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取り返せないものはないよ

 どこまでも続く澄んだ青空と、むせ返る夏の香りを思わせる、暑い風。

 その中で、今日も私はまどろみを漂う。

 私を起こすことができるものは、ただ一人、彼女だけだ。


 彼女は私の身の回りの世話をしてくれる。

 が、別に使用人というわけではない。

 同居人はいつのまにか側にいて、生きることそれ自体に執着しない私を助けてくれる。


「はーさんはーさん」


 ほら、今日も彼女がぱたぱたと駆けてくる。

 あの独特の足音は彼女以外に出せないだろう。


「もーまたー」


 呆れたような温かな笑いを含ませた声。

 それが温い。

 このぬるま湯を私は好む。


 目が無理やり開かれる。


「わっ、なに?」

「お客様だよ」


 悪戯な瞳をくるりと輝かせ、彼女が奥に消える。

 同時に縁側の端からくすくす笑いが届く。

 どうやら、今の一部始終を見られていたらしい。


「あー、その、イラッシャイマセ」


 その女性は静かに歩いてきて、深々と頭を下げた。


「お邪魔しております」


 わかっていて、彼女はあんなことをしたのだろうか。


 黒髪は短く、ベリーではないショートで、首元は涼し気だ。

 夏らしい薄着で、真っ白いシャツの上から薄い水色のカーディガンを着ている。

 カーディガンよりわずかに濃めのタイトスカートからほっそりとした肌色ストッキングの足が伸びている。


「お仕事はOLさんでしたっけ」

「まぁそうですね」


 くすくす笑いに妙な居心地の悪さを感じる。


 とりあえず、お客様は立たせておくものじゃない。

 腰をあげ、居間に手招きする。


「飲み物は、冷たいものがいいかな。

 アイスティとアイスコーヒー、どっち?」

「どちらでもいいです」

「そんなこと云わずに賭けてくださいな」

「そういわれても」


 ここの主はあなたなんだから。


 たしかにそうなんだけど、彼女はわたしの召使ではない。

 そういっても信じてもらえるか自信はない。


 結局、出てきたのは赤いオレンジジュースだった。


「いつも、こうなんですか?」

「ええ」


 冷たい液体を喉に流し込み、女性が不可思議な表情をしていることに気が付く。


「飲まないんですか?」


 彼女はただ、笑っている。


「オレンジジュースは嫌い?」

「いいえ」


 しかし、彼女の表情は堅い。

 いったいどういうことだろう。


「これ、本当にオレンジジュースなんですか?」


 彼女の問いには、疑いが現れている。

 赤いオレンジジュースは珍しいかもしれないし、これは見様によってはトマトジュースだ。

 無理もない。


「さぁ?」


 あいまいに返すと、彼女はますます困った様子で微笑んでいる。


「あの、葉桜さん?」

「なんでしょう?」


 彼女は不思議に思っているのだろうか。

 いつもの患者たちのように。


「あなたは、いえ、あの、」


 何かを言い出そうとして、戸惑って、ためらって。

 なかなかこういう患者は難しい。


 私が何も云わずにじっと見ていると、どんどんその白い顔が赤く染め変えられてゆく。

 たまらずに、笑い出してしまうと、もっと面白いだろうか。


「先日のことなら、どうぞ気になさらないで」


 ふと目に入った左足の小指の爪が伸びている。

 そろそろ切るべきか。


 それから女性の方をみると、ますます恐縮して赤くなっている。

 まぁ、分かっていて言ったのだけど。


 彼女が最初に訪れたのは、二、三日か一週間ほどか、あるいは一カ月ほど前のことだった。


 私を前にして、いろんな反応をするのばかり見てきたけれど。


 泣かれたのは初めてだった。


「え、あれ、す、すいません。

 どうしてかな、とまんな」


 困った顔で微笑みながら涙するする女性の手を引いて、ただ柔らかく抱き締めた。

 母親がそうするように、ただ、温かく。


 ここにくる人は、誰しも闇を抱えきれなくなって、やってくる。

 だから、彼女のようなことがあっても不思議はない。

 むしろ、今までなかったということのほうが奇跡的だ。


「わけは、お聞きにならないんですか?」


 どうして。


「だって、あんな、わけもなく」


 まぁ、そういうこともあるでしょ。


「話したいのなら聞きましょう。

 でも、そうでないなら」


 こくりと、もう一口ジュースを飲む。

 音が聞こえるように。


「聞き出しましょうか?」


 もちろん、そうするつもりはまったくない。

 ただ、彼女の反応を楽しんでいるだけなのだから。


 目の前のブラッドオレンジジュースよりも赤くなった彼女は、しかし私をしっかりと見据えた。


「あなたを見たとき、とても懐しさを感じたんです」

「上京して数年、私は多くを手にしてきました。

 けれど、同時に多くを手放してきました」

「その手放してきたものを、葉桜さんの中に見たんです」


 口調に滲む響きが、彼女の不安や焦りを教えてくる。

 でも、彼女はもう答えにたどり着いているようだ。


 答えはいつだって教えられるものじゃない。

 自分でたどり着くことだって必要だって、彼女はちゃんとわかっている。

 問題は、答えにたどり着いていることに気が付いていないってことだ。

 だから、今回の私の仕事は少しだけ。


「手放してきたものは、二度と手に入らないものばかり?」

「え?」

「まだ取りにいけるんじゃない?」


 本当に手遅れでないものならば。


 人が人生で手にすることの数は決まっているかもしれない。

 でも、決まっているのなら、きっと手に入るはず。


「今度会う時は、もっと楽しい話をしましょ」


 すべてを手にいれたひとりの女性の話を。


 カランと、空になったグラスの中で、氷が撥ねた。


「はーさんは」


 目の前でオレンジ色のオレンジジュースを飲みながら、彼女が言う。


「はーさんは、とりにいかないの?」

「なにを?」

「……なんでもない」


 そっぽを向いてしまった彼女の表情は、こちらから窺えない。


「あーお祭りに行きたいねぇ」


 ごまかすように彼女が言った。

 私は、ただ、空になったグラスを、もう一度啜った。

もはや恋愛小説じゃないよ。

なんですか。人生相談っぽくなってるようで、なってない。葉桜さん、投げやりすぎ。

でも、なんかふとした時にこう、ぐっときて泣きたくなるようなことってあるじゃないですか。

哀しいとかじゃなくて。あぁ帰ってきたなぁみたいな(どこに。

あんまり男性患者が多すぎるので、ちょっと書いてみたともいえる女性患者。

名前を出さないから書き辛いと分かっていても、なんか名前をだすタイミングが難しい(そんなことはない。

(2004/10/12)

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