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高校生活と言えば、青春の只中だというイメージがある。
しかし、今のところの僕の中では中学生時代と大して変わらないという印象だ。まだ見ぬ高校生活に淡い期待を抱いていた訳ではないけれど、何となくこれからの生活に変化があると無意識に思っていたのかもしれない。中学校に進学した時は勉学の面でも生活習慣の面でも大きな変化があったように思える。朝起きて制服を身に纏うのが新鮮で、初登校の時は小さく抱いた高揚感を初めての自転車通学で更に膨らませたものだった。定期テストが始まって周囲の生徒と学力を順位で競ったり、三年後にある受験に一抹の不安を抱いたりと、小学生時代にない事がたくさん起きて慌ただしい三年間だった。
それに比べると、高校生になった時の変化は少ないように感じる。新しい授業科目が増えたけれど、中学生になった時ほど大きく変わった訳でもない。通学は高校の方が近く徒歩に戻った。三年後に来る進路選択は、受験を経験し突破した達成感を得ている僕にはまだ不安にさせる程ではなかった。
それでも大きく変わったものがあるかと言われれば、ひとつだけある。給食が無くなって、昼食は自分で用意しなくてはいけなくなった事だ。お弁当を持参するか購買で昼食を買う必要がでてきたが、僕は自分でお弁当を用意することにした。元々朝食を用意するついでに、妹の光里の分の昼食も一緒に作るのが習慣だった。朝食、昼食、お弁当とそれぞれ別メニューで作るのはあまりに時間が足りないので、光里の分の昼食は僕と同じようにお弁当という形でまとめて作る事にした。高校生活で変わった事なんて、精々このくらいのものだ。
そういった事情で、僕の高校生活の朝はお弁当作りから始まる。台所に立ってお弁当作りに取り掛かる。昨日の晩御飯の残りは無い。一品でもそれで賄えると随分と楽なのだけれど、生憎と昨日全て食べきってしまった。しかし朝に一からおかずを作っていると、とてもじゃないけど時間が足りない。冷凍庫を開けてみると、お弁当用に買った冷凍食品がいくつかあったので、その中からコロッケと唐揚げを選んだ。野菜としてブロッコリーとプチトマト。あとは卵焼きでも作ろうかと冷蔵室を開けると、ほとんど食材が残っていない事に気が付いた。
卵を二つ取り出して、黄身と白身に分けていく。今日のお弁当はほとんど詰めるだけなので、卵焼きくらいはと、ひと手間かけて作る事にした。
ご飯をよそって、出来上がったおかずをお弁当箱に詰め込んで完成。ダイニングテーブルには僕の分と光里の分、二つのお弁当箱が並んでいる。
耳を澄ましてみるけれど、二階から人の気配はしてこない。光里はまだ寝ているようだ。それならと自分の分だけトーストを焼いて朝食にした。焼きあがったトーストを居間に持っていき、テレビをつけて齧りつく。天気予報で今日は雨が降らないことを確認してからニュースを見るが、特に気になるものはなかった。
今朝郵便受けから持ってきた新聞を広げると、一緒に挟まっていたチラシが散らばった。自動車の広告、スーパーの特売、近日オープン予定のレストランの告知。興味を惹かれ目を通すが、そろそろ家を出ないと遅刻しそうな時刻になっていることに気が付いた。
慌てて玄関に向かい靴を履いていると、二階から人の動く気配がした。恐らく光里が起きたのだろう。玄関から外に出ると、気温は温かく心地よい風が肌を撫でた。ポケットから携帯を取り出して、光里にメッセージを送る。
『風がすごく気持ち良いよ。絶好の登校日和。光里も今日は学校に行ってみない?』
メッセージを送った後も、そのまま画面を開いたままにする。間もなく光里から返事が来た。
『窓開けてみました。確かに風が気持ちいいです。絶好の二度寝日和。おやすみなさい』
予想通りの内容だった。光里が起きている時は、ほぼ毎日行われる朝のいつものやり取り。今日は光里が起きるのが遅く顔を合わせる機会が無かったため、メッセージでのやり取りにはなったけれど、それも特段珍しい事ではない。
光里は僕の一つ年下の妹で、中学三年生だ。しかし、学校には通っていない。中学一年生のある時から、二年間不登校である。別に学校に行きたくなくなるような、いじめや事件にあった訳ではない。学校に行く必要性がないと判断したから行かなくなったと本人は言っている。家からもほとんど出ないけれど、必要があれば外に出るのに抵抗がある訳でもないらしい。本人曰く前向きな引き籠り。
僕もそれに対して何とかして学校に行って欲しいとか、積極的に外出して欲しいとかは思っていない。光里は僕よりもよっぽど出来が良く要領もいい。そして嘘をつくような子でもない。だから本気では心配はしていない。先ほどまでのやり取りは、僕らにとっては朝の挨拶のようなものなのだ。
携帯をポケットに入れようとしたところ、メッセージが届いた。見ると猫が『いってらっしゃい』と手を振っているスタンプが届いていた。
『行ってきます』
と短く返信をして、今度こそ携帯をしまう。
五月もそろそろ終わりを迎え、初夏を思わせる陽気を感じさせる。最近はさほど暑くはなかったため学ランを着ていたが、衣替えの期間なので明日あたりから夏服に変えてもいいかもしれない。
今日は温かくはあるが湿気が少なく過ごしやすい。これなら学校に行くまでに汗ばむこともなさそうだと思いながら、僕は学校に向かった。
僕の通う村上南高校は住宅街の中にある。とはいえ僕の家から駅を挟んだ向こう側にある区画の為、歩いてすぐという程は近くはない。それなら自転車で通学しても良かったのだけれど、駅の近くというのもあり通勤通学している人たちがたくさんいて、気を遣いながら自転車に乗るのが嫌で徒歩で通学することにした。駅へと向かう人たちの流れに乗ってごった返す駅前を通り、高校のある住宅街へと入る。今度は駅へと向かう人たちを躱し、周囲の住宅から通学する村上南高校の生徒と混ざりながら校門へと辿り着く。
僕のクラスは一年F組で、一年生は四階の教室になる。階段を昇りきって左側がA~D組。右側にE~F組がある。自分の教室に入ると、ほとんどのクラスメイトは登校していた。
ちらりと黒板に目をやると、日直のところに『佐倉』と書いてあった。僕の名前だ。すっかり忘れていたが、今日は僕が日直だったらしい。各授業の号令と、黒板消し、日誌の記入が日直の仕事だ。
廊下側から数えて三列目の一番後ろが僕の席で、ここからだと教室の全体が見渡せる。鞄を置いて席に座ると、教卓に近い席の方で女生徒が何人か集まっているのが見えた。
その中心にいたのは臼井ユカリさんだ。大人しめの性格で見た目も派手ではない臼井さんは、注目を浴びてクラスメイトに囲まれるようなタイプの人間ではない。先週ずっと病欠していた彼女が登校してきたため、友達が心配で声をかけているのだろう。傍目から見て顔色は悪くなさそうだ。
そんな様子を見ていたら、予鈴が鳴ったと同時に先生が教室に入ってきた。先生から日誌を受け取りに行き、席へと戻り号令をかける。
ざっと辺りを見渡して確認する。クラスメイト計四十人、今日は欠席はいなさそうだった。
◇
お昼休みになり、教室は友人と昼食を取りながらの歓談の声に包まれていた。誰かが窓を開けたのかカーテンは静かに揺れて、室内に心地よい風を運んできてくれている。同じクラスの友人と食べる人、他のクラスに食べに行く人、他のクラスから食べに来る人、教室にはいろんな人が行き交って授業間の休憩とは違うグループが形成される。そんな中で僕はこんなことを思案していた。
親友とは何だろう。人との関係性を表す言葉だけれど、これほど曖昧なものはないのではないだろうか。家族とは婚姻を結んだもの、血縁関係、養子縁組。戸籍上は関係なくとも互いが家族だと認識していれば、それもまた家族と呼んでいいだろう。では、恋人とは。お互いに恋しく思いあっている同士で、相思相愛の関係をいう。これもまた互いがそういう関係だという認識がある。
では、親友とは。血縁関係でもなく戸籍上の関係でもなく、ましてや恋愛関係でもない。一番仲の良い友人はこの人だと、互いに思っていれば親友なのか。そうなのかもしれない。しかし、それはいつ認識する機会があるのだろう。お互いが親友だと認識しあう切っ掛けが、親友関係というものにはないのだ。認識できないのであれば、何をもって親友と呼び合うのか。
何故そんなことを考えているのかというと、一緒に昼食をとっている大和田八代という人物がこんなことを言ったからだ。
「その卵焼きくれよ。俺達親友だろ?」
僕の返事を待たずに、卵焼きは弁当箱から八代の口に入っていった。
僕の交友関係は、基本的に広く浅い。深く踏み入った特定の人物がいたかどうか、思い返しても心当たりはない。しかし、確かに同じ中学校出身で僕の家の事情を多少なりとも知っているという点を踏まえれば、八代が現在付き合いのある友人たちの中で最も仲の良い人物であると思える。
だが、仲の良い友人がこんな理不尽をするだろうか。少し考えて、思い至った。そうか、仲が良いからこそ理不尽な事をする。そして、それを許せるからこそ親友なのだ。これこそが親友だと認識しあう合図なのだ。であれば、僕が取るべき行動は文句を言う事ではない。同じ様に理不尽で返すべきだ。そして笑いあって、晴れて僕たちは親友同士という訳だ。
八代の手にあるホットドッグのソーセージに手をかける。そのまま引き抜こうかというところで軽く手をはたかれた。
「いや、何やってんだよお前」
どうやら思い違いだったようだ。卵焼きを返してほしい。
「ってこれ、なんかすげえフワっとしてるな」
「焼く前にメレンゲを作るんだよ。それから黄身と合わせて焼くとふんわり仕上がるんだ」
何度か咀嚼して飲み込むと八代は感嘆の溜息をついた。
「すげえな。妹……光里ちゃんだっけ。料理上手なんだな」
「え、何で光里が出てくるの? 作ったのは僕だよ」
そもそも光里は料理ができない。下手だからできないのではなく、挑戦したことがない。料理は趣味というのも相まって僕の担当だ。
「妹と二人暮らしだろ? なら女の子が料理するもんじゃねえの?」
酷い偏見だ。食材を調理するのに性別は関係ないだろう。
「何か急に味が落ちた気がするな……」
失礼な奴だなと溜息をつきながら、唐揚げとご飯を口に入れる。飲み込んでから最後の一切れになった卵焼きに箸を持っていくと空を切った。
「うん、でも美味いな。だし巻き卵の方が好きだけど、この食感なら甘いのもいい」
「味が落ちたんじゃなかったの?」
気が付くと最後の一切れは再び八代の口の中に消えていた。結局僕は一切れも食べていない。朝からメレンゲを作った苦労が水の泡になってしまった。
「まあまあ、落ち着けって。俺いつも購買のパンだろ? たまには手作りの味ってやつを感じたかったんだ」
「おかげで僕の残りのおかずは冷凍食品だけだけどね」
まぁでも、自分で作ったもの美味しいと言ってもらえて悪い気はしない。弁当を食べ終えて片づけていると携帯が振動した。
『たまごやくおいしう』
光里からだった。二度寝すると言っていたけれど、お昼には起きたようだ。
『食べながら携帯弄らない』
と返信しておく。食べながらメッセージ送ってくるくらいには良い出来だったのだろうか。味見もしていないので僕には知りようがないけれど。やはりソーセージくらい引っこ抜いておくべきだった。
五時限目の世界史の時間は、ひどく退屈なものだった。
先週まで中間考査だった為、今日の授業はほとんどテストの返却と解説だ。他の科目の解説なら復習として役に立つ。けれど世界史は記憶違いだったものや、そもそも覚えてすらいないものが不正解になるので、答えだけ教えて貰えれば十分だ。解説を聞いていても、あぁそういえばそうだった、くらいの感想しか出てこない。
そんな退屈な世界史の授業が終わり、最後の授業である体育が始まった。
この間までは体育館でバレーボールだったが、今週からは校庭でサッカーになった。体育は二クラス合同男女別で行われる。一クラス平均四十人。男女比はほぼ五分五分で二十人ずつ。なので体育は男子四十人くらいになる。A~Dの四チームに分けられて、僕はBチームになった。
自分のはるか前方にいるチームメイトを見つめながら、僕は八代と立っていた。
「暇だな」
八代がぽつりと呟いた。
「そうだね。やることが無い」
このチーム分けは失敗だ。サッカー部が固まらないように配慮されてはいるのだろう。そして運動が得意な人とそうでない人を上手く分けて平均化しようとしているのもわかる。けれどサッカーに齧っていた人物がこんなにBチームに寄ることになるのは、先生も予想外だったに違いない。
センターラインから自軍側のフィールドには僕と八代とゴールキーパーが暇そうに立っている。反対側では終始攻め続けているBチームと、それをしぶとく守り続けるAチーム全員の姿があった。
「これって俺らも参加した方がいいのか? そもそもディフェンダーって攻めていいのか? サッカーのルール知らないんだけど」
「僕も詳しくは知らない。もし、攻撃に参加していいのだとして、ここで暇そうにしているのは成績的にどうなのかな?」
減点になるとしたら理不尽だ。自軍が勝っているのだから、ディフェンダーは暇になる。戦略としては一緒に攻めるのが正解で、ここで立っているのは間違いなのだろうか。しかし、僕たちはそうしていいのかを知らない。サッカーはメジャーなスポーツだけれど、ルールの全てを理解している訳ではない。
「この場合チームが勝てば評価されるのか? でも個人の技術とか積極性でも見るはずだよな。それならチームは勝ってるが何もしてない俺らは、一体どんな評価を下されるんだ?」
「先生のチーム分けがそもそもの原因なんだから、僕たちの評価も配慮願いたいね」
そうだな、と八代は肩をすくめた。僕も八代も、こんな会話をしているが本気で成績を気にしている訳でない。体育の成績がどういう基準で評価されているのか何て知らないし、気にしたことも無い。ただ暇なのだ。
「メジャーなスポーツだからって説明サボらずにルールくらい教えて欲しいよな。……しっかし目立つよなぁ体操服」
「確かに」
大抵どの学校でもそうだとも思うけれど、体操服と上履きの一部の色は学年によって分けられている。紺・深緑・赤の三色で、僕たちは赤色だった。今の三年生が紺色で、卒業すると新しい一年生がそれを引き継ぐ。大人しめの色の中、赤色だけが鮮やかに映えている。
「まぁ別にこれで外に出かける訳でもないし、いいんじゃない? 派手なのは気になるけど」
「いいんだけどな、男どもが鮮やかな赤の短パン穿いてボールに群がってる姿はちょっと滑稽だぞ」
赤色は何となく女性的なイメージだ。高校生男子が全員揃って赤というのは、見慣れていないとちょっと違和感がある。
「個人的には柄とか短パンが赤なのはいいけど、これが派手なのが嫌だな」
言って僕は胸元に指を当てる。そこには赤い刺繍で『佐倉』と縫われている。
「名前まで学年の色に揃えなくてもいいのに。別に恥ずかしい訳でもないけど、自己主張が激しいのもね」
中学校までは体操服にはネームシールが付いていて、そこに名前を書いていた。
「最近じゃ名前入れない高校とかもあるみたいだぞ」
「そうなんだ」
それはそれで他人の体操服との判別が難しくなって、結局どこかに名前を書くことになりそうだ。
「お、きたぞ!」
唐突に八代がそう言った。見るとクリアされてきたのかボールがこちらに飛んできている。しかし、こちらのフィールドには僕たちBチームしかいない。八代がボールを抑えてオフェンスにパスをした。ナイスと声が飛んできて、また同じ光景が眼前に広がった。
「やることあったわ」
八代は無駄にやりきった感じを出しながら僕のもとへ帰ってきた。勿論汗一つかいてはいない。
「こういう事があるなら、ここにいてもいいのかもしれないね」
しかし、この後授業が終わるまで特にやることはなかった。チームメイトも僕たちの立ち回りに何も言ってこないので、こういうものなのかもしれない。多分、攻めてる側は楽しくなっていて気にしていないだけだと思うけれど。
◇
六時限目の体育が終われば、後はホームルームをして解散だ。帰宅するもの、部活動に向かうもの、友人とお喋りをするものに別れて教室は騒然としている。
いつもならすぐに帰宅するのだけれど、今日はやることがある。ひとまず机に向かい学級日誌を広げた。学級日誌には出欠人数と、各授業の内容、一日の総評を記入する。勿論目の前にある学級日誌は真っ白である。
確か、今日は欠席はいなかったはずだ。各授業の内容は簡単で、体育以外は全てテスト返却と解説。今日の総評は……なんだろう? ぱっと思いつかず、持っていたペンを指先で遊びながら考える。文章を書くのは苦手だ。何を書いていいのかわからないし、思い浮かんでもどう書けばいいのかわからない。散々考えた末に、『授業態度、特に問題なし』とだけ書いた。さすがにもう少し空白を埋めた方がいいのだろうか。参考までに他の人が書いたページを見てみると、僕と似たような人やびっしりと書き込んでいる人などそれぞれだった。
そこに先生が赤ペンでコメントを書いてくれていた。さすがに一言だけで書き終えるのも申し訳が無い気がして、『テスト返却日だったので解説が主な内容でした。期末考査に向けて、今後の授業をより意欲的に取り組んでいきたい』と追加しておいた。
さて、学級日誌はこれでいいだろう。そして、机の中から一枚の用紙を取り出した。問題は次に取り掛かろうとしているこれだ。
『進路希望調査と今後の展望』
高校に入学して二か月弱。中学校から進路を決めて間もないのに、こんなものを渡されても何も書くことが無い。勿論先生もそれはわかっているようで、具体的な進学先、就職先を書けなくてもいい。少しでも展望があれば記入してほしいと言っていた。
しかし、残念ながら僕には現在そんな展望はない。何もない人間にこの空白のA4用紙はあまりに酷だ。
学級日誌に書いた二行ですら僕には捻りだした文だ。一体どうすればこの空白の海を埋めることができるのだろう。
唸りながら考えて、ぽつぽつと書き進めていく。終着点も曖昧なまま書いているこの文章は、読み返すとさぞ支離滅裂な内容になっていることだろう。けれど僕の目的は流麗な文章で今後の進路を先生に伝える事ではない。とにかくこの提出物を終わらせるのが最優先なのだ。
時間にしてどのくらい経っただろうか、さすがにもう書く内容も思い浮かばず、限界だなと感じてペンを放る。時計を見ると十六時五分だった。教室を見渡すと僕以外のクラスメイトは誰もいない。集中していて気づかなかった。あれだけ騒然としていた教室は、今では嘘みたいにしんと静まり返っている。
あと少しで終わりそうだけれど、書き終われるだろうか。最後まで粘るか考えて、とりあえず学級日誌だけは職員室に届けて、できるとこまで居残ることにした。
席を立つと教卓近くの席の横に鞄が置かれているのに気が付いた。あそこは朝、女生徒たちが集まっていた場所……ということは臼井さんの席だ。教室にはいないようだけれど、まだ帰宅していないのだろうか。
まぁいいかと学級日誌を抱えて教室を出る。すぐに戻るので教室は消灯しなくてもいいだろう。
二階にある渡り廊下を通って、特別棟に入ってすぐの所に職員室はある。距離としてはそれほど遠くはないけれど、階段を往復するのは少し億劫だ。
職員室の前にはガラスのショーケースがあり、古そうなトロフィーや賞状が飾られている。特に興味がないので詳しくは見ないけれど、大会で活躍した先輩たちが獲得したトロフィーが飾られているのだろうか。
その隣には長テーブルが置いてあり、何かのお知らせや地域の情報などが乗ったプリントが置いてある。その脇には底の浅い四角い箱が置いてあった。落とし物ボックスと書いてあるプレートが張られている。
中にはキーホルダーやストラップ、缶バッジなどの小物が入っていた。こんなものがあったのか。何か落とし物をした時の為、一応覚えておいた方がよさそうだ。
二度三度ノックをしてから職員室に入る。職員用のデスクが規則正しく向かい合わせに並んでいる中で、担任の酒々井先生を探す。僕が訪問したのに気づいて先生が軽く手を振ってくれた。
「失礼します」
と一声かけて入室する。
部活動が始まる時間だからか、放課後だというのに教員たちは慌ただしく動いているように見える。酒々井先生が落ち着いているように見えるのは、担当している部活動が無いからだろうか。先生が顧問をしているかは知らないけれど。
「佐倉、遅かったな」
先生は事務椅子を回転させて僕に向き直り、学級日誌を受け取りながら言った。
酒々井先生はまだ三十代半ばくらいの比較的若い男の先生だ。少し浅黒い肌に、短くまとまった髪型とくっきりとした顔立ちが快活な印象を与える。実際性格も嫌味が無く、生徒との距離感が程よい好印象な先生だ。
「進路調査票も一緒に提出しようと書いていたんですけど、終わらないので日誌だけ届けに来ました」
「あぁ、あれか。まぁそんなに気負わなくてもいいぞ。現段階でのアンケートみたいなものだ。程々にして切り上げろよ」
先生は爽やかに笑って受け取った学級日誌をデスクに置いた。そのデスクにはテストの解答用紙が置いてあった。先生も中間考査の採点をしているのだろう。他生徒の点数をじろじろと見る訳にもいかないので目を逸らす。
「そうします。さようなら先生」
「気を付けて帰れよ」
失礼しますと挨拶をして、職員室を出た。出てすぐに人の気配がしたので目をやると、初老の男性が落とし物ボックスに小物を入れているのが見えた。
一年生の学年主任だ。名前は何だったかと思い出そうとしたが中々出てこない。村上南高校は物理の科目は二年生からの履修になる。学年主任の先生は物理が担当で、一年生に担当する授業が無く印象が薄いのだ。
結局名前は出てこなかったけれど、わからなくても問題はない。とりあえず先生と言っておけば呼称に困ることはないだろう。
「先生、さようなら」
先生は顔を上げてこちらを見ると、目線を一瞬だけ下の方に向けた。しかし、すぐに僕の顔に向き直す。
「あぁ、さようなら。……君、もしかしてF組の生徒かい?」
皺が多く年齢を感じさせる顔を、さらにくしゃっとさせた笑顔で言った。学年集会くらいでしか話を聞いたことが無く、話し方で何となく優しそうなイメージを持っていた。年相応に落ち着いた声のトーンと、人の良さそうな笑顔がイメージ通りの人柄なのだろうと思わせる。
それにしても……僕はいまだに名前が出てこないというのに、先生は僕の事を知っているのだろうか。名前まではわからないにしても、まさか顔を見ただけでクラスを言い当てられるとは思わなかった。長く先生をやっていると生徒を覚えるのも得意になるのだろうか。
「そうですけど……よくわかりましたね」
言いながら先生を見ると、右手にはバインダーを持ち、左肩には大きいトートバッグをかけていた。あれには何が入っているのだろうか。学年主任ともなれば、僕の考えも及ばない雑多な仕事も多くあるはずだ。授業以外で必要な仕事道具でも入れているのだろう。僕が何も知らずに過ごしている陰で、きっとたくさん生徒の為に動いてくれているに違いない。
「ははっ、なんとなくね。あまり遅くならないように気を付けて」
先生はそう言って職員室の中へ入っていった。
なんとなく、か。一クラス四十人だとして六クラスで学年約二百四十人。二か月弱の期間で生徒の顔を見ただけで何となくでもクラスがわかるとは恐れ入る。生徒からしたら一年生担当の教師なんて数名程度だ。さすがに今度名前を聞いたら覚えておこう。
職員室から戻ると教室には臼井さんがいた。帰宅する準備をしているのか、鞄の中を漁っている。
僕はそれを横目に自分の席へと戻り、机の上に置かれた進路調査票へと向かい合う。酒々井先生と話した感じでは、さほど重要でもなさそうな印象を受けた。空欄を埋め尽くさなくていいのなら、文章がおかしくならないように纏めて終わりにしてしまおう。
しかし最初から読み直すと、曖昧で抽象的で何を言いたいかわからない文章だった。纏めるのが難しい。すぐに終わらせられると思っていたのに、僕はまたペンを指先で遊ばせながら頭を悩ます。
ふと視線を上げると、臼井さんが慌てた様子で辺りを見回していた。教室から出ていったかと思うと、少ししてまた教室に戻ってくる。鞄の中をもう一度確認して、今度は立ち尽くす。何かあったのだろうか。
静まり返った教室で二人きり。目の前には困った様子のクラスメイト。さすがにこれで無視をするのも薄情だと思い声をかけた。
「何かあったの?」
臼井さんは急に声をかけられたのに驚いたのか、一瞬体を震わせた。それから顔をこちらに向けて言う。
「えっと……佐倉君? うん、その」
歯切れが悪く目は泳いでいる。特に親しい間柄でもないクラスメイト、しかも異性ともなれば流暢に話せない人もいるだろう。促さないで次の返答を待った。
「ちょっと聞いてもいいかな……」
「うん、いいよ」
いまだに決心つかずといった様子だったけれど、臼井さんは振り絞るようにして話す。
「佐倉君、放課後教室にいた?」
「教室に? うん、さっき学級日誌を先生に渡すまではずっといたよ」
「その、私の机の周りに誰か来てなかった?」
変な質問だ。しかし先ほどの様子を見れば、大方何があったのか想像がついた。
「進路調査票を書くのに集中してたからよく見てなかったけど……もしかして、何か無くなった?」
そう言うと、臼井さんはまたびくっと体を震わせた。当たりだったようだ。
あの言い方に、教室に入った時の様子。何かが無くなったと言っているようなものだ。それもあれだけの慌てようとなれば、きっと何か彼女にとって重要な物のはずだ。
「何を無くしたの?」
教室には僕たちしかいない。他のクラスメイトに聞かれる心配もない。もしも手助けが必要な事であれば協力しよう。そう思って臼井さんの返事を待つ。
臼井さんはやはり迷いがあるようで、すぐには答えなかった。言いたくないのならそれでもいい。人に教えるのに抵抗がある物かもしれない。しかし少しの沈黙の後に、臼井さんは言った。
「体操服が無くなったの」
「体操服って……」
聞いてすぐ、それはおかしいと思った。僕たちは六時限目の授業が体育で体操服を使用していた。そして放課後に臼井さんがどこかに行っている間、彼女の鞄は教室に置いてあった。つまり体育の後に臼井さんが体操服を持ち歩いたのでなければ鞄の中に入っているはずだ。
「どこかに置き忘れたとか?」
臼井さんは首を横に振った。
「体育が終わって、更衣室で着替えたの。教室に戻ってからは鞄に触ってない。もしかして更衣室に置き忘れたんじゃないかって、さっき確認しに行ったけどなかった」
E組の隣り、階段との間には女子更衣室がある。男子は教室で、女子は更衣室で着替えるようになっている。一度教室に出ていったのは更衣室に確認しに行ってたのか。
「更衣室に置き忘れたのを誰かが拾ってくれたとか……いやでも落とし物ボックスにそれらしいのは無かったな」
職員室近くにあった落とし物ボックスを思い出す。あそこには小物の類はあったけれど体操服サイズの物はなかった。
「私、先週の中間考査が病気で受けれなくて……代わりに他の方法で補填する話になってたの。数学は追試って形で、さっきまでそれを受けに行ってた。追試には筆箱しか持っていってないから、体操服は鞄の中にあるはずで……」
しかし、体操服は鞄の中には無かった。置き忘れていたのなら、更衣室にまだあるはずだけれどそこにもなかった。となれば誰かが持って行ったことになる。
「職員室に行って、先生に聞いてみれば? 誰かが見つけて先生に渡してくれたのかも」
「勿論そう考えたんだけど……私ね、バドミントン部なんだ。放課後に追試を受ける事は伝えてて、そのあとに行くことになってる」
時間を見ると十六時二十二分だった。部活はすでに始まっている。あらかじめ参加することを伝えてあるのなら、急いで確認すべきだと思うけれど。
「もし、もしね、届けられてなかったら、盗まれたって事になるかもしれない。ちょっと噂になっちゃいそうで……」
臼井さんは言いにくそうにその先を濁した。仮に職員室に行ったとして、体操服が無くなったから届けられていないか聞いたとする。届けられていなかったら、教員の間で盗難の可能性を考える人が現れるかもしれない。女子の体操服が盗まれたとなれば、教員も何らかの行動に移すだろう。そうなれば噂になりかねない。個人の名前は伏せるだろうけれど、今日部活に参加するはずだった臼井さんが急に参加しないとなれば察する生徒もでてくるかもしれない。
盗まれたとしたら、その目的は何か。女子が盗んだとすれば嫌がらせか、男子が盗んだとなれば……あまり想像したくはない。どちらにせよ女子の体操服が盗まれたと聞いたら、大抵の人間はやましい事を思い浮かべる。入学して二か月弱。まだ対人関係の地盤が固まっていないこの時期に、そんな話題で注目の的にされるのは針のむしろだ。
「考えすぎなのは、わかってるの。自意識過剰なのかもって、私なんか噂にはならないだろうってわかってる。でも怖くて……」
臼井さんは俯いて、口をぎゅっと結んだ。
多分、噂になることだけが怖い訳ではない。盗まれたということは誰かに悪意を向けられているということだ。まだ始まったばかりの先の長い高校生活で、自分を害してくる人物が近くにいるという事実が怖いのだ。
ここまで話を聞いて、じゃあ頑張って探してねと流すことができるだろうか。高校生活とは青春の只中だ。青春の一ページとよく言われるように、いずれ人生を振り返って高校時代は面白かったと言う時がくるのだろう。そんな高校時代の最初の一ページがこんな始まりでいいのだろうか。僕はまだ高校生活に特別なものを感じてはいない。けれどそれは平穏無事に過ごせているからで、暗雲立ち込める事態に巻き込まれていないからかもしれない。いつか振り返った時、当時は何も特別ではないと感じていた毎日が楽しかったと思うようになるのかもしれない。それを汚されても良いものか。少なくとも汚されようとしているそれを無視することは僕にはできない。
「部活に行くまで、まだ時間あるかな?」
「え?」
「時間があるなら、どうして無くなったのか考えてみない? 先生に聞きに行くのはそれからでも遅くないよ」
一緒に考えようが探そうが真実は変わらない。もし盗まれたのだとしたら、いくら頑張って探しても見つからないだろうし、見つけられても臼井さんの気が晴れるようなことにはならないだろう。でももし盗まれていなかったのだとしたら、そして見つけることができたのだとしたら無用ないざこざを避けることができる。その可能性に賭けてみてもいいはずだ。
臼井さんは時計を見るとこちらに顔を向けて言った。
「多分、十七時半までに部活に行ければ問題ないと思う。何時に行くかは具体的には言ってないから。でも――」
「ならやってみようよ。不安なままよりずっといいよ」
「うん……うん、ありがとう」
首を縦に振りながら言う。ずっと暗い表情だった臼井さんが、初めて少し笑った。