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私を泣かせてください

作者: どくだみ

「こんないい加減な企画が通るとでも思っているの? あなたの頭の中を一度、覗いてみたいわね!」

 編集長、大田由美子の金切り声が、狭いフロアの中に響いた。重田幸三はただ頭を項垂れている。

由美子が書類をバサッと机の上に放った。綴じられていない書類は、乱雑に散らばる。幸三は下唇を噛みながら、それを見やった。

「これでも真剣に取材して、考えてきたってわけ?」

 由美子が幸三を更に問い詰める。

「はい。一応は……」

「何よ、一応はって……。そんなだから、いつまで経っても一人前の仕事が任せられないのよ。あなたの記事はまったく読者の心を掴まないわ」

 由美子の言葉はグサリグサリと幸三の心に突き刺さった。それは今日に始まったことではない。記事を書けば、必ず由美子からお咎めを受けるのだ。

「あのー、僕の記事のどこがいけないんでしょうか?」

「そんなの自分で考えなさい」

 その由美子の返答も、またいつも通りなのだ。

「あなたはね、人生経験が薄っぺらいのよ。だから、薄っぺらな記事しか書けないのよ」

 由美子のその言葉を聞いた途端、幸三はどん底へ叩き落されたような気がした。幸三は背中で同僚の記者たちのせせら笑う気配を感じていた。少なくとも、幸三にはそう感じられた。

 幸三がこの出版社に入社して二年が経つ。雑誌担当の部署に配属され、記者としてはまだ駆け出しといったところだ。今年入社した水木隆という後輩も既にいたが、彼がまだ仕事が出来ず、由美子に怒られるのは致し方ないところである。幸三はそんな水木に何の指針も示せず、ただ頭ごなしに由美子に叱られることが情けなかったのである。

「もう一度、書き直します……」

 そうは言ったものの、幸三に自信があったわけではもちろんない。そう言わざるを得なかっただけだ。幸三の肩に暗く重い荷物がドッサリと乗っかった。

「そうして頂戴。それと、一応それのフォーマットだけ貰っておくわ。社内メールで送って頂戴」

「はい……」

 幸三は書類を無造作に手に取ると、自分の席に引き上げていった。

 隣に座る水木だけが気の毒そうな視線を幸三に送っていた。だが、他の同僚は皆、自分の仕事に集中している。

 幸三は「ふうっ」とため息をつくと、椅子に腰掛け、書類を放った。

「編集長、機嫌が悪いですね」

 水木が小声で囁く。

「いつものことじゃんか」

「先輩、今夜飲みに行きません?」

「おお、いいな。ちょっと遅くなるけどいいか?」

「いいですよ」

 幸三も水木もクスッと笑った。幸三はパソコンに目を移した。今夜、水木と美味い酒を飲むためにも、今必死に仕事をしなければならなかった。


 その日の二十二時過ぎ、出版社近くの居酒屋に幸三と水木はいた。

この居酒屋はこじんまりとした佇まいながらも、活気があり、ネタもよく、そして何より安かった。当然のことながら、会社帰りのサラリーマンたちでごった返しているのだ。

「編集長はキツイけど美人ですね」

 乾杯を終え、水木が美味そうにビールを流し込む。

「ああ、美人だがキツイ……。あの下に一年以上いると嫌になってくるぞ」

 幸三がチビッとビールを舐め、運ばれてきたキスの天ぷらに箸を伸ばす。

「美味い。これは冷凍物じゃないな」

「へえ」

 水木もキスの天ぷらに箸をつけた。

「本当、美味いですね」

「こいつは釣ってきたやつだな」

「どうしてわかるんです?」

 水木が不思議そうな顔をして、幸三を覗き込む。

「大体、市場に出回っているのは中国から輸入された冷凍物で、魚臭さが鼻に付くものなんだ。こういうキスを食うには釣ってくるしかない。確かここの店主は釣り好きだったな」

「なるほどね。釣り好きって言えば、先輩も釣り好きじゃないですか。でなきゃ、特集で『なぜか、釣りデート』なんて記事、書きはしませんよ」

「まあな。だが、今はそれで苦しんでいる……」

 幸三がビールの泡に目を落とした。その瞳はやるせない。

「あーあ、このキスの天ぷらを食えば編集長も釣りを見直すと思うんだけどなぁ」

 水木がキスの天ぷらを頬張る。衣がサクサクと砕けるのが幸三にもわかった。

「いや、釣り云々じゃなくて、俺の記事の書き方が気に入らないんだろう。だが、毎回あの調子じゃ、こっちもメゲるよ」

「先輩、元気出して、ほらグーッと……」

 幸三は水木に促され、ジョッキを煽った。幸三は後輩に元気付けられる自分もまた情けなかった。ビールの泡が苦かった。


 由美子は誰もいなくなったオフィスで、一人パソコンに向かっていた。その瞳は真剣で他人を寄せ付けないオーラが漂っている。そんなオーラを察してか、遅くまで残業しているのは、いつも由美子一人の場合が多かった。

「まったく、何が『なぜか、釣りデート』よ。うちの読者の心を掴む企画を心得ていないんだから……」

 幸三が送ったフォーマットに目を通しながら、由美子がぼやく。幸三の書いた記事はややもすると、思い入れたっぷりのマニアックな記事だった。それは管理釣り場と呼ばれるマス釣り場でデートを楽しむ方策が書かれていたのだが、難解な釣り用語も多く、一般向けとは言いがたかった。

「だったら、釣り雑誌の編集に行きなさいよ……」

 それに文章は由美子からして見ると、とても稚拙に見えたのだ。由美子は自分が編集長である限り、洗練された雑誌を世に送り出すのが使命だと思っていた。そう、彼女の雑誌編集にかける意気込みは凄まじいの一言に尽きた。

「君は雑誌と結婚すればいいだろう」

 それはかつて、大分以前に付き合った男性の捨て台詞である。

 由美子はその別れの悔しさをすべて雑誌編集に注ぎ込んでいた。だから、それこそ「雑誌と結婚する」ほどの勢いで仕事に没頭しているのである。そんな由美子から見ると、幸三や水木の仕事は甘さばかりが目立って仕方なかった。由美子の熱意の甲斐があって、雑誌「シェス」は若い男女に人気を博すところとなった。流行に媚びずに、流行を創造していく雑誌などとも評されていた。であるからして、生半可な記事は許されないという使命感が由美子にはあった。

 由美子が記事と一緒に添付されてきた写真のファイルを開いた時だった。

 その写真にはルアーと呼ばれる疑似餌が写し出されていたのだが、その煌びやかさに由美子は思わず目を奪われたのだ。

「これが……釣り具?」

 あるものはシェルのような光沢を放ち、あるものは純金にも似た輝きでその存在を誇示している。それは幸三所有のルアーを写したものに過ぎないのだが、由美子には女心をくすぐるアクセサリーのように思えたのである。

「なぜか、釣りデート……か……」

 写真を眺めながら由美子が呟いた。その瞳はこころなしかうっとりとしている。由美子の目はシェルのような鈍い光を放つ、紫色のルアーに釘付けとなっていた。

(いいわ。明日、朝一で編集会議を開いて、『なぜか、釣りデート』の企画、持ち上げてあげようじゃないの……)

 由美子の口元がフッと笑った。仕事の時には滅多に見せることのない微笑みであった。


 翌朝、由美子の口から臨時の編集会議が開かれることが告げられた。

「重田君、あなたの企画だからね」

 そう由美子に言われた幸三は、途端に動悸が始まった。掌と言わず、額からも脂汗が滲んでくる。パソコンのキーボードを叩く指先が震えた。

(また俺が吊るし上げられるのかよ……)

 そう思った瞬間、眩暈に襲われた。グルグルと世界が回る。動悸は激しくなる一方で、心臓が口から飛び出てしまいそうだった。幸三はだらしなく、パソコンの上に伏せてしまった。

「先輩、大丈夫ですか?」

 水木が心配そうに覗き込む。

「うわっ、凄い汗。それに顔、真っ青ですよ!」

 幸三の異変に気付いたのだろう。すぐさま由美子が駆け寄ってきた。

「大丈夫、重田君? あなたの企画なんだから、あなたがしっかりしてくれなくちゃ話しにならないわよ。まさか二日酔いじゃないでしょうね?」

 そうは言われても、動悸と眩暈は如何ともしがたい幸三であった。幸三はハンカチで汗を拭った。綿のハンカチは絞れるほどの汗を吸い込んでいた。

「あ、はい……」

 幸三が資料を引き出しから取り出そうとした時だった。急に世界が歪んで見えた。幸三はそのまま床に倒れてしまったのである。

「重田君!」

「先輩!」

 そんな由美子と水木の声が耳に届いたような気もする。だが、焦点も定まらず、自分がどうなっているのかすら幸三にはわからぬ。ただ天井がグルグルと回っていた。


 幸三は搬送先の病院で点滴に繋がれていた。点滴を受けても胸を締め付けるような動悸は収まらない。正確に言えば、動悸は収まっているのだが、心の中にグレーの不安が渦巻いていて、それが心臓を圧迫するのだ。

 医師が検査データの紙を持って、病室を訪れた。

「うーん、検査データにこれといった異常はないねぇ……」

「はあ……」

 幸三は気のない返事を返す。

「最近、ストレスは感じていますか?」

「ストレスだらけですよ」

 すると医師は曇った顔をして、眼鏡を指で上げた。

「僕は内科医だからね、精神科は専門外なんだけど……。一度、精神科や心療内科で診てもらった方がいいですよ」

「先生は僕が狂ってると……?」

「そうは言いませんよ。ただね、検査データに何の異常もなくて、この症状から言うと、うつ病やパニック障害を疑わざるを得ませんね」

「うつ病……、パニック障害……」

 その言葉は幸三の肩に重く圧し掛かっていた。

「まあ、夕方までそのベッドは使えますから、ゆっくりしていきなさい。僕にできることはここまでなんでね」

 夕方、丁度点滴のチューブが抜けたところに由美子と水木が現れた。由美子の顔を見て、また幸三の心臓がドキンと跳ねた。

「重田君、大丈夫?」

「はあ、すみません。今日の編集会議……」

「主役がいないんじゃしょうがないでしょ。どう、元気になった?」

 由美子は病室に相応しくない、はきはきとした声色で尋ねた。幸三は再び動悸が激しくなるのを感じていた。掌にはジットリと脂汗が滲んでいる。

「……」

 幸三は医師の言っていた、「精神科か心療内科で診てもらえ」という言葉を思い出していた。

「ちょっと、返事くらいしたらどうなの。明日からまた走り出すわよ。それとも何か病気が見つかったの?」

 そう由美子に言われても、走れないことは幸三自身が一番よく自覚していた。

「すみません。検査に異常はなかったんですが……、明日はちょっと休みます」

 由美子は腕組みをすると、深く考え込んだような顔をし、しばらくしてから「そっか」と明るく言った。

「すみません……」

 そう言う幸三の顔には生気がなかった。

「あ、先輩のバッグ、持って来ましたから、今日はこれで上がってください」

 水木が幸三のビジネスバッグを差し出す。幸三はふらついた手でそれを受け取った。レザーと脂汗は混ざり合うことなく、不協和音の感触をもたらした。

「はあーっ……」

 幸三は自分のビジネスバッグを見つめ、深いため息を漏らした。


 翌日、幸三は家の近くの心療内科に電話を掛けてみた。そこは精神科・心療内科と謳っており、少し小洒落たビルになっている。遠くからでも目に付くので、幸三も以前からその病院を知ってはいた。逆に言えば、心療内科といえばそこしか知らない幸三であった。

 電話口に出たのは、物腰の柔らかそうな女性で、新規患者の予約は明後日になるという。今すぐにでも診てもらいたい幸三だったが、病院がそう言うのでは仕方がない。明後日の午後に予約を入れてもらい、布団を被った。

 幸三はアパートで一人暮らしをしているが、ほとんどの住人は日中、働きに出ている。布団を被っても雑音は聞こえない。自分の脈の音だけが異様に大きく聞こえた。

 目を瞑れば闇が支配している。その闇はどこまでも深く、そのまま身体が闇に溶けてしまいそうだった。

「ああ、明後日か……」

 幸三は呻くように呟いた。仕事に追われていた時も苦しいが、仕事を離れて休み、何もしないでいるということが、これほどの苦痛とは思わなかった。

(そうだ、音楽を聴こう……)

 別にそれほど音楽が聴きたかったわけでもない。何もしないでいることの苦痛をやわらげたかった。幸三は無造作にCDを掴んだ。それは鈴木慶江の「レガーロ」というCDだった。鈴木慶江はオペラ歌手である。幸三が特にオペラが好きだというわけではなかった。テレビコマーシャルで彼女の歌が流れているのを聴いて、何となく買ってみたのだ。

 CDが回り始めた。幸三はその美しい歌声に耳を傾けようとするが、心がどうしても動かない。CDは二曲目に入っていた。純朴なピアノの旋律が流れる。ヘンデルの「私を泣かせてください」だ。

 メロディラインが美しかった。そのメロディを余すことなく歌い上げる鈴木慶江もまた素晴らしかった。幸三にイタリア語はわからない。歌詞カードを見れば対訳は載っているであろう。しかし、今は旋律と歌声だけで十分であった。

 幸三の頬に熱いものが伝わった。幸三はそれを拭おうともしない。涙は止め処もなく流れ出し、滴り落ちていく。

 幸三の中で由美子に叱責された苦い思い出が甦る。同時に感じる己の力量不足。自分ではどうにもならない絶望感のような感情が込み上げてくるのだ。それはメロディが美しければ美しいほど、歌声が清らかであればあるほど、沸々と湧き上がってくるのだ。この時の幸三の感情と涙は、あたかも失禁したように垂れ流しの状態であった。


 由美子は出版局長の韮山から呼びつけられていた。

「ここのところ、シェスの売り上げが伸び悩んでいるようなんだが……。君に思い当たる節はないかね?」

「さあ。編集にはいつも全力で力を注いでいますわ。企画だってそれなりの自信があります」

「ふーむ……」

 韮山は腕組みをして、深く考え込んでしまった。

「何か言いたいことがありましたら、遠慮なさらずにおっしゃってください」

 由美子は韮山を睨みつけるように言った。

「いや、君の編集方針にケチを付ける気は毛頭ないのだが、はっきり物事を言い過ぎのきらいがあるような気がしてね」

「それがシェスの売りですから」

「君にはまだ見せていないが、実は先月号の『こんな遊園地はつまらない』では相当な苦情のハガキが寄せられているんだ」

「それは自分の遊園地をけなされれば、苦情も言いたくなるでしょう。選ぶのは読者です」

「その大多数の苦情は読者から寄せられたものなんだよ。思い出の場所を穢されたってね」

 由美子は韮山の言葉に少なからず衝撃を受けた。シェスは歯に衣を着せぬ物言いで流行を追うどころか、流行を作ってきた雑誌である。その読者が「思い出を穢された」と苦情を寄せているとは、由美子にとって思いもよらない事実であった。

「まあ、君は編集のプロだ。それは私も認めるが、人の気持ちも理解した上で雑誌を作らないと、行く行くはシェスも廃刊に追い込まれるぞ。最近は老舗の雑誌が相次いで廃刊に追い込まれているんだ」

 韮山の顔はいつになく真剣だ。韮山は湯飲みの茶を啜ると、苦虫を潰したような顔をする。

「ところで昨日、重田が倒れたそうじゃないか」

「はい。今日も休んでいます」

「あまりギューギューやるなよ。君の才能がずば抜けているんだ。同じに見られたら、みんなたまったもんじゃないよ」

「お言葉ですが部長、私がしっかり要の役をやってこそ、シェスはあそこまでの雑誌になったんです」

 韮山の言葉は由美子のプライドに触れたようだ。

「あの遊園地の企画だって、文章を見れば君がほとんど校正した文章だということくらいわかる。社の出版物を私物化してもらっちゃ困るよ」

 由美子は韮山をキッと睨んだ。だが、韮山は呑気に茶を啜っている。

 由美子は韮山に「失礼します」と言って、局長室を辞した。


 その翌日の午後三時。幸三はまるで審判の時を待つような面持ちで、心療内科の待合室にいた。そこには微かな音でバロック音楽が流れ、少しでも患者の緊張感を和らげる工夫がなされているのだが、幸三にとって初めての心療内科は、やはり落ち着かない場所だった。

「重田さん、中にお入りください」

 そう医師のアナウンスが響くと、幸三は深呼吸を一回して、診察室のドアをノックした。

 米倉医師は温厚そうな中年の男性だった。米倉医師はお決まりのように「どうしました?」の一言から診察を開始する。幸三は一昨日、職場で倒れたこと、病院へ搬送されたが検査データに異常がなく、精神科・心療内科での受診を勧められたことを話した。

 すると、途端に米倉医師は貧乏ゆすりを始めた。

「で、気分は晴れないの?」

「ここのところ、ずっと重いですね」

「倒れたのは初めて?」

「はい……」

 米倉医師は「ふーん、なるほどね」などと言いながら、何かカルテに書き込んでいる。その合間にも貧乏ゆすりは止まらない。

「やっぱり人間関係が一番のストレスかね?」

 米倉医師が幸三の顔を覗き込む。

「はい。編集長は何でもかんでも、ダメだしするんです。僕の記事がそのまま通ったことなんて一度もないですよ。それにまるで僕の人格を無視するような叱責の仕方をするんです」

 米倉医師は「うーむ」と唸り、貧乏ゆすりを一段と激しくさせた。

「今、職場に行けって言われたら、行ける?」

「多分……、無理です。編集長の顔を見るのが怖いです」

「だろうねぇ……。まあ、うつ病だね。しばらく休んだ方がいいですよ」

 米倉医師はあっけらかんと言い放った。

「しばらくって、どの位ですかね?」

「そうだねぇ、人にもよるんだけど、本当は三ヶ月くらい休んだ方がいいと思うよ」

「三ヶ月もですか?」

 幸三にとって三ヶ月という期間、仕事をしなかった経験はない。学生時代ならばいざ知らず、社会人として落伍者になるのではないかとの懸念が頭の中をよぎる。

「取敢えず、診断書は一ヶ月で出しておくから……。その時、また判断しましょう。ところで睡眠は?」

「酒の力を借りて寝ています。でも夜中に必ず目が覚めますね」

「そりゃ良くない。安定剤と抗うつ剤に加えて眠剤も出しておくから、お酒はやめること」

 米倉医師はピシャリと言った。脚はまだカクカクと震えている。

 結局、幸三は一ヶ月間の休職のための診断書をもらって病院を後にした。調剤薬局で精神薬を受け取り、帰宅する。会社にどう連絡してよいかわからない幸三であった。正直なところ、由美子の声を聞くことすら怖かった。ましてや、うつ病で一ヶ月も休暇を取ることになったなどと伝えれば、由美子は烈火のごとく怒るかもしれない。そして見捨てられるかもしれない。そんな不安で心の行き場を失いかけていた。

 そんな折、幸三の携帯電話が鳴った。ディスプレーを見ると会社からだ。それほど重量があるわけでもない携帯電話が異様に重かった。

「はい、もしもし、重田です」

「重田君?」

 声の主は由美子だった。同時に幸三の心臓が張り裂けそうなほど、大きく脈を打った。

「どうしちゃったのよ。二日も休んで……。あなたがいないと『なぜか、釣りデート』の企画が進まないのよ」

「ごめんなさい。僕、うつ病みたいなんです。診断書をもらいました。一ヶ月、休みをください」

 幸三は捲し立てるように、一気に言った。それは今を逃すと言えそうにない言葉に思えたのだ。携帯電話を握る手は脂汗でじっとりとしていた。

「そう、うつ病……」

 由美子の声が妙に寂れて聞こえた。

「兎も角、僕の企画はお流れにしてください。先日、水木が浅草の取材をするって意気込んでいましたから、もしよかったらそれに差し替えてもらって……」

「あなたの『なぜか、釣りデート』は号を先送りしてもいいのよ」

「今は仕事のこと考えたくないんです。診断書は郵送しますから」

「わかったわ。お大事にして頂戴」

 電話は切れた。幸三は大きく息を吸った。由美子と話している最中は、まるで肺の中に酸素が入っていかないような錯覚に陥っていたのだ。

 幸三はコンポに手を伸ばした。コンポの中には鈴木慶江の「レガーロ」が入ったままになっている。幸三は二曲目の「私を泣かせてください」をリピート再生にしてかけた。ベッドにもたれながら、その美しいメロディと歌声に聴き入る。自然とまた涙が溢れ出してきた。


「重田君、うつ病だって?」

 出版局長の韮山は渋茶を啜りながら、今日も苦虫を潰したような顔をしている。

「はい、そのようです。診断書が送られてきました」

 由美子が診断書を差し出した。そこには「病名・うつ病。上記疾患により一ヶ月の療養を要す」と書かれてあった。

「困るんだよなぁ、ギリギリの人数でやっているところで病人を出されちゃ」

「編集部内で何とかカバーします。彼には今はしっかり療養してもらって……」

「問題は二つだ」

 韮山はピースサインを作って笑った。だが、瞳は笑ってはいない。

「一つは重田君の処遇の問題。一ヶ月くらいなら療養休暇を与えてもよいが、長引くようならば、それとなく依願退職へ持っていくのが妥当だろうな」

「待ってください。重田君は年数こそ浅いですけど、会社のために尽くしてきたんですよ。良い記事も書きました。それを病気したからリストラするなんて……」

「君は重田君が良い記事を書いたと言っているが、それは君がリライトしたからだろう。君の才能は惜しいが、重田君はちょっとなぁ……」

 由美子は下唇を噛み締めていた。自分の部下がうつ病になり、リストラの危機に晒されている。その責任の一端をヒシヒシと感じていた。

「まあ、こちらとしても重田君には何とか復帰してもらいたいと思うよ。そのためにも君が部下に対する態度を変えてくれなくちゃ。これ二つ目の問題点ね」

「部下に対する態度ですか?」

 由美子は韮山の顔をまじまじと見る。韮山は少しバツが悪そうに視線をはぐらかしていた。

「いやなに、総務にも君の苦情が上がってきているんだよ。パワハラだってね」

「そ、そんな……。ただ私は良い雑誌を作りたいだけです。安穏としていたらシェスは他の雑誌に抜かれてしまいますよ。私がシェスを引っ張り、育て上げているんです!」

 由美子は声を荒げた。由美子の唾が飛んだのだろうか、韮山の顔が歪んだ。

「まあ、君の才能は買うよ。でもね、一人相撲はいかんよ。シェスは君の私物じゃないんだからさ。それと、重田君と連絡を取って、受診に同席して、主治医の意見を聞いてきたまえ」

 由美子は「はい」と言うしかなかった。

 由美子はいつもがむしゃらだった。こと「シェス」の編集のことになると、他人には任せておけないのだ。それは多大な熱意に裏打ちされたものなのだが、だからこそいつも部下に口やかましく言ってしまう。由美子自身は今まで気にも留めていなかったが、部下を叱る時の口調など相当きついものがあった。そのことを韮山に指摘され、今までの自分の歩んできた道を振り返ってみる。才能で得た編集長と言う肩書きと立場に満足はしているものの、確かに部下との交流は少ないと思う。

(私のことを慕ってくれている人っているのかしら?)

 そんなことを思うと、急に目の前が暗くなった。由美子はその日、残業もそこそこに帰宅の戸についた。


 シャワーを浴びた由美子はバスローブのまま、缶ビールを煽った。キッチンのチェアーに腰掛け、「ふう」とため息を漏らす。

 今日、韮山に言われたことは由美子にとってもショックだった。

 由美子にしてみれば、部下たちが拙い記事しか書けないので、仕方なくリライトしているつもりだった。

(やっぱり、私の苦情、相当来てるのかなぁ……)

 肴もなしに由美子は二本目のビールに手を伸ばす。由美子にはわかっている。部下を叱責する際、必要以上に追い込んでしまうことを。時にはヒステリックな金切り声を上げ、相手が反論できないまで追い詰める。そんな自分を自覚してはいたが、どうしても部下の甘い仕事振りを見ては、感情が先に走り出てしまうのだ。

 おそらく幸三がうつ病になったのも自分とは無関係ではあるまいと思っている由美子であった。

 かといって、仕事に関しては妥協を許したくない由美子である。雑誌「シェス」をここまで引っ張ってきた自信と誇りが由美子にはあった。

 だが今、確実に編集部は不協和音を奏でている。その綻びが幸三のうつ病であった。

 由美子の心の中には、プライドとどうにもならない悔しさがヤジロベエのように揺れ動いていた。

(ああ、何とかしたい。どうにかならないの?)

 由美子は髪を掻き毟った。美しいロングヘアが乱れていく。

 由美子はマンションで一人暮らしをしているが、今まではその自由気ままさを満喫していた。しかし、今日は長い夜になりそうな予感がしていた。

 スッと立ち上がった由美子は受話器を取った。幸三に受診同席の了解を得るためだ。

(もしかして、私だと知ったら電話を切られてしまうかもしれない)

 そんな不安を胸に忍ばせながら、数字を押していく。

 数回のコールの後、受話器が上がる音がした。由美子はゴクリと生唾を呑んだ。

「もしもし、重田です」

 幸三はかったるそうな口調で電話口に出た。

「私よ、大田」

「あ、編集長……。どうしたんですか?」

「どう、調子は?」

「薬飲んで、一日中寝てばっかですよ。何もする気がしなくて」

 そう言う幸三の口調はかなりしんどそうだった。その空気が電話線を伝わってくる。

「気分転換とかはしないの? ほら、釣りとかさぁ」

 由美子は努めて明るく言った。

「とても釣りに行けるような状態じゃないです。たまに音楽を聴くくらいですよ」

「重田君って、どんな音楽聴くの?」

「いろいろですけど、最近はヘンデルの『私を泣かせてください』って曲ばっかり聴いています」

「そう、いい趣味してるわね」

「趣味の話で電話してきたわけじゃないでしょう?」

「ええ、今度の受診の時、同席させてもらいたいの」

「えー、編集長が来るんですかぁ?」

 幸三の口調はさも嫌そうだった。幸三にしてみれば、うつ病にした張本人が心療内科まで乗り込んでくるのだ。最後の砦まで崩されそうな気持ちになっても不思議ではないであろう。

「これは局長からの業務命令なの。私だって今のあなたをそっとしておいてあげたいわよ」

「参ったなぁ……」

 幸三は今まで主治医の米倉医師に由美子のワンマン編集長振りを随分と話していた。米倉医師も患者の話に真剣に耳を傾けてくれたのである。

「じゃあ、明後日の午後五時で……」

 幸三は渋々了承した。

「ねえ、一つ聞いてもいい?」

「何ですか?」

「重田君がうつ病になったのって、私が原因?」

 由美子は確かめずにはいられなかった。もしかしたら、その質問は更に幸三を追い込むことになるかもしれなかった。それでも今、自分のいる位置を知るために確かめねばならない質問だったのだ。

「はい、編集長です」

「……!」

 ある程度、予測していた答えであったが、由美子に衝撃をもたらしたのは事実であった。

「今、こうして話している間にも動悸がひどいんですよ。脂汗だってびっしょりかくし……。でも、この先、編集長からは逃げられませんものね」

「そっかぁ……。やっぱり私が原因かぁ。私も今日、局長にいろいろ言われちゃって悩んじゃってさぁ……」

 由美子は電話口で唇を噛み締めた。

「編集長の悩みを聞いてあげられるほど、こっちは余裕がないですよ。安定剤と抗うつ剤を飲んでボーッとしているんですからね」

「そっか……。ごめんね。じゃあ、明後日はよろしく」

 電話を切った由美子の頬には一筋の滴が伝わっていた。それはやがて溢れ出し、由美子の顔をビショビショに濡らした。

「くうぅぅぅーっ……」

 由美子の口から嗚咽が漏れた。


「水木君、再来月号の特集、変更よ。あなたの『浅草が熱い』にするわ。すぐに原稿仕上げて」

 翌日の朝一番で水木は由美子からそう言われた。

「でも編集長、特集は『なぜか、釣りデート』じゃないんですか?」

「重田君が復帰するまで延期よ」

「編集長がリライトすれば済む話じゃないですか。フォーマットも持っているんだし」

 横から中堅記者が茶々を入れた。

「あの記事はね、重田君じゃないと書けないのよ。それにみんなも自分の記事に責任と誇りを持って頂戴」

 水木が目を丸くした。他の記者たちは肩をすくめている。

「あのー、『浅草が熱い』の記事なら、もう書きあがっているんですけど……」

 水木が恐る恐る切り出した。

「なら、見せて頂戴」

 水木が事務机の引き出しから原稿を取り出すと、恭しく由美子に差し出した。

「ご苦労さん。早速、読ませてもらうわ」

 水木はややもすると小走りで自分の机に戻った。隣の席、そう幸三の机が妙に寂れて見える水木だった。

「いいじゃない、これ」

 水木は自分の耳を疑った。確かに由美子は今、「いいじゃない、これ」と言ったはずだ。

「浅草の魅力がよく書けているわ。私の方で『て、に、を、は』は直しておくからフォーマットをメールで頂戴。これ読むとみんな『どぜう』を食べて、『電気ブラン』を飲みたくなるわよ」

 編集部員たちが一同に顔を見合わせた。水木の口元が少し緩んだ。水木はそっと幸三の机を見た。そこにはまだ書類が積まれたままだ。

(先輩、早く戻ってきてくださいよ……)


 幸三は受診の日、少し早めに病院へ行って診察券を出していた。由美子はまだ来ていなかった。心療内科はいわゆる「三分診療」で済まないことも多く、予約をしても時間通りに診察の順番が回ってこないことが多い。だから、幸三は早めに診察券を出しておいたのだ。

 幸三はヘッドフォンステレオで鈴木慶江の「私を泣かせてください」を聴いていた。その曲だけリピート再生にして何度でも聴く。すると、自然に涙腺が緩んでくる幸三だった。

 そんな幸三の肩をポンと叩く者がいた。幸三が振り返ってみると、そこに由美子が立っていた。幸三は目頭を押さえながら、由美子に会釈した。

「ちょっと、何聴いているのよ」

「ヘンデルです。この前話した『私を泣かせてください』です」

「ちょっと、私にも聴かせてよ」

 幸三がヘッドフォンを差し出す。由美子はそれを耳に挿した。

「……!」

 由美子が呆然とする。

「これ、誰が歌っているの?」

「鈴木慶江っていうオペラ歌手です」

「綺麗な声。それに何なの、この心に迫るメロディは……」

 由美子の瞳が潤んでいた。先ほどまで「私を泣かせてください」を聴いていた幸三の瞳もまた潤んでいる。心療内科の待合で目を潤ませた男女が座り合わせていたら、それなりのわけありともとれるだろう。だが、他の患者は無関心を装っている。

「私もいろいろあってね。こんな曲聴かされたら涙が出ちゃうわ」

 幸三は由美子も自分と同じ感性を持ち合わせていることに少し驚いていた。

「重田さん、中にお入りください」

 米倉医師のアナウンスで、由美子がヘッドフォンを耳から引き抜いた。

「今日はよろしくお願いします」

 幸三が改まって、由美子に頭を下げた。

「よろしくお願いされるのはこちらの方よ」

 幸三はドアをノックして診察室の扉を開けた。その向こうには米倉医師が座っている。

「すみません、先生……。今日は編集長も同席したいとのことで、一緒に来てもらいました」

 すると米倉医師は由美子の方をギロリと見た。その眼力たるや凄まじく、由美子でさえ半歩退いたほどである。それは普段、幸三をはじめとする患者に見せる目つきとは明らかに異なっていた。

「重田さんの直属の上司で編集長の大田と申します。本日は重田さんの病状と今後の治療計画についてお伺いしたく……」

「いいから、診察が先だ!」

 米倉医師は不機嫌そうに一喝した。さすがに由美子も小さくかしこまり、パイプ椅子に座った。

「ところで重田さん、最近の睡眠はどうですか?」

 幸三にそう語りかける米倉医師の表情は温和に戻っていた。

「はあ、まだ朝方によく目が覚めますね。何かこう、眠った実感がないんですよね」

「そうですか。もう少し眠剤に安定剤を追加するかなぁ……」

 そう言いながら、米倉医師はカルテに何かを書き込んでいる。

「気分の方はどうですか。今日、上司の方が見えていますが……」

「ドキドキしますね。やはり掌にはじっとりと脂汗が滲んできますよ」

「日中の過ごし方は?」

「ゴロゴロしています」

 幸三が笑った。

「いや、今はそのくらいでいいんですよ。そのうち趣味でも始めるといいです」

「と、まあ、こんな具合なんですよ」

 米倉医師は由美子に向き直った。由美子は先ほど一喝されたためか、ただ恐縮している。

「診断書は一ヶ月で書きましたが、あるいはそれ以上になるかもしれませんよ」

「どのくらいになりますか?」

「重田さんの場合、かなり抑うつ状態で我慢なされたようですからね。治療にはそれ相応の時間がかかります。まあ、最低でも三ヶ月、長ければ一、二年になるかもしれません」

「そ、そんなに……」

「重田さんは会社で随分とぞんざいな扱いを受けていたようですね。人格を否定されるような叱責のされ方をしたり、自分の書いた文書が通らなかったり……。そんな状況がどれほど続きましたか?」

「そ、それは……」

「でもそれは事実でしょう。それだけ心の傷が深いってことですよ」

 米倉医師は不機嫌そうにカルテに目を落とした。

「会社側としては一年も二年も待てません。何とか良くなる方法はないんですか?」

 由美子が詰め寄る。

「うつ病っていうのはね、心の風邪なんて言われているけど、立派な脳の病気なんだよ。脳の神経伝達物質がうまく取り込めないという異常が引き起こす病気なんだよ。人間の脳は一気には壊れないよ。時間をかけて徐々に壊れていくんだ。そしてその修復には気の長い年月がかかる。そんな病気に誰がしたんだい?」

「それは私にも責任がありますけど……」

「だったらあんたが会社と交渉して、重田さんが復帰できるようにしてもらわんとなぁ。このままリストラなんてことになったら、労働基準監督署に重田さんを行かせますぜ」

 その言葉に由美子はギクリとした。

「ははは、あんたにとって主治医訪問は薮蛇だったようだな。」

 米倉医師が愉快そうに笑った。その横で幸三は小さくなっている。

「あのー、先生」

 由美子が恐る恐る尋ねる。

「重田さんをお酒に誘ってもよろしいでしょうか」

 すると米倉医師は「ふーむ」と唸った。

「本来、精神薬にアルコールは厳禁なんだけどね。まあ、過酒にならなきゃいいですよ。それより、あんたと飲むことが重田さんにとっては苦痛なんじゃないかな」

 由美子は幸三の顔を覗き込む。幸三は困惑したような表情をしていた。


「失礼しました」

 由美子は丁寧に米倉医師に頭を下げた。

 幸三は会計を済ますと、隣の調剤薬局へと向かった。無論、由美子も一緒である。そこで由美子は幸三の受け取る薬の多さに驚くことになる。

「こんなに、薬、飲んでるの?」

「そうですよ。これが僕の薬です。安定剤に抗うつ剤、それに眠剤がないと、夜も眠れません。一端の病人ですよ」

 幸三は薬の袋を擡げて見せた。そして、自嘲的に笑う。

 由美子の瞳が哀れさを湛えていた。

「ねえ、これから飲みに行こうよ」

「え、編集長と二人きりで、ですか?」

 幸三が素っ頓狂な声を上げた。

「そうよ。あなたとは今後のことも含めていろいろと話したいし、奢るから付き合ってくれない?」

「まあ、一杯くらいならいいですよ」

 幸三は渋々了承した。本当は由美子といる今でさえ、心臓はバクバクと高鳴っているのだ。それは入社以来、彼女に叱責されてきた苦い経験からくるもの以外の何物でもなかった。だが、幸三は米倉医師に叱責された由美子にも同情の念が幾ばくかはあった。そこがまた、彼の優しさでもあった。だから、「飲みに行こうよ」と由美子に誘われて、不本意ながらも断れなかったのである。

 

 三十分程して、病院の近くのカウンターバーに二人の姿を見ることができる。幸三は黒ビール、由美子はモスコミュールである。二人はフィッシュアンドチップスをつまみにアルコールを嗜めていた。

「今日、先生に言われて、かなりグサッときたわ」

 由美子がポテトを齧りながらボソッと呟いた。

「僕だって、編集長の下で一年間以上我慢したんですよ」

「そっかぁ、やっぱり我慢だったのね」

「そりゃそうですよ。記事を書くたびに、けなされて、突き返されて……。毎日、生きた心地がしませんでした」

 幸三が苦味のある黒ビールをぐいと煽った。

「私ね、どうしても『シェス』を他の雑誌に抜かれたくなかったのよ。だからプライベートもなく、仕事のことばかり考えていたわ。自分にも他人にも厳しくしてきた。お陰で『シェス』は人気雑誌になったわ。でも周りは誰も付いてきてくれない……。気が付いたら私一人よ」

 そう語った由美子の頬に一筋の滴が流れた。幸三はその滴を真剣に見つめた。あれほど自分を責め、仕事では鋼のような強さしか見せなかった由美子が涙を流している。今の由美子の横顔は鋼の女ではなく、脆い女の色香を湛えていた。

「編集長、恋人いないんですか?」

 由美子が小さく頷く。

「恋をすると変わると思うなぁ。相手を思いやりますからね。編集長ほどの美人だったら、すぐ恋人が見つかりますよ」

「私は今まで仕事が恋人だったのよ。でも、その仕事でも行き詰っている感じ……。私から仕事を取ったら何が残るっていうのよ……」

「最近、局長から何か言われたんですね?」

「すべて順風満帆だと思っていたのに、こんなところで躓くなんて……」

 由美子が涙も拭かずにモスコミュールを煽った。

「あなたは何としても復帰して!」

 由美子が力のこもった瞳で幸三を見つめた。

「そんな、急に言われても……」

「これだけは信じて。あなたの人生を台無しにしたくないのよ」

「はあ……」

「取敢えず、『なぜか、釣りデート』の企画は延ばしたわ。水木君に特集の記事を書いてもらってね」

「そうなんですか。僕はてっきり編集長がリライトして記事にしちゃったかと思いましたよ」

「あの記事はあなたにしか書けないわ。だから、復帰まで待ってる……」

「はい……」

 幸三は残り少なくなった黒ビールを見つめて頷いた。

「それにしても、あのルアーっていう釣り具、すごく綺麗ね。あんなので魚が釣れるんだから不思議よね。あれじゃ、女の人が釣れそう」

 由美子のその言葉に、幸三は思わず苦笑を漏らした。

「あれはスプーンって言って、主にマスを釣るためのルアーなんですよ」

「釣りって面白いの?」

 由美子が真剣な顔で幸三を覗き込んだ。

「そりゃあ、面白いですよ。あのルアーで魚を幻惑させて、食らいつかせる。それだけでも楽しいのに、魚の引きを味わったら病み付きですよ」

 幸三はこの時、不思議と動悸が治まっていることに気付いていた。


 幸三の携帯電話に水木からメールが入ったのは、土曜日の朝だった。

「具合はどうですか? もしよかったら、浅草にどぜう鍋でも食べに行きませんか?」

 幸三はそのメールを見てフッと笑った。そして、携帯電話を弄る。今朝は気分が良かった。うつになってから、朝方に調子の悪いことが多かったのだが、今日は早起きし、近隣を散歩したほどだ。無論、返信メールは「了解」と打った。

 飯田屋は昼時ということもあり、満席に近かった。浅草の路地裏にある店なのだが、どぜう鍋を求める食通が通う店だ。座敷には「どぜう鍋」や「柳川鍋」をつつく客でごった返している。そんな客たちの中に幸三と水木はいた。

 この飯田屋のどぜう鍋は丸か開きで注文できる。丸はそのままの泥鰌を煮込んだ鍋で、客の好みに応じて開きでも出してくれる。

 幸三と水木は丸のどぜう鍋を注文していた。泥鰌と一緒に大量の葱を散らして煮込み、好みで山椒をかけて食べるのが、ここのどぜう鍋である。

 幸三も水木も熱燗を煽っていた。確かにどぜう鍋には酒が合う。

「先日、編集長とサシで飲んだよ」

「えっ?」

 水木が驚いて泥鰌を落とした。

「いや、俺の主治医に話を聞きにきた帰りのことでさ。編集長、ちょっと変わったか?」

「そうですねぇ、この前、僕が書いた記事、すんなりOKでしたよ」

 幸三は「ほう」と言って、水木に酒を注いだ。

「それに、最近ヒステリックに怒ること、少なくなりましたよ。局長あたりから何か言われたんですかねぇ」

「うーん、確かに局長がどうのこうのって言っていたな……」

「総務にだいぶ編集長の苦情が上がっているらしいですよ」

「何でお前がそんなこと知っているんだよ」

「総務に同期の娘がいるんですよ」

「なるほどね……。そうか、編集長も槍玉に挙げられているんだな」

 幸三はお猪口の酒をぐいと呑み干した。

「坂口さんも、田崎さんも編集長のこと嫌っていますからね」

「確か二人とも編集長より入社は早かったよな。編集長の方が先に出世しちゃったってわけか。編集長は年功序列お構いなしに叱る時は叱るもんな」

「妬みもあるんじゃないですか。多分……」

「妬みか……」

 幸三が泥鰌を葱と一緒に口に運んだ。もうどぜう鍋は鍋の底を覗かせていた。

「先輩、河岸を変えますか?」

「おお、そうだな」

「美味い蕎麦屋があるんですよ」

「いや、腹は膨れた。それより行きたい所があるんだ」

 飯田屋を出た幸三と水木は浅草ロックの方角へと足を向けた。幸三が先導して歩く。

「先輩も浅草、詳しいんですか?」

「いや、俺はそんなに詳しくないよ。思い出があるだけだ」

 幸三は花やしき通りのポルノ映画館の前で止まる。

「えー、先輩、ポルノ映画ですか?」

「嫌か?」

「いや、別に俺はいいですけど……」

「学生時代、土曜の夜、オールナイトでお世話になったんだ。アダルトビデオはストーリーが無くてな」

 その映画館はビルの階下にあった。いかにも場末の映画館といった印象を受ける。外のポスターには女優たちの物欲しそうな瞳が、男心をくすぐる。

「今はアダルトビデオ全盛の時代だろ。こんなレトロなピンク映画も良かろう」

 そう言うと、幸三はチケットを二枚購入し、先に映画館の中に入っていった。

 中は紫の煙で霞んでいた。「禁煙」とは書いてあるが、守っている者は少ない。あちらこちらから紫の煙が上がっていた。

 既に映画は中盤に差し掛かっていた。幸三も水木も適当な席を見つけて座る。

 後は会話は無用だった。ポルノ映画の画像は決して良質ではない。ノイズだらけのフィルムが回っていく。

女優は演技をしていた。ストーリーに合わせた演技を。主演女優は決して若くはなかった。歳は由美子と同じ三十代後半だろう。その女優の演じる役は決して幸せな役回りではなかった。そんな女優につい由美子を重ねて見てしまう幸三であった。その女優は涙を流しながらも、健気なほど前向きに生きていた。

(編集長……)

 アルコールも入り、少し感情が緩くなっていたのだろう。幸三にはスクリーンが霞んでいた。幸三は確かに由美子から辛い思いを受けた。だが、編集長という立場で由美子もまた、辛い思いをしているのかと思うと胸が痛んだ。

「先輩、ここ煙いですよ。僕が奢りますから神谷バーで電気ブランでも飲みませんか?」

 煙草の臭いが嫌いな水木がそう提案した。しかし、幸三は頭を振る。

「もう少し、この映画だけ観ていきたいんだ」


 翌週の水曜日。由美子は出版局長の韮山に呼ばれていた。局長室は意外と狭い。大手出版社とは言え、それほど良い待遇はされていないようだ。

「重田君のことだけどね。このままいつ復帰できるのかわからない状態じゃ、将来の保証は出来かねるよ。まあ、君からもそれとなく依願退職を勧めてくれたまえ」

 韮山は今日も渋茶を啜りながら、苦虫を潰したような顔をしている。

「しかし局長、彼をうつ病に追い込んだのは私なんです。責任ならば私が取ります」

 由美子は韮山を睨みつけるようにして言った。

「我が社で欲しいのは君の才能なんだよ。三文記事しか書けない記者はいらない」

「彼はまだ駆け出しです。これから才能を開花させるかもしれません。もう少し、お時間をいただけませんか?」

 韮山の顔が歪んだ。

「確か主治医が相当、君に噛み付いたそうだな」

「ええ、かなり責められました。それに、リストラされたら労働基準監督署に焚き付けると……」

「労災問題はまずいな」

 韮山が吐き棄てるように呟いた。苦虫を潰したような顔が、一層歪む。その面体は由美子からして見ても醜悪なものだった。

「わかった。三ヶ月待とう。その間に重田君が復帰できるよう、君もフォローを考えてくれたまえ」

「ありがとうございます」

 由美子は韮山に深々と頭を下げた。

 局長室を出たところで、由美子は「ふう」と重いため息をついた。いつも最前線を走り続けたキャリアウーマンにしては、やや寂れた面持ちだった。

 ただ、由美子にしてみても、幸三を復帰させる青写真があったわけではない。先日、カウンターバーで飲んだ二人ではあるが、「私を許してくれないのではないか」という疑念がどうしても由美子の中に浮んで、心を占領してしまう。


 その日の帰り、由美子はCDショップに立ち寄った。日頃、あまり行かないコーナーの前を行ったり来たりする。由美子が足を向けているコーナーの列はクラシックのCDで埋め尽くされている。由美子はこれほど、クラシックの需要があるものかと驚く。なかなかオペラ歌手のコーナーは見つからない。由美子は店員を捕まえて尋ねることにした。

「すみません、オペラ歌手の鈴木慶江のCDってありますか?」

 店員は由美子を声楽のコーナーに案内すると、数枚のCDを由美子に手渡した。由美子はその中から「レガーロ」というベスト盤を選んだ。それは偶然にも幸三が持っているCDと同じものだったのだが、購入した理由は「私を泣かせてください」が収録されていたからに他ならない。

 由美子はマンションに帰って早速、コンポに「レガーロ」を吸い込ませた。スーツから部屋着に着替えることもなく、鈴木慶江の美しくも優雅な歌声に聴き入る。二曲目に差し掛かった途端、由美子は背中に電気が走ったような衝撃を感じた。

 優しいピアノのイントロの後、シルクのような歌声が流れる。その純朴で無駄のないメロディはどこまでも美しかった。それは確かに、あの心療内科の待合で幸三から聴かせてもらった「私を泣かせてください」だった。

 由美子の涙腺が緩む。止め処もなく、自然と涙が溢れてくるのだ。それは美しいメロディと歌に心酔して流れ出た涙なのか、それとも今まで一人きりで仕事を背負って立ってきた女の意地を確かめる涙なのか、はたまた幸三をうつ病に追い込んでしまった自責の念なのか。おそらくそれはどれも正解であろう。溶かした絵の具を混ぜあったようなドロドロの心の色合いが、美しい歌によって浮き彫りにされていた。由美子は泣きに泣いた。


 幸三がふらりと編集部を訪れたのは金曜日の午後五時近くになってからだ。

「あー、先輩!」

 水木のその声で一同が幸三に注目する。幸三は一礼すると、由美子の机に歩み寄った。

「すみません、ご迷惑かけて……」

「あなたが謝ることじゃないわ。それより元気そうな顔を見れて、こっちも安心よ」

「これ、『なぜか、釣りデート』を自分なりにリライトしてみたんです。編集長のお気に召すかどうかわかりませんが、精一杯書きました。よかったら読んでみてくれませんか?」

 幸三が事務封筒に入った書類を、由美子の机の上に置いた。

「そう、ご苦労さん。やっぱりあなたは記者ね。病気になってまで自分の記事をリライトするなんて見直したわ」

 由美子が早速、事務封筒を開ける。由美子はすぐさまそれに目を通し始めた。水木がコーヒーを淹れてくれた。幸三は自分の机に座り、それを啜る。由美子が原稿に目を通している間は、幸三にとって審判を待つような時間であった。

「いいじゃない、これ。前よりよっぽどいいわ。重田君もやればできるじゃない」

 そう言って、由美子はパソコンのキーボードを叩き始めた。幸三は初めて由美子に誉められた気がした。すると不思議なもので、わだかまっていた「恨み」に似た感情は薄らいでいく。幸三の中では由美子が一人の人間として揺らいでいることを知っていた。だからと言って、自分をうつ病にした相手をそう簡単に許せるものではなかった。しかし、由美子もまた変わったのだ。幸三の中には一筋の光が射していた。

「ねえ重田君、パソコン開けてみて。休んでいる間にメールが溜まっているかもしれないから……」

 由美子にそう言われ、幸三はパソコンを立ち上げた。すると、何通かの社内メールが届いていた。ほとんどがいわゆる事務連絡で、重要そうなものはなかったが、最新のメールはたった今、由美子から送られてきたものだった。そのメールにはロックが掛かっていて、他人からは閲覧できないようになっている。幸三は自分のパスワードを入力し、そのメールを開いた。

「!」

 幸三は自分の目を疑った。メールには次のように書かれていたのである。

「お疲れ様。私も鈴木慶江のCDを買って泣き明かしました。よかったら今夜、うちでワインでも飲みながら『私を泣かせてください』を一緒に聴きませんか?」

 幸三が由美子の方をゆっくりと向く。まるでその顔色を窺うように。由美子は屈託のない微笑を湛えていた。幸三はもう一度、メールに目を落とす。

(編集長が俺を誘ってる?)

 幸三は先日、水木と行った浅草のポルノ映画を思い出していた。女優の白い裸体が目の前にちらつく。だが由美子は三十九歳、幸三は二十四歳だ。深い仲になれるとはこの時、思ってもいなかった。それでも、幸三は由美子の方を向くと、微笑んでOKサインを指で作った。由美子は確かに美しかったのだ。


 そうは言っても、幸三は緊張していた。一回り以上歳が離れているとはいえ、独身女性の部屋に来ているのだ。緊張しないわけがなかった。

 由美子がチーズの盛り合わせをお洒落な皿に盛り付けて出してきた。そして、ワイングラス。そのワイングラスに上品な白ワインが注がれる。

 コンポからは鈴木慶江の歌が流れていた。「レガーロ」を全曲流しっぱなしにしているのだ。

「今日はこめんね。無理矢理誘ったりして……」

「いいえ、僕も嬉しかったですよ」

「あら、私の方こそ嬉しかったのよ。あなたが休暇中にも関わらず、しっかりリライトしてくるし、私の誘いにOKしてくれたしね」

 グラスがカチンと鳴った。上品な白ワインは口の中で芳醇な芳香を放った。それを舌の上で転がす。

「美味しいワインですね」

「そう、誘ってよかったわ。それにしても、鈴木慶江ってワインがよく似合うわね」

「そうですね」

 幸三はふと窓の外を見た。空には転がりそうなほど丸い月が浮いていた。幸三はまるで月に覗き見されているようで、少し気恥ずかしくなった。折りしもコンポからはドボルザークの「月に寄せる歌」が流れていた。

「ねえ、まだ私と会うのが辛い?」

 由美子が幸三の顔を真剣な面持ちで覗き込んだ。

「いいえ、辛かったら、今こうして一緒にワインなんか飲んでいませんよ。診断書どおり、一ヶ月で復帰してみせます」

 そう言う幸三の瞳は力がこもっており、それでいて優しかった。

「私って突っ張っていて、嫌な女だったと思うの。平気で人を傷つけたりもしたし……。でも仕事に対する考えが少し変わったかな。そうなると不思議なもので棄てたはずの『女』の感情が湧いてくるのよ」

「なるほどね。今までは仕事が恋人だったけど……ってやつですか」

「そうね……。でも今はちょっと違うかな。ねえ、私って女として終わってない?」

 由美子が真剣な眼差しで幸三を見つめた。

「いや、全然終わってないですよ。編集長は綺麗だし、まだまだこれからですよ」

 幸三の顔は少し赤かった。それは単にワインのせいだけではなさそうだ。

「そう、あなたにそう言ってもらえて、少し気分が落ち着いたわ」

 CDは一周し、また一曲目の「愛の喜び」が流れ出す。鈴木慶江の艶やかで伸びのある高音はどこまでも美しい。その美しさに負けないくらいの艶やかさを美由紀は備えている。

幸三は少し照れながらも、美由紀を見つめた。

「そうだ、これ……、編集長へのプレゼント」

 幸三がビジネスバッグから何か取り出す。それはアクリルのケースと黒地のスポンジに包まれていた。

「あっ、これは……」

「そう、ルアーで作ったネックレス。編集長に似合うかなって……」

「わあ、綺麗……。嬉しい……」

 そのネックレスはシェルのコーティングが施された、薄紫のスプーンというルアーで作られていた。シェルの光沢がどことなく優しい。

「私に似合うかしら?」

「絶対に似合いますよ。さっき会社で渡そうとも思ったんですが、編集長と二人きりになれるなら、その時のほうがいいかなと思って……」

「ありがとう。これ、着けて出勤するわ」

 曲は二曲目の「私を泣かせてください」に入っていた。

 幸三と美由紀は見つめあった。美由紀が瞳を閉じる。その上品な唇を奪いたい衝動に幸三は駆られた。本能に抗うことはできなかった。その唇に、そっと優しく、幸三は自分の唇を重ねた。見れば美由紀の閉じられた瞳から、大粒の涙がこぼれていた。

 それはまことしめやかなキスだった。お互いの唇と唇を重ね、その柔らかな感触を確かめる。そんなキスだった。

「ごめんね……」

 唇が離れた時、由美子が呟いた。由美子の顔は涙で化粧が落ちかかっている。

 顔と顔は接近していた。幸三は思わず、由美子の肩を抱き寄せた。

「あっ……」

 由美子が呻いた。頬と頬を摺り寄せる。

「私、あなたをうつ病に追い込んだのに……。こんな私でいいの?」

「この曲で泣ける、編集長の感性がいいんです」

「ああっ……」

 由美子もまたきつく腕を絡めてきた。時間が止まったような抱擁だった。

 曲は次の「私のお父さん」に移っていた。由美子は立ち上がると、コンポを操作した。「私を泣かせてください」をエンドレスのリピート再生にしたのだ。そして、由美子はカーテンを閉める。二人を覗いていた月の目が隠れた。

 そして、ソファに戻った由美子は思い切り、幸三に身体を預けた。見つめあった二人は再びキスをする。今度はお互いを貪るような、激しいキスだった。飲みかけのワインが揺れた。

「編集長……」

「由美子って呼んで……」

「由美子さん……、僕……」

「私なら……、いいのよ……」

 由美子の潤んだ瞳が、幸三には儚いもののように見えた。今、ここで捕まえておかなければ、どこかに飛んでいってしまうような気がした。

 由美子は自ら服を脱ぎ始めた。それを幸三が手伝った。


 二人が繋がった時、由美子も幸三も涙を流していた。

 由美子には自分を許し、受け入れてくれた幸三が嬉しかった。そして、女に戻れた自分が嬉しかった。

 幸三は自分をうつ病に貶めた由美子が変わり、その由美子を愛することで克服を試みていた。それは多分実現できそうな実感があった。重ねた肌の温もりがそれを確固たるものにしていた。

 そんな二人を包むように「私を泣かせてください」は流れる。

 幸三と由美子がシャワーから上がってきても、リピート再生にセットされた「私を泣かせてください」は流れ続けていた。二人は改めてワイングラスを傾ける。

 由美子がカーテンをほんの少し開けた。そこには十三階から見下ろす夜景が暖かい光を放ちながら映っていた。空には転がりそうなほど丸い月が微笑んでいた。

「さあ、もう一回、泣くわよ」

 由美子がソファに深く腰掛けて、ワイングラスを擡げた。幸三は呟く。

「私を泣かせてください……」

 と。


(了)


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