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はじめまして

うらやんで、それで終わり?

 ミンミン蝉とつくつくほうしの織り成す夏特有の合唱でぼんやりと目を覚ます。

 先程までそれを子守唄代わりにしていたはずだが、それによって目が覚めたのも確かだ。

 矛盾しているようでも、真実なのだからしかたがない。


「はーさん、はーさん、」


 とてぱたと廊下を走る音に目を閉じる。

 そちらを見なくとも、白地に薄青のラインが川のように入った浴衣を着て、くしゃっとした紐を後ろでリボンみたいに結った彼女の姿が瞼にうかぶ。

 いつも思うのだが、あの帯はよく解けないものだ。


「あ」


 何かに酷く驚いたような声を上げ、立ち止まる気配に片目だけを開いて、顔を微かに向ける。

 彼女の走り去る姿がすぐに視界から消え、酷く億劫に体を起こした。


「あんたもいい加減に起きなさいよ」


 自分と並んで縁側に寝そべっている男に声をかけたが、彼はぴくりともしない。

 起こすのも面倒なので、彼を放って庭へ目を向ける。

 一向に飽きる様子もなく、鳴き続ける蝉がどの木にいるのか検討もつかないので、探すつもりはさらさらない。


「うるせぇ」

「馬鹿ね。

 これが日本の夏でしょ」


 舌打ちしてようやく起き上がった男はひどく不機嫌だ。


 くすりと笑ったところで、彼女がいつものようにテーブルに汗をかいたグラスを二つ置く。

 一見、どちらも同じに見えるし、普段通りならばそのはずだ。

 透明感のある二つのグラスのうち、自分の側のグラスは気持ち多めに氷が入っているような気がする。


「蝉を」


 溶けた氷がグラスの中で涼しそうに騒ぐ。

 惹かれるままに口へと運ぶと冷たさが喉から胃の辺りに滑り落ちるのを感じる。


「おい」


 一向に見向きもしない私をいらついた声が呼ぶ。


「ぁによ」


 別に何を気にするでもなく返すとますます不機嫌になる。

 この男は見た目よりもずっと子供っぽい。


「喉渇いてるでしょ。

 飲みなさいよ」


 勧めてから、私もまたグラスを傾ける。

 彼は不満げにしながら自分のグラスに口をつけ、すぐにテーブルへ戻した。


「あんた、蝉を羨ましいと思ったことあるか?」


 わけのわからないことを言う。


「ない。

 あなたはあるの」


 すぐに答えは返されなくて、その間はただ二人で庭を見ていた。


 西の空がうっすらと色づき、ヒグラシが鳴き始めると、また彼が問い掛けてきた。


「悩みとか、なさそーだな」


 失礼な。


 反論しようと思ったが、少し考えかけてやめた。

 悩み事が何かを考える行為自体が面倒だ。

 代わりに別のことで報いることにする。


「悩みすぎるとハゲるわよ」

「っ、うるせぇ」


 心辺りがなくても、かすり傷ぐらいはつけられただろうか。

 クスクスと笑っていたら、そっぽを向かれてしまった。


 視線をうつし、再び夏の夕色に染まる庭を眺める。


「どうして蝉が羨ましい、なんていうの?」


 何かを、誰かをただ羨んで、それが得られるわけもなく。

 ただ上辺だけを見て、羨むというのなら、これほど愚かなことはない。


「人と他の生き物では時間の流れが違うそうよ」

「人間にとってはたったの一日としても、蝉にしてみれば、それは何十年も経っているかも」

「同じ時間としても、何も知ろうとせずにただ羨むのはその生き物に対して失礼だわ」


 縁側から庭へ降り、一本のクヌギの下へ行く。

 しゃがんで手にとると、それは弱々しくジジジ、と鳴いた。


 たもとに入れっぱなしだった袱紗を取り出し、乗せてやる。

 しかし、蝉はそれっきり鳴かなかった。


 縁側へ戻り、蝉を寝かせた袱紗をテーブルに乗せる。


「騒ぐんじゃないか?」


 誰が、とも、何がとも言われなかった。


「そのときはそのとき」

「適当だなぁ、おい」


 蝉を見詰めたまま、思うままを舌に乗せる。


「羨ましいとか考えるのはいいのよ。

 問題はそれからどうするか」

「それから?」

「あなたは羨んで終わるつもりなの」


 息を呑む音に口元が綻ぶ。


「次は間違えちゃだめよ」


 次に顔を上げる頃には、彼の姿はなかった。

 すっかり動かなくなった蝉を人差し指の爪の先で軽く突く。


「やめなよ、はーさん」


 奥から姿を見せた彼女が咎める。


「お墓でも作ってあげようか」


 止められるかと思ったが、返答はなかった。


 夕日に染まる彼女の横顔はとても淋しそうだ。


「今度は遊びに行こうか」

「私たちのことなんて忘れてるよ」

「そのときは初めまして、でいいじゃない」


 彼女の頭に手を置き、ゆっくりと撫でる。


「聞き忘れたことがあるの」


 私を見る彼女の目が不安げに揺れる。


「羨ましいって、どういうことか、私にはよくわからない」

「だって、私は私で、他の誰でもないし、他の誰かになりたくもない」


 そういう風に考えるのは変なのだろうか。


「他の誰かになりたいって、どういう気持ち?」


 こちらを見る彼女が眉根を寄せて、不機嫌になる。


「はーさん、本気で言ってるの」

「うん」


 素直に頷くと、いきなり彼女は走り去ってしまった。


「え、何怒ってんの?」

「知らないっ」


 時々あることなので、私は降りてくる夏の闇色に目を向け、そのまま目を閉じた。

 あれだけうるさかった蝉の声は何処に消えてしまったのか。

 別の虫の声にまどろむ。


「たまには、初めましてとかって、挨拶したほうがいいのかしら」


 彼女が怒っていたのも忘れて聞いたら、とても複雑そうな顔をされた。

ヒトゴミで死にそうです。

(2008/06/11)

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