってきてもらうしかない訳だ。
「わかった、ついでに買ってくるよ」
言いながら、僕はちょっとした違和感を覚えた。
『ありがとうごいます!』
そんなやり取りの後、少ししてから臼井さんは教室に戻ってきた。その腕には黄色いナイロン製の袋が抱えられていた。
いつもより少し遅い時間の夕食を終えて、テレビを見ながらご所望のモンブランを平らげた光里は満足そうに自分の部屋へと戻っていった。
僕は二人分の食器を洗いながら、小さく溜息をついた。今日は疲れる一日だった。臼井さんの一件は肉体的に負担になるようなものではなかったけれど、気疲れする内容だった。当初想定していた時間よりも居残る事になったり、特売の時間に間に合うように慌ててスーパーに向かったり、大量の荷物を抱えて帰ったり、急いで夕飯の支度をしたりと息をつく暇もない状態だった。そうして今になってようやく落ち着く事ができたのだ。
洗い終えた食器を乾拭きして水切りかごに置く。昨日は休日だったので、家事はあらかた片付いている。さすがに一息つこうと考えて、飲み物でも用意しようかと冷蔵庫の扉を開けた。そこにはケーキ箱が入っていた。光里が先程食べていたはずなのに、何故まだここにあるのだろうかと疑問に思って見てみると、購入した時にはなかった紙片が張り付けられていた。そこには、
『シスコンの兄さんへ 今日はお疲れさまでした。兄さん頑張ったのでひとつあげます 兄想いの妹より』
と書かれていた。
思わず笑みがこぼれる。協力を頼んだのは僕だし、解決に導いたのは光里だ。遠慮せずに二つとも食べても良かったのに。けれど、その心づかいが嬉しかった。買ってきたのは僕だけど。
皿洗いを無駄にしないように、このままケーキ箱を紙皿として使ってしまおうとそのまま取り出す。冷蔵庫に入れておいたペットボトルのお茶でも飲もうかと思っていたけれど、折角だから紅茶でも入れよう。栗のモンブランにはアッサムが合う。
紅茶の用意ができるまで待っている間、教室でのやり取りを思い返した。
光里は推理小説における日常の謎について教えてくれた。日常生活の中にある謎を解き明かしていく推理小説。解かれなくても問題にはならない、そもそも他人に気づかれなくては生まれてこない謎。光里は普段はすぐに帰る僕が教室に居残っているという違和感を日常の謎として推理した。結果、スーパーに買い物に行くのだと予測して、モンブランを食べる為に僕の協力をしてくれた。
――果たして、本当にそうだろうか。
紅茶が用意できたので、ケーキ箱と一緒に居間へと持っていく。テーブルにそれらを持っていくと、テレビを点けて暇潰しができそうな番組を適当に探す。
そもそも、説明なんていらなかった。僕が光里に抱いた違和感はこれだ。日常の謎は違和感に気づく事で生まれるものだという。だとすれば、これも日常の謎だ。そして謎だというからには生まれた理由があるはずだ。
ただモンブランが食べたくなっただけならば、推理のご褒美に買ってきてくれと言うだけでよかった。いや、なんだったら僕がスーパーに行くのを察した時点で、帰りに買ってきてくれとメッセージを送ってくれればそれでよかった。別にお礼代わりでないと買うのを渋る理由もない。
では何故わざわざ説明したのか。それは、協力したのはモンブランを買ってきてもらう為だった、という建前が欲しかったからではないか。
他人の問題に無闇に首を突っ込んでも碌な事にはならないと光里は言っていた。あれは僕が他人の問題に巻き込まれないようにとしてくれた忠告だ。忠告をした本人が簡単に協力する訳にはいかないだろう。
けれど、ただ頼む事しかできなくなった僕に、光里は折れて協力してくれる気になったのだろう。でも忠告をした手前、協力するのには理由が必要だった。だから協力したのは、お礼にモンブランを買ってもらう為だったという事にしたのだ。
どうしても食べたい訳ではなかったからこそ、今こうして僕の目の前にモンブランがあるのではないだろうか。甘いものに目が無い光里が、食べたくなったはずのモンブランを分けてくれる理由は他に思いつかない。
それがわかったとして、僕は光里にそれを言うつもりもない。言ったところで何もならないし、考えすぎですと一蹴されるのは目に見えている。これは日常の謎だ。解かれなくても問題にはならない。
ケーキ箱を開いて、食べやすいように解体する。そして中から出てきたのは――大きな栗がのっていた跡がついている、頭のへこんだモンブランだった。
……やっぱり考えすぎだったのかもしれない。夕食でお腹がいっぱいになって、それでも胃の中に押し込むように食べていたのかもしれない。この季節外れのモンブランを。