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19/30

夏雪

Jさんリクエスト

 むせかえる湿気と濃い緑の匂いはいつも通りだった。

 暑苦しい夏の一日をいつも私は縁側に座って過ごす。

 日常の雑多な事柄はほとんど彼女がやってくれた。

 普段動くことが少ないせいなのかどうかしれないが、食事はほとんど必要ない。

 つきあいで食べることはできるし、飲むこともできる。

 だけど、それらは必要がなかった。

 乾くことも空くこともない。

 この体が何でできているのかと考えることがないこともないけれど、面倒になるのであまり深くは考えたことがない。


「ねぇ、」


 声をかけると奥の部屋から洗濯物を抱えてきた彼女がどさりとそれを取り落とした。

 そのまま物音がしないので振り返ってみると、洗濯物をカゴごと落としたまま、あんぐりと彼女が口をあけている。

 信じられないと言いたげな彼女の隣には、やはり首をかしげて庭と彼女を見比べる少女がいた。


 彼女の隣にいる少女の年の頃は十五、六。

 肩口までで綺麗に切りそろえられた黒髪はきついウェーブを描き、揺れる髪で表情がかすかに隠れる。

 垣間見える瞳は虚空を望み、そこに白く舞うものを映し出している。


 私もいつもの夏の庭へと視線を移し、それから彼女らへ視線を戻す。


「こんにちは、お嬢さん」


 気がついたように彼女が動き出す。


「わ、わわっ」


 洗濯カゴに散らばった洗濯物を戻し、それを抱えて奥へと戻ってゆく。

 いつもの浴衣に結んだ帯がひらひらと舞いながら奥の部屋へと消えていった。

 それをゆっくりと少女の目が追ってゆく。


「これで三回目ね。

 まあ、別に何も聞き出そうとは思わないけど、話したいのなら聞いてあげる」


 ここへ来てからまだ一度も声を発したことのない少女だが、なぜここへ来たのかと言うことに対しての葉桜の興味は薄い。

 不思議そうな少女の目が自分を捕らえた所で無言の問いに答えてやる。


「珍しかったからよ」


 少女が何かを言う前に再び視線を庭へと移す。

 空気は間違いなく夏なのに、天から降ってくるのは大粒の白い雪だ。

 溶けずに庭の緑をゆっくりと白く染め上げてゆくものを楽しそうに眺めていると、奥から彼女が湯気の立つミルクティーをもって戻ってきた。


 目の前に置かれたカップを持ち、そっと口をつけようとしたが、あまりに熱いのでやめておいた。

 温かな飲み物は温かいうちに飲むのが良いのかもしれないが、それでやけどしては元も子もない。


「ねえ、氷ない?」


 奥に声をかけると、しばらくしてしぶしぶと言った様子で彼女が出てくる。


「せっかく温かいのに」

「熱すぎよ。

 お客様も飲めないでしょ」


 別にあたりが冷え込んでいる様子はない。

 ただ夏の庭に雪が降っているだけのことだ。


 熱いミルクティーに氷を一欠片、しゅうぅと小さな音を立ててあっという間に見えなくなってしまった。


 いつもどおりの静かな時間は降り積もる雪でさらに静かになってゆく。

 誰もいない湖面のように穏やかで波立つことのない少女は何を考えているのだろうか。


「雪が降るのはとても珍しいのよ」


 彼女を揺らさないように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

 ゆっくり、穏やかに、それはどこまで彼女の中へと届くのだろうか。


「ここはいつも夏だから。

 夏に雪が降るなんて、おかしいでしょう?」

「まあこれはこれでいいかもね。

 ここ最近は夕立ばかりで見飽きていたし」

「あの子にもね、そんなに言うなら夏を終わらせたらいいのにって言われちゃった」

「でも、どうしてかしらね。

 そうしちゃいけない気がしてるの」


 緑の芝生にしんしんと雪が降る。

 さんさんと降り注ぐ夏の陽光をモノともしないそれは作り物めいていて、どこかふわふわと浮いている気分だ。


 キン、と頭の芯が小さくしびれる。

 それが何の合図なのかわからないまま、私はテーブルに頬をつけた。


「雪は降ってるけど、やっぱり暑いわ。

 夏だから、ね」


 テーブルの木の冷たさが心地よい。

 夏にホットミルクティーは合わないな、とぼんやりし始めた思考でゆっくりと考える。

 でも、この穏やかな時間は眠りを誘う。


「………」


 まあ、何を話すわけでもないし、別にいいか。

 後で彼女に怒られるだろうかと考えながら、ゆるりとした睡魔に身をゆだねた。


* * *


 隣で眠ってしまった女性をじっと見つめる。

 この女性は不思議と色がない。

 生きていれば、誰もが身につけてしまう固有の色というものを失っていた。


 何を話せばいいのか、何から話したらいいのかわからないまま三度も訪れて、そしてまた何も言葉を交わさずに出て行くことしかできない。


「先生は、この仕事に向いてませんよね」

「そうかもね」


 廊下をゆっくりと歩いてくる背の高い男を一瞥し、もう一度女性に視線を戻す。

 彼女は穏やかに眠っていた。


「私などよりよっぽど、葉桜の方が適任だろう」

「だからといって、患者に代理を頼むのは感心しませんよ」

「でも、君もそう思っただろう?

 葉桜は……向いているよ」

「先生だって向いてます。

 ただ、あなたの場合は時間がかかりすぎるのです」


 なおも言い続けようとした私の前で、そっと男は女性を抱き上げる。

 壊れ物を扱うようにそっと抱き上げ、見つめる視線はとても温かく、とても甘い。

 意味を感じて、私は眉を顰める。


「……感心しません」

「だから、私には向いていないんだ」

「その方のことをのぞけば、あなたは最高の先生ですよ」


 男は黙ったまま、温かな目で女性を見つめたままだ。

 彼の最後の患者、葉桜を見つめたまま。


「葉桜は気がついてはいけないんだ。

 気がついてしまったら、思い出してしまったら、もう戻れなくなる」


 どこへと聞くのは憚られた。

 とても切ない、その悲痛な声をきいてしまっては。

 聞かなければ良かったと嘆息する。


「戻したくないのはあなたでしょう。

 私にはその方がそこまで弱いようには見えません」


 もしもすべてを思い出したとしても、きっと乗り越えられるだろう。

 人には生まれながらにその力が備わっているのだから。


「人を見かけで判断するものではないよ」

「先生こそ、心配しすぎです」


 口をとがらせて文句を言う私にはただ乾いた笑いしか返ってこなかった。

 まったく、これでは埒があかない。


 立ち上がり、玄関へと足を向ける。


「報告はしませんよ。

 でも、何かあっても私は知りませんからねっ」

「はいはい、ありがとう」


 軽い口調なのに本心から礼を言われてしまったのがわかって、ますます私は眉を顰めた。


「また、会いに来てやって」

「お断りしますっ」


 立ち去る私を追いかける様子はみじんもなかった。

 彼の前ではああ言ったものの、おそらく自分はまたここを訪れるだろう。

 彼女、葉桜とともにいるのはとても穏やかで、ゆっくりとした時間の流れが、時の留まるあの空間がとても心地よかったから。


 次に来たときは何か話をしようか。

 それとも、これまでどおり何も話さずに過ごすべきか。

 思案している時点、近いうちに訪れることがわかってしまって、門を出る前に一度だけその家を振り返った。


 みーんみんみん。


 夏の声と、夏の匂いが、静かに心を満たしてゆく。

 それは穏やかで、少しだけ切ない時間。

「牡丹雪」+「心が折れているのに、気づいてないオンナノコ」ですどちらが患者かわからない感じ

(2008/02/29)

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